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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第四章 才能の値札

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第九十三話 許可のない夜

 

 ダグが死んだ翌朝、俺は人を殺しかけた。


 警護隊の詰所へ向かう廊下で、昨日ダグを刺した男と鉢合わせたのだ。


 灰色の上着は脱がされ、両手には拘束具がはめられていた。左右には警護隊員がつき、取り調べの部屋へ連れていくところだった。


 男は俺を見ると、わずかに口元を緩めた。


「……昨日の」


 それだけだった。


 謝罪も、言い訳もない。


 目の前の男が、ダグの脇腹に刃を突き立てた。


 そう思った瞬間、血に濡れた上着も、俺の腕を掴んだダグの指も、あの冷たい石畳も、何もかもが頭の中に戻ってきた。


 気づくと、男の襟元を掴んでいた。


「……お前」


「セインさん! 離してください!」


 警護隊員が叫ぶ。


 男は抵抗しなかった。


「ダグさんが、お前に何をしたっていうんだよ!」


 男は俺を見たまま答えた。


「仕事を邪魔された」


 拳を振り上げた。


 その瞬間、後ろから腕を掴まれる。


「やめろ、セイン!」


 リオルだった。


「離せ!」


「やめろって言ってんだ!」


「こいつがダグさんを!」


「知ってる!」


 リオルの怒鳴り声に、俺は動きを止めた。


 男は警護隊員に引き離され、廊下の奥へ連れていかれた。


「……何やってんだよ」


 リオルが低い声で言った。


「お前があいつを殴って、それで何が変わる?」


「……分かんないよ」


「分かんねえなら、やるな」


「じゃあ、どうすればよかったんだよ!」


 自分でも驚くほど大きな声だった。


「昨日からずっと考えてるんだ。ダグさんを助けられなかったことも、テオを助けられなかったことも。でも、どれだけ考えたって二人は戻らないんだよ!」


 リオルは黙っていた。


 やがて、左手を強く握りしめた。


「……俺だって、殺してやりてえよ」


 顔を上げると、リオルの目は充血していた。


「でも、今あいつを殺したら、誰の命令で動いたのか聞き出せなくなる。ダグが守った証言も、あいつが残した手がかりも、無駄になるだろ」


「……手がかり?」


「ああ。昨日の荷札だ」


 ダグが倒れる直前、襲撃者の上着から落ちた金属板。


「あいつが最後に見てたものだ。カイエンが確認させてくれるらしい」


 リオルは俺の腕を離した。


「……来いよ」


 俺が動かずにいると、彼は一度だけ振り向いた。


「俺はまだ、お前を許したわけじゃねえからな」


 昨日、ダグを守れなかったことを言っているのだろう。


 俺は何も答えられなかった。


     ◇


「……第三搬出路の管理札ね」


 ティセラが、机の上に置かれた金属板を持ち上げた。


『三―四一七』


 表には古い番号が刻まれ、裏側には新しい管理印が重ねられている。


「もともとは王宮河岸(かし)管理課の形式よ。でも、この印は最近のものね」


 隣に立つリゼが、金属板を覗き込んだ。


「古い刻印が削られています。〈空白視〉でも欠けた跡が見えますが、元の文字までは分かりません」


「……今も使ってる場所があるのかな」


「使っているとしたら、管理記録が残っているはずよ。ただ、保全院の管轄なのよね」


 ティセラがそう言った時、扉が三度叩かれた。


「……入っていい?」


 聞き覚えのある声だった。


 顔を上げると、扉の向こうにエルセが立っていた。


「……エルセ?」


 思わず椅子から立ち上がった。


 商会の事件が本格化してから、エルセとはほとんど顔を合わせていなかった。


 保全院に戻って何かを調べているとは聞いていたが、詳しい話は知らない。こちらも次々に起こる事件に追われ、いつの間にか連絡さえ取らなくなっていた。


「……久しぶり、セイン」


 エルセはそう言って、抱えていた書類の束を机へ置いた。


 以前と変わらない口調だったが、顔色はあまりよくなかった。


「……今まで、何してたんだよ」


 尋ねると、エルセは少し目を伏せた。


「保全院にいた。係長の正体が明らかになってから、あちらの記録がどう扱われているのか、ずっと調べていたんだ」


「……ずっと?」


「ああ。セヴァンの件もある。係長があの立場で何をしていたのか、保全院の中に残らなければ見えないものがあると思った」


 彼女は自分の手元へ目を落とした。


「でも、思っていた以上に難しかった。関係する記録が複数の部署に分かれているうえ、閲覧の理由を求められるものも多い。誰が味方なのかも分からなかった」


 ティセラが腕を組んだ。


「それで、一人で調べてたわけ?」


「……そうだ」


「昔のセインみたいなことするのね、あなたも」


 エルセは苦笑しなかった。


「……否定できないな」


 俺は彼女を見た。


「でも、連絡くらいしてくれてもよかっただろ」


「ああ」


 返事は早かった。


「本当に、そう思う」


 エルセは俺から目を逸らさなかった。


「下手に動いて、保全院の記録を調べられなくなるのが怖かった。確かなものを持って帰りたかったんだ。けれど、その間に人が死んで……」


 彼女はそこで言葉を切った。


「……今朝、ダグのことを知った」


 俺は何も言えなかった。


「私は中で記録を追っていた。セインたちは外で人を守っていた。そのことを、きちんと考えていなかった」


 エルセは唇を噛んだ。


「ごめんなさい」


 謝られても、どう答えればいいのか分からなかった。


 責めたい気持ちがないわけではない。


 でも、俺だってエルセが保全院で何をしているのか、もっと早く確かめるべきだった。


「……それで、今日はどうしたの?」


 リゼが尋ねた。


 エルセは頷き、机の上の荷札を見た。


「今朝、警護隊から保全院へ押収品の照会が来た。この番号を見て、私が調べていた記録とつながったんだ」


 彼女は持参した書類を広げた。


「三―四一七。北門旧染物場の補修機材搬出記録に、同じ番号がある」


 ティセラの目が鋭くなった。


「……北門旧染物場?」


「そう。しかも、今夜まで設備の使用許可が出ている」


「……今夜?」


「名目は古い帳簿と検査器材の処分。だが、処分対象の一覧が付いていない」


 ティセラが書類を引き寄せた。


「ちょっと待って。原帰属者記録も処分されるんじゃないでしょうね」


「その可能性がある」


 エルセはもう一枚の紙を取り出した。


「それと、作業員が二人、退場確認のないまま残っている。施設の管理者とも連絡が取れない」


「……二人とも、まだ中にいるかもしれないってこと?」


「しかも保全院側の帳簿では、作業完了扱い」


 俺は息を呑んだ。


 ティセラが机を叩く。


「最悪ね。記録を消されるだけでも困るのに、人まで口封じされかねないじゃない!」


 俺は金属板を見た。


 ダグが最後に見つけた手がかり。


 あいつが生きていれば、番号だけではなく、傷や汚れから何か別のことも読み取ったかもしれない。


 けれど、もう聞けない。


「……エルセ」


 俺が呼ぶと、彼女は顔を上げた。


「今度は、一緒に来てくれる?」


「もちろん」


 エルセは迷わなかった。


「最初から、そのつもりで来た」


 そして、机の上の書類を揃えた。


「保全院の内側で調べられることは調べた。今度は、私自身が確かめる番だ」


 俺は頷き、荷札を握った。


「……カイエンさんのところへ行こう」


     ◇


「立ち入りは認められん」


 カイエンは、俺たちの話を聞き終えるとそう答えた。


「施設には保全院の封鎖指定がかかっている。王宮側が独断で立ち入れば、押収した資料の証拠能力が争われる可能性がある」


「でも、今夜処分されるんですよ!」


「だから緊急照会を出した。周辺には警護隊も配置する」


「中に人が残ってるかもしれないんです!」


 俺が言うと、カイエンは頷いた。


「その件も確認させている。だが、君たちを十分な準備もなく送り込み、さらに犠牲者が出たらどうする?」


 俺は口を閉じた。


 その言い分が間違っていないことくらい分かる。


 カイエンは何もしていないわけではない。昨日だって、できる限りのことをしていた。


 それでもダグは死んだ。


 一昨日はテオが死んだ。


「……カイエンさん」


 俺は机の上に置かれた書類を見た。


「今夜あそこで人が死んだら、明日の朝、誰が責任を取るんですか」


 カイエンの表情が変わった。


「……セイン」


「また調査をして、報告書を書いて、仕方なかったって言うんですか」


 言ってから、自分でもひどいことを口にしたと思った。


 けれど、謝る気にはなれなかった。


 カイエンはしばらく黙っていた。


「……私は、無責任な命令を出すことはできん」


「分かりました」


 俺は顔を上げた。


「だったら、命令しないでください」


「……何?」


「俺が、自分で行きます」


 隣でリゼが息を呑んだ。


 カイエンの目が鋭くなる。


「王宮の指示に背くつもりか」


「はい」


「第七係の仕事を続けられなくなるかもしれんぞ」


 胸が痛んだ。


 あの小さな部屋も、仲間たちと過ごした時間も、俺にとっては大切なものだ。


 失いたくない。


 それでも、今日の夜まで生きていられるか分からない人間がいる。


「……俺、考えてから動くようになって、少しは成長したつもりでした」


 カイエンは黙って聞いていた。


「でも、考えた結果が『明日でいい』だったら、何にもならないんですね」


 俺は一度、頭を下げた。


「間違っていたら責任を取ります。だから、今は行かせてください」


「……許可はできん」


「はい」


「だが、周辺住民の避難と火災への備えは進めている。施設の外周警備も続ける」


 カイエンは俺を見た。


「君が何をしようとしているか、聞かなかったことにはできない」


「……分かっています」


 彼はそれ以上、何も言わなかった。


 調査室を出ると、リゼが俺の隣へ並んだ。


「……勝手に決めましたね」


「……ごめん」


「謝罪ではありません」


 リゼは俺を見た。


「私も行くと決めています。でも、次は先に相談してください」


 その言い方が、少し怒っているように聞こえた。


 俺は頷いた。


「……うん。次はちゃんと話す」


「絶対ですよ」


 彼女はそう言って、先に歩き出した。


     ◇


 王宮の門を出ると、リオルが待っていた。


「……聞いたぞ。勝手に行くんだって?」


「……うん」


「馬鹿じゃねえのか」


「そうかも」


「そうかも、じゃねえよ!」


 リオルは左手で俺の胸元を掴んだ。


「昨日、ダグが死んだばっかりだぞ! お前まで死んだら、どうすんだよ!」


「……俺だって怖いよ」


 声が震えた。


「でも、ダグさんが昨日あそこにいなかったら、あの女の人も殺されてたかもしれない」


「だからって、お前まで同じことをする必要はねえだろ!」


「同じことにはしない!」


 俺はリオルの手を掴んだ。


「一人で突っ込むつもりはない。危険な場所も、逃げ道も調べる。助けを呼ぶ。でも、今夜まで待ったら間に合わないかもしれない人がいるんだ!」


 リオルは唇を噛んだ。


「……俺は、もう誰も失いたくねえんだよ」


「……俺もだよ」


 しばらく、互いに黙っていた。


 やがてリオルが胸元から手を離した。


「……俺も行く」


「リオル」


「賛成したわけじゃねえ。お前がまた勝手なことをしたら、その場で引きずって帰るからな」


「……右腕、大丈夫なの?」


「折れてるに決まってんだろ。左手で引きずる」


 俺は思わず笑いそうになった。


 けれど、リオルは笑わなかった。


 北門へ向かう途中、コレットが荷車を引いて待っていた。


 救護院から借りてきたという布、水、乾いた食料が積まれている。


「ねえねえ、セインさん。中に入るのは任せるから、怪我した人はこっちに連れてきてね」


「……コレット」


「私だって考えたんだよ。何をしたら役に立てるか」


 彼女は笑ったが、すぐに真面目な顔になった。


「……帰ってきてね」


 その言葉に、胸が締めつけられた。


 俺は頷いた。


「……帰ってくる」


 コレットは俺の顔をじっと見つめていた。


「約束だからね」


     ◇


 北門旧染物場へ着いた時には、夜の鐘が鳴り始めていた。


 建物の裏手には、古い荷揚げ台と、太い鎖で吊られた搬出設備が残っている。


 今夜はその奥から、低い振動音が聞こえていた。


「……稼働してる」


 エルセが設備を見上げた。


「しかも、停止済みのはずの系統だ」


 正門は閉ざされ、見張りの姿もない。


 だが、二階の窓から人影が見えた。


 誰かが内側からガラスを叩いている。


「……人がいる!」


 俺が叫ぶと、リゼが門の脇にある古い案内板を指さした。


「セイン、ここを見てください」


 配置図の一部が後から貼られた紙で覆われている。


「下の表示が削られています。以前は別の通路があったみたいです」


 リオルが図を覗き込んだ。


「……水路沿いの地下通路か。こっちから回れるかもしれねえ」


 俺たちは建物の裏へ向かった。


 古い石壁の陰に、狭い階段が見つかった。


 地下通路の先には、閂(かんぬき)のかかった鉄扉がある。向こう側から男の声が聞こえた。


「誰か! 助けてくれ!」


 俺は落ちていた鉄棒を拾い、扉の脇に残る古い木枠へ差し込んだ。


「リオル、手伝って!」


「ああ!」


 リオルが左手で棒を押す。俺も反対側から力をかけると、木が大きく軋(きし)んだ。


「……くそっ!」


 もう一度力を込める。


 古い木枠が割れ、扉が少し開いた。


 その隙間へ鉄棒を差し直し、二人で押し広げる。


 扉の向こうには、煤(すす)で顔を汚した作業員が二人いた。


「……助かった!」


 二人は俺たちを見るなり、膝から崩れ落ちた。


「商会の人間が、急に帳簿や検査資料を運び始めたんです! 設備を止めろと言ったら、ここへ閉じ込められて……」


「何を運んでたんですか?」


「詳しくは分かりません。でも、荷箱に『原帰属者』と書いてありました!」


 俺はリゼを見た。


 彼女も頷く。


 テオが知りたがっていた記録だ。


 その時、奥の設備から鈍い音が響いた。


 ごん。


 続いて、二度。


 三度。


 そして、四度目。


 作業員の顔色が変わった。


「……まずい! 停止装置が壊れてるんです! あの音が続いたら、鎖が外れるかもしれない!」


 以前、古い荷揚げ機で聞いた異常音と同じだった。


「リオル、二人を外へ!」


「分かった。エルセ、手を貸せ!」


「ああ。設備の方も確認する」


 エルセは壁の向こうから伝わる振動に目を向けた。


「〈保留〉で一時的に動きを止めることはできる。だが、三秒しか持たない。停止装置そのものを直さなければ危険だ」


「だったら、まず人を逃がそう!」


 俺が言うと、二人は頷いた。


 リオルとエルセが作業員を支えて地下通路へ戻る。


 俺とリゼは、原帰属者記録が運ばれているという上階へ向かった。


     ◇


 地上の搬出室には、大きな荷車が置かれていた。


 積まれた木箱の一つに、『原帰属者記録』という文字が見える。


 俺は思わず足を止めた。


「……あった」


 その声に、商会の男たちが振り向いた。


「何だ、お前ら!」


「その荷物、どこへ運ぶつもりだ!」


 俺が叫ぶと、一人が荷車へ飛び乗った。


「構うな! 出せ!」


 別の男が短剣を抜く。


 俺が身を沈めて避けると、背後から鋭い声が響いた。


「動くな」


 振り向くと、搬出室の入口に男が立っていた。


 長い刀を腰に差し、静かな目でこちらを見ている。


「……ムラサメさん!」


 俺が声を上げると、男たちは一斉に動きを止めた。


 ムラサメはゆっくりと歩み寄り、短剣を持った男へ告げた。


「捨てろ」


 男は顔を引きつらせ、すぐに刃を落とした。


「……カイエンから連絡を受けた」


 ムラサメが言った。


「外周の警備は任せてきた。セイン、怪我はないか」


「……大丈夫です!」


「そうか。なら、荷を確かめろ」


 俺は胸を撫で下ろした。


 この人が来てくれた。


 それだけで、ようやく勝てるかもしれないと思えた。


 その時だった。


 搬出室の奥から、足音が聞こえた。


 不思議なことに、最初に反応したのは商会の男たちだった。


 荷車に飛び乗っていた男が、手綱を引く。


「おい、何をしてる! 早く出せ!」


「……だ、駄目だ」


「何?」


「馬が、進まないんだよ!」


 馬は鼻を鳴らし、必死に前へ出ようとしていた。蹄(ひづめ)が石畳を叩き、荷車の車輪が軋む。


 だが、進まない。


 何もないはずの通路の途中で、見えない壁に押し返されているようだった。


「……何だ、これ」


 俺が呟いた時、白いものが足元を滑った。


 一枚の紙だった。


 何も書かれていない、ただの白い紙。


 それが石畳の上で止まった途端、馬が悲鳴のようにいなないた。


「……セイン、下がれ」


 ムラサメの声だった。


 振り向くと、彼はすでに刀へ手をかけていた。


 倉庫街で大勢の武装した男を相手にした時でさえ、ほとんど表情を変えなかった人が、俺たちを急がせている。


「……ムラサメさん?」


「早くしろ」


 俺はリゼの腕を掴み、後ろへ下がった。


 そして、足音の主が姿を現した。


「……困ったな」


 聞き覚えのある声だった。


「まだ処分を始めるなと、伝えておいたはずなんだが」


 薄暗い通路から、一人の男が歩いてくる。


 見慣れた外套。


 少しだけ癖のある立ち方。


 白い紙を指先で揃える仕草まで、俺はよく知っていた。


 何度も見てきた。


 第七係の机で。


 仕事を終えた夕方に。


 俺たちが持ち帰った書類を、面倒くさそうに確かめていた時に。


「…………」


 声が出なかった。


 喉の奥が塞がったようだった。


 間違えるはずがない。


 けれど、頭がそれを認めようとしなかった。


「……係、長?」


 ようやく声になった。


 男がこちらを向いた。


「……セインか」


 その言い方まで、昔と同じだった。


 驚いた様子も、気まずそうな様子もない。


「ずいぶん厄介な場所に来たな」


 係長はそう言って俺の顔を見た。


 次にリゼへ視線を移す。


「リゼも一緒か」


 まるで、仕事を終えて第七係へ帰ってきた俺たちに声をかけるようだった。


 その瞬間、頭の中に別の光景が蘇った。


 水底街の保管庫。


 折れたリオルの右腕。


 床に倒れたエルセとセヴァン。


 そして、何もできずに立ち尽くしていた俺。


 あの時、目の前の男は仲間を傷つけ、セヴァンを連れていった。


 それなのに。


「……何で」


 自分の声が震えた。


「何で、あんたがここにいるんだよ」


 係長は答えなかった。


 荷車に積まれた木箱を見ている。


 その視線が、ひどく気に障った。


「聞いてるんだよ!」


 係長はようやくこちらを見た。


「セイン。そこから離れろ」


 たった一言だった。


 その言葉で、胸の奥に溜まっていたものが破裂した。


「……ふざけるな!」


 俺は一歩踏み出した。


「今さら、何であんたの言うことを聞かなきゃいけないんだよ!」


「セイン!」


 リゼが止めようとしたが、振り払ってしまった。


「リオルの腕を折っただろ! エルセを倒して、セヴァンを連れていっただろ! 俺たちがどれだけ探したと思ってるんだ!」


 係長の表情は変わらなかった。


 それが許せなかった。


「何か言えよ!」


「……あの時のことか」


 係長が静かに答えた。


「お前たちが怒るのは当然だ。だが、ここで話すつもりはない」


「……は?」


「今は退け。お前たちが巻き込まれる必要はない」


 俺は近くに落ちていた鉄棒を掴んだ。


「……セイン、駄目!」


 リゼの声が聞こえた。


 こんなもので係長に勝てるはずがない。


 分かっていた。


 それでも身体が動いた。


「ふざけるなあっ!」


 鉄棒を振り上げ、係長へ向かって走った。


 係長は動かなかった。


 俺が振り下ろした鉄棒は、係長の顔まであと少しというところで止まった。


 何かに当たった感触はない。


 ただ、そこから先へ進まない。


「……っ!」


 力を込める。


 だが、びくともしなかった。


 係長の足元には、いつの間にか別の白い紙が落ちていた。


「……やめろ、セイン」


 係長が言った。


「お前と戦うために来たんじゃない」


「だったら、何のために来たんだよ!」


 係長は背後の荷車へ目を向けた。


「……あれを回収する」


「……記録を?」


「ああ」


「……あの中には、テオのことも、ダグさんのことも書いてあるかもしれないんだぞ!」


 係長の目が、ほんのわずかに動いた。


「……ダグ?」


「死んだよ」


 俺は唇を噛んだ。


「昨日、殺されたんだ。グレゴールの手下に。テオも死んだ。あいつらが記録を隠して、必要な治療も受けられないまま……」


 係長は黙っていた。


「……もう、誰にも渡さない」


 鉄棒を握り直す。


「王宮だろうが、保全院だろうが、あんただろうが関係ない!」


 怒鳴った拍子に、目の奥が熱くなった。


「みんな、何かを守るためだって言って、人を後回しにする! その間に人が死ぬんだよ!」


 係長は何も言わなかった。


「……頼むから」


 言葉が喉に引っかかった。


「頼むから、もう邪魔しないでくれよ……!」


 初めて、係長の表情が変わった。


 ほんの一瞬だった。


 何か言いかけたように見えたが、結局その口は開かなかった。


「……セイン」


 背後から、低い声がした。


 ムラサメだった。


「そこを退け」


「……でも!」


「いいから退け」


 有無を言わせない声だった。


「その男は、お前の相手じゃない」


 否定したかった。


 けれど、水底街での光景が頭から離れなかった。


 俺が今どれだけ怒っても、目の前の男に届かないことだけは分かっていた。


 鉄棒を地面へ落とす。


 乾いた音が響いた。


 リゼが俺の腕を掴んだ。


 今度は、振り払わなかった。


     ◇


 ムラサメが係長の前へ出た。


 背丈はそれほど違わないが、ムラサメには長い年月を戦場で過ごしてきた者の落ち着きがある。係長はそれよりずっと若いはずなのに、二人の間に立つと、どちらが優位なのか分からなかった。


 係長が先に口を開いた。


「……ムラサメ・カナタか」


「ああ」


「王宮が動いたとは聞いていたが、あんたが来るとは思わなかった」


 係長の視線が荷車へ移る。


「そこを通してもらいたい。商会に任せておけないものがある」


「なら、王宮へ出せ」


「……それはできない」


「そうか」


 ムラサメはゆっくりと刀の柄に手を置いた。


「なら、ここで止める」


 係長が小さく息を吐いた。


「……話し合いでは済まないか」


「俺も無駄な刃傷沙汰は好まん。だが、王宮の調査を妨げるなら、通すわけにはいかん」


「……困ったな」


 係長はそう呟いた。


「できれば、あんたとは戦いたくない」


「だったら退け」


 二人はしばらく、互いを見つめていた。


 その時、ムラサメの視線が係長の足元へ落ちた。


 係長は右足を半歩引き、身体の向きを変えている。


 ただ、それだけだった。


 けれど、ムラサメの指が刀の柄を握り直したのを、俺は見た。


 衣服の隙間から、首元の古い刀傷が覗いている。


「……どうした?」


 係長が尋ねた。


 ムラサメは答えなかった。


 代わりに、ゆっくりと刀を抜いた。


 刃が灯りを受け、白く光る。


 係長の目が細くなった。


「……なるほど。そこまでか」


 ムラサメが刀を構える。


「最後に言う。退け」


 係長は指先の白い紙を手放した。


 紙が宙を舞う。


 その一枚が石畳に触れるより早く、ムラサメが動いた。


 俺には、刀を振り上げるところが見えなかった。


 次の瞬間には、刃が係長の喉元へ迫っていた。


 係長の身体がわずかに横へずれる。


 刃が外套を裂いた。


 布が舞う。


 だが、ムラサメの足は止まらなかった。


 踏み込みを変え、返す刃を横へ走らせる。


 今度は、係長の指先に白い紙があった。


 紙の端が、刀の行く手に重なる。


 鈍い音が響いた。


 刃が一瞬止まる。


 しかし、ムラサメは力で押し切ろうとはしなかった。刀の向きを変え、わずかに身体を沈める。


 その動きを、係長が追った。


 二人の距離が急に縮まり、何かがぶつかる音がした。


 気づくと、ムラサメは元の位置から数歩離れた場所に立っていた。


 係長もまた、荷車の手前まで下がっている。


 ムラサメの肩口から、細く切れた布が垂れていた。


 一方、係長の外套は胸元まで大きく裂けていた。


 どちらも血は流していない。


 それでも、俺は息を呑んだ。


 ムラサメの刀が届いた。


 そして、係長もまた、ムラサメの身体に触れるところまで踏み込んだのだ。


「……なるほどな」


 ムラサメが呟いた。


 口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「面白い」


 係長は笑わなかった。


 指先で裂けた外套を確かめ、静かに息を吐いた。


「……王国最強という評判は、誇張ではなかったらしい」


「評判で剣は振れん」


 ムラサメが刀を構え直す。


「お前も、ずいぶん妙な技を使う」


「……そう言ってもらえるなら光栄だ」


 係長の足が動いた。


 その瞬間、ムラサメの目つきが変わった。


 ほんのわずか、呼吸が乱れる。


 俺には理由が分からなかった。


 けれど、ムラサメは係長の足運びを、何か確かめるように見つめていた。


「……お前、その構えは」


 係長が動きを止める。


「……何だ?」


 ムラサメは答えなかった。


 代わりに、刀をほんの少し下げた。


 次の瞬間、係長の足元から白い紙が跳ね上がった。


 ムラサメも同時に踏み込む。


 俺は反射的にリゼを庇った。


 二人の間から凄まじい音が響き、近くの木箱が倒れた。


 荷車の馬が暴れ、商会の男たちが悲鳴を上げる。


「セイン!」


 リゼが俺の腕を引いた。


 俺たちは壁際へ転がるように逃げた。


 そこへ、ムラサメの声が飛んできた。


「セイン! 荷を押さえろ!」


「……はい!」


「中身を一つも失うな!」


 俺は立ち上がった。


 係長が何のためにここへ来たのか、まだ分からない。


 だが、記録を奪わせるわけにはいかなかった。


 リゼと一緒に荷車へ向かう。


 その背後で、刀の音が続いていた。


 一度、二度と刃が振るわれ、白い紙が宙を舞う。


 速すぎて、もう目で追えない。


 振り返った一瞬、二人の姿が見えた。


 ムラサメの刀を、係長が白い紙の向こうで受け止めていた。


 どちらも、もう笑っていない。


 水底街で俺たちを圧倒した係長は、あの時、本気で戦う相手などいなかったのだ。


 そして今、王国最強の剣士が、その男を前にして一歩も退いていない。


 搬出設備の奥で、重い鎖が軋んだ。


 ごん、と鈍い音が響く。


 俺は荷車の木箱へ手を伸ばした。


 その時、背後から係長の声がした。


「……ムラサメ」


 静かな声だった。


「次は、止められないぞ」


 ムラサメが答える。


「止めてみせろ」


 直後、搬出室の灯りが一斉に揺れた。

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