第九十三話 許可のない夜
ダグが死んだ翌朝、俺は人を殺しかけた。
警護隊の詰所へ向かう廊下で、昨日ダグを刺した男と鉢合わせたのだ。
灰色の上着は脱がされ、両手には拘束具がはめられていた。左右には警護隊員がつき、取り調べの部屋へ連れていくところだった。
男は俺を見ると、わずかに口元を緩めた。
「……昨日の」
それだけだった。
謝罪も、言い訳もない。
目の前の男が、ダグの脇腹に刃を突き立てた。
そう思った瞬間、血に濡れた上着も、俺の腕を掴んだダグの指も、あの冷たい石畳も、何もかもが頭の中に戻ってきた。
気づくと、男の襟元を掴んでいた。
「……お前」
「セインさん! 離してください!」
警護隊員が叫ぶ。
男は抵抗しなかった。
「ダグさんが、お前に何をしたっていうんだよ!」
男は俺を見たまま答えた。
「仕事を邪魔された」
拳を振り上げた。
その瞬間、後ろから腕を掴まれる。
「やめろ、セイン!」
リオルだった。
「離せ!」
「やめろって言ってんだ!」
「こいつがダグさんを!」
「知ってる!」
リオルの怒鳴り声に、俺は動きを止めた。
男は警護隊員に引き離され、廊下の奥へ連れていかれた。
「……何やってんだよ」
リオルが低い声で言った。
「お前があいつを殴って、それで何が変わる?」
「……分かんないよ」
「分かんねえなら、やるな」
「じゃあ、どうすればよかったんだよ!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
「昨日からずっと考えてるんだ。ダグさんを助けられなかったことも、テオを助けられなかったことも。でも、どれだけ考えたって二人は戻らないんだよ!」
リオルは黙っていた。
やがて、左手を強く握りしめた。
「……俺だって、殺してやりてえよ」
顔を上げると、リオルの目は充血していた。
「でも、今あいつを殺したら、誰の命令で動いたのか聞き出せなくなる。ダグが守った証言も、あいつが残した手がかりも、無駄になるだろ」
「……手がかり?」
「ああ。昨日の荷札だ」
ダグが倒れる直前、襲撃者の上着から落ちた金属板。
「あいつが最後に見てたものだ。カイエンが確認させてくれるらしい」
リオルは俺の腕を離した。
「……来いよ」
俺が動かずにいると、彼は一度だけ振り向いた。
「俺はまだ、お前を許したわけじゃねえからな」
昨日、ダグを守れなかったことを言っているのだろう。
俺は何も答えられなかった。
◇
「……第三搬出路の管理札ね」
ティセラが、机の上に置かれた金属板を持ち上げた。
『三―四一七』
表には古い番号が刻まれ、裏側には新しい管理印が重ねられている。
「もともとは王宮河岸管理課の形式よ。でも、この印は最近のものね」
隣に立つリゼが、金属板を覗き込んだ。
「古い刻印が削られています。〈空白視〉でも欠けた跡が見えますが、元の文字までは分かりません」
「……今も使ってる場所があるのかな」
「使っているとしたら、管理記録が残っているはずよ。ただ、保全院の管轄なのよね」
ティセラがそう言った時、扉が三度叩かれた。
「……入っていい?」
聞き覚えのある声だった。
顔を上げると、扉の向こうにエルセが立っていた。
「……エルセ?」
思わず椅子から立ち上がった。
商会の事件が本格化してから、エルセとはほとんど顔を合わせていなかった。
保全院に戻って何かを調べているとは聞いていたが、詳しい話は知らない。こちらも次々に起こる事件に追われ、いつの間にか連絡さえ取らなくなっていた。
「……久しぶり、セイン」
エルセはそう言って、抱えていた書類の束を机へ置いた。
以前と変わらない口調だったが、顔色はあまりよくなかった。
「……今まで、何してたんだよ」
尋ねると、エルセは少し目を伏せた。
「保全院にいた。係長の正体が明らかになってから、あちらの記録がどう扱われているのか、ずっと調べていたんだ」
「……ずっと?」
「ああ。セヴァンの件もある。係長があの立場で何をしていたのか、保全院の中に残らなければ見えないものがあると思った」
彼女は自分の手元へ目を落とした。
「でも、思っていた以上に難しかった。関係する記録が複数の部署に分かれているうえ、閲覧の理由を求められるものも多い。誰が味方なのかも分からなかった」
ティセラが腕を組んだ。
「それで、一人で調べてたわけ?」
「……そうだ」
「昔のセインみたいなことするのね、あなたも」
エルセは苦笑しなかった。
「……否定できないな」
俺は彼女を見た。
「でも、連絡くらいしてくれてもよかっただろ」
「ああ」
返事は早かった。
「本当に、そう思う」
エルセは俺から目を逸らさなかった。
「下手に動いて、保全院の記録を調べられなくなるのが怖かった。確かなものを持って帰りたかったんだ。けれど、その間に人が死んで……」
彼女はそこで言葉を切った。
「……今朝、ダグのことを知った」
俺は何も言えなかった。
「私は中で記録を追っていた。セインたちは外で人を守っていた。そのことを、きちんと考えていなかった」
エルセは唇を噛んだ。
「ごめんなさい」
謝られても、どう答えればいいのか分からなかった。
責めたい気持ちがないわけではない。
でも、俺だってエルセが保全院で何をしているのか、もっと早く確かめるべきだった。
「……それで、今日はどうしたの?」
リゼが尋ねた。
エルセは頷き、机の上の荷札を見た。
「今朝、警護隊から保全院へ押収品の照会が来た。この番号を見て、私が調べていた記録とつながったんだ」
彼女は持参した書類を広げた。
「三―四一七。北門旧染物場の補修機材搬出記録に、同じ番号がある」
ティセラの目が鋭くなった。
「……北門旧染物場?」
「そう。しかも、今夜まで設備の使用許可が出ている」
「……今夜?」
「名目は古い帳簿と検査器材の処分。だが、処分対象の一覧が付いていない」
ティセラが書類を引き寄せた。
「ちょっと待って。原帰属者記録も処分されるんじゃないでしょうね」
「その可能性がある」
エルセはもう一枚の紙を取り出した。
「それと、作業員が二人、退場確認のないまま残っている。施設の管理者とも連絡が取れない」
「……二人とも、まだ中にいるかもしれないってこと?」
「しかも保全院側の帳簿では、作業完了扱い」
俺は息を呑んだ。
ティセラが机を叩く。
「最悪ね。記録を消されるだけでも困るのに、人まで口封じされかねないじゃない!」
俺は金属板を見た。
ダグが最後に見つけた手がかり。
あいつが生きていれば、番号だけではなく、傷や汚れから何か別のことも読み取ったかもしれない。
けれど、もう聞けない。
「……エルセ」
俺が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「今度は、一緒に来てくれる?」
「もちろん」
エルセは迷わなかった。
「最初から、そのつもりで来た」
そして、机の上の書類を揃えた。
「保全院の内側で調べられることは調べた。今度は、私自身が確かめる番だ」
俺は頷き、荷札を握った。
「……カイエンさんのところへ行こう」
◇
「立ち入りは認められん」
カイエンは、俺たちの話を聞き終えるとそう答えた。
「施設には保全院の封鎖指定がかかっている。王宮側が独断で立ち入れば、押収した資料の証拠能力が争われる可能性がある」
「でも、今夜処分されるんですよ!」
「だから緊急照会を出した。周辺には警護隊も配置する」
「中に人が残ってるかもしれないんです!」
俺が言うと、カイエンは頷いた。
「その件も確認させている。だが、君たちを十分な準備もなく送り込み、さらに犠牲者が出たらどうする?」
俺は口を閉じた。
その言い分が間違っていないことくらい分かる。
カイエンは何もしていないわけではない。昨日だって、できる限りのことをしていた。
それでもダグは死んだ。
一昨日はテオが死んだ。
「……カイエンさん」
俺は机の上に置かれた書類を見た。
「今夜あそこで人が死んだら、明日の朝、誰が責任を取るんですか」
カイエンの表情が変わった。
「……セイン」
「また調査をして、報告書を書いて、仕方なかったって言うんですか」
言ってから、自分でもひどいことを口にしたと思った。
けれど、謝る気にはなれなかった。
カイエンはしばらく黙っていた。
「……私は、無責任な命令を出すことはできん」
「分かりました」
俺は顔を上げた。
「だったら、命令しないでください」
「……何?」
「俺が、自分で行きます」
隣でリゼが息を呑んだ。
カイエンの目が鋭くなる。
「王宮の指示に背くつもりか」
「はい」
「第七係の仕事を続けられなくなるかもしれんぞ」
胸が痛んだ。
あの小さな部屋も、仲間たちと過ごした時間も、俺にとっては大切なものだ。
失いたくない。
それでも、今日の夜まで生きていられるか分からない人間がいる。
「……俺、考えてから動くようになって、少しは成長したつもりでした」
カイエンは黙って聞いていた。
「でも、考えた結果が『明日でいい』だったら、何にもならないんですね」
俺は一度、頭を下げた。
「間違っていたら責任を取ります。だから、今は行かせてください」
「……許可はできん」
「はい」
「だが、周辺住民の避難と火災への備えは進めている。施設の外周警備も続ける」
カイエンは俺を見た。
「君が何をしようとしているか、聞かなかったことにはできない」
「……分かっています」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
調査室を出ると、リゼが俺の隣へ並んだ。
「……勝手に決めましたね」
「……ごめん」
「謝罪ではありません」
リゼは俺を見た。
「私も行くと決めています。でも、次は先に相談してください」
その言い方が、少し怒っているように聞こえた。
俺は頷いた。
「……うん。次はちゃんと話す」
「絶対ですよ」
彼女はそう言って、先に歩き出した。
◇
王宮の門を出ると、リオルが待っていた。
「……聞いたぞ。勝手に行くんだって?」
「……うん」
「馬鹿じゃねえのか」
「そうかも」
「そうかも、じゃねえよ!」
リオルは左手で俺の胸元を掴んだ。
「昨日、ダグが死んだばっかりだぞ! お前まで死んだら、どうすんだよ!」
「……俺だって怖いよ」
声が震えた。
「でも、ダグさんが昨日あそこにいなかったら、あの女の人も殺されてたかもしれない」
「だからって、お前まで同じことをする必要はねえだろ!」
「同じことにはしない!」
俺はリオルの手を掴んだ。
「一人で突っ込むつもりはない。危険な場所も、逃げ道も調べる。助けを呼ぶ。でも、今夜まで待ったら間に合わないかもしれない人がいるんだ!」
リオルは唇を噛んだ。
「……俺は、もう誰も失いたくねえんだよ」
「……俺もだよ」
しばらく、互いに黙っていた。
やがてリオルが胸元から手を離した。
「……俺も行く」
「リオル」
「賛成したわけじゃねえ。お前がまた勝手なことをしたら、その場で引きずって帰るからな」
「……右腕、大丈夫なの?」
「折れてるに決まってんだろ。左手で引きずる」
俺は思わず笑いそうになった。
けれど、リオルは笑わなかった。
北門へ向かう途中、コレットが荷車を引いて待っていた。
救護院から借りてきたという布、水、乾いた食料が積まれている。
「ねえねえ、セインさん。中に入るのは任せるから、怪我した人はこっちに連れてきてね」
「……コレット」
「私だって考えたんだよ。何をしたら役に立てるか」
彼女は笑ったが、すぐに真面目な顔になった。
「……帰ってきてね」
その言葉に、胸が締めつけられた。
俺は頷いた。
「……帰ってくる」
コレットは俺の顔をじっと見つめていた。
「約束だからね」
◇
北門旧染物場へ着いた時には、夜の鐘が鳴り始めていた。
建物の裏手には、古い荷揚げ台と、太い鎖で吊られた搬出設備が残っている。
今夜はその奥から、低い振動音が聞こえていた。
「……稼働してる」
エルセが設備を見上げた。
「しかも、停止済みのはずの系統だ」
正門は閉ざされ、見張りの姿もない。
だが、二階の窓から人影が見えた。
誰かが内側からガラスを叩いている。
「……人がいる!」
俺が叫ぶと、リゼが門の脇にある古い案内板を指さした。
「セイン、ここを見てください」
配置図の一部が後から貼られた紙で覆われている。
「下の表示が削られています。以前は別の通路があったみたいです」
リオルが図を覗き込んだ。
「……水路沿いの地下通路か。こっちから回れるかもしれねえ」
俺たちは建物の裏へ向かった。
古い石壁の陰に、狭い階段が見つかった。
地下通路の先には、閂のかかった鉄扉がある。向こう側から男の声が聞こえた。
「誰か! 助けてくれ!」
俺は落ちていた鉄棒を拾い、扉の脇に残る古い木枠へ差し込んだ。
「リオル、手伝って!」
「ああ!」
リオルが左手で棒を押す。俺も反対側から力をかけると、木が大きく軋んだ。
「……くそっ!」
もう一度力を込める。
古い木枠が割れ、扉が少し開いた。
その隙間へ鉄棒を差し直し、二人で押し広げる。
扉の向こうには、煤で顔を汚した作業員が二人いた。
「……助かった!」
二人は俺たちを見るなり、膝から崩れ落ちた。
「商会の人間が、急に帳簿や検査資料を運び始めたんです! 設備を止めろと言ったら、ここへ閉じ込められて……」
「何を運んでたんですか?」
「詳しくは分かりません。でも、荷箱に『原帰属者』と書いてありました!」
俺はリゼを見た。
彼女も頷く。
テオが知りたがっていた記録だ。
その時、奥の設備から鈍い音が響いた。
ごん。
続いて、二度。
三度。
そして、四度目。
作業員の顔色が変わった。
「……まずい! 停止装置が壊れてるんです! あの音が続いたら、鎖が外れるかもしれない!」
以前、古い荷揚げ機で聞いた異常音と同じだった。
「リオル、二人を外へ!」
「分かった。エルセ、手を貸せ!」
「ああ。設備の方も確認する」
エルセは壁の向こうから伝わる振動に目を向けた。
「〈保留〉で一時的に動きを止めることはできる。だが、三秒しか持たない。停止装置そのものを直さなければ危険だ」
「だったら、まず人を逃がそう!」
俺が言うと、二人は頷いた。
リオルとエルセが作業員を支えて地下通路へ戻る。
俺とリゼは、原帰属者記録が運ばれているという上階へ向かった。
◇
地上の搬出室には、大きな荷車が置かれていた。
積まれた木箱の一つに、『原帰属者記録』という文字が見える。
俺は思わず足を止めた。
「……あった」
その声に、商会の男たちが振り向いた。
「何だ、お前ら!」
「その荷物、どこへ運ぶつもりだ!」
俺が叫ぶと、一人が荷車へ飛び乗った。
「構うな! 出せ!」
別の男が短剣を抜く。
俺が身を沈めて避けると、背後から鋭い声が響いた。
「動くな」
振り向くと、搬出室の入口に男が立っていた。
長い刀を腰に差し、静かな目でこちらを見ている。
「……ムラサメさん!」
俺が声を上げると、男たちは一斉に動きを止めた。
ムラサメはゆっくりと歩み寄り、短剣を持った男へ告げた。
「捨てろ」
男は顔を引きつらせ、すぐに刃を落とした。
「……カイエンから連絡を受けた」
ムラサメが言った。
「外周の警備は任せてきた。セイン、怪我はないか」
「……大丈夫です!」
「そうか。なら、荷を確かめろ」
俺は胸を撫で下ろした。
この人が来てくれた。
それだけで、ようやく勝てるかもしれないと思えた。
その時だった。
搬出室の奥から、足音が聞こえた。
不思議なことに、最初に反応したのは商会の男たちだった。
荷車に飛び乗っていた男が、手綱を引く。
「おい、何をしてる! 早く出せ!」
「……だ、駄目だ」
「何?」
「馬が、進まないんだよ!」
馬は鼻を鳴らし、必死に前へ出ようとしていた。蹄が石畳を叩き、荷車の車輪が軋む。
だが、進まない。
何もないはずの通路の途中で、見えない壁に押し返されているようだった。
「……何だ、これ」
俺が呟いた時、白いものが足元を滑った。
一枚の紙だった。
何も書かれていない、ただの白い紙。
それが石畳の上で止まった途端、馬が悲鳴のようにいなないた。
「……セイン、下がれ」
ムラサメの声だった。
振り向くと、彼はすでに刀へ手をかけていた。
倉庫街で大勢の武装した男を相手にした時でさえ、ほとんど表情を変えなかった人が、俺たちを急がせている。
「……ムラサメさん?」
「早くしろ」
俺はリゼの腕を掴み、後ろへ下がった。
そして、足音の主が姿を現した。
「……困ったな」
聞き覚えのある声だった。
「まだ処分を始めるなと、伝えておいたはずなんだが」
薄暗い通路から、一人の男が歩いてくる。
見慣れた外套。
少しだけ癖のある立ち方。
白い紙を指先で揃える仕草まで、俺はよく知っていた。
何度も見てきた。
第七係の机で。
仕事を終えた夕方に。
俺たちが持ち帰った書類を、面倒くさそうに確かめていた時に。
「…………」
声が出なかった。
喉の奥が塞がったようだった。
間違えるはずがない。
けれど、頭がそれを認めようとしなかった。
「……係、長?」
ようやく声になった。
男がこちらを向いた。
「……セインか」
その言い方まで、昔と同じだった。
驚いた様子も、気まずそうな様子もない。
「ずいぶん厄介な場所に来たな」
係長はそう言って俺の顔を見た。
次にリゼへ視線を移す。
「リゼも一緒か」
まるで、仕事を終えて第七係へ帰ってきた俺たちに声をかけるようだった。
その瞬間、頭の中に別の光景が蘇った。
水底街の保管庫。
折れたリオルの右腕。
床に倒れたエルセとセヴァン。
そして、何もできずに立ち尽くしていた俺。
あの時、目の前の男は仲間を傷つけ、セヴァンを連れていった。
それなのに。
「……何で」
自分の声が震えた。
「何で、あんたがここにいるんだよ」
係長は答えなかった。
荷車に積まれた木箱を見ている。
その視線が、ひどく気に障った。
「聞いてるんだよ!」
係長はようやくこちらを見た。
「セイン。そこから離れろ」
たった一言だった。
その言葉で、胸の奥に溜まっていたものが破裂した。
「……ふざけるな!」
俺は一歩踏み出した。
「今さら、何であんたの言うことを聞かなきゃいけないんだよ!」
「セイン!」
リゼが止めようとしたが、振り払ってしまった。
「リオルの腕を折っただろ! エルセを倒して、セヴァンを連れていっただろ! 俺たちがどれだけ探したと思ってるんだ!」
係長の表情は変わらなかった。
それが許せなかった。
「何か言えよ!」
「……あの時のことか」
係長が静かに答えた。
「お前たちが怒るのは当然だ。だが、ここで話すつもりはない」
「……は?」
「今は退け。お前たちが巻き込まれる必要はない」
俺は近くに落ちていた鉄棒を掴んだ。
「……セイン、駄目!」
リゼの声が聞こえた。
こんなもので係長に勝てるはずがない。
分かっていた。
それでも身体が動いた。
「ふざけるなあっ!」
鉄棒を振り上げ、係長へ向かって走った。
係長は動かなかった。
俺が振り下ろした鉄棒は、係長の顔まであと少しというところで止まった。
何かに当たった感触はない。
ただ、そこから先へ進まない。
「……っ!」
力を込める。
だが、びくともしなかった。
係長の足元には、いつの間にか別の白い紙が落ちていた。
「……やめろ、セイン」
係長が言った。
「お前と戦うために来たんじゃない」
「だったら、何のために来たんだよ!」
係長は背後の荷車へ目を向けた。
「……あれを回収する」
「……記録を?」
「ああ」
「……あの中には、テオのことも、ダグさんのことも書いてあるかもしれないんだぞ!」
係長の目が、ほんのわずかに動いた。
「……ダグ?」
「死んだよ」
俺は唇を噛んだ。
「昨日、殺されたんだ。グレゴールの手下に。テオも死んだ。あいつらが記録を隠して、必要な治療も受けられないまま……」
係長は黙っていた。
「……もう、誰にも渡さない」
鉄棒を握り直す。
「王宮だろうが、保全院だろうが、あんただろうが関係ない!」
怒鳴った拍子に、目の奥が熱くなった。
「みんな、何かを守るためだって言って、人を後回しにする! その間に人が死ぬんだよ!」
係長は何も言わなかった。
「……頼むから」
言葉が喉に引っかかった。
「頼むから、もう邪魔しないでくれよ……!」
初めて、係長の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
何か言いかけたように見えたが、結局その口は開かなかった。
「……セイン」
背後から、低い声がした。
ムラサメだった。
「そこを退け」
「……でも!」
「いいから退け」
有無を言わせない声だった。
「その男は、お前の相手じゃない」
否定したかった。
けれど、水底街での光景が頭から離れなかった。
俺が今どれだけ怒っても、目の前の男に届かないことだけは分かっていた。
鉄棒を地面へ落とす。
乾いた音が響いた。
リゼが俺の腕を掴んだ。
今度は、振り払わなかった。
◇
ムラサメが係長の前へ出た。
背丈はそれほど違わないが、ムラサメには長い年月を戦場で過ごしてきた者の落ち着きがある。係長はそれよりずっと若いはずなのに、二人の間に立つと、どちらが優位なのか分からなかった。
係長が先に口を開いた。
「……ムラサメ・カナタか」
「ああ」
「王宮が動いたとは聞いていたが、あんたが来るとは思わなかった」
係長の視線が荷車へ移る。
「そこを通してもらいたい。商会に任せておけないものがある」
「なら、王宮へ出せ」
「……それはできない」
「そうか」
ムラサメはゆっくりと刀の柄に手を置いた。
「なら、ここで止める」
係長が小さく息を吐いた。
「……話し合いでは済まないか」
「俺も無駄な刃傷沙汰は好まん。だが、王宮の調査を妨げるなら、通すわけにはいかん」
「……困ったな」
係長はそう呟いた。
「できれば、あんたとは戦いたくない」
「だったら退け」
二人はしばらく、互いを見つめていた。
その時、ムラサメの視線が係長の足元へ落ちた。
係長は右足を半歩引き、身体の向きを変えている。
ただ、それだけだった。
けれど、ムラサメの指が刀の柄を握り直したのを、俺は見た。
衣服の隙間から、首元の古い刀傷が覗いている。
「……どうした?」
係長が尋ねた。
ムラサメは答えなかった。
代わりに、ゆっくりと刀を抜いた。
刃が灯りを受け、白く光る。
係長の目が細くなった。
「……なるほど。そこまでか」
ムラサメが刀を構える。
「最後に言う。退け」
係長は指先の白い紙を手放した。
紙が宙を舞う。
その一枚が石畳に触れるより早く、ムラサメが動いた。
俺には、刀を振り上げるところが見えなかった。
次の瞬間には、刃が係長の喉元へ迫っていた。
係長の身体がわずかに横へずれる。
刃が外套を裂いた。
布が舞う。
だが、ムラサメの足は止まらなかった。
踏み込みを変え、返す刃を横へ走らせる。
今度は、係長の指先に白い紙があった。
紙の端が、刀の行く手に重なる。
鈍い音が響いた。
刃が一瞬止まる。
しかし、ムラサメは力で押し切ろうとはしなかった。刀の向きを変え、わずかに身体を沈める。
その動きを、係長が追った。
二人の距離が急に縮まり、何かがぶつかる音がした。
気づくと、ムラサメは元の位置から数歩離れた場所に立っていた。
係長もまた、荷車の手前まで下がっている。
ムラサメの肩口から、細く切れた布が垂れていた。
一方、係長の外套は胸元まで大きく裂けていた。
どちらも血は流していない。
それでも、俺は息を呑んだ。
ムラサメの刀が届いた。
そして、係長もまた、ムラサメの身体に触れるところまで踏み込んだのだ。
「……なるほどな」
ムラサメが呟いた。
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「面白い」
係長は笑わなかった。
指先で裂けた外套を確かめ、静かに息を吐いた。
「……王国最強という評判は、誇張ではなかったらしい」
「評判で剣は振れん」
ムラサメが刀を構え直す。
「お前も、ずいぶん妙な技を使う」
「……そう言ってもらえるなら光栄だ」
係長の足が動いた。
その瞬間、ムラサメの目つきが変わった。
ほんのわずか、呼吸が乱れる。
俺には理由が分からなかった。
けれど、ムラサメは係長の足運びを、何か確かめるように見つめていた。
「……お前、その構えは」
係長が動きを止める。
「……何だ?」
ムラサメは答えなかった。
代わりに、刀をほんの少し下げた。
次の瞬間、係長の足元から白い紙が跳ね上がった。
ムラサメも同時に踏み込む。
俺は反射的にリゼを庇った。
二人の間から凄まじい音が響き、近くの木箱が倒れた。
荷車の馬が暴れ、商会の男たちが悲鳴を上げる。
「セイン!」
リゼが俺の腕を引いた。
俺たちは壁際へ転がるように逃げた。
そこへ、ムラサメの声が飛んできた。
「セイン! 荷を押さえろ!」
「……はい!」
「中身を一つも失うな!」
俺は立ち上がった。
係長が何のためにここへ来たのか、まだ分からない。
だが、記録を奪わせるわけにはいかなかった。
リゼと一緒に荷車へ向かう。
その背後で、刀の音が続いていた。
一度、二度と刃が振るわれ、白い紙が宙を舞う。
速すぎて、もう目で追えない。
振り返った一瞬、二人の姿が見えた。
ムラサメの刀を、係長が白い紙の向こうで受け止めていた。
どちらも、もう笑っていない。
水底街で俺たちを圧倒した係長は、あの時、本気で戦う相手などいなかったのだ。
そして今、王国最強の剣士が、その男を前にして一歩も退いていない。
搬出設備の奥で、重い鎖が軋んだ。
ごん、と鈍い音が響く。
俺は荷車の木箱へ手を伸ばした。
その時、背後から係長の声がした。
「……ムラサメ」
静かな声だった。
「次は、止められないぞ」
ムラサメが答える。
「止めてみせろ」
直後、搬出室の灯りが一斉に揺れた。




