落下する神
第一話 落下する神
最初に聞こえたのは、風の音だった。
それも穏やかな風ではない。全身の皮膚を引き剥がそうとする、暴力的な気流。
白い髪が視界を覆い尽くす。どちらが上で、どちらが下か。わからない。わかるのは、自分が猛烈な速度で落ちている、という一点だけが身体に刻まれている。
胸の奥に、穴がある。
心臓より深い場所に空いた、底の見えない空洞。何かが——大切な何かが、つい先ほどまでそこにあった。確信だけがあって、中身がない。名前も、記憶も、この身体が自分のものだという実感すら、風に千切られて散っていく。
眼下に灰色の大地が広がっていた。
建物の残骸が、折れた骨のように突き出している。道路だったものは亀裂で寸断され、かつて都市であった痕跡が、巨大な墓標のように地表を覆っていた。その向こうに——黒い塔が立っている。
異様だった。周囲の廃墟とは明らかに異質な、滑らかな表面。頂に据えられた逆さの冠から、青白い光が放射状に伸びている。光の形が、目に見えた。巨大な、瞳きのない目。こちらを、見ている。
胸の空洞が疼いた。引っ張られるように、塔のほうへ身体が傾ぐ。
けれど落下の軌道は塔から逸れていた。
地面が迫る。
咄嗟に両手を前に突き出した——何のためにそうしたのか、自分でもわからない。ただ身体が勝手に動いた。指先に熱が走り、赤い光が一瞬だけ弾けて、コンクリートの破片を吹き飛ばす。衝撃が全身を叩き、視界が白く弾け、そして暗転した。
*
雨の匂いで目を覚ました。
いや、雨ではない。錆びた金属と、焦げた配線の混じった湿気。鼻腔の奥にこびりつくような、機械の体液の匂いだった。
身体が重い。背中の下にコンクリートの冷たさがある。指を動かすと、砂利が擦れる音がした。
ゆっくりと目を開ける。
灰色の空。雲ではなく、何かの粒子が大気を覆っている。光源がどこにあるのか判然としない、のっぺりとした明るさ。朝なのか昼なのか、空が答えを拒んでいる。
身体を起こす。頭が割れそうに痛む。左の手のひらを見た。傷はあるが、落下の衝撃にしては軽すぎる。あの赤い光が何かをしたのか。そもそも——あの光は何だったのか。
立ち上がろうとして、膝が笑った。二度目の試みで、どうにか足が地面を掴む。
服を見た。白い布地。薄くて軽い。この廃墟には不似合いな、清潔すぎる衣服だった。ポケットはない。装飾もない。誰かが着せたのか、自分で選んだのか。それすら思い出せない。
風が吹いた。乾いた、砂混じりの風。髪が顔に張りつく。白い髪。自分の髪が白いことだけは、落下中に見えた。
周囲を見回した。
コンクリートの壁が崩れかけたビルの谷間。路面はひび割れ、割れ目から灰色の草が伸びている。草、と呼んでいいのかわからない。植物のようでいて、触れると金属的な硬さがありそうだった。
そして音が聞こえた。
低い、連続的な振動音。空気を細かく叩くような——回転翼の音だ。
反射的に壁際へ身を寄せた。根拠はない。ただ、あの音に見つかってはいけないと、身体の奥の何かが警告していた。
ビルの角から覗く。
黒い飛行体が三機、編隊を組んで通りの上空を移動していた。大きさは人の頭部ほど。滑らかな楕円形の筐体に、赤い光点がひとつ。その光点が左右にゆっくりと振れている。探している。何かを。
——あるいは、誰かを。
光点のひとつが、こちらを向いた。
赤い光がぴたりと止まる。
一秒。二秒。
ドローンが声を発した。金属の振動を潰して圧縮したような、機械の音声。知らない言語だった。知らないはずの言語だった。なのに——意味が、頭の中に流れ込んでくる。
『未登録生体反応検出。異常エネルギー残留。識別不能。回収優先度:A。増援要請。繰り返す、増援要請』
なぜ理解できるのか。考える間もなく、赤い光点が明滅し、高周波の信号音が路地に響き渡った。
足が動いた。
どこへ逃げるかなど考えている余裕はない。崩れたビルの隙間に身体をねじ込み、瓦礫の山を這い上がり、反対側へ飛び降りる。膝に衝撃。痛みを無視して走る。背後でドローンの回転翼音が甲高くなった。追ってきている。
路地を曲がる。行き止まり。
壁だ。高さ三メートルほどのコンクリート壁。上部に有刺鉄線が錆びて垂れ下がっている。
背後の音が近づく。
壁を見上げた。登れるか。手がかりになる亀裂はある。だが時間が——
指先が熱くなった。
さっきと同じだ。赤い光が、今度は意思に応じるように手のひらに灯った。光を壁に叩きつける。コンクリートが砕け、人ひとり通れる穴が開いた。
破片が散る前に、穴をくぐり抜けた。
向こう側は、より深い廃墟だった。
天井のように重なり合ったビルの残骸が、あの粒子まみれの光を遮っている。薄暗い。空気が湿っていて、壁面に苔のような何かが這っている。黒緑色で、触れると微かに発光する。生き物なのか、菌なのか、それとも全く別の何かなのか。この世界のことが何一つ分からない。
足元に水たまり。水面に映った自分の顔を、一瞬だけ見た。
白い髪。灰埃にまみれた頬。そして——瞳の色が左右で違う。右が淡い金、左が深い紫。
知らない顔だった。
自分の顔を知らないという事実が、恐怖より先に奇妙な寂しさとなって胸の空洞に落ちていった。
ドローンの音は、まだ遠くにある。壁が時間を稼いでくれたらしい。だが増援が来ると、あの機械音声は言っていた。回収優先度A。その等級が何を意味するのか分からないが、機械が淡々と復唱した声の切迫さだけは、身体に刻まれた。この薄暗い廃墟も、長くは隠れ場所にならない。
歩き出す。行き先もあてもない。
ただ塔の方角だけは、胸の疼きで常にわかった。北北東。あの黒い塔が、心臓を糸で繋いで引いているような感覚。行きたいのか、行かなければならないのか。その違いすら判別できないまま、冷たい水たまりを踏んで、暗がりの奥へ進んだ。
足音がひとつ多いことに気づいたのは、三十歩ほど歩いた後だった。
立ち止まる。
足音がもうひとつ、遅れて止まった。
背後——ではない。上だ。
崩れたビルの梁の上に、外套を纏った影がしゃがんでいた。フードの下から赤い光がひとつ、こちらを見ている。ドローンの光点とは違う。もっと——人間的な光。
「ずいぶん派手にやったな」
低い声。若い、けれど擦れた声。何年も叫ぶことと囁くことだけを繰り返してきたような、両極の使い古し。
「壁をぶち抜いた振動、三ブロック先でも拾える。マザーの連中が来る前に動いたほうがいい」
口が開かない。答える言葉が見つからない。自分が誰で、ここがどこで、何が起きているのか。何ひとつ。喉だけが、言葉の代わりに震えている。
影が梁から降りた。外套の裾が翻り、着地の瞬間に金属の音がした。脚だ。膝から下が、鈍い銀色の金属で構成されている。
フードがずれて、顔が見えた。
片目——左目が赤い義眼。残った右目は暗い茶色で、こちらを値踏みするように細められている。
「名前は」
口を開いた。喉が震える。
「——わからない」
義眼の光が、一瞬だけ揺れた。それが驚きなのか、同情なのか。赤い光は何も語らず、微かに角度を変えて、また元に戻った。
「そうか」
短い沈黙。遠くでドローンの回転翼音が密度を増している。増援が集まりつつある。
外套の人物は背を向けた。
「俺はリオ。死にたくなければついてこい」
生きたいなら選択肢なんてない、そんな意図を感じる言葉だった。
それでも——あるいは、だからこそ。
少女は、その背中を追った。




