47.セイラの怒り
マルメロ伯爵が即答を避けたので、その日の内にミラの生涯の伴侶が決まる事は無かった。
重苦しい空気が漂う帰りの馬車の中で、ミラはセイラの様子がおかしい事に気が付く。屋敷に戻る道中ずっと、彼女は一言も発せずジッと窓の外を見つめていたからだ。
いつもならこんな時はまず、苦境に陥ったミラを励ましたり慰めたりしてくれる筈だった。なのに、ミラの方を見ようともしない。伯爵が何か考えを巡らせるように難しい顔をしているから、空気を読んで黙っているだけなのだろうか? いや、そんな時だっていつもなら、優しい視線を向けてミラを労わったり、戸惑う彼女の手を握ったりしてくれる筈なのだ。
もしかして―――お姉さまは、怒っているのだろうか?
その思いつきに、ミラは途端に落ち着かなくなった。
セイラがミラを怒るなんて、滅多にないことだ。それに屋敷の外でも何があろうとセイラは完璧な淑女で、怒りを露わにすることなんか殆ど無い。
その滅多にない、人前で怒るセイラを目にした場面と言えば―――ミラが半分平民の娘だからと、カレンに嫌味を言われていた所に居合わせたあの時ぐらいだ。
ミラは必死で頭を巡らせる。ならばセイラは、考え事をしているのだろうか?
アルフォンスの側妃にミラが召し上げられた時の事を、心配しているのかもしれない。万が一カレンのようなプライドの高い意地の悪い女性が正妃になったら、異国から嫁いだ祖母ミュリエルみたいに虐められるのでは、と。
そうだ、ミラの敬愛する姉は、常に妹のミラを導き、優しく見守ってくれる存在なのだ。
もしカレンのような女性がミラの姉になったとしたら、自分を差し置いてアルフォンスの妃に収まるミラに怒りをぶつける所だろう。だが、セイラは違う。
ミラにとってのセイラは、聖母のように優しく、伝説の騎士のように強く気高い。
だから全く想像できないのだ。彼女が崇拝せずにはいられないその姉が、嫉妬とかくだらないプライドとかそんな小さな事に拘る……なんてことは。
けれど、と、ミラの心にぽつりと小さな染みが浮き上がる。
セイラはアルフォンス皇太子を、憎からず思っていた筈だ。ミラの前では目前まで上手く行っていた婚約がなくなったことを何でもないように言っていた。が、それはあくまでミラに気を使っての事で、本心は違うとしたら。
本当は―――セイラがアルフォンスの事を、深く愛していたとしたら?
実際のアルフォンス皇太子は、かなりの腹黒だった。天使のような顔に、魔王のような恐ろしい思考。ミラはそれを目の当たりにして、恐怖心を抱いた。
が、セイラはその素顔を知らないのだ。
ミラに嫉妬して腹を立てている、とまでは行かなくとも、戸惑ったり気持ちの整理を付けられない、と言う事があるかもしれない。
馬車が屋敷に到着するとすぐ、マルメロ伯爵は家令に声を掛け執務室に籠った。伯爵家としてどうすべきか、これからの方針を検討するためだろう。
セイラはその背中を見送ってからミラを振り返り、漸く真っすぐに視線を合わせてくれた。
「ミラ、話があるの」
その静かな口調と裏腹な、強い瞳にミラはヒヤリとする。
滅多に怒らないセイラが見せる……これは、怒りの瞳だ……
叱られるのを分かっている犬のように、ミラはうなだれてセイラの後に付いて言った。
結局、イシュタルをミラから引きはがす事は出来なかった。けれども何処で何を言われるか分からないので、イシュタルには王宮からずっと姿を隠して貰っている状態だ。なんとなく気配は感じるが、きっちり身を隠しているので、人型イシュタルの大きさで歩いて付いてきているのか、キュイのように漂っているのかミラにも分からない。
ミラは仮にもこの精霊の主、なのではないのだろうか? なのに全然、主の言う事を聞いてくれないのは何故なのか。カルロ国王の話だと、彼の指示には概ね従っていたようだったのに。
やはり王家に生まれた者の言う事しか聞けないのか? それともあれか? 威厳とかそういうのが、ミラに圧倒的に足りないのか。だからなのか。
おそらくイシュタルが姿を表してミラに付いてきたら、周囲の目には間違いなく主従逆転して映る事だろう。高貴な王子と、その侍女だと思われるだろうか。いや、王子と言うより姫と侍女か……?
ミラはセイラに、西日が入るサンルームに誘われた。
そこは普段二人でお茶を飲んだり、刺繍をしたり、宿題を見てもらいながらおしゃべりする、憩いの場所だった。いつもなら、セイラにそこに誘われれば、ミラは抑えのきかない犬みたいに尻尾をブンブン振っている所だ。
なのに、今はうなだれた尻尾を引きずって、トボトボと彼女の背中を追っている。
セイラはミラに、向かいの席に腰掛けるよう促した。いつもなら、彼女のすぐ隣を勧めてくれるのに。その距離感に、ますますミラはうなだれた。
「ミラ、私は―――怒っているのよ」
真っすぐにミラを見据えて、セイラは言った。
ミラの顔からスッと血の気が引く。ドクドクと、ミラの胸は早鐘を打ち始めた。
大好きなセイラに嫌われるなんて、ミラにとってあってはならない事だった……!
途端に、まるで不幸を目一杯詰め込んだ紙風船みたいな気分になる。あともう少し絶望を詰め込んだら、彼女は粉々に破裂してしまうだろう……!
ミラはギュッと膝の上で手を握り、現実を直視したくない、とばかりに目を瞑る。
「……何故黙っていたの?」
「……ええと、『黙って』……?」
ミラはちょっと混乱した。
聞かれている事が分からなかったのだ。
だって、アルフォンス皇太子の側妃になるように言われるなんて、あの時まで想像する余地のない事だったのだ。
「あの、アルフォンス様の側妃の件は、私初めて聞いて……」
「何を言っているの? 私が言っているのは、エドガー王子が妙な魔法に掛かっていたって事よ……!」
セイラの緑色の瞳は、怒りを湛えて深く沈んでいる。いつもは光を受けて、キラキラとエメラルドのように輝いているのに。
しかしその事実に怯えを抱く前に、ミラは想定外の事態にただ呆けてしまった。
「え?」
随分間抜けな顔をしていたと思う。
しかしセイラは、ニコリともしない。視線をテーブルに落とし、こう続けたのだ。
「私は……私は! エドガー王子が本当にミラを愛しているのだと真摯に訴えたから、だから婚約に賛同したのよ。エドガー王子のあの誠実さが、全部嘘だったなんて! 魔法に掛かっている一時の事でしかないなんて……あんまりよ。ならば、あんな女たらしに大事な妹を譲るような真似、絶対にしなかったのに……! それをミラ、あなたは何故私に黙っていたの? ひょっとして王子に脅されでもした? でもそれならどうして相談してくれなかったの?! そんなに私は―――姉として、頼りない……??」
「お、お姉さま……」
ここでセイラは再び、顔を上げミラをまっすぐに見た。
先ほどまで怒りに燃えていた瞳が、いつの間にか切なげに揺れている。
その時西日が、深く濃い緑色を宿すセイラの瞳に光をともしたように見えた。その様は、例えようもなく、気高く美しい。ミラが一瞬見とれて、言葉を発する事を忘れてしまうくらいに。
こみ上げる切なさと愛しさに、胸が痛くなる。
やはり、セイラは―――ミラの自慢の『セイラ』だった。
ミラは漸く観念して、これまでの経緯を打ち明けたのだ。
しかし、結果もっとずっと怒られることになってしまった。
ミラはセイラに、今後何かトラブルに巻き込まれたら、どんな事でも必ず自分に相談してから行動するように―――と、きつくきつく言い含められ、約束さられたのであった。




