第五十一話 ミナ、初めてのお留守番 2
ミナがそう言うと、すっとムギが現れて、ミナにすり寄ってきた
「調子がいいわね……」
「あんたの言うことを聞いてあげるんだから、ナルたちがいない間は、ずっといてよね」
「ユアンだって仕事してるんだから、留守で会えないかもしれないんだからね」
「会えなかったからって、消えるとかなしだからね」
ムギは大きなあくびをして、ミナに返事したように見えた
「聞いてんの!? 約束だからね!」
「あんた、使い魔としてどうなのよ!? わたしがご主人様でしょ!」
どうもムギはあまり忠実な性格ではないようだった
最近はそれが顕著になってきた気がしていた
ミナはムギを連れて家を出る
今日は暖かかった
今は六月の終わり
この国の気候で、もっとも過ごしやすい時期だ
まだ涼しさが残るが、からっとした暖かさがあった
心なしか、街ゆく人たちの表情も明るい気がした
しばらく歩くとユアンの家に近づいてきた
ユアンはいつも、ミナが近づいてくると
ピアノを弾いて出迎えてくれる
今日はいつもより少しだけ遅いタイミングでピアノの音色がミナに届いた
「お、いるじゃん、よかったねムギ」
ミナが話しかけても、ムギは反応せず歩いている
ミナは小さく笑う
「いつもより、ちょっとだけ弾き始めるのが遅かったね」
「わたしが来ると思ってなかったから、きっとびっくりしただろうな」
やがて水路に掛かった吊り橋にたどり着き
いつものようにその上に座った
ムギもミナのすぐ横、いつもの席につく
するとピアノの音色が止んで、二階の窓からユアンが顔を出した
「おはよう、ミナ」
「おはよー」
ミナはユアンを見る
いつもは綺麗に整えられている肩まで伸びた茶色い髪が乱れて寝癖があった
青い目も、少しまだ眠たげだ
「あれ? まだ寝てた?」
「うん、まさかミナが来てくれるとは思ってなくてさ、慌てたよ」
「な~に? 朝弱いの? だらだら寝てるタイプ?」
「ち、違うよ、昨日は寝るのが遅かったんだ」
「実は大きな写譜の仕事をもらってね、つい寝るのが遅くなっちゃったんだ」
「そうなんだ、写譜ってどんな仕事なの?」
「簡単に言えば、演奏用の楽譜を作る仕事かな」
「今回は教会で、新しい楽曲を大勢で演奏するんだ」
「でも、全員が同じ楽譜を見るわけじゃなくてね」
「楽器やパートごとに分けて、演奏者それぞれの楽譜を作るんだよ」
「今回はいくつかの教会の演奏団が合同で参加することになってさ」
「だから、ちょっと大変なんだ」
「大変そうだね……」
「ごめん、忙しい時に突然訪ねてきちゃって」
「もう帰るね」
ミナが立ち上がろうとすると、ユアンが慌てて声を上げた
「あ! ちょっと待って!」
「昨日がんばったから、もうほとんど終わってるんだ」
「全然、忙しくないから、帰らないで」
ミナは足をぴたりと止めた
「ほんとに?」
「うん、ほんとさ」
「君に嘘なんかつかないよ」
「それじゃ、邪魔にならない程度にいようかな」
そう言って、またミナは吊り橋の上に座った
ユアンは、少し嬉しそうに尋ねた
「それにしても、今日はどうしたの?」
「ミナは休日しかここには来れないのかと思っていたよ」
「うん、いつもはそうなんだけどさ」
「急に一週間お休みになっちゃったのよ」
「ナルとリンが仕事で出かけちゃってね、わたしだけ留守番」
「やることがなくてさ、暇なのよ」
「そうなの!? それなら、僕とたくさん遊ぼうよ」
「ユアンも忙しいでしょ? ちゃんと仕事しなさい」
「わたしのせいでユアンが仕事さぼっちゃうなんて嫌よ」
「う……そうなんだけどさ……」
「そうだ! もう楽譜づくりは終わっていてね」
「あとは楽譜ごとに目印を付けて、間違わないように整理するだけなんだ」
「よかったら、ミナと話しながら作業させてくれないか?」
「その方が僕も楽しいし、きっと作業も捗るよ」
「だめだってば、仕事を優先しなさい」
「それに、どうやって会話するのよ」
「ユアンが窓から離れたら、声が聞こえないじゃない」
少し考えてから、ユアンが言った
「ミナが僕の部屋に入ってくればいいじゃないか」
「え?」
ミナは少し驚いて、二階の窓を見上げた
ユアンと目が合う
なんだか、ユアンの目は生き生きとしていた
ミナは少し怒ったように言った
「わたし、こう見えても女の子なんですけど」
「一人暮らしの男の子の部屋に、ほいほい上がったりしないわよ」
その時、吊り橋に置いていたミナの右手に、ムギの左前脚が乗った
「熱!」
ミナはすぐに手を引っ込め、ムギを睨んだ
「なにすんのよ!」
ムギは何事もなかったように吊り橋から飛び降りた
そのままユアンの家の壁を駆け上るようにして、二階の窓へ飛び込む
「わ!」
ユアンが驚いた声を上げる
ムギは車椅子に座ったユアンの膝の上で丸くなり、そのまま眠ってしまった
「ちょっとムギ! 帰ってきなさい!」
「なんのつもりなのよ!」
ミナの大きな声などどこ吹く風で、ムギは喉を鳴らした
ユアンは膝の上のムギを見下ろして、少し笑った
「どうやら、ムギは帰りたくないみたいだね」
「僕もミナに帰ってほしくないよ」
「絶対に、ミナが困るようなことはしないから」
「上がっておいでよ」
「う……」
ミナはしばらく悩む
ムギを置いて帰るわけにもいかない
帰ったら一人ぼっちだ、ムギがいないと困る
仕方がない……少しくらいなら
そうミナは結論づけた
「わたし、こんなこと普通はしないんだからね」
「今回だけ、特別なんだからね」
「うん、もちろん分かってるよ」
「前に僕が来た方に階段があるから、上っておいでよ」
ミナは、前に吊り橋で待ち合わせした時にユアンが来た方向へ歩いた
すぐにユアンの家の入口が見つかる
入口の奥には、上へ続く階段が伸びていた
その横には、前にユアンが乗っていた車椅子が置いてある
「ここね……」
ミナはごくりと喉を鳴らした
ふいに、ナルとリンの顔が浮かぶ
「きっと……すごく怒るよね」
「でも、別になにもないし、ムギが中に入っちゃったんだし」
「ちょっとだけなら、いいよね……バレないだろうし」
そう言ってミナは階段を上り始めた
階段には手すりが付いていて、幅も少し広めだった
「ユアンはどうやって下に降りてるのかな」
手すりを持って、一段ずつお尻を段にのせて降りるのだろうか
そんなことを想像した
階段を上りきると、すぐに青い扉があった
また、ミナの喉が鳴った
「なんでわたし、ちょっと緊張してるのよ」
「友達の家に入るだけじゃない」
ミナはおそるおそる扉をノックした
すると、すぐに扉が開いた
そこにはユアンが笑顔で待っていた
膝の上にはムギが丸くなっている
「いらっしゃい!」
ユアンが満面の笑みで出迎えてくれた
「お、おじゃましま~す」
ゆっくりとミナは部屋の中に入る
そして青い扉が閉まった




