◆聖女の歌 ( とある絶望の話 )
作中で出てきた「聖女の歌」の昔話。
内容は、本編と全く関係なし。数百年前のお話。
悲恋・死ネタです。ご注意を。
男は一人立ち尽くしながら考えた。
正義をかかげて向かってくる勇者を倒した。
平穏を望んで乗り込んできた王子を倒した。
平和を願い挑んできた魔法使いを倒した。
倒してきたのは、もしかしたら自分だったかもしれない者たちだった。
もしも、大切なものを失わなかったら、なっていたかもしれない自分だった。
彼は、何かを忘れていた。
それは、正確には奪われたという方が正しいのかもしれない。
気がつけば、彼は世界と神を憎んでいた。
全ての破壊と破滅を願っていた。
そうして、神に奪われた何か取り戻すために、彼は魔王というものになった。
神の愛する世界と秩序を全て破壊して、奪われたもの取り戻すのだ。
そのために全て壊した。
もう人だった頃の面影はないだろう。
それでも俺は俺であり、揺るぎない目的がある。
空虚な絶望を埋めるために、俺は全てを壊すだけだ。
城の前で、神の使者である何者かの気配を感じながら、彼は独り待っていた。
* * *
馬を走らせる彼は、一つのことを考えていた。
捨てられ虐げられていた自分を、彼女は拾って育ててくれた。
惜しみない愛情を注いでくれた。世界はこんなにも美しいと教えてくれた。
実際、彼女とともに見る世界は、何気ない日常は、彼にとって輝く宝石のように美しかった。
彼女は世界を愛していたし、世界も彼女を愛していたのだと思う。
その関係に、彼が少なからず嫉妬を覚えるようになったのはいつからだったろう。
彼と彼女は少しばかり年が離れているが、互いに伴侶を迎えても良い年頃になっていた。
特に彼女は世間的に言えば適齢期ともいえる年を十分に過ぎていた。
その頃には、彼は騎士としてある国に仕えていた。
まだ若く活力にあふれ容姿も整った彼は、十分に魅力的な騎士だった。
そして、彼は一部隊の隊長を命じられた。
若くして隊長に命じられるということは、将来は約束されたようなものだ。
その時の彼の頭の中には、もう一つのことしかなかった。
彼女に結婚を申し込もう、と。
勇んで帰れば、彼女も、もうそのことを知っているようで笑顔で迎えてくれた。
それを見て、彼は心の中で思っていたことを決めた。
何よりも大切な人である彼女。自分の全ては、彼女に繋がっている。
だから、そろそろ自分を受け入れてくれてもいいはずだ。
今まで、何度も、愛の告白をしては曖昧に断られてきた。
理由はいつも同じ。
( 私と貴方は、一緒の道を往けない )
ならば、と彼女が望む平和を、平穏を、正義を満たす騎士になった。
彼女の見ているものと自分が見ているものは同じはずだ。
もう、これで彼女は自分の要求を退けることはできないだろう。
欲しくて欲しくてたまらなかったもの。
彼女の全部、それを今やっと手に入れるのだ。
「俺と、結婚してくれ 」
絞り出すようにして伝えた声は、思ったよりもかすれていた。
驚くように見開かれた目。信じられないという表情の彼女。
あぁ、諦めたと思っていたのか。それは、間違いだ。
今の自分は酷く醜い笑みを浮かべているだろう。
そもそも何もない男女は一緒になど住まない。
周囲の人間には、もう伝えてある。
王にも認めてもらった。
言葉を紡ぐたびに、彼女の顔からは血の気が引いていく。
どうしてだろう。どうして、彼女は笑ってくれないのだろう。
はにかみながら笑うのが好きだ。
照れたように笑うのが好きだ。
困ったように笑うのが好きだ。
そして、嬉しくてたまらないと笑う彼女が一番好きだ。
なのに、どうして彼女は絶望的な瞳でこちらを見つめているのか。
どうして、自分を拒絶するようにここから出ていくと言うのか。
目の前が赤く染まり、意識が黒く染まった。
遠ざかる彼女の背中。
とっさに掴んだのは、使い慣れた剣。
いやだ。
離れていくことなんて許さない。
許せるはずがない。
刃は、簡単にその体を貫き、彼女はゆっくりと倒れていく。
強く抱きしめ、やっと願いがかなったのだと安堵した。
これで、ずっと、一緒にいられる。
もう彼女が動かないのだとしても、離れるよりはずっといい。
そう、これでいい。
「貴方は、やはり貴方だったのですね 」
冷たくなったはずの体からは、彼女の声。
もう、生きていないはずの彼女は、光を失った瞳で彼を見ていた。
「どうし、て 」
彼の言葉など聞こえないように彼女は立ち上がり、彼を見下ろす。
そこには、暖かさも慈しみも消えた顔。
彼女の顔を借りた誰かが立っていた。
「やはり、貴方は何も変わらない。 破壊を暴虐を破滅を望むものなのですね 」
ふぅ、と溜息をついた彼女は、腹に刺さった剣を抜いた。
傷口は剣を抜くと同時にふさがり、まるで何もなかったかのように再生する。
「貴方の中の闇は、何者にも癒せない。ならば、貴方は望みなさい 」
呆然とする彼を、彼女はそっと抱きしめた。
それは、絶対的な強者である神からの抱擁であり、最後の憐み。
「神である私の死を望みなさい。そうすれば、貴方は私の手を下すにふさわしい者になる。貴方は運命通りに、魔王になるのですよ 」
「俺、は 」
何かを言おうとして、ギュッと抱きしめられた。
暖かい手が彼の頭を抱きしめた。
「ダメ、です。絶対に、そんなこと、望まないで。 貴方は優しくて暖かいのです。 わたしは、そんなあなたが、大切な、の 」
祈るように呟かれた声は、聞き覚えのある彼女の声。
顔を上げれば、涙を流す彼女がいた。そんな彼女見て彼も表情を崩した。
「もう、どこにも行くな。俺は、お前が居ればそれでいい。何も望まない、だから 」
「…私は、天命を受けた者。全ては神の意のままに、私の役割を果たす。そうでなければ、世界が壊れてしまうの 」
天命、神、世界。
そんなもののために彼女は、自分を拒んだのか。
ならば、ならばその全てを壊してしまうしか。
彼の意識が、黒く塗りつぶされるのを見て彼女は悲しそうに顔を歪めた。
「闇が浸食している」
祈るようにして、彼女は彼を抱きしめる。
彼が人で居られるにはどうしたらいい?どうしたら、世界から殺されずにすむのだろう。
そっと目を閉じて考え、彼女は一つの決心をした。
「 …ありがとう。貴方が愛してくれて、私は幸せだったの。今だって、私のために堕ちる貴方を見て悲しくて嬉しい。酷く身勝手な幸せね。 だから私は、もう、これで十分 」
そっと、彼女は彼の頭に手を添えた。そして、歌を紡ぐ。
紡がれる歌は忘却の歌。全ての記憶と記録から自分を消し去る歌。
人である彼女には、大きすぎる魔法の力。
「嫌だ、どこにも行くな。俺も連れて行け 」
縋るように抱きつく彼を、彼女も抱きしめた。
それは、ただの恋人同士の抱擁。
最初で最後の、人としてのふれあいだった。
「あいしてます」
そっと触れるだけの口づけを残して、彼女は消えていった。
まばたきを一つしてから、彼は不思議に思う。
今まで何をしていたのか。こんな所で立ち尽くして一体何があったのだろう。
そして、なぜこんなにも苦しくて悲しくてたまらないのか。
どうして、世界が神が憎くてたまらないのだろうか。
わからない、と彼は独り涙を流した。
* * *
やってきたのは、一人の女だった。
どこにでもいる、ただの変哲もない人の女。
神気を帯びているから一応は、神の使いなのだろう。
用心するに越したことはない。
「運命通り、魔王になった者よ。貴方を殺しに来ました 」
苦しげに呟く女。こんな女など知らないはずだった。だから、すぐに殺せるはずだった。
でも、この声を聞くと何かが揺さぶられる。
失ったはずの何かが、求めている。
「やはり、人が使うにはすぎたものだったのですね。こんなに貴方を追い詰めてしまった 」
悲しげな表情で、女は、どこからか剣を取り出した。
それは見覚えのある懐かしい剣。騎士だった時に「彼」が使っていたもの。
そして、女は何の躊躇もせず自らの腹にその剣を突き刺した。
痛みに耐えながら、己をえぐる剣を女は深く突き刺す。
苦しいはずなのは女の方だ。しかし、それを見て酷く動揺した。
その光景を、見たくないのだ。
「私の運命は…二つあった。一つは、魔王を滅する運命。…そして、もう一つは 」
口から血を流す女を見て、魔王は悲鳴を上げた。
どうして、なぜ、わからない。でも、苦しくて悲しくてたまらない。
「貴方と出会って、そして、貴方を魔王にしてしまうという役割も、私の運命だった 」
瞬間、彼は全てを取り戻した。
失われた記憶と記録を思い出した。
大切な人。最愛の人。欲しかったのは笑顔。
ただ、それだけだった。
いつかの日のように、血まみれの彼女を抱きしめた。
神気にあふれる彼女の体は、魔王となった彼の体を焼き尽くす。
それでも彼は抱きしめる手を離さなかった。
「ごめん、俺は、こんなになってしまった 」
「謝るのは私です。運命に抗えず、貴方を人に留めておけなかった。…守れなかった 」
「でも、俺が人のままだったら、再び貴方には会えなかった。 だから、俺はこの運命で良かった 」
対峙するのは魔王と聖女。
世界を混沌に陥れる魔王に対して、人々が最後の救いを託した聖女。
彼女は穢れ無き者として、魔王を滅するために現れた。
「…私も、貴方に会いたかった。貴方さえいればいいと、ずっと思っていたの 」
そうして、彼女は嬉しくてたまらないと微笑んだ。
彼が欲しくてたまらなかったもの。
ようやくそれを手に入れた彼も、彼女と同じように笑った。
浄化の炎の中で抱きしめあうのは、魔王と聖女。
そして、二人は静かに世界に還っていった。
全ては、予定調和。
神の与えた運命の通りに。
* * *
どこかの空間に、誰かは一人で呟いた。
あぁ、つまらない。
また運命に抗えない者たちだった。
どうして人は、輪を外れることができないのか。
どうして予定調和の中でしか、生きられないのか。
管理者として、最低限の采配はするが
その全てを退けて、己の望みを叶える者はいないのか。
私は、また見てみたい。
愚かしくも美しい、人でしかない彼らの抗い。
遠い昔に、たった一度だけ見た美しいアレをまた見たい。
それなのに、何度機会を与えても望みはかなえられない。
期待をしても、裏切られることばかり。この世界には絶望しかない。
そう言って、誰かは独りで嘆いた。