第三十三話 リンとの暮らし 1
最上階の奥にあるリンの私室を抜けると
その先に、白い廊下がまっすぐ伸びている
廊下の南側には、ナルとミナに与えられた部屋が並んでいた
どちらも大きな窓のある明るい部屋だった
反対側には、洗面所や浴室、洗濯物を入れる籠や収納棚が並んでいる
この廊下から外へ出るには
必ずリンの私室を通らなければならない
三人で暮らすようになってから
朝はそこで顔を洗い、歯を磨くのが決まりになっている
ナルは、女性に踏みつけられている男の像の横にある大きな洗面台で歯を磨いていた
リンが用意した白いシルクのパジャマを着ている
正面の壁には、天井近くまで届く大きな鏡が張られていた
鏡の両側には灯りが並び、洗面台のまわりを明るく照らしている
この家で暮らすようになってから1週間が経った
ナルは特に不便もなく、暮らしていた
だが、ミナはそうでもないらしかった
洗面所の向こうから、リンの鋭い声が飛んできた
「ミナ! なんですか!? あなたの下着が落ちていましたよ?」
「きちんと洗濯物はあのカゴに入れなさいと何度も言っているでしょう」
ミナはまだ眠そうな顔で振り返る
まるで大したことではない、という顔だった
「それはまだ履いてないやつだよ、ちょっと置いておいただけでしょ?」
リンはミナの下着を手に持ち、眉を吊り上げる
「なんで下着がその辺に落ちてるんですか? きちんと棚に入れなさい」
「それから、使ったバスタオルはきちんと干しなさいと言ったでしょう。なぜその辺に投げるんです」
ミナは面倒くさそうに髪をかき上げた
「ちょっと置いといただけだよ! 煩いな!」
リンは下着を籠に入れながら、さらに眉を寄せた
「ちょっと、ちょっとって、ミナは毎回そうじゃないですか。きちんとなさい」
リンの小言に耐えかねたように、ミナは口を尖らせた
「ほんとリンは煩いな。だから行き遅れるのよ」
リンのこめかみが、ぴくりと動いた
「なんですかその言い草は! 当たり前のことをきちんとやってから言いなさい」
ナルは毎度のことだと思い、二人のやりとりを聞き流していた
我関せずと口をゆすいでから、うがいをした
三人で一緒に暮らすようになってからというもの、ずっとこの調子だ
確かにナルからみても、ミナはずぼらだった
リンが口を出したくなる気持ちもわかるけど
少し言い過ぎかなとも思っていた
そんな朝の騒ぎを終えて
三人はいつものように食卓についた
ナルとミナが声をそろえる
「いただきまーす」
リンの食事は美味しかった
毎日少しずつ変えて、温かい食事を用意してくれた
ただし、毎回こういうのが始まった
朝食が始まると、リンの視線はすぐにミナの胸元へ向いた
ミナが気づくより先に、リンの眉がぴくりと動く
「ミナ、こぼれてますよ。なぜ胸元に食べかすが落ちるんですか?きちんと食べなさい」
ミナは自分の服をちらっと見て、肩をすくめた
「別にいいじゃん、ちょっとくらい」
リンはため息をつき、ミナの方へ手を伸ばす
「そのちょっとが駄目なのです。見なさい、服に食べかすが付いているでしょう」
そう言ってリンはミナの服に付いた食べかすを取って、それを自分の口に入れた
ミナは慌てて身を引く
「もう、いいから! 自分でやるし」
リンは文句を言いながらも、ミナの服についた食べかすを取り
ミナは嫌がりながらも、本気で払いのけようとはしなかった
その様子を見ているうちに、ナルは少しおかしくなった
そして自然と口から出てきた
「なんか、親子みたいだね」
ミナの服についた食べかすを払おうとしていたリンの指先が
そのまま宙で止まる
リンはゆっくりミナを見た
一瞬だけ、返す言葉を失ったように見えた
白い頬に、薄く赤みが差している
「変なことを言わないでください」
声はいつも通りだった
けれど、どこか少しだけ硬い
リンは自分の食器を持つと
二人に背を向け、逃げるようにキッチンへ消えていく
ナルは不思議そうに、その背中を見送る
しばらく、食器の触れ合う音だけが続いた
怒っているようにも見える
けれど、それだけではない気がした
「なんか……らしくないなぁ」
そう呟いてから
ナルはしばらく、リンの消えたキッチンの方を見ていた
ミナは胸元を軽く払ってから、不満たらたらに言った
「リンって煩くない? なんでも文句言ってくるんですけど」
ナルは首をかしげた
「え? 私にはそうでもないかな」
ミナはじとっとナルを見る
「ナルって意外とちゃんとしてるよね」
「ナルと違って、わたしは毎日大変だよ」
「だって生活の細かいことなんて、今まであっちのミナがやってたんだから」
ミナは少しだけ視線を落とした
「わたしは歯磨きだって、自分でやったのは最近なんだよ?」
「むしろ、わりと頑張ってる方なのに、リンは細かすぎだよ」
ナルは空になった皿を見ながら、少しだけ考えた
「うん、そうかもしれないね」
「でもさ、ミナの為に言ってくれてる感じするよ」
ミナは頬杖をつき、納得しきれない顔をした
「んー、そうだろうけどさ……」
ナルは、キッチンの方をちらりと見た
リンはまだ戻ってこない
けれど、奥から食器を片づける音が聞こえていた
皿が重なる小さな音を聞きながら
ナルはぽつりと言った
「おかあさんって……ひょっとしたら、あんな感じなのかもね」
ミナは思わず顔を上げた
「え?」
ナルは少しだけ考え込むように、空になった皿を見た
「私たちって、そういうの知らないじゃない?」
「だから、ひょっとしたらこれって、すごいラッキーなのかなって」
ミナはまだ少し不思議そうに聞き返した
「ラッキー?」
「うん」
「朝になったらごはんがあって」
「だらしないことをしたら怒られて」
「でも、ちゃんと見てくれてる」
ナルは少しだけ笑った
「そういうの、私たちにはなかったでしょ」
「リンのことだから、なにか思惑があるんだろうけどさ」
「ちょっと嬉しかったりするの」
ミナは複雑そうに口を尖らせた
「うーん、言ってることは分かるんだけどね」
「ナルと違って、わたしは毎日大変だよ」
ナルは軽く笑って、ミナを見る
「ミナもだらしない所を直すいい機会じゃない」
「わたしも応援するからさ」
ミナは椅子の背にもたれ、少しむくれた顔になる
「えー……だって、わざとやってるわけじゃないんだよ」
「気づいたらそうなってるんだもん」
「リンにも言われるからさ」
「わたしなりにはがんばってるんだよ」
ナルはどこか他人事のように、にこっと笑った
「それってミナの為になるじゃない、がんばりな~」
ミナは恨めしそうにナルを見る
「ナルは他人事だよね……」




