第九十五話 最後の取引
「……ムラサメさん、あんなに強かったんだな」
王宮へ戻る途中、俺は思わず呟いた。
ムラサメの刀が走るたび、床が砕け、係長の白い紙が宙を舞った。
あれほど速い剣を、俺は見たことがない。
「……違うだろ」
隣を歩いていたリオルが言った。
「何が?」
「ムラサメさんが強えのは、昔から分かってる。俺だって子供の頃から名前を聞いてたくらいだ」
リオルは、固定具に収まった右腕を見下ろした。
「やべえのは、あのムラサメさんと互角にやり合ってた係長の方だろ」
俺は足を止めた。
「……あ」
「あの人が負けるところなんか、俺は想像したこともなかった。それなのに、係長は斬り合って、傷まで負わせたんだぞ」
リオルが苦い顔をした。
「……俺の腕が折れたのも、今なら分かる。あの時、相手になってすらいなかったんだな」
俺は何も言えなかった。
係長が、昔と同じ顔で俺たちに話しかけてきたことを思い出した。
怒鳴っても、鉄棒を振り下ろしても、届かなかった。
「……いつか、あの人とも決着をつけなきゃいけないのかな」
俺が呟くと、リオルは少し考えた。
「……さあな」
それから、俺が抱えている帳簿へ視線を落とした。
「でも、今はこっちだろ」
俺は頷いた。
布に包まれた帳簿は、思っていたより重かった。
テオの名前が書かれている。
ダグが最後に見つけた荷札が、俺たちをここへ導いた。
もう、二人にできることはない。
だから、俺たちがやるしかなかった。
◇
「……これは、ひどいわね」
ティセラが帳簿を閉じた。
夜明け前の第七係には、俺たちのほかにカイエンと警護隊の指揮官が集まっていた。
ムラサメは救護院で傷の手当てを受けている。エルセも、旧染物場で押収した資料の確認に加わっていた。
机の上には、持ち帰った帳簿が広げられている。
原帰属者記録。
受領者検査記録。
そして、搬出と売却に関する精算帳だった。
「まず、これを見て」
ティセラが一つの頁を指さした。
そこには、見覚えのある名前が並んでいた。
『原帰属者 ダグ・ハーラン』
『搬出固有術 〈追跡〉』
『受領者 テオ・ベルク』
俺は息を止めた。
「……やっぱり」
隣でリオルが小さく呟いた。
以前から疑っていた。
ダグから奪われた〈追跡〉と、テオが二百四十万ルクで買った〈追跡〉。
同じ術なのではないかと。
だが、確かめるための記録はずっと隠されていた。
「……同じだったんだ」
俺が言うと、ティセラが頷いた。
「搬出番号と受領番号が一致してる。少なくともこの帳簿では、同一の取引として管理されているわ」
リオルが頁を覗き込んだ。
その下には、さらに別の欄があった。
『原帰属者の譲渡意思 確認なし』
『搬出処理 完了』
『販売額 二百四十万ルク』
リオルの左手が震えた。
「……確認なし、だと?」
俺は頁を見つめた。
ダグは最初から売らないと言っていた。
それなのに術を奪われ、後から異議を取り下げる書類にまで署名させられた。
戻してもらえるかもしれないという、わずかな望みを餌にされて。
「……最初から、全部分かってたんだな」
リオルの声が低くなった。
「売るつもりがないことも、同意してねえことも。分かった上で、持っていきやがった」
ティセラは別の帳簿を開いた。
「そしてテオさんの検査記録には、重篤な反応の危険が記されている。追加検査が必要だという報告も、商会内部で受理されていた」
カイエンが頁を確認した。
「会長室への回付記録もあるな」
「ええ。その後、外部への詳細開示が保留されているわ」
リゼが口を開いた。
「救護院が求めていた情報です。もし、あの時これが届いていたら……」
彼女はそこで言葉を切った。
俺も同じことを考えていた。
だが、テオを診ていた医師の言葉が頭から離れなかった。
記録が届いていても、必ず助けられたとは言えない。
それでも、助けるために必要な情報を隠したことは変わらない。
「……カイエンさん」
俺が顔を上げると、彼は帳簿を閉じた。
「これで、グレゴールを捕まえられますか」
カイエンはすぐには答えなかった。
「不正な固有術搬出の疑いは強くなった。危険性を認識しながら情報を出さなかったことも、調べる必要がある」
「……でも?」
「テオの死亡との因果関係や、ダグを襲わせた直接の指示については、まだ確認すべき点が残る」
俺は歯を食いしばった。
また、まだ、だ。
そう思った時、カイエンが続けた。
「だが、もう商会に自由に取引を続けさせる理由はない」
俺は顔を上げた。
「……え?」
「すでに警護隊へ、関係者の拘束と商会記録の保全を要請している。危険な固有術取引についても、停止範囲を拡大する」
カイエンは精算帳を開いた。
「問題は、その前にグレゴールが何をするかだ」
エルセが一枚の紙を取り出した。
「……今朝、ザント商会から取引先へ通知が出てる」
俺たちは彼女を見た。
「会長本人が、午前中に臨時説明会を開くそうよ。商会の事業は正常だと説明して、契約の継続を確認するつもりみたい」
ティセラが眉を上げた。
「この状況で?」
「そう。昨夜の事故についても、商会は被害者だと主張している」
カイエンが紙を受け取った。
そして、静かに息を吐いた。
「……先手を打つつもりか」
◇
ザント商会の大広間には、朝から大勢の人が集まっていた。
貴族、商人、投資家。
以前、競売会で顔を見た者もいる。
皆、落ち着かない様子で言葉を交わしていた。
その中央に、グレゴール・ザントが立っていた。
昨日までと変わらない、上等な服。
磨き上げられた靴。
穏やかな笑顔。
「……皆様、ご心配には及びません」
グレゴールの声が広間に響いた。
「昨夜、我が商会の保管施設で不幸な事故が発生しました。しかし、商会の主要事業に影響はございません」
彼はゆっくりと人々を見渡した。
「一部で根拠のない噂が広まっているようですが、私どもは王国の発展に貢献してまいりました。固有術の移転技術は、才能を必要とする人々へ新しい選択肢を届けるものです」
聞き覚えのある言葉だった。
競売会でも、同じようなことを言っていた。
希望。
選択肢。
新しい未来。
その言葉の裏で、何人が苦しんだのだろう。
「……本日も、皆様の信頼にお応えしてまいります」
グレゴールが微笑んだ。
拍手が起こりかけた。
俺は広間の扉を開けた。
「……その前に、一つ聞いていいですか」
声が響いた。
人々が一斉に振り向く。
グレゴールの笑顔が、ほんのわずかに固まった。
「……おや」
彼はすぐに表情を戻した。
「王立遺失物管理局のセインさんではありませんか」
その後ろに、リゼ、リオル、ティセラが続く。
さらにカイエンと警護隊の指揮官が入ってきた。
会場がざわついた。
「……これはまた、大勢でいらっしゃいましたな」
グレゴールが笑った。
「何かご用でしょうか。正式なお申し入れでしたら、私どもの窓口で……」
「今日は、窓口じゃなくて、あなたに聞きたいんです」
俺は前へ進んだ。
「……グレゴールさん」
「はい」
「あなたの商会では、売るつもりがない人の固有術も、商品にできるんですか」
広間の空気が変わった。
グレゴールは眉一つ動かさなかった。
「……何のお話でしょう」
「ダグ・ハーランという警護隊員をご存じですか」
「存じておりますよ。以前、当商会の手続きについて申し立てをされた方ですね」
「その人は、〈追跡〉を売っていません」
俺ははっきりと言った。
「売らないと伝えていたのに、術を奪われました」
グレゴールは笑顔を保った。
「それは誤解です。ご本人は後に、申告内容を訂正されております」
その言葉を待っていた。
「……その訂正書のことですね」
俺は一枚の書類を取り出した。
ダグが、術を取り戻すための再審査を求めて署名した書類だ。
「ここに書いてあるのは、商会への異議申し立てを撤回するという内容です」
「ええ。そのとおり」
「でも、固有術を売ることに同意したとは書いてありません」
グレゴールの目が細くなった。
「……何をおっしゃりたいので?」
「商会は『異議を取り下げた』ことを『最初から売るつもりだった』という説明に使っているんです」
俺は書類を掲げた。
「しかも、その署名は術を奪われた後の日付です」
周囲の人々が顔を見合わせた。
グレゴールの笑顔が少しずつ薄くなる。
「……契約の成立には、複数の手続きがございます。一般の方には、なかなか理解が難しいかもしれませんが」
「だったら、教えてください」
俺は一歩近づいた。
「売らないと言った人から、どうやって術を買ったんですか」
グレゴールは答えなかった。
代わりに、ゆっくりとカイエンを見た。
「……ローデル殿。これは王宮の正式な調査なのでしょうか」
カイエンが前へ出た。
「そうだ」
会場が静まり返る。
「ザント商会の固有術搬出と受領者の検査記録について、重大な不一致が確認されている」
「……それは困りましたな」
グレゴールは苦笑した。
「保管施設から持ち出された資料には、管理上の問題があると聞いております。それを無条件に信用されるのは、いかがなものかと」
カイエンは頷いた。
「だから、原本の保全と照合を進めている。関係した作業員の証言も確保した」
「……」
「さらに、商会がこれまで王宮へ提出していた記録との比較も始めている」
グレゴールの指が、衣服の袖を一度だけ擦った。
俺はそれを見逃さなかった。
◇
「……皆様」
グレゴールは会場へ向き直った。
「どうやら、一部の職員による記録管理の不備があったようです。私も大変残念に思っております」
ざわめきが広がる。
「しかし、どうかご安心ください。問題のある取引が確認されれば、商会として責任を持って調査し、必要な補償を検討いたします」
俺は思わず笑いそうになった。
昨日までなら、その言葉に反論する方法が分からなかっただろう。
グレゴールはいつだって、責任を引き受けるような顔をして、実際には何も引き受けなかった。
「……その調査って、誰がするんですか」
俺が尋ねると、彼は笑顔で答えた。
「もちろん、商会の専門部署です」
「テオの体調不良を『異常なし』と記録した部署ですか?」
笑顔が止まった。
「……セインさん」
「その部署が、本人の申告を消したんですよね」
「……お言葉ですが」
「それとも、会長室に報告が上がっていたことも、知らなかったんですか」
グレゴールは黙った。
カイエンが、押収記録の一部を提示した。
個人の病状や私的な情報は伏せられている。
だが、商会が重大な健康上の危険を把握していたことと、その報告が会長室へ回されていた事実は確認できる。
「……この記録の説明を求める」
カイエンが言った。
グレゴールは書類を見つめていた。
しばらくして、ゆっくりと笑った。
「……なるほど」
その笑い方は、今までと少し違っていた。
「皆様は、私にすべての責任を負わせたいわけですな」
「違います」
俺が答えた。
「あなたが何を知っていて、何を命じたのか、明らかにしたいんです」
「……同じことでしょう」
グレゴールの声が低くなった。
「大きな事業には、どうしても問題が起こるものです。すべての取引が完全でなければならないとおっしゃるなら、新しい技術など誰も扱えません」
俺は彼を見た。
「……テオは死にました」
グレゴールは目を細めた。
「……それはお気の毒でした」
「ダグさんも死にました」
「……警護隊員の方ですね。痛ましい事件でした」
どちらも、まるで他人の話だった。
「あなたは、その二人のことを本当に知ってるんですか」
俺が尋ねると、グレゴールはため息をついた。
「……セインさん」
それまでの丁寧な声から、少しずつ温度が消えていく。
「私は毎日、何百人もの人生に関わる決断をしております。そのすべてを、一人ずつ覚えておけと?」
会場が静まった。
「一つの技術を広めるためには、利益も必要です。損失も出ます。時には、取り返しのつかない結果も起こるでしょう」
グレゴールは俺を見た。
「それでも、その技術を必要とする人間がいる限り、商売は続くのですよ」
俺は拳を握った。
「……だから、死んでも仕方ないって言うんですか」
「そうは申しておりません」
彼は薄く笑った。
「ただ、悲しい出来事があったからといって、すべてを止めればよいというものではない、と申し上げているのです」
いつか聞いた言葉と、似ていた。
止めてはいけない。
続けることにも意味がある。
だが、グレゴールがその言葉で守ろうとしているのは、人ではなかった。
「……あなた、昔こう言いましたよね」
俺は彼を見た。
「本人の意思を尊重するのが、ザント商会の方針だって」
競売会で、リオルの〈均衡〉に関する出品を取り下げた時のことだ。
グレゴールは、あの撤回すら自分の商会の宣伝に変えた。
「……ええ。今もそう考えております」
「だったら、ダグさんの意思はどこへ行ったんですか」
俺は一歩近づいた。
「売らないと言った記録がある。商会の内部記録にも、譲渡意思を確認できなかったと書いてある。それでも、あなたの商会は二百四十万ルクで売った」
グレゴールは何も言わなかった。
「本人の意思を尊重するって言いながら、本人が何を言ったかなんて、最初からどうでもよかったんじゃないですか」
会場の奥で、一人の商人が立ち上がった。
「……会長」
グレゴールが振り向く。
「この話は、事実なのですか」
「……もちろん、誤解がございます」
「私は先月、貴商会を通じて固有術の取得契約を結んだ。売り手の同意が確認できていると説明されたからだ」
「ええ、もちろんです」
「その同意が、後から無効だと言われたらどうなる?」
グレゴールの表情が変わった。
「……それは」
「私が支払った金は? 取得した術の権利は? 誰が保証する?」
別の男も声を上げた。
「うちもだ! 取得済みの固有術が違法な搬出品だったら、どう責任を取るつもりだ!」
広間がざわめき始めた。
グレゴールは両手を広げた。
「……皆様、落ち着いてください。個別の取引については、責任を持って……」
「責任を持って?」
最初の商人が声を荒らげた。
「本人が拒否した術まで売っていたなら、お前の説明をどう信用しろと言うんだ!」
グレゴールの頬が、わずかに引きつった。
俺はその光景を見て、気づいた。
この人たちは、ダグのために怒っているわけではない。
テオのためでもない。
自分たちが買ったものの価値や権利が失われることを恐れている。
だが、グレゴールが築いてきた商売は、まさにその信用の上に成り立っていた。
「……落ち着いてください!」
グレゴールの声が、初めて少し大きくなった。
「当商会の資産は十分にございます! 補償が必要であれば、個別にご相談を……!」
「金の問題だけではない!」
誰かが叫んだ。
「お前の商会で買った術は、本当に安全なのか!」
その言葉で、会場が静まり返った。
グレゴールは口を開いた。
けれど、すぐには答えられなかった。
◇
「……ローデル殿」
グレゴールがカイエンへ向き直った。
「このような騒ぎを起こされては、王国の経済にも影響が出ますぞ」
カイエンは冷静だった。
「影響が出ることは承知している」
「当商会は王国の医療事業にも資金を提供しております。取引を停止すれば、困る患者も出るでしょう」
その言葉に、俺は一瞬息を呑んだ。
確かに、商会の金で治療を受けている人もいる。
固有術を売った金で家族を助けた人もいた。
グレゴールがいなくなれば、そうした人たちはどうなるのだろう。
だが、カイエンは首を振った。
「医療支援を受ける人々への対応は、継続できるよう調整している。停止の対象は、問題が確認された固有術取引だ」
「……財源は?」
「王宮と関係機関で確保する。容易ではないが、取引の不正を放置する理由にはならん」
カイエンは一歩前へ出た。
「そもそも、必要な治療や生活支援を、危険な取引の継続と引き換えにしてはならない」
グレゴールが黙った。
俺はその横顔を見つめた。
初めて、この男から言葉がなくなった。
「……会長」
背後から声がした。
商会の代理人だった。
彼は青ざめた顔で、小さな紙を差し出した。
「主要取引先から、契約の履行停止を求める通知が……」
グレゴールが紙を奪った。
ざっと目を通す。
次の瞬間、彼の顔から笑みが消えた。
「……馬鹿な」
代理人が続けた。
「ほかにも、複数の出資者から資金の引き揚げについて照会が来ています」
「……なぜだ」
「皆様、原帰属者の同意確認に問題があるのではないかと……」
グレゴールは紙を握り潰した。
「……そんなもの、調べれば済む話だ!」
怒鳴り声が広間に響いた。
初めて聞く声だった。
いつも穏やかに笑い、人を値踏みしていた男が、今は自分の商売の値段を守るために叫んでいる。
「……調べるんですよ」
俺は言った。
グレゴールが振り向く。
「今度は、あなたの商会が何をしてきたのか、全部」
彼は俺を睨んだ。
「……君は、何も分かっていない」
その声は、もう丁寧ではなかった。
「私が築いたものが、どれほど大きいか。どれほど多くの人間が、この商会に頼っているか」
「……分かってないかもしれません」
俺は答えた。
「でも、ダグさんが売らないと言ったことは分かっています。テオが生きたいと言ったことも、覚えています」
グレゴールの目が細くなった。
「……感傷だな」
「そうかもしれません」
俺は頷いた。
「でも、その二人のことを、あなたは最後まで知らなかった」
グレゴールは何も言わなかった。
◇
大広間の扉が開いた。
警護隊の兵士たちが入ってくる。
先頭には、昨日の証人移送を指揮していた隊長がいた。
「グレゴール・ザント」
隊長の声が響く。
「固有術の不正搬出、証人への脅迫、記録の改変および隠蔽に関する重大な疑いについて、事情を聴く。同行してもらう」
グレゴールの顔が引きつった。
「……何を言っている」
「王宮から正式に要請が出ている」
「……馬鹿な!」
グレゴールはカイエンを見た。
「ローデル殿! これはあまりにも一方的ではありませんか!」
カイエンは動かなかった。
「あなたには説明の機会がある。だが、商会の記録を保全し、関係者の証言を守るため、必要な措置を取る」
「……私は犯罪者ではない!」
「それを判断するための調査だ」
グレゴールは一歩下がった。
その時、彼の背後にいた警護隊員が動いた。
「……失礼します」
男がグレゴールの腕へ手を伸ばす。
グレゴールはそれを振り払った。
「……触るな!」
広間が静まり返った。
グレゴールは自分の声に驚いたように周囲を見た。
誰も拍手しない。
誰も笑わない。
以前の競売会では、彼が一言話すだけで人々が頷き、拍手を送っていた。
今は、誰も動かなかった。
「……私は」
グレゴールが呟いた。
「私は、皆様に利益をもたらしてきたのですよ」
誰も答えなかった。
彼は商人たちを見渡した。
「……これまで、どれほどの機会を提供したと思っているのですか」
最初に立ち上がった商人が、目を逸らした。
ほかの者たちも、黙っている。
グレゴールの顔が歪んだ。
「……金なら、あります」
彼は懐へ手を伸ばしかけた。
隊長が鋭く告げた。
「手を見せろ」
グレゴールは動きを止めた。
「……補償も、損失も、私が引き受けます。ですから、まずは話を……」
「同行してもらう」
隊長は繰り返した。
グレゴールは唇を震わせた。
そして、ゆっくりと両手を下ろした。
◇
警護隊員に囲まれながら、グレゴールが俺の前を通った。
その時、彼が足を止めた。
「……セインさん」
初めて会った時と同じ、丁寧な呼び方だった。
「……はい」
「あなたは、これで勝ったおつもりですか」
俺は何も言わなかった。
グレゴールは薄く笑った。
「固有術は戻りませんよ」
その言葉が、胸に刺さった。
「あなたがどれほど騒いでも、売られたものは元通りにはならない。ダグさんの〈追跡〉も、テオさんの命も」
俺は拳を握った。
「……それに」
グレゴールは顔を近づけた。
「私がいなくなったところで、人が才能を売り買いしたいと思う限り、同じような商売はいくらでも生まれるでしょう」
その言葉を聞いて、俺は一瞬、何も答えられなかった。
確かに、そうかもしれない。
ダグの術を奪ったのはグレゴールの商会だ。
でも、才能に値段をつけ、売ることを望んだ人々もいた。
家族を助けるため、自分から術を手放した人だっている。
グレゴールを捕まえれば、すべて解決するわけではない。
そのことは、俺も分かっていた。
「……そうですね」
俺が答えると、グレゴールは目を細めた。
「……何?」
「ダグさんもテオも、戻ってきません。あなたを捕まえても、二人は生き返らない」
俺は彼を見た。
「でも、だからって、あなたを見逃す理由にはなりません」
グレゴールの笑顔が消えた。
「……あなたがしたことは、なくならないんです」
俺は続けた。
「ダグさんが売らないと言ったことも、テオが死にたくないと言ったことも、あなたの帳簿にはちゃんと残っていました」
グレゴールの顔が歪んだ。
「……私は、そんなことまで記録した覚えはない」
「そうでしょうね」
俺は頷いた。
「あなたが記録したのは、値段の方ですから」
彼は何も言わなかった。
隊長が歩くよう促す。
グレゴールは、もう俺を見なかった。
両側を警護隊員に挟まれ、大広間を出ていく。
彼の靴音だけが、やけに大きく響いていた。
◇
グレゴールが連れていかれたあと、俺はしばらく広間に立っていた。
以前、ここで多くの人が拍手していた。
才能が売られ、値段が吊り上がり、誰かの人生が商品になっていた。
その場所で、今は商人たちが慌ただしく契約の確認を求めている。
グレゴールの名前を呼ぶ者は、もういなかった。
「……セイン」
リオルが近づいてきた。
「……終わったな」
俺は頷きかけて、やめた。
「……グレゴールのことはね」
「ああ」
リオルは俺の隣へ立った。
「……ダグがいたら、何て言ったかな」
俺は少し考えた。
「……多分、まだ調べることがあるって言うんじゃない?」
リオルが鼻で笑った。
「……言いそうだな」
「で、また一人でどこかへ行こうとして」
「俺が止める」
リオルはそう言って、少しだけ笑った。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
「……あいつ、本当に帰ってこねえんだな」
俺は何も言えなかった。
リオルはしばらく黙っていた。
やがて、左手を俺の肩へ置いた。
「……昨日、お前にひどいこと言ったな」
俺は顔を上げた。
「……リオル」
「ダグを助けられなかったの、お前のせいじゃねえって分かってた。でも、どうしても誰かに怒りたかった」
彼は目を伏せた。
「……悪かった」
俺は首を振った。
「……俺も、何もできなくて」
「それは、もういい」
リオルが遮った。
「今から同じこと言い合っても、あいつに怒られるだけだ」
俺は小さく笑った。
「……そうだね」
リオルも笑った。
それから、広間の出口を見た。
「……帰ろうぜ」
「……うん」
俺たちは歩き出した。
◇
王宮へ戻ると、カイエンから正式な報告があった。
ザント商会の固有術搬出と販売に関する業務は、調査が終わるまで停止されることになった。
保管施設と関係する記録は封鎖され、会長室の帳簿も押収された。
グレゴール本人は、警護隊の管理下で取り調べを受ける。
商会に残るほかの事業や、これまでに固有術を売った人々への対応については、別途調整が必要だという。
すべてが終わったわけではない。
それでも、グレゴールが再び競売会の壇上で笑う日は、当分来ないだろう。
「……セイン」
リゼが隣に立った。
「……何?」
「今日は、よく我慢しましたね」
俺は少し笑った。
「……そうかな」
「はい。グレゴールさんに何を言われても、最後まで殴りませんでした」
「……殴りたかったけどね」
「分かっています」
リゼは小さく笑った。
それから、静かに続けた。
「でも、殴らなかったから、あの人は生きています」
俺は顔を上げた。
「……うん」
「そして、これから自分がしたことを説明しなければなりません」
俺は頷いた。
死んでしまえば、もう何も答えられない。
テオも、ダグも。
だからこそ、グレゴールには生きていてもらわなければならない。
まだ聞きたいことが山ほどある。
奪われた固有術は、今どこにあるのか。
ほかにも同じ目に遭った人がいるのか。
あの商会は、どこまで人間を商品として扱ってきたのか。
俺たちは、まだ知らないことだらけだった。
「……リゼ」
「はい」
「明日から、また忙しくなるね」
リゼは俺を見た。
「……そうですね」
少しだけ間を置いて、続けた。
「でも、今日は少し休んでください」
「……うん」
俺は窓の外を見た。
王都の空が、夕焼けに染まり始めている。
昨日まで、あの光景を見るたびに腹が立っていた。
何も変わらずに街が動いていることが、許せなかった。
でも、今日の夕焼けは少し違って見えた。
ダグが守った証言がある。
テオが残した記録がある。
その二つが、グレゴールを止める力になった。
俺は窓辺に手を置いた。
失ったものは戻らない。
それでも、これ以上奪わせないためにできることはある。
遠くで、夕方の鐘が鳴った。
その音を聞きながら、俺はようやく深く息を吐いた。




