40.エドガーとイシュタル
新人お茶くみ侍女『マリー』としてパートタイム勤務をした後、いつも擬態を解いてエドガーと接見する応接室。ミラはその室に付属する小部屋で着替えを済ませ、エドガーの待つソファへ戻った。イシュタルはお人形のような、相変わらず何を考えているか分からない顔をして、ソファの脇に立っている。
ミラが出てくるタイミングで、温かい紅茶が振舞われた。
テーブルの上にはタワーのように皿が三段重ねられ、そのそれぞれに甘い砂糖菓子やケーキ、チョコレート、一口サイズのサンドイッチが鮮やかに配置されている。
いつもならじっくりと吟味した上で一口目の菓子を選び、紅茶の香りとともに楽しみながら、皇太子の前で侍女を演じた緊張をほぐしている所だろう。
だが今は、それどころでは無かった。
エドガーは侍女を下がらせると、事の成り行きについての説明を求めた。
それを受けてイシュタルが素っ気ない状況説明を行う。その素っ気なすぎる説明に、時折ミラが反論や注釈をつけた。黙って聞いていたら、ミラが受けた理不尽さや苛立ちがまるで伝わらないと思われたからだ。
着替える間にミラは落ち着きを取り戻し、衝動をリセットしていた。
いまだ沸々と怒りは滾っているが、キュイの行方を聞き出すには、まず頭を冷やさねばならない。この生意気な(皇太子に近しい血筋かもしれない相手に対してそういう表現が妥当かどうか分からないが)国家魔術師は、心からの怒りをぶつけた所で反省するような相手ではない、と悟ったのだ。
皇太子執務室を出る直前に、アルフォンスが掛けた『ミラを囲う』と言う不穏な言葉の意味は分かっていない。自分の処遇をどうこう、と言う話は勿論すごく気になる。気になるのだが―――ミラが今一番聞きたいのはそんな事ではなかった。
「イシュタル、真面目に答えて。キュイを何処にやったの?」
「……キュイは消えた。そう言っただろう」
「そんな筈、ないわ」
「待て。その『キュイ』とは何だ?」
堂々巡りの様相を呈する押し問答を、エドガーが制止する。
「ミラの『加護』だ」
「加護? 先ほど兄上が言っていた『加護付き』の件か」
「ミラがその加護を『キュイ』と呼んでいた」
「……ミラ?」
エドガーが、ミラを正面から見据えた。
滅多にない真剣な表情に、ミラはヒヤリとする。
「はい」
「君はその加護とコミュニケーションを取っていた……と言う事か?」
今当たり前のように口に出している『キュイ』の話は、これまで家族以外に知られないようマルメロ家が秘してきた話題だ。しかもミラの目の前に加護が実体化していて、それに名前を付けている事を知っているのは、マルメロ伯爵、セイラ、クラウスの三人だけだった。そしてその他、彼女に加護が付いていることを知っているのは、亡くなったミラの実母であるイーナ、それからミラが子供の頃から傍にいる執事と侍女頭のみである……筈だった。少なくとも、ミラが知っている範囲ではそうだ。
王宮に報告していない、とマルメロ伯爵も言っていた。そして、エドガーもアルフォンスも初耳の事実らしい……。
だが、イシュタルは知っていた。
一番知られたくない筈の、国家魔術師にキュイの事が筒抜けなのである。今までのマルメロ家の厳戒態勢が一気に無意味になったのだ。
何故、イシュタルはキュイの事を知っているのだろう? もしかして、マルメロ伯爵が彼に情報を提供していた、なんて事があるのだろうか? 二人に接点があるなんて、ミラは聞いた事が無い。あり得ない事だと思って、これまで考えた事も無かった。
それとも―――高位の魔術師であるイシュタルは、気配を消している加護の存在を察知できるのだろうか?
そういう事はこれまで無かったので、まさかそんな事があるとは思わなかった。これまでキュイは学院の魔術の教師達や、魔力のきわめて高い人間の前でも完璧に気配を殺して来たのだから。
ミラには、分からない事だらけだ。
しかしもう、一番隠したい相手である国家魔術師に加護のことが知られていて、尚且つ彼は、キュイをどうにかする事が出来たのだ。
ここで、改めてキュイの事を隠す意味は無いと思った。
「そうです。キュイは私の加護で……言葉自体は交わせないけれど、だいたいの気持ちは通じていると思います」
「目に見える加護、と言う訳か。その『キュイ』は、どんな風貌をしているのだ? イシュタルに似ているのか?」
「え?」
突飛な質問にミラは目を丸くした。
「イシュタルに? まさか!」
彼女は、エドガーの言う意味が分からなかった。
キュイはこんな可愛げの無い、偉そうな魔術師とは全然、違う……!
「全然違います! キュイは……キュイは、とっても愛らしくて」
「あ、『愛らしい』……?」
エドガーの声が、戸惑ったように掠れた。
疑問形にイラっとして、ミラはキッとエドガーを睨みつけた。
「そうです! 愛らしくて、可愛くて、なのに頼りになって……」
「……『かわいい』……?」
エドガーは、チラリとイシュタルを見る。
「私は、キュイが大好きです。キュイとずっと一緒に居たいってそう思っていて……なのに」
ミラはここで、イシュタルに剣呑な視線を向けた。
「このイシュタルが、キュイを何処かに閉じ込めて……って、何?」
イシュタルは―――なんとも言えない表情でミラを見ていた。
何と言うか、微笑んでいるような、照れているような、そんな微妙な表情だ。
しかも侍従の振りをしていた時の、作り物めいた精巧な人形のような微笑みではない。年相応の、少年がはにかんでいるような人間らしい表情だ。加えて、何故かほんのりと頬が染まっている。
「な……なにを笑っているの?」
ミラは怒るよりも、混乱して引き気味に尋ねた。
「笑って誤魔化したりしないで。ねぇ、本当にキュイを何処へやったの?!」
そのミラの権幕にハッと我に返ったように表情を引き締めたイシュタルは、改めて首を振る。
「『キュイは消えた』って言ったよね。代わりに僕が君を守るから……」
「嫌よ。何を言っているの? あなたはエドガー王子の担当……王族の臣下なのでしょ? 私じゃなくて、これまで通り王子達を守れば良いじゃない。それにキュイを何処かにやった酷い人に、私は守ってもらおうなんて思わない。むしろ、御免被ります!」
吐き出ようにミラが言い放つと、イシュタルはソファに座るミラに歩み寄った。
「……僕は、君を守らなくちゃ行けない。なのに、僕には守られたくないって言うの?」
「当たり前でしょ、なぜ私が―――」
イシュタルは、真顔でジッと彼女を見据えた。
そして数秒考え込み、瞬きを繰り返した。
「『キュイ』なら、良いの?」
「え?」
「『キュイ』なら、君とずっと一緒にいて、君を守って良いんだね?」
「もちろんよ。だって、私とキュイは一心同体なんだから……!」
ガチャン!
そこでエドガーが、茶器を落とした。
「あっ……!」
ミラはその茶器の破片に目を落とし、見る間に真っ青になる。
「そ、その茶器は、百年以上前のシーベルじゃ……」
彼女はお茶くみ侍女として王子達用の茶器を扱う内に、すっかりその来歴に詳しくなってしまった。先輩侍女が、懇切丁寧に教えてくれたからだ。
割ったらどういうことになるか、価値はいくらであるとか。
特に強調されたのは、普通の貴族子女が返せるような額では無いと言う事だ。つまりそれほど裕福な家庭に育っていない下級貴族の娘が多いお茶くみ侍女ふぜいでは、一生働いても返しきれない賠償額である。かつて茶器を誤って割ってしまった侍女とその一家の悲惨なその後についても、口を酸っぱくして聞かされていた。
ただ実は、それは随分と昔の話だ。ミスが続くようなら勿論任を解かれる事はあるだろう。だが、現在わざとではなく茶器を割ってしまった場合アルフォンスやエドガーが弁償を要求する事はない。
……が、それぐらいの危機感を持って茶器を扱うように、と言う意味を込めて代々その話が侍女から侍女へ受け継がれているのだった。
半分平民のお買い得令嬢と揶揄されるミラであるが―――現実には歴史のある伯爵家の、超が付くほどの箱入り令嬢である。万が一賠償と言う事になっても、出来ない額では無いだろう。
ただ、普通の侍女なら真に受け過ぎないであろう脅しも、箱入りで育ったからこそ、真面目に、本気で受け止めてしまっていた。
ミラは半分平民の自分は色々と理不尽な目にも合っているし、だから普通の貴族令嬢より世の中を知っている筈、と考えている。が―――実は割と、そうでもない。割と、周りに甘やかされて、大事にされて素直に育ってしまっている。
このためミラは慌てて立ち上がり、その欠片に手を伸ばそうとした。
貴族令嬢ならあり得ないが、さっきまで擬態していたお茶くみ侍女の意識から切替えが出来ていなかった所為かもしれない。
「危ない」
その手首を、素早くイシュタルの白い指が掴んだ。
「?!」
男性に、しかも身内でもない男性に手首を鷲掴まれるなんて経験は彼女にはない。繰り返しになるが、これでも超が付くほどの箱入り令嬢なのである。
ミラは驚いて、目を丸くした。
「な、何するの?! 離して!」
「欠片に、触らないで」
手首をしっかりと掴んだまま、イシュタルは念を押した。
思った以上に力がある。ミラが振りほどこうとしても、振りほどけない。ミラは悔し気に口元を歪め、息を吐いた。
「わ、分かったわ。触らないから……離して」
咄嗟にお茶くみ侍女の気分になってしまっていたが、今のミラは貴族令嬢だ。落ちた茶器に手を出すなんて、危ない以前にするべきではない。
ミラは羞恥に顔を染めた。
そもそも侍女だって、素手で陶器の欠片をつかんだりしないのだが、そのあたりは経験不足なので考えが及んでいない。
「イシュタル、離せ」
エドガーが不快気に、イシュタルをジロリと睨みつける。
イシュタルはその視線を平然と受け止め、ミラが言葉通り大人しくしている事を見て取ると彼女の手首を開放した。
代わりにスッと、エドガーが手を伸ばして来る。
「ミラ、すまない」
それから彼は、あくまで優しくミラの掌ごと手首を包みこんだ。
大きな男性の手に包まれた自分の小さな手を目にして、ミラは更に真っ赤になる。
美少女のような容貌の少年とは言え、男性に手首を掴まれて固まってしまった。逃れたと思ったら、今度はエドガーに手を取られてしまった。
正直謝るより先ず、手を開放して欲しいと思う。
エドガーには初対面で抱き着かれたり、お茶の度にソファで隣に座られたり、隙あらば距離を詰められてきた。先ほどなど皇太子の執務室を出る時は肩を抱かれたりもしたが―――毎度、その距離の詰め方がスムーズ過ぎて、逃げる暇がないのである。
たびたびこのように距離を詰められるので、ミラもその距離感にいい加減慣れてしまった気になっていた。
が、色気たっぷりの美形の黒王子に手を取られて見つめられると、やはりどうしようもなく恥ずかしい。例え以前、数多の女性達をそのように扱った男性だと言う事実を知っていて、それを自分に言い聞かせたとしても。
「て、手を……」
「ん? 手がどうした?」
愛しいミラの手を取り返した事に機嫌を良くしたエドガーが、甘い声で聞き返した。本気で手がどうしたのか、と言うようにミラの手をひっくり返して掌を確認する。
しかしミラの手を開放する素振りは、全くない。
「それより顔が赤いぞ?」
と呑気に頬に触れて、顔をのぞき込んだりする。
ミラは頭から湯気が出そうになった!
相手は魔法で恋に落ちているだけの、元遊び人の黒王子だと言うのに……!
「私の手を! 今すぐ、離して下さい……!!」
必死でこう絞り出し。
漸くエドガーは薄く笑って、そして少し名残惜しそうに手を開放してくれたのだった。




