後編3 おかえり
読了後、しばらく動けなかった。これだけのものを、一体どれくらいの時間と精神力をかけて生み出したのか、想像もつかない。それなのに。
あなたが今日初めてのお客さんです、なんて。お手紙までもらったのは初めてです、なんて。自分が買っただけで、あんなに喜んでくれた。人一人を衝撃で動けなくさせるような話を書いておきながら、強い不安と戦い、それでもあの場に座り笑顔で手渡す。そんな彼女に、自分は足元にも及ばない。
隣に静かに座る“彼”を見る。過去の遺産。一度捨てたもの。二度と表には出さないと決めた存在。作者に捨てられた主人公の幻影。それでも、恨み言など一つも言わないのだ、この少年は。
「ごめんなさい」
たまらず呟いた。幻が揺れる。かすかに動かした首の向きは横だったか、縦だったか。
「ぼくらはさ」
穏やかな声が届く。
「ぼくらは、作者さんの夢だから」
淡い笑みを浮かべ、彼は睫毛を震わせた。
「作者さんが羽ばたかせてくれるなら、ぼくらは何だってやれるさ。作者さんさえ諦めなければ、何だって」
胸にじわりと広がった感情が、その言葉を糧に全身を巡る。温度も感触もないその膝に頭を垂れ、果ては敷布に転がって、両腕を目の上で重ねた。
限界が怖かった。書けなくなることが怖かった。懸命に書いて誰にも届かないことが怖かった。全力で書いてもこの程度だと思い知るのが怖かった。だから、思い知るその前に、自ら筆を折ったのだ。誰に届かなくても良いから書き続けるなんて強さを、私は持っていない。
趣味は本を読むことです。
誰かに問われたら必ず返す台詞。
でも違う。本当は。
仕事は、物語を書くことです。
そう言いたかった。ずっと、言いたかった。
でも、言うための何を、私はしてきた?
少なくとも、この本一冊分の重みに釣り合うものは、これまでの人生のどこにもない。
……ちくしょう。
気づけば部屋は真っ暗になっていた。腫れぼったい目を擦りながら肘をついて手に力を入れ、上半身を起こす。電気をつけると、床に転がった本の横で、“彼”が膝を立てて立ち上がった。本を机の上へと置き、彼を見上げる。決して穏当とは言えない目をしているだろうに、彼は小憎たらしいほど涼しい顔で、す、と腕を上げた。
指で示したのは、デスクの上。被さった布に埃が積もる、かつて愛用していたデスクトップ。
「……わかったわよ」
それは、それでも、血が喉に絡んだような声になった。目に力を入れないと、また泣き出してしまいそうだった。
「書くわ。書くわよ。あんたの物語を最後まで」
それでも私は、再び地獄の門の前に立つ。
「どうなっても知らないから。バッドエンドになって、『続かなけりゃ良かった』とか言ったって、遅いんだから」
勿忘草色の髪が揺れる。綿雲色のマントが翻る。ブローチが光り、同じ淡金の瞳がクルリと輝く。大きく弧を描いた口が、ゆっくりと動いた。
望む、ところだ。
導かれるようにデスクまで這いより、縁を掴んで身体を持ち上げる。デスクトップの電源に指を突き刺し、起動している間に椅子にどっかと座る。その肩に、重みのない両手が乗るのを感じた。まるで肩にマントを着せかけ労る友のように、あるいは呪いを囁く背後霊のように。
「おかえり、ミツバ」
「……えぇ、ただいま、ユナミス」
目覚めてゆく画面を睨みつけながら、応えた。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
この話は、加筆修正ののちサークル誌『幻』に掲載、2019年中にイベントに出品予定です。
詳細が決まりましたら、活動報告にてお知らせいたします。