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第二章 明智日向守

第二章 明智日向守


五月十九日。

坂本城。

明智光秀は、畳の上に広げた地図を見つめていた。京、安土、堺、伊賀、近江。そして、中国へ続く街道。

五十を過ぎた光秀の顔には、深い疲労の色があった。しかし、その目は澄んでいた。

光秀は、織田家中でも屈指の知将である。軍略に通じ、朝廷や公家との交渉にも長けていた。

ただ一つ、光秀には欠点があった。信長のことを、誰よりも理解しようとすることである。

そのため、他の家臣なら聞き流す言葉にも、光秀は意味を探してしまう。この日、安土から密使が届いた。

書状には、短くこうあった。


『日向守、密かに参れ。他言無用。』


光秀は書状を読み終えると、すぐに火鉢へ投じた。

その夜。

安土城の一室に、光秀の姿があった。信長は、いつもの豪奢な衣服ではなく、簡素な小袖をまとっていた。


「光秀」


「はっ」


「わしを殺せ」


光秀は顔を上げた。一瞬、聞き違いかと思った。


「……何と」


「わしを殺せと申した」


光秀は深く頭を下げた。


「上様。そのようなお戯れは……」


「戯れではない」


信長は立ち上がった。


「わしは、死ぬことにした」


沈黙。

遠くで、夜鳥の声が聞こえた。


「天下布武は、まだ成っておりませぬ」


光秀が言った。


「中国も九州も、いまだ上様の御旗の下にはございませぬ」


「だからこそだ」


信長は光秀の前に座った。


「光秀。わしが死ねば、誰が天下を取る」


「信忠様にございます」


「その次は」


「……」


「答えよ」


「羽柴筑前守、あるいは徳川三河守……」


「そうだ」


信長は頷いた。


「猿か、竹千代か。あるいは、その二人が争うか」


光秀は息を呑んだ。


「上様は、それをお確かめになるために……」


「ただ確かめるのではない」


信長の声が低くなった。


「猿を表に引きずり出す」


光秀は黙っていた。


「猿はわしがおる限り、決して牙を剥かぬ。ならば、わしが消えればよい」


「しかし、上様のお命は」


「死んだことにするのだ」


その瞬間、光秀の背筋に冷たいものが走った。


「世の者すべてに、わしが死んだと思わせる」


「……」


「そのために、おぬしが謀反を起こせ」


光秀は、信長の顔を見つめた。冗談を言っている顔ではない。この男は本気だった。


「上様」


「何だ」


「それでは、明智の家は滅びます」


信長は答えなかった。光秀は続けた。


「謀反人の汚名は、末代まで残りましょう」


「承知しておる」


「それでも、この光秀に命じられますか」


信長は立ち上がった。しばらく沈黙した後、言った。


「おぬし以外に、頼める者がおらぬ」


光秀の表情が変わった。それは、信長が家臣に向けて発する言葉として、あまりにも異例だった。

光秀は目を伏せた。


「上様」


「うむ」


「一つだけ、願いがございます」


「申せ」


「この芝居の果てに、織田の御家が守られること」


信長は頷いた。


「約束する」


光秀は、静かに両手を畳についた。


「なれば、この明智日向守光秀」


一呼吸を置いた。


「謀反人となりましょう」


信長は光秀を見下ろしていた。その顔には、勝者の笑みも、安堵の色もなかった。


「光秀」


「はっ」


「すまぬ」


光秀は驚いて顔を上げた。信長が、人に詫びたのである。長い沈黙の後、光秀は答えた。


「そのお言葉だけで、十分にございます」


しかし二人とも、まだ知らなかった。この密約には、三人目の男が必要だった。

そして、その男こそが、後にすべてを裏切るのである。

同夜、夜半。

安土城の奥座敷には、まだ灯がともっていた。信長と光秀は、二人きりで向かい合っていた。


「上様。一つ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」


「何じゃ」


「もし、この謀反が成ったとして、その後はどうなされます」


信長は盃を置いた。


「わしは死ぬ」


「いえ、そうではございませぬ」


光秀は顔を上げた。


「上様が死んだことになった後、この天下を誰に任せるおつもりかと、お聞きしているのでございます」


「信忠よ」


信長は即答した。光秀は眉をひそめた。


「しかし、信忠様には、この芝居をお知らせにならぬのでしょう」


「知らせぬ」


「ならば、信忠様は父君を殺した謀反人として、この光秀を討たねばならなくなります」


「そうなるな」


「それでは、明智は滅びます」


「滅ぼさせぬ」


光秀は黙った。信長は立ち上がり、壁に掛けられた地図を指した。


「京から東へ抜ける。伊賀を通り、三河に至る。その先でわしは名を捨てる」


「三河……」


光秀の目が鋭くなった。


「徳川殿でございますか」


「そうだ」


「上様。徳川殿は信用できませぬ」


信長は振り向いた。


「なぜじゃ」


「三河守殿は、上様のために長男を失うた男にございます」


座敷に沈黙が落ちた。徳川家康の嫡男、信康。

その死に信長の意向がどこまで関わったかは、当人たちの間にも容易には口にできぬ影があった。

光秀は続けた。


「いかほど忠義を尽くそうとも、人の恨みは消えませぬ」


「わかっておる」


信長は静かに答えた。


「だからこそ、家康を使う」


「……」


「光秀。人は、恩を受けた相手より、弱みを握られた相手に従うことがある」


「家康殿の弱みとは」


「わしが生きておるという事実よ」


信長は笑った。


「一度わしを逃がせば、家康も共犯じゃ。もはや後戻りはできぬ」


光秀は信長の顔を見つめた。その理屈は通っていた。だが、何かが引っかかった。


「上様」


「何じゃ」


「共犯者は、秘密を守るために互いを助け合うこともございましょう」


「うむ」


「しかし、秘密を知る者を殺せば、それで済むと思う者もおります」


信長の笑みが消えた。


「家康がわしを殺すと申すか」


「その可能性を申し上げております」


信長は光秀に背を向けた。


「できるものなら、やってみよ」


その声には、かつて天下の諸将を震え上がらせた男の傲慢さがあった。


「わしは家康を知っておる。竹千代の頃からな」


「されど、人は変わります」


「変わらぬ者もおる」


信長は振り返った。


「おぬしのようにな」


光秀は、何も答えなかった。

やがて信長は懐から小さな包みを取り出し、光秀の前へ置いた。

包みの中には、一枚の白紙があった。


「これは……」


「わしの命令書じゃ」


「何も書かれておりませぬ」


「そうだ」


信長は言った。


「書けば、証拠になる」


光秀は白紙を見つめた。


「では、これを何に」


「もしおぬしが生き延びたなら、その紙に好きなことを書け」


「……」


「わしが天下に戻ったとき、おぬしの望みを一つ叶えてやる」


光秀は静かに紙を畳んだ。


「望みなら、すでにございます」


「申せ」


「上様が、再び天下をお治めになること」


信長は何も言わなかった。その夜、光秀が安土を去った後も、信長は長く座敷に残っていた。

そして、誰もいなくなった部屋で呟いた。


「光秀よ」


一度言葉を切った。


「おぬしは、わしを買いかぶりすぎておる」


その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。


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