7-5 POV : イサカ
雨が弱まる頃。
果たしていったい、どこまで走って来たのか。
歩みを緩めてから、私はようやく息を切らしていることに気がついた。はぁ、はぁっ……。
陽が落ちて、暗くなっていくオフィス街。街燈に照らされる霧雨はずっと静かだった。赤信号、立ち止まる。
もう、なにがなんだか。ウーウーとサイレンを鳴らすパトカーが数台、家のほうへと疾走する。きっと始末をつけにいくんだ。現場にいた私は、どうなるのかな。バレて捕まるのかな。あぁ、ほんっとにもう、私の人生めちゃくちゃだよ。母親とか、父親とか、義母とか、ユーリのせいで!
ただでさえこんな窮屈な社会で息詰まってたってのに、もう生きる術をなくしちゃったみたい。まぁ、社不が一人死んだところで、誰も気にも留めないだろうけど。
誰にも忘れられて、まるで最初からいなかったみたいに、塵になって消えるんだ。
私が生きた証なんて、なに一つない。
――それが、怖かった。死ぬのが怖い。でも、それ以上に「孤独」になって消えていくのが、もっと怖いんだ。
ハリウッド抜擢も、武道館満員も。そんなバカげた夢だって、ぜんぶ忘れられたくなかったから。……いやだなぁ。誰も私を覚えてないなんて。そんな寂しいこと、あるかな。あぁー、せめて……先輩くらいは……。
――ピロン。
ポケットで鳴った、一件のメッセージ。
無気力なまま、手を突っこむ。お母さん、いままでお世話になり――………………。
信号が青になった。
――駅へ駆け込み、夜の電車に揺られながら、都会へと繰り出す。ガタンガタン、ゴトン。靴も履かずに裸足で電車に乗るなんて、なんだかいけないことしてるみたい。周囲の視線が痛いけど、いまの私は鉄壁だから。どう思われようが知ったこっちゃない。興奮と失望の錯乱。いつもタバコを挟む右手が、小刻みに震えてる。風邪を引いたときみたいに思考が鈍ってるけど、どうにか生きてることだけは実感してる。
私の最後の希望。
ささやかな希望。
ガラス片の希望。
『ご乗車ありがとうございました。オーサカ、オーサカです』
ホームドアが開いて、わんさか人が放たれる。私もその波に乗って、身軽に電車を飛び出した。
人間濾過装置、改札。集束し、解き放たれる。私もそれに混じり、駅を出て、正面のベンチを目指す。あぁー、ちょっと座ろ。
ほどなくして、足がジワジワと痛みを伴ってくる。
――ピロン。
《いまどの辺?》
改札の前です、っと。
…………。
《りょかい。そっち向かう》
…………。
早く、会いたい。
…………。
《もーすぐ着くっての》
早く…………。早く、ねぇ、はやく。
「――はいはいおまたせ」
私はぶわっと顔を上げた。あぁ、よかった……、来てくれた。
カーキ色のカーゴパンツ、厚手の白いパーカー。美貌を隠すように深く被ったキャップ。気だるげなオーラも、人を寄せつけないピアスの数も、どれもこれもが魅力で、私にとっての安心材料。
「え、裸足じゃん」
目を丸くして驚くハル先輩。私はそれに返事することなく、すかさず先輩の胸へと飛び込んだ。頭がどうこうはたらく前に、体がさきに先輩を求めていた。人の温もりを――大好きな先輩の体温を、この死にかけた肌が熱望してたの。私の腕は先輩をぐるりと囲み、背中でがっちりドッキング。ちょっと痛いかもだけど、我慢して?
心臓の音。生きている音。
トクトクトク――。
先輩の奥底で、わずかに生きてる鼓動を感じる。あぁ、まだ、生きてる。
「なになに」
抱きついた瞬間、先輩は体を硬直させたけど、それでいて私を突っ放すことはなかった。苦笑を一つ、それからそっと、私の頭に手を置く。
「どしたの」
えっと――。
「たすけて」
雨粒と雨雫。
「ん――?」
先輩の服に染みを描く。ああぁ、ううぅっ……。
「けて……」
ダメだ……。これまでの強がりが、もう利かないや。
目頭がぐっと熱くなって、下瞼からポロポロと。持ち堪えられない。足も崩れそうになって、ふわっと、力が抜ける。おねがい、助けて。私を、たすけて。
「いいよ」
雑沓。行き交う人。光の包容。喧噪、鼓動、エコー。
広大な都会の中で。いまの私には、抱き締めたハル先輩だけがすべて。この存在だけが、私を現実に引き留める唯一の鎖。
「おいで。シャワー貸したげるから」
「……はい」




