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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第四章 才能の値札

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第九十四話 最強の境界


 最初に壊れたのは、石の床だった。


 係長が白い紙を一枚落とす。


 それを見たムラサメが、踏み出しかけた足を止めた。


 次の瞬間、彼の爪先があった場所で石畳が砕けた。


 何かが落ちてきたわけではない。そこには、紙が一枚あるだけだった。


「……っ!」


 俺は息を呑んだ。


 ムラサメはすでに動いていた。


 砕けた床を蹴り、係長の右側へ回り込む。刀が横薙(よこな)ぎに走った。


 係長は半歩下がり、指先を動かす。


 白い紙が宙に浮いた。


 刃の行く手に、何もないはずの空間が現れる。


 がんっ、と鈍い音が響いた。


 刀が止まる。


 しかし、ムラサメはそこで力を込めなかった。刃を引くと同時に踏み込みを変え、今度は係長の足元を狙った。


 係長の外套が翻る。


 次に見えた時には、二人の立つ位置が入れ替わっていた。


「……速いな」


 係長が言った。


「お前もな」


 ムラサメは刀を構え直した。


 互いに息が乱れていない。


 だが、床には深い傷が刻まれ、木箱の一つが真っ二つになっていた。


 俺はようやく、二人が本当に戦っているのだと理解した。


 水底街では、係長の前に誰も立っていられなかった。


 それなのにムラサメは、その男を相手に一歩も退かない。


 逆に、王国最強と呼ばれるムラサメの剣を、係長は受け止めている。


 どちらが強いのか。


 今の俺には、まるで分からなかった。


「セイン!」


 リゼが腕を引いた。


「荷物を!」


「……うん!」


 俺たちは荷車へ走った。


 背後では、再び刀の音が響いていた。


     ◇


 荷車には、大小合わせて六つの木箱が積まれていた。


 そのうち二つには『原帰属者記録』『受領者検査記録』と書かれている。


 俺は留め具に手をかけた。


「……開かない!」


 鉄製の留め具が固く締められている。


 リゼが箱の側面を調べた。


「セイン、こちらを見てください」


「何?」


「この箱、外側の札と封印の位置が合っていません」


 よく見ると、古い封印を削り、その上から新しい札を貼った跡があった。


「……中身を入れ替えた?」


「可能性はあります。少なくとも、元の表示を隠しています」


 俺は荷車の横に落ちていた金具を拾った。


 先端が細く、留め具の隙間へ入りそうだった。


「……リゼ、箱を押さえて」


「はい!」


 金具を差し込み、少しずつ力をかける。


 靴の金具を外すのと似ていた。


 無理にこじ開ければ留め具が折れる。力をかける場所を変えながら、金属の噛み合わせを探した。


 かちり、と小さな音がした。


「……開いた!」


 蓋を持ち上げる。


 中には帳簿が何冊も詰め込まれていた。


 表紙には番号しか書かれていない。


「……これが原帰属者記録なのかな」


 俺が尋ねると、リゼは一冊を手に取った。


「確認しましょう」


 彼女が頁をめくった、その時。


 背後から鋭い音がした。


 振り向くと、ムラサメが係長の目前にいた。


 刀の切っ先が、係長の喉元まで迫っている。


 だが、係長は避けなかった。


 指先で白い紙を押さえ、刀の進む方向をわずかにずらしたのだ。


 刃が首筋を掠め、背後の木柱へ深く食い込む。


 ムラサメは刀を引く。


 その瞬間、係長の足が動いた。


 ムラサメの身体が、不自然に横へ弾かれた。


「……ムラサメさん!」


 俺は叫んだ。


 彼は床を滑りながらも倒れず、片足を踏み込んで勢いを殺した。


 係長が追う。


 今度は、係長の方から距離を詰めた。


 白い紙が二人の間へ滑り込む。


 ムラサメは首を傾け、紙の脇へ刀を通す。


 係長の左袖が裂けた。


 赤いものが飛んだ。


「……っ!」


 係長が腕を引く。


 初めて、血が見えた。


 ムラサメの刀が、係長を傷つけたのだ。


 係長は袖の裂け目を見て、静かに息を吐いた。


「……まいったな」


 ムラサメは答えなかった。


 その目は、係長の足元を見ていた。


「……その足運び」


 小さく呟く。


「どこで覚えた」


 係長の表情が、ほんの少し変わった。


「……何の話だ?」


「いや」


 ムラサメは刀を構え直す。


「今はいい」


 次の瞬間、彼が踏み込んだ。


 俺には、もう何が起きているのか分からなかった。


     ◇


「……セイン、こっちです!」


 リゼの声で我に返った。


 彼女が開いた帳簿を見せる。


 そこには、固有術の搬出番号と、受領者へ移された後の検査記録が並んでいた。


「……これ」


 頁の一つに、見覚えのある名前があった。


『テオ・ベルク』


 俺は息を止めた。


 右手の震え。


 発動不良。


 繰り返された体調不良の申告。


 その横に、小さな文字が記されている。


『重篤反応の可能性あり。追加検査を要する』


「……知ってたんだ」


 喉の奥が熱くなった。


「商会は、テオが危ないって知ってたんだ……!」


 リゼが別の頁を開いた。


「セイン、まだあります」


 そこには外部への記録提供に関する欄があった。


 何度か訂正された跡があり、最後に新しい印が押されている。


『外部照会に対する詳細開示を保留』


 その下には、承認部署を示す欄があった。


「……会長室?」


「はい。ただ、これだけで会長本人が指示したとは言えません」


 リゼは慎重に頁を押さえた。


「でも、商会内部で危険性が認識されていたことは、少なくとも確認できます」


 俺は帳簿を見つめた。


 テオは、知りたかったはずだ。


 自分の身体に何が起きているのか。


 どうすれば助かるのか。


 その答えにつながる情報が、こんなところに閉じ込められていた。


「……持って帰ろう」


 俺は帳簿を閉じた。


「全部、持って帰ろう」


「はい」


 俺たちは記録を布で包み、持ち出せるものからまとめ始めた。


 その時、背後で係長の声が響いた。


「……その箱は開けるな」


 振り向くと、係長がこちらを見ていた。


 ムラサメの刀を防ぎながら、俺たちの動きまで確認している。


「……何でだよ!」


 俺が叫ぶと、係長は答えた。


「中には、今のお前たちが扱うべきでないものもある」


 その言い方に、また怒りが湧いた。


「……あんた、まだそんなこと言うのか!」


 係長がこちらへ踏み出しかけた。


 だが、その進路にムラサメが入った。


「よそ見をするな」


 低い声だった。


 係長が振り向く。


 次の瞬間、ムラサメの刀が振り下ろされた。


 白い紙が一枚、二人の間に立つ。


 刃が止まる。


 そこまでは、さっきまでと同じだった。


 しかしムラサメは、そのまま刀を引かなかった。


 紙の位置を確かめるように刃先をわずかに動かし、次の瞬間、身体ごと横へ踏み込んだ。


 係長の目が見開かれた。


 刃が、見えない壁の脇を通り抜ける。


 係長は咄嗟に身体を捻った。


 外套が裂け、胸元に浅い傷が走る。


「……っ!」


 係長が後退した。


 ムラサメは追わなかった。


 刀を構えたまま、静かに言った。


「……なるほど。紙そのものが硬いわけではないのか」


 係長は胸元へ手を当てた。


 指先に血がつく。


 それを見て、少しだけ笑った。


「……よく見てるな」


「剣士だからな」


「……厄介だ」


 係長が白い紙を三枚、床へ落とした。


 それまでとは違う。


 紙が散らばる位置を見た瞬間、ムラサメの表情が引き締まった。


「……セイン、もっと離れろ!」


 叫び声と同時に、床が割れた。


 正確には、床そのものが動いたのではなかった。


 何もない空間の途中で、木箱の破片が弾かれ、石の欠片が砕けていた。


 俺はリゼを抱えるようにして伏せた。


 頭上を細かな石片が飛んでいく。


 その向こうで、ムラサメが跳んだ。


 宙に浮いた白い紙の隙間へ、刀が閃(ひらめ)く。


 係長が片腕を上げる。


 刃が止まった。


 だが、ムラサメはその反動を使って身体を回し、今度は下から斬り上げた。


 係長が身を退く。


 白い紙が舞い、石畳へ落ちた。


 その紙が落ちるより早く、ムラサメの足が再び床を蹴る。


 俺には、刃が何本にも増えたように見えた。


 係長は一歩、また一歩と後退する。


 初めて、係長が押されていた。


「……すごい」


 思わず声が漏れた。


 リゼも息を呑んでいる。


 王国最強。


 それがただの呼び名ではないことを、俺は目の前で思い知らされていた。


 だが、係長もただ追い詰められているわけではなかった。


 彼は後退するたび、白い紙を一枚ずつ落としていた。


 ムラサメの踏み込み先へ。


 刀の振り抜かれる方向へ。


 そして、背後の退路へ。


 ムラサメがさらに一歩踏み出した瞬間、足元で鈍い音がした。


「……!」


 彼の身体が止まった。


 前へ出ようとした足が、見えない何かに阻まれていた。


 同時に、係長の右手が動いた。


 ムラサメの肩口で布が裂ける。


 今度は血が流れた。


「……ムラサメさん!」


 俺が叫ぶ。


 係長は動きを止めなかった。


 さらに踏み込み、ムラサメの懐へ入ろうとする。


 だが、その瞬間。


 ムラサメは、動けないはずの足を軸に身体を回した。


 片足を残したまま、刀の柄を短く握り直す。


 刃が係長の目前を走った。


 係長が上体を反らす。


 ほんのわずかに遅れていたら、首を斬られていた。


 二人が離れる。


 ムラサメは肩口を押さえた。


 係長も、胸元から流れる血を指で拭った。


 どちらも、相手から目を逸らさなかった。


「……恐ろしい剣だ」


 係長が呟いた。


「お前の術もな」


 ムラサメは低く答えた。


「だが、まだ終わらん」


「……ああ」


 係長が頷いた。


「そうだな」


 その声には、先ほどまでの余裕がなかった。


     ◇


「……係長!」


 聞き覚えのある声が響いた。


 搬出室の入口に、エルセが立っていた。


 その後ろにはリオルの姿もある。


 二人とも息を切らしていたが、地下に残されていた作業員は無事に外へ連れ出せたらしい。


 エルセは一歩踏み出したところで、動きを止めた。


 係長を見つめている。


 係長も、彼女に気づいた。


「……エルセか」


 その声は、あまりにも自然だった。


「無事だったんだな」


 エルセの顔が歪んだ。


「……そんなふうに、言わないで」


 係長が黙った。


「私たちにあんなことをしておいて、何もなかったみたいに……!」


 エルセの声が震えていた。


「セヴァンは? あのあと、どこへ連れていったの?」


「……今は、その話をする時じゃない」


「いつなら話してくれるの?」


 エルセは一歩前へ出た。


「私、ずっと調べてた。保全院で、あなたが何をしていたのか。どうして私たちを裏切ったのか」


 係長は何も言わなかった。


「でも、どこを調べても大事なところが抜けてる。誰に聞いても答えてくれない。あなたが何を隠しているのか、何も分からない!」


「……エルセ」


「今度こそ、ちゃんと答えて!」


 その声は、怒りだけではなかった。


 信じていた人に裏切られた痛みが、そこにあった。


 係長は彼女を見つめていた。


 けれど、答えなかった。


 代わりに、静かに言った。


「……そこから先へ来るな」


 エルセが息を呑んだ。


「……また、命令するの?」


「違う。危険だからだ」


「そんなこと、見れば分かる!」


 エルセが叫んだ。


 その瞬間、ムラサメが動いた。


「エルセ、下がれ!」


 係長の視線がわずかに逸れた隙だった。


 ムラサメが踏み込み、刀を横へ走らせる。


 係長は咄嗟に白い紙を上げた。


 しかし、ムラサメの刃はその上を通った。


 係長の頬を、細い赤い線が走る。


 今度こそ、避けきれなかった。


 係長が大きく後退する。


 ムラサメも追おうとしたが、足元に落ちた白い紙が、その進路を塞いだ。


 二人の距離が開いた。


 その様子を見て、エルセが息を止めた。


 俺は彼女の腕を掴んだ。


「……エルセ!」


 彼女が振り向く。


「今、俺たちだけじゃ止められない。だから、記録を守るのを手伝って!」


 エルセの目が揺れた。


 係長は、まだあそこにいる。


 彼女が追いかけたかった相手だ。


 でも、目の前には荷車があり、危険な搬出設備がある。


 エルセは唇を噛んだ。


 そして、ゆっくり頷いた。


「……分かった」


 その声は、まだ震えていた。


「私、今度は自分で決める」


 係長の方へ一度だけ目を向ける。


「……セイン、何をすればいい?」


 俺は荷車の木箱を指さした。


「この中の記録を全部、安全な場所へ!」


「分かった!」


 エルセがすぐに動き出した。


     ◇


 設備の異常に気づいたのは、リオルだった。


「……おい、あの鎖!」


 見上げると、天井近くを通る太い鎖が、不規則に揺れていた。


 古い荷揚げ機の歯車が、嫌な音を立てている。


 ごん。


 鈍い音が響く。


 続いて、二度目。


 リオルの顔色が変わった。


「……まずいぞ!」


 俺は荷車の横へ走った。


 帳簿を包んだ布を持ち上げようとした、その瞬間だった。


 天井から、甲高い音が響いた。


 金属が引き裂かれるような音だった。


「……伏せろ!」


 ムラサメの声が響く。


 見上げると、荷揚げ機を支えていた鉄の留め具が外れかけていた。


 吊られた大きな鉄枠が、ゆっくりと傾く。


 その下には荷車がある。


 記録を積んだ、あの荷車が。


「……セイン、離れて!」


 リゼが叫ぶ。


 俺は逃げようとした。


 だが、荷車の向こうで、商会の男が一人転んでいた。


 足が木箱の間に挟まり、動けなくなっている。


「……助けてくれ!」


 男が叫んだ。


 俺は一瞬、足を止めた。


 昨日、ダグを殺した男も商会の人間だった。


 テオを苦しめたのも、あいつらだ。


 そんな考えが頭をよぎった。


 けれど、目の前の男は生きている。


「……くそっ!」


 俺は荷車へ駆け寄った。


「足を引け!」


「抜けないんだ!」


 男の足は、壊れた木箱の下敷きになっていた。


 俺は木箱を押した。


 肩に激痛が走った。


 それでも、木箱は少ししか動かない。


「……リオル!」


「分かってる!」


 リオルが左手を荷車の横木へ押し当てた。


 〈均衡〉。


 荷車にかかる力が、石畳と反対側の支柱へ伝わるように調整される。


 木箱がわずかに浮いた。


「……今だ!」


 俺は男の足を引き抜いた。


 その瞬間、頭上で三度目の異音が響いた。


 鉄枠が落ちる。


「……エルセ!」


 リオルが叫んだ。


「任せて!」


 エルセが両手を上げる。


 落下する鉄枠が、空中で止まった。


 同時に、荷車から滑り落ちかけた木箱も止まる。


 〈保留〉。


 二つの対象の動きが、わずかな時間だけ止まっていた。


「……三秒!」


 エルセが叫ぶ。


「それ以上は無理!」


 俺は男の腕を掴み、荷車の下から引きずり出した。


 リゼが記録を包んだ布を抱え、出口へ走る。


 リオルは荷車の側面に左手を押し当てたまま、歯を食いしばっていた。


「……まだだ! 支柱が持たねえ!」


 荷車の重さが、古い石柱にかかっている。


 石が軋む。


 俺は男を安全な場所へ突き飛ばし、再び荷車へ向かった。


「……セイン!」


 リゼが叫ぶ。


「まだ箱が残ってる!」


 俺は荷車の後ろへ回った。


 そこには、使われていない太い綱があった。


 荷車を固定するためのものだろう。


 俺は綱を掴み、近くの鉄柱へ回した。


 靴の紐を締める時のように、緩まない結び目を作る。


 だが、綱が短い。


「……届かない!」


 俺が叫ぶと、リオルが振り向いた。


「荷車を少し寄せる!」


「無理するな!」


「今しかねえだろ!」


 リオルが左手に力を込めた。


 荷車が石畳を擦り、わずかに動く。


 俺は綱を引いた。


 指が痛む。


 肩も、もう限界だった。


 それでも、何とか鉄柱へ巻きつける。


「……結べた!」


 その瞬間、エルセが叫んだ。


「三秒!」


 止まっていた鉄枠が、再び落ち始めた。


 轟音(ごうおん)が響いた。


 荷車が大きく揺れる。


 綱が張り、鉄柱が軋む。


 俺は反射的に身を伏せた。


 次の瞬間、頭上で何かが砕けた。


 石の破片と木屑が降り注ぐ。


「……セイン!」


 リゼの声が聞こえた。


 俺は床を転がり、壁際へ逃げた。


 目の前で、巨大な鉄枠が石畳へ叩きつけられた。


 衝撃で、搬出室の床が大きく裂ける。


 土埃が舞い上がった。


 何も見えなくなった。


     ◇


「……リゼ!」


 俺は叫んだ。


「どこだ!」


「……ここです!」


 少し離れたところから返事が聞こえた。


 土埃の向こうに、リゼがいた。


 胸に記録を抱え、壁際で身を低くしている。


 その隣にはエルセがいた。


 リオルは荷車の横で膝をついていたが、左手を上げて無事を知らせた。


「……生きてる!」


 俺は息を吐いた。


 だが、すぐに別のことを思い出した。


「……ムラサメさん!」


 振り向いた。


 崩れた鉄枠の向こうに、二つの人影があった。


 ムラサメと係長だ。


 二人とも、まだ立っていた。


 ムラサメは刀を構え、係長は白い紙を指先に挟んでいる。


 その間には、崩れた床と、折れた鉄柱が横たわっていた。


 あれだけの事故が起きたのに、二人はまだ互いを見ていた。


「……続けるか」


 係長が言った。


 ムラサメは答えなかった。


 ただ、ゆっくりと刀を構え直した。


「……お前が退かんのならな」


 その瞬間、また天井が軋んだ。


 まだ崩れる。


 俺は息を呑んだ。


「……ムラサメさん、上!」


 叫ぶより早く、係長が動いた。


 白い紙が一枚、宙へ舞う。


 落下しかけた梁(はり)が、何かに当たって軌道を変えた。


 だが、その反動で別の支柱が折れた。


 今度は、俺たちのいる側へ倒れてくる。


「……っ!」


 ムラサメが踏み込んだ。


 刀が閃く。


 倒れかけた木の支えが切り落とされ、梁の一端が崩れた床へ落ちた。


 重い音が響く。


 ムラサメはそのまま身を翻し、俺たちの前へ立った。


「……全員、外へ出ろ!」


「でも、ムラサメさんが!」


「俺は大丈夫だ!」


 怒鳴るような声だった。


 俺は一瞬、言葉を失った。


 ムラサメが、こんなふうに声を荒らげるところを初めて見た。


 それだけ、状況が危険なのだ。


「……セイン!」


 リゼが俺の腕を掴んだ。


「行きましょう!」


 俺は頷いた。


 リオルとエルセが、商会の男を支えて出口へ向かう。


 リゼは記録を抱えたまま走った。


 俺もその後を追いかけた。


 けれど、最後に一度だけ振り向いた。


 ムラサメは、まだ係長を見ていた。


 係長も、動かなかった。


「……ムラサメ」


 係長が静かに言った。


「今日は、ここまでにしておこう」


「逃げるのか」


「……そう見えるか?」


 係長は崩れた設備を見上げた。


「このまま続ければ、誰かが死ぬ」


 ムラサメは答えなかった。


 係長が続ける。


「……あんたも、そんな結末は望んでいないだろう」


 ムラサメはしばらく黙っていた。


 やがて、刀をわずかに下げた。


「……次は、逃がさん」


 係長は小さく笑った。


「……覚えておく」


 その時、土埃の向こうで何かが動いた。


 係長の姿が、白い紙の向こうへ隠れる。


 次に見えた時には、もうそこにはいなかった。


「……係長!」


 俺は叫んだ。


 返事はなかった。


 ムラサメは追わなかった。


 崩れた天井を見上げ、俺たちの方へ歩いてくる。


 肩から血が流れていた。


 それでも、背筋はまっすぐだった。


「……ムラサメさん」


 俺が駆け寄ると、彼は頷いた。


「怪我は?」


「……俺は大丈夫です。でも、ムラサメさんが……」


「浅い傷だ」


 そう言って、彼は刀を鞘(さや)へ戻した。


 その手は、少しも震えていなかった。


「……係長は?」


 俺が尋ねると、ムラサメは崩れた搬出室を見た。


「逃げた」


「……追わなくていいんですか?」


「今は、こちらが先だ」


 彼は俺の腕に抱えられた帳簿を見た。


「守れたか」


 俺は頷いた。


「……はい」


 ムラサメは少しだけ目を細めた。


「なら、よくやった」


 その言葉に、胸が熱くなった。


 けれど、すぐに思い直した。


 まだ終わっていない。


 俺たちは、ようやく記録を手に入れただけなのだ。


     ◇


 旧染物場を出た時、夜はすっかり更けていた。


 外には警護隊の兵士たちが集まり、救護院から来た職員が怪我人を診ていた。


 コレットが俺たちを見つけ、駆け寄ってきた。


「……セインさん!」


 彼女は俺の顔を見たあと、リオルとエルセ、それからムラサメへ視線を移した。


「……みんな、無事?」


「何とかね」


 俺が答えると、コレットは大きく息を吐いた。


「……よかった」


 その声が、少し震えていた。


 彼女はすぐにムラサメの肩の傷へ気づいた。


「……あっ! 怪我してる!」


「大したことはない」


「駄目だよ、そういうの! ちゃんと診てもらって!」


 ムラサメは一瞬、何を言われたのか分からないような顔をした。


 それから、小さく笑った。


「……分かった」


 コレットが救護の職員を呼びに走る。


 俺はその背中を見送り、ようやく肩の力を抜いた。


「……セイン」


 リゼが声をかけた。


「これ、見てください」


 彼女は布で包んだ帳簿を開いた。


 さっきは確認しきれなかった頁だ。


 そこには、テオの名前と検査結果が記されていた。


 そして、その下に、別の欄があった。


『重篤反応報告:内部受理済』


 俺は息を呑んだ。


「……これ」


 リゼが頷く。


「テオさんが亡くなる前の日付です」


 さらに下には、報告先を示す欄がある。


『会長室回付』


 その横には、ザント商会の正式な管理印。


 そして、回付後の処理として、こう記されていた。


『対外提供保留』


 俺は帳簿を握りしめた。


「……知ってたんだ」


 テオの身体が危険な状態にあることを。


 追加の検査が必要なことを。


 それなのに、商会は記録を出さなかった。


 あの時、グレゴールは何と言った?


 手続きが必要だ。


 機密だから確認できない。


 それを、どんな顔で言っていた?


「……セイン」


 リゼが俺を見た。


「これだけで、すべての責任を証明できるわけではありません。でも……」


「……うん」


 俺は頷いた。


「これなら、追える」


 声が震えていた。


 怒りなのか、悔しさなのか、自分でも分からなかった。


 リオルが隣へ来た。


「……見せろ」


 帳簿を渡すと、彼は黙って頁をめくった。


 しばらくして、口を開いた。


「……ダグが見つけた荷札から、ここまで来たんだな」


「……うん」


 リオルは帳簿を閉じた。


 その顔には、昨日までとは違う表情があった。


 悲しみは消えていない。


 怒りも、消えていない。


 けれど、目はまっすぐ前を向いていた。


「……セイン」


「何?」


「グレゴールを捕まえるぞ」


 俺は頷いた。


「……うん」


 リオルは首を振った。


「違う」


 俺を見た。


「絶対にだ」


 その声には、迷いがなかった。


 俺は帳簿を抱え直した。


 今夜、係長は逃げた。


 ムラサメとの決着もついていない。


 それでも、俺たちは確かに前へ進んだ。


 グレゴールが隠していた記録が、ここにある。


 テオが生きているうちに知りたかった事実も、ダグが命を懸けて追った手がかりも。


 俺は帳簿を抱え、リゼとリオルを見た。


「……カイエンさんのところへ行こう」


 リゼが頷く。


 リオルも、静かに頷いた。


 俺たちは王宮へ向かって歩き出した。


 夜明けを待つつもりはなかった。

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