39.加護付きの娘
「そんなの嘘よ! だってキュイは王宮で私を守ってくれるって、約束したから―――だから、まだキュイはそれまで消えないでいてくれる筈で」
「だから、僕が守っている」
「あなたは『守る』どころか……私の擬態を勝手に解いて正体をばらしたじゃない!」
ミラは怒りを抑える事ができなかった。
「キュイをどこにやったの? 私のキュイを返してよ……っ」
淑女の礼も、皇太子の面前だと言う事も忘れて、彼女はイシュタルに掴みかかる。
同時に、執務室のドアの向こうが騒がしくなった。かと思うと、ノックも無くドアが開け放たれる。
「兄上!」
ドアを乱暴に開け放ったのは、エドガーだった。
イシュタルに掴みかかったまま振り向いたミラに、エドガーはぎょっとする。
「ミラ! 何故泣いている?」
「え……あ?」
ミラは自分が泣いている事に気が付かなかった。イシュタルの胸元から手を放し、目元をぬぐう。水気を感じ、初めて自分が涙を流していることを認識したのだった。
エドガーは詰め寄って、ミラを庇うようにイシュタルとアルフォンスの前に立ちはだかる。
「兄上、どういう事ですか?」
アルフォンスは、気色ばむ弟王子に向かって肩を竦めた。
「どういう事なのか、こちらが聞きたい」
エドガーはそこで、やっと兄を騙す形でミラを送り込んでいた事を思い出したのだった。約束の時間になっても彼女が戻らないので、何かあったに違いないと慌てて執務室に駆け込んだのである。そこで涙を浮かべるミラを見つけて頭に血が上ってしまった。
気まずげに兄へ向けた視線を逸らす。
「……イシュタル? どういう事だ?」
代わりにキッとイシュタルを見下ろすエドガーに、アルフォンスは呆れて溜息を吐いた。
「エドガー、もう下がれ。……私の仕事の邪魔をするな」
静かだが、有無を言わせぬ響きがある。
エドガーは、ハッとしてアルフォンスに向き直った。
「後で、彼女について話がある。それに、間者を差し向けるようなまねごとを許したわけじゃないぞ」
「申し訳ございません」
黙って頭を下げたエドガーは、ミラが今まで見たどの彼よりもずっと殊勝に見える。
それから一呼吸置いて、気を取り直したようにミラの肩を抱いて促した。
「ミラ、あちらで話そう」
そしてイシュタルに厳しい視線を向ける。
「イシュタルも来い」
イシュタルは頷かなかったが、逆らう気も無いようだった。その場を辞すエドガーと彼に肩を抱かれて強引に運ばれるミラの後ろを、黙って付いて行く。しかしエドガーが扉に手を掛けた所で、アルフォンスが思い出したように彼を呼び止めた。
「その娘は、加護付きだそうだ。だった―――と言うべきか? 代わりに今後イシュタルが護りに付くそうだ」
「……!……」
エドガーは、イシュタルを驚いたように見る。
イシュタルは、コクリと肯定の頷きを返した。
ここで、やはり以前と態度が違う、とミラは思う。これがいつもの二人の関係で、かつては主従関係があるような振りをしていたのだろうか? 今のイシュタルは、この国の王子であるエドガーと、まるで対等な存在であるかのように振舞っている。
「お前は、妙な魔術に掛かっているそうだな。そんな事情では急いで婚約する訳には行くまい」
「兄上、私は……」
反論しかけたエドガーに、アルフォンスは諭すように目を細めた。
「が―――イシュタルが付くとなると、その娘を野放しには出来ないだろう。王宮で囲う方法について、改めて相談しなくてはなるまい」
(は?!)
ミラは目をむいて、アルフォンスを見た。
アルフォンスは驚愕するミラを、感情の籠らない氷のような蒼い瞳で一瞥する。そしてエドガーに再び、念押しするような鋭い視線を向けた。
「……その件は、のちほど相談させて下さい。とにかく今は、失礼します」
「なっ……『囲う』って……!」
思わず反論しかけたミラの肩を、大きな掌が強く包む。エドガーは再び頭を下げ扉を開けると、ミラを抱えるようにして強引に執務室から連れ出した。
「エドガー様? その女性は?」
何やら執務室でトラブルが起こっている事に気を揉んでいたらしい、黒髪のコンラートが立ち上がった。
先ほど強引に飛び込んで、戻ってきた弟王子が見覚えの無い女性を抱えて出て来たのだ。混乱しているらしい。
しかもその女性は、王宮の侍女が着るようなお仕着せを来ている。
「私の……客人だ」
「は……」
詳しい説明をする気はないのか、そのままエドガーはその栗色の髪、緑の瞳の女性を抱えるようにして前室を出て行ってしまった。その上エドガー付きとしてよく彼に同行している魔術師の少年イシュタルも、扉から出てその背を追うようにして去って行く。
イシュタルも緑色の目の女性も、コンラートは前室を通した覚えがない。おそらく皇太子を傷つける、または傷つけられるような人物では無いと思われるが、許しの無い者二人の侵入を許してしまったのだ。
自らの失策に慌てた彼は、急ぎ扉を叩いて入室の許可を取ろうとする。
だがその直前、目の前でその扉が開かれた。
アルフォンスが表情の抜け落ちた顔で、立っている。
咄嗟に陳謝しようとしたコンラートに、彼は手を挙げてゆっくりと首を振った。
「私が秘密裡に魔術師を呼んだのだ。すまぬ。お前に落ち度はない」
コンラートは緊張を解き、下げかけた頭を上げた。
それから執務室を見渡し、置き去りにされたカートと茶器を見つける。
「あの、先ほどお茶を運ぼうとした侍女はどちらに……」
「コンラート」
アルフォンスは、彼の言葉を遮った。
その声音で、主がこの件について詳しい説明する気が無いと言う事をコンラートは瞬時に悟る。居住まいを正して、視線だけで次の指示を待った。
「……私は、疲れた。お茶を下げて、改めてコーヒーを頼んでくれ」
「はっ、承知しました」
珍しく弱音を吐く主を、コンラートは気遣わしげに伺う。
城内ばかりでなく、城外でもきままに徘徊する弟王子に比べ、常に臣下が決めたスケジュールや決まり事を尊重してくれる。熱心に執務に取り組む皇太子を彼は誇りに思うとともに、心配してもいたのだ。黒王子と揶揄されるエドガーほどでなくとも、その心の健康のために少しくらい若い男性らしく羽目を外しても良い筈だと個人的に考えている。……ただ彼の従姉、リシェンヌとの微妙な付き合いに関しては、時期的にそろそろ改めて欲しいと願っていた。
「いつも有難う、コンラート」
そんな彼の自らに向ける気遣いを、十分に理解している、とでも言うように。
ニッコリと、アルフォンス皇太子は微笑んだ。
その天使のような神々しい笑顔に、コンラートの心臓は波打つ。
しかし動揺を臆面にも出さず、視線を俯かせ、胸に手をあて頭を下げた。
敬愛する主に相応しい臣下であろうとするからだ。
そして扉が完全に閉じられる気配を嗅ぎ取ってから、漸く頭を上げる。次の瞬間にはすぐさま自らの机に舞い戻り、連絡用の受話器を手に取ったのだった。




