3-2 POV : イサカ
冬空の下。
階段を一段々々と上るたびに、無機質な照明に照らされた踊り場に音が跳ねかえる。
五限の講義を終えての帰宅。大学から一時間半ほどのトーヨドに位置する古ぼけたアパートは、陽が暮れる頃には、ホラゲーの舞台みたいに薄気味わるくなる。空気は凍てつくようで、天井には大きなクモの巣が張られてあるし、脇にある排水溝はずっと掃除がされてなくって、随分と黝ずんでいる。汚れの蓄積したそれは見てられなくって、視界に入るだけで悪寒が走るものだから、廊下はいつも、できる限り素早く歩いた。
それでも、私の部屋がある三階からの景色っていうのは、存外わるいもんでもない。夕陽を一望できるし、土地の再開発が進んでくれたおかげで、クリーンで閑静な住宅がうまく景色に溶け込んでいるから、住めば都って感じ。
今日のご飯は、近くのスーパーで買った半額の焼きそばと、缶ビール四本。合わせて六〇〇円っていうのは、二十年前じゃあり得ない話だって、よく近所のおじさんたちが話している。
それらを詰め込んだビニール袋をカサカサいわせながら、とうとう玄関の前。築三十年以上のボロアパートだけど、一応オートロックは完備。スマホをピッとかざすだけで、ラクラク解錠。寒いし、早く中に入ろ。
…………ガ、チャ。
「……ただいまー」
一応、帰ったよの挨拶。
………………。
暖房の籠った熱気が、むわっと体を包み込む。
「あ、おかえり」
――おるんかい。
オーサカに来てまだ二年だけど、ツッコミの精神は着実に体に染み込んできてる気がするな。
「いないほうが嬉しかった?」
奥の居間からひょこりと顔を出す、フェザーのように朧気な存在。それは紛れもなく、ユリウスだった。
「あぁー。マジで、マッッジでちょっとだけ、夢だと思ってたのに」
「あちゃー。そりゃァちょっと誤算だったね」
彼女はくししとほくそ笑んだ。その仕草が、昨夜の惨劇を思い出させる。
「ほんっとぶん殴ってやりたい」
「きゃあ」
白々しい驚き方をして、彼女は立ち上がった。それから玄関まで歩み寄ってき――って、ちょっと。
「ねぇ、それ。私のシャツだよね?」
白色無地の、ユニクロで買ったなんの変哲もないシャツ。窮屈な感覚に苛まれるのが嫌で、一回り大きいサイズで買っておいた部屋着。私が家の中を快適に過ごすために買った服だ。……で、着てるのは誰だ? 目の前にいるユリウスだ。
うーんっ……コイッツマジでっ‼
「私のサイズに合ってたからさ。ちょっと借りちゃった。とってもいい匂いがするね」
「んんぅ――っ‼」
言葉にならない叫喚が居間を轟く。それから刹那、悟りをひらいたみたいに気持ちを落ち着けて、深呼吸を一つ。すぅ、はぁ。
「アンタってさ」
「んー?」
新雪のように綺麗な銀髪を掻きわけて、にこやかな翡翠の双眸が私を捉えた。
「冗談抜きで、ヤバいヤツだよね」
語調を低めて、鋭く言いはなつ。すると、そんなことを言われるとは思っていなかったのか、彼女は拍子抜けの素頓狂なツラをして、ひどく萎縮したようだった。指先を合わせて、つんつんとそれを突き合っている。
「ひどいなぁ。せっかく昨日は介抱してあげたのに……」
いや違う。コイツ、まだ余裕でいる気だ……。
あぁー、もう。
いよいよウザくなって、私の我慢も限界に達して――。
「もう出てって」
「えぇ」
「昨日はありがと。はい、これでおしまい。さよなら、もう出てって」
押し切るように話を断ち切ると、そのあとには少しの静けさが残った。
隣の部屋の壊れた室外機、キーンと甲高い音を鳴らし続けて、私たち二人の間を過っていく。重たい空気ってのは、どうにも否めなかった。
「……分かったよ」
ユリウスの声も落ち着いた。意外と低い声だ。
「荷物とかないでしょ。そのシャツはあげるから、もう行って」
彼女が一歩、足を出した。
一歩、また一歩。
私を横切り、俯きながら、幽霊のような存在はやがて背を向けた。
そう、出てって。シャツは惜しいけど。
「……あ」
一段落も束の間、ユリウスが玄関を前にして、立ち止まった。違う、そのまま出ていけっての……!
「ねぇ、イサカ」
彼女のしっとりとした声音に、やたら変な自信が宿っている気がする。嫌な予感しかしなくなって、全身に悪寒が走った。
「えっ……?」
「一万、千二百」
数字をボヤきながら、ユリウスはゆっくりと、私のほうへ振り向いた。なにかを含んだ眼差しで、煽るような無言の圧を孕んでいる。ちょっと、怖い……。
「一万……なにって?」
「一万千二百。なんだろうね?」
そんなことを言われても、思い当たる節はない……。一万、千、にひゃ…………あ、
「あ、ああぁ!?」
脳に電撃が迸る。
それから鳥肌が首筋を伝って、頬の辺りまでゾワつかせた。無意識に口を衝いた叫び声は、隣の室外機を凌駕する声量だった。
「さすがにこれだけの額の借りを作ったままには、しておけないねぇ?」
ニタァ、と笑うその姿は、まさに悪魔そのもの。
しまった。勘定、勘定! 昨日の飲み代‼
「あぁ、えと、分かった! すぐ返すから、ほんっとすぐ返すから出てってね!?」
「えぇー、ゆっくりでいいのに」
そうやってまた白々しく返答する様に、ムカつきと動揺が抑えられない。
「あ、あとさ。私、きゃっしゅれす? ってのはやったことないから、ゲンナマでお願いしたいな」
はぁ!? 文句言わないでよ! ――っていうわけにもいかないよね! うん! 知ってた!
「ちょまってそんなこと言われても……‼」
慌てて財布を取り出して、中の隅々を漁りつくした。文字通りに隅々を探し、塵も埃も見逃さないくらい。それからタンス預金も掘り返して、家の中のありとあらゆる金目を掘り出した。仕方ないでしょ、すねかじりの生活だから困窮してるの!




