序章 死んだ男
本作品は史実を題材としたフィクションです。実在の人物・事件を独自に解釈、再構成した創作物であり、
史実を主張するものではありません。
序章 死んだ男
寛永二十年、十月。
武蔵国、江戸。
冷たい雨が降っていた。
江戸城の奥深く、一人の老僧が、
燭台の炎を見つめていた。
南光坊天海。
徳川家康、秀忠、家光の三代に
仕えた高僧である。
その齢、百を優に超えると噂される。
老僧の前には、
古びた木箱が置かれていた。
箱の蓋には、
桔梗の紋が刻まれている。
「和尚様」
障子の向こうから声がした。
「上様がお呼びにございます」
天海は振り向かなかった。
「家光殿か」
「はっ」
「しばし待て」
足音が遠ざかる。天海は箱を開いた。
中には、黒ずんだ短刀と、
一通の書状が収められていた。
書状の端は焼け焦げ、
文字の半分が失われている。
それでも、
ただ一行だけは鮮明に残っていた。
『敵は本能寺にあり』
天海は指先で、その文字をなぞった。
「……光秀」
深い皺に覆われた顔が、わずかに歪む。
「おぬしは、よくやった」
老僧は目を閉じた。遠い昔。
まだ天下が一人の
男の手に収まろうとしていた時代。
燃え盛る寺。血に染まった畳。
そして、自らの命を捨ててまで、
一つの約束を守り抜いた武将。
すべては、あの男の一通の
書状から始まった。
天海は静かに呟いた。
「猿め……」
その声には、百年近い歳月を
経てもなお消えぬ、
激しい憎悪が宿っていた。
やがて老僧は、
もう一つの小箱を取り出した。
そこには徳川家康が晩年に使った、
小さな銀の箸が収められていた。
天海はそれをしばらく眺めた後、
声を殺して笑った。
「竹千代。おぬしは最後まで気づかなんだな」
雨脚が強まった。
「天下を取ったのは、おぬしではない」
そして、燭台の炎を吹き消した。




