地下への道
第二話 地下への道
リオの歩き方には無駄がない。
金属の脚が瓦礫を踏むたび、乾いた打音が響く。それでいて足音は驚くほど小さい。関節部のダンパーが衝撃を吸収しているのか、あるいは長年この廃墟を歩き続けた結果、身体がこの地形を記憶しているのか。おそらく両方だ。
その背中を追いながら、何度も躓いた。足の裏の感覚が曖昧で、地面との距離が掴めない。自分の身体のはずなのに、借り物のようだった。
「足音を殺せ」
リオが振り返らずに言った。
「殺し方がわからない」
「じゃあせめて、俺の踏んだ場所だけを踏め」
リオの足跡を追う。金属の脚が避けた場所には、確かに理由があった。割れやすい瓦礫、水を含んで音の出る砂地、錆びて軋む鉄板。彼は地面を読んでいる。文字を読むように、自然に。
五分ほど歩いたところで、リオが片手を上げた。停止の合図だと、言われなくてもわかった。
二人は崩れたバスの残骸の影に身を潜めた。バスの車体は半分土に埋まり、窓枠だけが骨のように残っている。
ドローンが三機、頭上を通過した。
赤い光点が路面を舐めるように走査する。心臓が跳ねた。光がバスの車体をかすめ——通り過ぎた。
リオが外套のポケットから小さな金属片を取り出していた。薄い円盤状で、表面に回路のような模様が刻まれている。微かに青い光を帯びていた。
「遮蔽チップ。生体反応を十分間だけ隠す」リオは円盤を外套の裏に戻しながら言った。「ただし、お前のエネルギー反応まで消せるかは怪しい。さっきの壁ぶち抜き、相当の出力だった」
「あれが何なのか、自分でもわからない」
「わからないのに使えるのか」
手のひらを見た。傷だらけの、細い指。あの赤い光の気配はもうない。
「勝手に出た」
リオの義眼がこちらを向いた。赤い光の奥で、何かを計算しているような——そんな動きがあった。
「まあいい。説明は後だ。まず生き延びろ」
リオが腰のベルトから引き出したのは、ワイヤーだった。細いが、光を受けると金属の硬質な輝きがある。先端にアンカーが付いている。
「ここから先は地上ルートを使えない。マザーのパトロール密度が上がる。上を行く」
「上?」
リオはバスの屋根に登り、そこから隣のビルの壁面を見上げた。アンカーを振り、投げた。金属が壁面の突起に噛みつく。ワイヤーを二度引いて強度を確かめると、こちらに手を差し出した。
「掴まれ」
リオの手を掴んだ瞬間、引き上げられた。地面が遠ざかる。風が顔を叩く。ワイヤーが壁面の支点を軸に弧を描き、二人の身体がビルの窓枠から内部に飛び込んだ。
着地は硬かった。膝をつく。リオだけが、金属の脚で衝撃を殺して立っている。
「立てるか」
「立てる」
膝は笑っていたが、立った。
*
廃ビルの内部を移動した。
階段は崩落している箇所が多く、リオはワイヤーで階を跨ぎ、少女を引き上げた。三度目には、要領を掴み始めていた。リオの腕に掴まるタイミング、振り子の頂点で足場に飛び移る感覚。身体が覚えている——というより、身体のどこかに、こういう動きの記憶が残っている気配があった。
「慣れが早いな」
リオが言った。感心ではなく、観察だった。
「そうかもしれない」
五階まで上がると、リオはビルの東側の壁に向かった。壁面に亀裂が入っている。自然にできた亀裂ではない。何かで切断されたような、直線的な割れ目。
リオが亀裂に指を入れ、力を込めた。金属の指——右手も、よく見れば指先が金属だった。義手ではなく、皮膚の上から金属のカバーが嵌めてある。
壁の一部がスライドした。
向こう側に、下りの階段があった。コンクリートではない。古い、磨り減ったタイル。かすかに残る色彩——青と白のモザイク模様。
「駅だ」
口から、思わず言葉が出た。
リオが初めて、はっきりとこちらを見た。
「知ってるのか」
「いや——」口にしてから、混乱した。なぜ知っているのか。この世界の駅がどういうものか、記憶にないはずなのに、タイルの模様を見た瞬間に言葉が出た。「知っている気がしただけだ」
リオは数秒黙り、それから階段を降り始めた。
「駅、という勘は合ってる。旧世界の地下鉄駅だ。千五百年前の遺構で、マザーが地上を制圧した後、人間はこの下に潜った」
階段を降りるにつれ、空気が変わった。地上の金属と埃の乾いた匂いから、湿った土と、かすかな機械油の匂いへ。温度が上がる。地下のほうが暖かい。
三つ目の踊り場を過ぎたとき、前方に光が見えた。
蛍光灯ではない。もっと有機的な、揺れる光。足元を照らす小さなランプが、等間隔で壁面に埋め込まれていた。誰かが管理している証拠だった。
「もうすぐ歪門だ」
リオの声に、わずかな緊張が滲んだ。それまでの平坦な口調とは、明らかに違う硬さ。
「歪門?」
「ターミナルゼロの防衛手段だ。空間を歪ませる柵で、許可なく通ろうとすると——まあ、試した奴の話は聞いたことがないな。戻ってこないからな」
通路の先に、それはあった。
天井から床まで、薄い膜のようなものが通路を塞いでいる。透明でも不透明でもない。膜の表面を、景色の断片が万華鏡のように流れている。向こう側の壁が、ここでは天井に映り、床が横に流れ、空間の座標そのものが撹拌されている。
見ているだけで平衡感覚が揺らいだ。壁に手をついた。
リオが通路の壁面にあるパネルに手を当てた。パネルが淡く光り、リオの生体情報を読み取っているらしい細い光線が指先を走査する。
「リオ。帰還。同伴者一名」
歪門の膜が、中央から裂けるように開いた。裂け目の向こうに、まっすぐな通路が見える。空間の歪みが、リオの認証によって一時的に解除されている。
「走れ。十五秒で閉じる」
走った。
歪門を通過する瞬間、全身の毛穴が開くような感覚があった。空間が軋んでいる。あるべき場所にない空気、あるべき角度で存在しない重力。それが薄い膜一枚の向こう側で荒れ狂っている。
五歩で通り抜けた。背後で歪門が閉じる音——音ではない。音のあるべき場所から音が消える、奇妙な空白。
振り返ると、万華鏡の膜が元通りに通路を塞いでいた。
「ようこそ」
前方から声がした。
通路の先に人影がある。壁際に立ち、腰に短銃を据えた、背筋の伸びた人物。照明の加減で顔がよく見えないが、姿勢だけで練度がわかる。無駄な力がどこにも入っていない、それでいて即座に動ける構え。
「セキ、こいつに見覚えあるか」リオが言った。「外にいたんだが、出入りの記録にあるか」
「ああ、監視カメラで見ていた。ドローンがうるさかったのも、そいつが原因か」
セキの視線がこちらに移った。値踏みとも観察とも違う、もっと実務的な目。脅威度を測っている。
「見たことない顔だな。名前と所属は」
「名前はわからない。所属もない。記憶がない」
リオが代わりに答えた。セキの表情は変わらない。
「マザーが回収優先度Aをつけている。地上の全ドローンが動いた」
「A?」リオの義眼が明滅した。「俺が見た限り、三機だったが」
「お前が地下に入った後、地上に展開したドローン数は推定八十機以上。大型も二体動いている」
沈黙が落ちた。
その数字が意味する重さが、まだ分からない。だが、リオの呼吸がわずかに止まったのは、分かった。
「——とにかく、中に入れてくれ。話はそれからだ」
セキは一度だけ頷き、背を向けた。
「ついてこい。アーカイブ——うちの情報屋が話を聞きたがっている」
通路の奥から、微かに人の気配がした。機械音と、話し声と、金属を叩く音。生活の音だ。千五百年分の逃避行の末に、人間が地下に作り上げた生活の残響。
歩きながら、胸の空洞に手を当てた。
塔の引力は、地下に降りても消えていない。むしろ——方向が変わった。真上ではない。斜め上、北北東。地上と地下の距離分だけ角度がずれた、それだけのこと。繋がりは、切れていない。
あの塔に、自分の一部がある。
確信だけが、記憶の代わりに胸の穴の縁に張りついていた。




