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第一章 猿からの書状

本作品は史実を題材としたフィクションです。実在の人物・事件を独自に解釈、再構成した創作物であり、

史実を主張するものではありません。

第一章 猿からの書状


天正十年、五月十七日。

安土城。


琵琶湖を見下ろす天主の最上階に、

織田信長はいた。

四十九歳。

その男が睨みつける先には、

一通の書状があった。

差出人は羽柴筑前守秀吉。

備中高松城を包囲中の秀吉から、

援軍を求める知らせが届いたのである。


「……妙だな」


信長が呟いた。

傍らに控えていた森蘭丸が、

わずかに顔を上げた。


「いかがなされました」


「猿が、助けてくれと申しておる」


「毛利勢は大軍と聞き及びます」


「知っておる」


信長は書状を畳んだ。


「蘭丸。高松城はどうなっておる」


「羽柴勢の水攻めによって、

城はほぼ孤立しております。

毛利の援軍も容易には近づけぬ由」


「兵糧は」


「羽柴方には不足なしと」


「将は」


「黒田官兵衛、蜂須賀正勝、宇喜多勢も健在にございます」


信長は鼻で笑った。


「では、何を助けるというのだ」


蘭丸は答えられなかった。

信長は立ち上がり、窓辺へ歩いた。

琵琶湖の向こうに、

初夏の山々が青く連なっている。


「猿は戦に強い」


「御意」


「だが、あやつの恐ろしさは戦ではない」


信長は振り向いた。


「負けた者に、負けたと思わせぬところよ」


蘭丸は首を傾げた。


「敵を味方に引き入れる、ということでございましょうか」


「それだけではない」


信長は低く笑った。


「猿は、人の欲しいものを見抜く。

そして、それを与えるふりをして、

知らぬ間に心まで奪う」


信長の眼差しが鋭くなった。


「わしは力で天下を取る。

猿は人で天下を取る」


「されど、筑前守様は上様の忠臣にございます」


「忠臣、か」


信長は再び書状を広げた。


「蘭丸。わしが死ねば、

織田家はどうなると思う」


「ご嫡男、信忠様が……」


「信忠は強い。だが、

猿はもっと強い」


「そのようなことは……」


「ある」


信長は断言した。


「今はわしがおる。ゆえに猿は尻尾を振る。だが、わしが消えれば、あやつは必ず動く」


そのとき、信長の脳裏に、ある考えが浮かんだ。自分が死んだら、秀吉はどう動くのか。いや。

自分が死んだと、秀吉に思わせたらどうなるのか。信長は、ゆっくりと書状を折り畳んだ。


「蘭丸」


「はっ」


「光秀を呼べ」


「明智日向守様を?」


「そうだ」


信長は振り向かずに言った。


「それと、徳川殿の居場所を調べよ」


「家康様でございますか」


「うむ」


蘭丸が退出すると、信長はひとりになった。琵琶湖の上を、白い雲がゆっくりと流れている。


「猿よ」


信長は書状に目を落とした。


「おぬしは何を企んでおる」


そして、口元を歪めた。


「ならば、わしも一つ、芝居を打ってやろう」


その笑みは、戦場で敵の大軍を前にしたときのものと、よく似ていた。しかし、この時の信長は知らなかった。

その芝居によって、自らの最も大切なものを失うことになるとは。

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