エリセル
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72年前の夏の日。
その子はこの世に生を受けた。
雲一つない、よく晴れた午後だった。
「おめでとう。男の子よ。」
年長のエルフが、かすれた声で告げた。
「エルナ!よく頑張ったな。」
彼は子どもよりも先に、私を抱きしめた。
「ほら!早く抱いてあげな。」
「シルヴァさん、その子はまず、エルナに。
ずっと会いたかっただろうから。」
彼は照れくさそうに笑う。
「あんた本当に変わってるわね。
そもそもお産に立ち会うエルフなんて、あんたぐらいよ。」
シルヴァは、エルナの胸にその子を置いた。
私はその子を胸に抱きしめた。
小さく、温かい。
「私たちの子よ。」
「ああ。俺たちの子だ。」
彼の目に、涙が滲んでいた。
「俺にも!抱かせてくれないか!」
ほんのすぐだった。
本当は最初から抱きたかったくせに。
私はくすりと笑い、彼に手渡した。
「そういうところが、あなたに似ないといいけど。」
彼は大事そうに息子を抱えた。
まるで宝物のように。
エルフに子が生まれるのは、滅多にない--。
その夜、居住区中が灯りに包まれた。
笑い声は朝まで続いた。
男児は、生まれながらにして騎士となる。
それは祝福であり、
同時に、宿命でもあった。
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「ねえ、明日の稽古休めないかな。」
エリセルが私に甘えるように言った。
「駄目よ。みんなやってるんだから。」
私は洗濯物を畳みながら、答える。
「でもさ、先生がずっと僕に怒るんだよ。
この前だってさ--。」
「エリセル!!!」
彼の声が部屋中に響いた。
「お前は騎士だろ!魔獣の前で泣きべそかくつもりか!」
エリセルが涙を浮かべる。
「ちょっと...!」
私は思わず駆け寄った。
「あなた、もう少し優しく言えないの?」
彼は苛立ったまま、私を睨む。
「お前もだ!甘やかしてばっかりで!
そんなんだからいつまで経っても昇級できないんだ!」
何も言い返せなかった。
「僕、騎士なんかになりたくないよ。」
エリセルが声を震わせながら言った。
エルフの男児は生まれながらにして騎士。
それはつまり、自由を持たないということ。
夜が老けてきた頃。
泣き疲れたエリセルは眠りについた。
私はそっと頭を撫でる。
「すまん、ちょっといいか。」
彼が小声で呼ぶ。
私は部屋を出て、扉を静かに閉めた。
「レンドフェルに行かなければならなくなった。
魔晶石が不足している。」
「魔晶石って、私たちには蒼晶があるじゃないの。」
彼は首を横に振った。
「レンドフェルまでは届かないんだ。
鉄が取れるのもあの辺りだけ。
武器を整えるのには必要だ。」
「レンドフェルには異獣もいるんでしょう?」
「そうだ。馬も使えないから、俺たち歩兵が採掘するしかない。」
彼の表情は固かった。
「そうまでして魔晶石を集めて、
騎士長は何を考えてるの?」
彼は真剣な表情で私を見つめた。
「...おそらく騎士長は、
サルヴィオと戦争しようとしている。」
私は驚いた。同盟国の名が出るなんて。
「おそらく...だがな。
明日にでも騎士長に直接伺おうとは思うが。」
少しの沈黙の後、彼は私に話した。
「エリセルには、強くなってほしいんだ。
異獣だけじゃない。
周辺国も、人間たちも危険だ。」
彼は拳を強く握りしめた。
「騎士長も、いずれは亡くなる。
その時、必ずエルフの立場は揺らぐ。
エリセルには、俺たちのようにはなってほしくない。」
「エリセルが聞いてきたわ。」
彼が眉をひそめる。
「人間から、縛耳と呼ばれていること?」
私は頷いた。
「ええ。なんで守らないといけないの?って。
雑区の人たちから石を投げられたらしい。」
「...そうか。いずれ話さないといけないだろうな。」
彼は目を伏せた。
「帰ったら話し合いをしよう。
エリセルには、君から言ってくれないか。」
「わかったわ。
あなたは、人間を好きにはなれないものね。」
--結局、彼は帰ってこなかった。
レンドフェルに現れた異獣のトロール。
歩兵隊の数名が命を落とし、その中に彼の名もあった。
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「母さん!明日から配属だよ!」
エリセルが嬉しそうに帰ってきた。
「あら!すごいじゃない。もう立派な騎士ね。」
「これぐらいどうってことないよ!
でも......守備隊だった。
誇らしさが悔しさに変わる。
「父さんの敵を打てると思ったのに。」
「敵討ちなんて辞めなさい。」
私ははっきりと言った。
「父さんは、あなたが危険な目に遭うことを望んでない。」
「なんでわかるのさ!」
エリセルが声を荒げた。
「...そりゃ母さんは、討とうなんて思わないよね。
叔父さんが人間に殺されたのに、
人間を守れなんて言う、弱虫だから。」
胸の奥が、痛む。
「エリセル--。」
「なんで僕たちが人間を守らないといけないんだよ!」
「騎士長がそう言ってるでしょ!」
「また騎士長だ!」
彼の目が、私を刺す。
「結局、母さんもみんなと同じじゃないか。」
私は何も言えなかった。
“なぜ人間を守る?“
その問いから、ずっと逃げてきた。
その度に私はずっとはぐらかし、
聞こえの良い言葉を並べるだけ。
綺麗な言葉で包んで、核心には触れずに。
だから母親は嫌われる。
戦地にも出ない女が、理想を語るなと。
「エリセル...。」
私は窓を閉め、鍵を下ろす。
「誰にも話さないと、約束できる?」
彼は戸惑いながら頷いた。
「あなたの叔父さん......私の兄はね。
騎士長と同じ家の“奴隷”だったの。」
エリセルが驚いた表情でこちらを見る。
「...兄さんと騎士長は昔、
アンデル家の奴隷だった。彼らは北の移民よ。
この居住区は、移民が暮らしていた場所だった。」
私は少し言葉を詰まらせながら続けた。
「兄さんはね、アンデル家の娘と恋に落ちたの。」
「......人間と?」
「そうよ。」
私はエリセルの目をじっと見た。
「アンデル家は他とは違い、
エルフを家族同然のように扱っていたらしいわ。
でも......奴隷が人間と愛し合うなんて、
それだけは許されなかった。」
エリセルは何も言わず、ただ話を聞いた。
「あの夜のことだった。アンデル家に火が放たれた。
理由は、“お腹の中の子”--。」
「まさか、叔父さんとの?」
「そう。彼女のお腹には、兄さんの子が宿っていた。」
「人間が、火を?」
私は首を横に振った。
「火を放ったのは、エルフだった。」
エリセルは凍りつく。
「270年前のあの日だった。
騎士長から話は聞いたわよね?」
エリセルは小さく頷いた。
「“蒼晶“が出来た日。だよね。」
「ええ。
その瞬間、立場は逆転した。
一部のエルフたちは、すぐに復讐に走った。」
「叔父さんは...?」
「裏切り者として、エルフに殺された。」
エリセルは口を固く結んだ。
「その後、何ヶ月も戦争が続いた。
当時のハリスヴェンド王と、
エルフたちの“解放戦争”。」
私は続けた。
「詳しくは知らない。全て騎士長に聞いたわ。
私は、サルヴィオに売られていたから。
彼が、海を渡って救いに来るまで。」
「...ならどうして、どうしてまだ同盟を?」
「わからないわ。」
正直に答えた。
「でも、騎士長は兄さんとずっと一緒だった。
兄さんが愛した人間を、憎みたくなかったのよ。」
エリセルの目が揺れる。
「...騎士長が言ってたんだよ。
良い人間と、悪い人間がいるって。」
エリセルは続ける。
「だから、ただ人間だからっていう理由で、
恨んではならない。
同じ歴史を繰り返してはいけない。って。」
「そう...。」
私はエリセルの手を握った。
「正しいけど、全員が受け入れられる話じゃないわ。
でも...私は信じたいの。」
声が震える。
「私の大好きな兄さんが、愛したから。」
エリセルは私の手を強く握り返した。
「僕も、叔父さんや騎士長みたいな男になるよ。」
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頭が真っ白になった。
剣帯を抱きしめながら、腕の震えが止まらない。
エリセルは、私の宝だった。
たった一人の。
どうして。
どうして、こうなるの。
どうして、この子なの。
この子が何をしたと言うの。
どうして私の前からみんな居なくなるの--。
どれくらい経っただろうか。
突然、私の肩に手が置かれた。
振り返るとそこに立っていたのは、
--憎き人間。
「...エルナさん。」
その声。
その目。
その”耳“。
私の名を呼ぶな。
私を見つめるな。
私に触れるな。
私は、肩に置かれた手を叩き落とした。
お前に何がわかる。
人間に何がわかる。
お前ら人間が、私からこの子を奪ったんだろう。
どうして、この子が死に、お前が生きている。
「スティンガル。」
腕が勝手に伸びた。
光は勢いよく放たれ、その憎き肉塊へと突き刺さった。
...ごめんね。
私は、”あなたたちのように“大人になれない。
エリセル、ごめんね...。
私は、あなたの思うような母親じゃない。
本当はずっと...ずっと奴らに復讐したかった。
私はずっと--人間が憎い。




