1-5 悪しき師
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
赤いジャージ姿のナルが、白い岩肌の崖道を必死に駆け上がっていた
「なんでこんなことしなきゃいけないのよ~~!」
悲痛な叫びが、山にこだまする
その後ろを、馬にまたがったリンが涼しい顔でついてきていた
「魔女は一に体力、二に体力、三、四がなくて五に体力です」
「ナルは貧弱すぎます。まずは体を鍛えます」
「なにそれ!? 思ってたのと全然違うんですけど!」
「魔道とは筋肉です。体力です。貧弱な魔女など無価値です」
「リンだって細いじゃん!」
「あら、失礼な物言いですね。見ます? わたくしのシックスパック」
「あなた、その見た目で実はムキムキなの!?」
「当然です」
「筋肉がないから、あなたは軟弱な精神なのです」
「魔女なら、誘惑でも洗脳でもなんでも使って、欲しいものは手に入れなさい」
「リンは魔女云々の前に心が死んでるだけでしょ!?」
「あらあら、生意気ですね。もう一往復行きましょうか」
「わたくしが立派な魔女にしてあげます」
「あんたみたいにはなりたくないわよ!」
ナルの声が山に響き渡った
リンに弟子入りしたナルは、すぐに町を離れ、この岩山へ連れてこられた
ギルドには「しばらく留守にする」とだけ伝えられているらしい
そして、ナルが最初に命じられた修行は、魔法ではなく走り込みと筋トレだった
走り込みと筋トレがようやく終わると、リンは大きなコップを差し出した
「さあ、次は食事です」
「ゴールデンタイムを逃してはいけません」
コップには、正体の分からないものがいくつも浮かんだ白い液体が、なみなみと入っている
ナルは露骨に顔をしかめた
「あの……食事って、これ?」
「そうです」
「これ、飲んでも大丈夫なやつ?」
「というか、飲みたくないんだけど」
「それを飲まなければ、今の筋トレが無駄になります」
「早く飲みなさい」
ナルはしばらく悲しそうにコップを見つめたあと、覚悟を決めて口をつけた
「うぇぇぇ……なにこれ……まずいんですけど……」
「全部飲みなさい」
「そんなブヨブヨの体だから、ソラさんもその気にならないのです」
「一年も二人で暮らしていたというのに」
「なにそれ!? ブヨブヨなんかしてないもん!」
「無駄なお肉なんかないから!」
「筋肉もないでしょう?」
「そんな貧弱な体で、生意気を言うんじゃありません」
「リンの言う通りにしてたら、わたしまでムキムキになっちゃうじゃん!」
「それこそ、その気になってもらえないよ!」
「それなら、あなたが押し倒せばいいでしょう」
「筋肉があればできます」
「言ってること意味分かんないんだけど!?」
「そんな人だったの!?」
「意味なんかいりません!」
「グチグチと悩み続ける、その軟弱な精神は体から来ているのです」
「さあ、全部飲みなさい!」
「いい加減にしてよ!」
ナルは白い液体の入ったコップを投げ飛ばした
中身が岩場へ派手にぶちまけられる
「こんなこと、なんでやらなきゃいけないの!?」
「必要だからやっているのです」
「それだけですよ」
「なによそれ!」
「そもそも、リンはわたしより弱いじゃない!」
「軟弱なのは、そっちの方なんじゃないの!?」
リンはすっと目を細めた
「わたくしがナルより弱い?」
「面白い冗談ですね」
「もういい!」
「わたし、帰るからね!」
「許しません」
「どうしても帰りたいなら、わたくしを倒しなさい」
「知るもんか!」
「わたしは帰るから!」
ナルの周囲に赤い砂が舞い上がった
「悪いけど、リンが動けなくなるまでやるよ!」
「恨みっこなしだからね!」
空気が震え、何本もの紫色の蛇が現れる
ナルの内に巣くい、魔力を食らう蛇――悪食のスキルだった
だが、リンは薄く笑った
「うんうん、いいですよ、ナル」
「そういうのが良いのです」
「手加減なんかしてあげないんだから!」
「あら、本気ですね」
「でも、そんなことをして大丈夫ですか?」
「なにがよ!?」
「この山では、魔力の消費が普段の千倍になりますよ」
次の瞬間、ナルの全身から力が抜けた
赤い砂が消え、悪食の蛇も霧のようにかき消える
「え……」
ナルは膝から崩れ落ち、そのまま地面へ倒れ込んだ
指一本、まともに動かせない
リンがゆっくりと歩み寄ってくる
その影がナルを覆った
見上げた先で、リンは勝ち誇ったように笑っていた
「これで分かりましたか?」
「ここに来た時点で、わたくしは勝っているのです」
ナルは言い返したかった
けれど、声が出ない
「わたくしの愚かな弟子に、一つ教えましょう」
リンはナルの前にしゃがみ込んだ
「あなたには一年もあった」
「それなのに、欲しいものを手に入れられなかった」
「それは、あなたの怠慢です」
「あなたの弱さが招いた結果ですよ」
リンの指がナルの顎をつかむ
ぐいと持ち上げられ、無理やり視線を合わせさせられた
「欲しいなら、失いたくないなら、なんだってやる」
「それが魔女です」
「努力を怠り、いつまでもメソメソするのはやめなさい」
リンの声は静かだった
けれど、その一言一言がナルの胸に突き刺さる
「現に、あなたは後悔しているでしょう?」
「まだ諦めきれていないのでしょう?」
ナルの目が揺れた
「できることを、何もしなかったからです」
「彼の寝室へ行き、誘惑することさえしなかった」
ナルは唇を噛んだ
「本気で迫れば、彼は拒まない」
「あなたも、そう分かっていたのでは?」
心の奥を覗かれたようで、ナルは息を詰める
「ミナさんに遠慮し、自分の気持ちを誤魔化して身を引いた」
「だから、あなたは失ったのです」
リンは、白い液体の入った新しいコップを持ち上げた
「あなたは魔女にならなければいけません」
「軟弱でいることは許しません」
そして、ナルの口元へコップを押しつける
「さあ、飲みなさい」
「んっ……! やっ……」
白い液体を無理やり流し込まれ、ナルは激しくむせた
「ゲホッ、ゲホッ……!」
それでもリンは手を止めず、最後まで飲ませ切った
そのあとで、まるで幼い子供を褒めるように、ナルの頭を優しく撫でる
「ほら、飲めたじゃない」
「ナルは、やればできる子でしょう?」
ナルは声も出せないまま、リンを睨みつけた
その目を見て、リンは満足そうに微笑む
「それでいいんですよ」
「わたくしの可愛いナル」
ナルは心の中で吐き捨てた
好き勝手に言って
この女、絶対に許さないんだから
それから、どれほどの日が過ぎたのか、ナルには分からなくなった
まだ暗いうちから起こされ、岩山を走らされ、筋トレをさせられる
訓練の最後には、あのまずい白い飲み物が待っていた
そして夜になると、石壁に囲まれた薄暗い部屋へ戻される
高い位置に小さな窓が一つあるだけ
分厚い扉が閉まるたび、外側から鍵を掛ける音が響いた
寝床は、床に木の板を並べただけだった
ナルは今日も疲れ切った体を、その上へ投げ出した
「なんなのよこれ……絶対おかしいよ……」
背中は痛み、腕も足も、もう動かしたくなかった
それでも、目だけは妙に冴えている
ナルは薄い毛布を胸まで引き上げ、高い位置にある小さな窓を睨んだ
こんな生活、いつまでも続ける気はない
明日で終わらせる
リンを倒して、この山を下りる
そう心に決め、ナルは強く目を閉じた




