7-3 POV : イサカ
雨が首筋を濡らす。冷ややかな雫の一滴々々が、苦しみの渦中にいる私を嗤うようだった。
ザァァァァァ――。
向かいから来るトラックのヘッドライト。飛沫をあげて走り去るセダン。夕方の空は濃灰に染まり切って、まるでディストピアの一小節。ビルの群れ。すれ違う傘。遠い電車の軋む音。
――生きてりゃ、悲しいことだってある。
――みんな、それなりの苦悩と悲しみと怒りを抱えて生きている。
『バカみたい。どうせお前だって死ぬってのに――』
……そうだね。バカみたい。
どうせ私だって死ぬのに、自分の肉親に煮詰まった怒りを抱いている。矛盾だ。でも、そんな怒りを抱かないと自分を保てない。憎悪と怨念に感情を支配されなければ、理性を失ってしまいそうなの。そうして、見えてはいけない暗い闇から、ぬっと血の気の抜けた白い手が伸びてきて、自我を抑えられなくなる。いよいよ殺意が湧いて出ると、今度は胸のうちがぎゅっと締めつけられる。読んで字のごとく、まるで羽交い締めにでもされてるかのように、ぎゅうぅっと、キツく縛られる。
私はまだ、苦しんでいる。
棄てられない憎悪と、殺意と、後悔と、諦念。親譲りなのかな。
…………ピロン。
――ザァァァァァ。
苛立ちが増す。幾億ある都会の光に混じって、手元のスマホがぺかっと光る。またもやメッセージ。
『まだオーサカにいるから、また話を――』
ため息の一つもでなかった。
「あぁ、ああぁっ……」
悲しい。
かなしい。
それだけ。
私は人生というクジの大ハズレを引いた。世の中にはもっと苦しい人だっているんだろうけど、それでも、私が感じられる苦しみの最大限は、私の身に起きる苦しみだけだ。もう雨なのか、涙なのか。確実に自分の我慢が忍耐ならなくなったことは分かった。
「あぁっ……、うっ…………」
声にならない啜りとともに、目元がぐっと熱くなる。こんな時でさえも、周りの目を気にして、平然を装って、俯きながら息を殺さないといけない。そうしないといけないと思う自分が、また嫌になる。
ドンッ――。
「チッ、前みて歩けよ、カス」
ごめんなさい。
――カン。コン。カン。
ザァァァァァ。ポツ、ボツボツ。ザァァァァァ。
………………。
トンタン。コト、コト、コツ。
ザァァァァァ。
…………。
ピーッ。
数センチ、ドアが開いた。ただ……ぃま。
暗澹溟濛。窓の外はもはや鬼雨。自分がじゅうぶん濡れていることに、いま気づいた。パーカーのフードがもうびっしょびしょ。出るときもいっぱい降ってたのに、なんで傘もってかなかったんだろうなぁ、はは。
酩酊のごとき千鳥足。框に蹴躓いて、反射で体に鳥肌がたつ。これ、こけるっ!
ドタンッ!
衝いて出た掌を打つ。かなりの力で床と衝突。もういや、もういや! もういやあぁぁあぁっ‼
――ゴォァァァァァ。ゴォァァァァァ。
枝垂れた髪から滴る雫たちが、薄く陰りを成すフローリングに表面張力を描く。あぁっ……。
ユーリは、いつ帰ってくるかな。リビングに行くまでの力がもうない。「衰弱死」って言葉が、雨音に混じって脳裏をよぎる。……いやいや、まだ、こんなんじゃ死なないよ。まだ死なずに、むりやり「生きる」濁りを呑まされるんだよ。ユーリ……、たすけて?
あるだけの力を振り絞って、頭上のほう――リビングを見やる。遠くにある卓袱台の上に、分厚い封筒が放られてあるのに気づいた。あぁ、お義母さん、来てたんだな。
手先がわずかに痺れる。じわじわと波打つように鳥肌がたつ。雨はまだ止みそうにない。
…………。
………………。
……………………。
ガチャン――。
後ろでドアノブが鳴った。なに……。凝りかたまった首をひねって、聳え立つドアを振りかえる。
ガチャ、ガチャ――。
数回レバーが動いて、また静まった。ユーリ……?
………………。




