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グレイト・フィルター  作者: 春麗 狄 ت
第七章 ー セイヴ、ミィ! / Coming 4 U ー
36/58

7-3 POV : イサカ


 雨が首筋を濡らす。冷ややかな雫の一滴々々が、苦しみの渦中にいる私を嗤うようだった。

 ザァァァァァ――。

 向かいから来るトラックのヘッドライト。飛沫をあげて走り去るセダン。夕方の空は濃灰に染まり切って、まるでディストピアの一小節。ビルの群れ。すれ違う傘。遠い電車の軋む音。

 ――生きてりゃ、悲しいことだってある。

 ――みんな、それなりの苦悩と悲しみと怒りを抱えて生きている。

『バカみたい。どうせお前だって死ぬってのに――』

 ……そうだね。バカみたい。

 どうせ私だって死ぬのに、自分の肉親に煮詰まった怒りを抱いている。矛盾だ。でも、そんな怒りを抱かないと自分を保てない。憎悪と怨念に感情を支配されなければ、理性を失ってしまいそうなの。そうして、見えてはいけない暗い闇から、ぬっと血の気の抜けた白い手(イド)が伸びてきて、自我を抑えられなくなる。いよいよ殺意が湧いて出ると、今度は胸のうちがぎゅっと締めつけられる。読んで字のごとく、まるで羽交い締めにでもされてるかのように、ぎゅうぅっと、キツく縛られる。

 私はまだ、苦しんでいる。

 棄てられない憎悪と、殺意と、後悔と、諦念。親譲りなのかな。

 …………ピロン。

 ――ザァァァァァ。

 苛立ちが増す。幾億ある都会の光に混じって、手元のスマホがぺかっと光る。またもやメッセージ。

『まだオーサカにいるから、また話を――』

 ため息の一つもでなかった。

「あぁ、ああぁっ……」

 悲しい。

 かなしい。

 それだけ。

 私は人生というクジの大ハズレを引いた。世の中にはもっと苦しい人だっているんだろうけど、それでも、私が感じられる苦しみの最大限は、私の身に起きる苦しみだけだ。もう雨なのか、涙なのか。確実に自分の我慢が忍耐ならなくなったことは分かった。

「あぁっ……、うっ…………」

 声にならない啜りとともに、目元がぐっと熱くなる。こんな時でさえも、周りの目を気にして、平然を装って、俯きながら息を殺さないといけない。そうしないといけないと思う自分が、また嫌になる。

 ドンッ――。

「チッ、前みて歩けよ、カス」

 ごめんなさい。


 ――カン。コン。カン。

 ザァァァァァ。ポツ、ボツボツ。ザァァァァァ。

 ………………。

 トンタン。コト、コト、コツ。

 ザァァァァァ。

 …………。

 ピーッ。

 数センチ、ドアが開いた。ただ……ぃま。

 暗澹溟濛。窓の外はもはや鬼雨。自分がじゅうぶん濡れていることに、いま気づいた。パーカーのフードがもうびっしょびしょ。出るときもいっぱい降ってたのに、なんで傘もってかなかったんだろうなぁ、はは。

 酩酊のごとき千鳥足。框に蹴躓いて、反射で体に鳥肌がたつ。これ、こけるっ!

 ドタンッ!

 衝いて出た掌を打つ。かなりの力で床と衝突。もういや、もういや! もういやあぁぁあぁっ‼

 ――ゴォァァァァァ。ゴォァァァァァ。

 枝垂れた髪から滴る雫たちが、薄く陰りを成すフローリングに表面張力を描く。あぁっ……。

 ユーリは、いつ帰ってくるかな。リビングに行くまでの力がもうない。「衰弱死」って言葉が、雨音に混じって脳裏をよぎる。……いやいや、まだ、こんなんじゃ死なないよ。まだ死なずに、むりやり「生きる」濁りを呑まされるんだよ。ユーリ……、たすけて?

 あるだけの力を振り絞って、頭上のほう――リビングを見やる。遠くにある卓袱台の上に、分厚い封筒が放られてあるのに気づいた。あぁ、お義母さん、来てたんだな。

 手先がわずかに痺れる。じわじわと波打つように鳥肌がたつ。雨はまだ止みそうにない。

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 ガチャン――。

 後ろでドアノブが鳴った。なに……。凝りかたまった首をひねって、聳え立つドアを振りかえる。

 ガチャ、ガチャ――。

 数回レバーが動いて、また静まった。ユーリ……?

 ………………。

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