第九十二話 仲直り
「帰ったら、話がある」
リオルがそう言うと、ダグは露骨に嫌そうな顔をした。
「何だよ、朝から」
「昨日の続きだよ」
「まだ怒ってんのか?」
「怒ってる」
「……そうか」
ダグは困ったように笑い、右手の包帯を巻き直した。
「だったら、仕事が終わってからにしよう。今から喧嘩するわけにもいかないだろ」
「喧嘩じゃねえよ」
「じゃあ何だ?」
「……それを話すんだよ」
リオルが顔を背ける。
ダグは少しだけ目を丸くしたあと、笑った。
「分かった。帰ってからな」
「絶対だぞ」
「逃げるかよ」
俺はそのやり取りを、王宮の東門にある警護隊の控所で聞いていた。
昨日、ダグとリオルはようやく少しだけ笑い合えた。
でも、第七係の帰り道でリオルが俺に言っていた通り、二人の間にはまだ話さなければならないことが残っている。
ダグが〈追跡〉を取り戻すために商会へ署名したこと。
リオルの右腕の怪我を持ち出して、ひどいことを言ってしまったこと。
そして、互いに相手のことを心配しているくせに、うまく伝えられないこと。
「セイン」
隣からリゼが小声で呼んだ。
「何?」
「こちらの書類、確認が終わりました」
渡されたのは、今日の証人移送に関する確認書だった。
昨日救出したザント商会の元受付係を、王宮の正式な調査官の前へ連れてくる。
そのための護衛には、ダグとリオルを含む警護隊員六人が就いていた。
ただし、昨夜のうちに決まっていた移送経路は変更されている。
前日の偽造命令書の件を受け、カイエンが出発直前まで新しい経路を伏せるよう指示したのだ。
「……変なところ、あった?」
「今のところは。ただ……」
リゼは書類の綴じ目を指さした。
「こちらの控え、途中の一枚が抜き取られた跡があります」
「……また?」
「はい。〈空白視〉でも、不自然な欠損が見えます。ただ、誰がいつ抜いたのかまでは分かりません」
俺は紙を受け取った。
移送予定の日時や護衛人数は、昨日の時点で何者かに知られていた可能性がある。
その上、控えの一枚がなくなっている。
偶然かもしれない。
だが、そう考えて済ませられる状況ではなかった。
「……リオル」
俺が呼ぶと、彼はすぐにやって来た。
事情を聞き、書類を確認する。
「……分かった。出発前に隊長へ伝える」
「護衛を増やせないのか?」
「もう増やしてる。経路も変えた。沿道の警戒も頼んである」
リオルは俺の顔を見た。
「それでも心配か?」
「……うん」
「俺もだよ」
意外な返事だった。
リオルは右腕の固定具を確かめながら続けた。
「昨日の連中、証人をさらうために偽の王宮命令まで作ったんだ。今日も何かやるなら、こっちが警戒してることくらい承知してるだろ」
「……そうだよな」
「でも、だからって証人を閉じ込めたままにはできねえ。正式な証言を取らなきゃ、グレゴールを追い詰められないからな」
俺は頷いた。
「何かあったら、すぐに知らせてくれ」
「ああ」
リオルはいつものように笑おうとして、やめた。
「……セイン」
「何?」
「今日は、絶対にあの人を王宮まで届ける」
それを聞いて、俺は少しだけ安心した。
リオルは強い。
ダグも、昨日は固有術なしで証人を救った。
ほかにも警護隊の人間がいる。
俺たちは、できる限りの準備をしている。
それでも、俺はまだ何かが起こったあとに何をするかばかり考えていた。
何かが起こる前に、どこまで踏み込めるのか。
その答えを、持っていなかった。
◇
証人を乗せた馬車が出発したのは、午前の鐘が鳴る少し前だった。
俺とリゼは王宮に残り、到着後に提出する記録を確認することになっていた。
元受付係の女性は、今日こそ正式な証言を残す。
グレゴールがヨルンを殺すよう命じた、その場に自分がいたことを。
彼女は昨日、母親の住所まで知られていると泣いていた。
王宮は母親の保護についても警護隊へ指示を出したが、本人が安心できるまでには時間がかかるだろう。
「……あの人、ちゃんと話せるかな」
俺が呟くと、リゼは書類から顔を上げた。
「昨日、あれほど怖い思いをしたばかりですからね」
「……うん」
「でも、話すと決めたのはご本人です」
リゼは机の上の記録を揃えた。
「だから、私たちはその言葉を、今度こそ誰にも奪わせないようにしないと」
その時、外から馬のいななきが聞こえた。
続いて、何かが激しくぶつかる音。
俺は窓へ駆け寄った。
東門から少し離れた通りに、人が集まり始めていた。
「……何だ?」
次の瞬間、鐘が鳴った。
火事を知らせる鐘ではない。
警護隊が非常時に鳴らす、短い警戒の合図だった。
俺はリゼを見た。
「……行こう」
「はい!」
書類を机へ置き、俺たちは走り出した。
◇
東市場へ続く通りには、倒れた荷車が道を塞ぐように横たわっていた。
積まれていた木箱が砕け、乾いた豆や穀物が石畳に散らばっている。
馬が暴れ、人々が悲鳴を上げながら逃げていた。
「下がれ! そこを通るな!」
警護隊の声が響く。
俺は人混みを抜け、馬車の方へ走った。
「……リオル!」
すぐに姿が見つかった。
彼は左手を荷車の側面へ押し当てていた。
倒れかけた荷台の下には、小さな子供と母親がいる。
リオルの〈均衡〉によって、荷車を傾ける力が、反対側の車輪と石壁からの反力に釣り合っていた。
それでも荷車そのものが軽くなったわけではない。
馬が暴れるたび、車輪が石畳を擦って嫌な音を立てている。
「セイン! そこの子供を!」
「分かった!」
俺は母親の手を掴み、子供を抱えて荷車の下から引き出した。
リゼが二人を安全な場所へ誘導する。
近くの警護隊員が馬の手綱を押さえ、別の二人が荷車を支えた。
「……もういい、離れろ!」
隊員の声を聞き、リオルが左手を引いた。
荷車が大きく揺れ、ようやく動きを止める。
「……何があった?」
俺が尋ねると、リオルは息を切らしながら答えた。
「誰かが荷車を坂の上から転がした! 馬が驚いて護衛の列が乱れたんだ!」
「……証人は?」
「ダグが連れてる!」
「どこへ?」
リオルが通りの奥を指さした。
「そこの細い道だ! 馬車の扉が開かなくなって、窓から外へ出した!」
俺は走り出そうとした。
するとリオルが叫んだ。
「待て、セイン! 武装した奴がいる!」
その言葉が終わらないうちに、通りの奥から金属のぶつかる音がした。
続いて、男の怒鳴り声。
「……逃がすな!」
俺はリゼを振り向いた。
「警護隊に知らせて!」
「もう人を呼んでいます! 私も行きます!」
「……分かった!」
俺たちは細い道へ飛び込んだ。
◇
その道は、古い倉庫の裏手を通って運河へ抜ける小路だった。
石壁が高く、昼間でも薄暗い。
先へ進むと、地面に血が落ちていた。
俺は足を止めた。
「……ダグさん?」
返事はない。
さらに奥へ進むと、壁際に元受付係の女性がしゃがみ込んでいるのが見えた。
その前には、ダグが立っていた。
「……ダグさん!」
呼ぶと、ダグが一瞬こちらを見た。
「セインさん! 女性をお願いします!」
彼の正面には、灰色の上着を着た男がいた。
男の右手には短い刃が握られている。
ダグは左手で相手の手首を押さえ、右手では上着の襟元を掴んでいた。
包帯が血で汚れている。
男が身体を捻る。
ダグもそれに合わせて足を動かし、刃を女性から遠ざけた。
「……警護隊か」
灰色の男が呟いた。
「面倒ですね」
「……だったら、さっさと武器を捨てろ」
ダグが答えた。
息が荒い。
頬の傷は、昨日よりも腫れていた。
俺は女性へ駆け寄った。
「大丈夫ですか!」
「……あ、あの人が!」
女性は震える指で灰色の男を指さした。
「馬車から降りたところで、突然……!」
「もう大丈夫です。俺たちが来ました!」
そう言いながら、俺は周囲を見た。
小路の奥に、別の男が倒れている。
警護隊の剣を握っていたらしいが、手から離れていた。
その傍らには、切れた綱が落ちている。
ダグが一人で二人を相手にしたのだろうか。
「セインさん!」
ダグが叫んだ。
「その人を、先に!」
「……はい!」
俺が女性を立たせた瞬間、灰色の男が動いた。
左手でダグの腕を払い、身体を低く沈める。
ダグは相手の足を蹴って体勢を崩させた。
だが、その一瞬。
短い刃が、ダグの脇腹へ突き込まれた。
「……っ!」
俺は息を呑んだ。
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
男が刃を引き抜こうとする。
ダグはその腕を離さなかった。
むしろ、自分の身体を相手へ押しつけるようにして、男を壁際へ追い込んだ。
「……逃がすかよ」
歯を食いしばった声だった。
ダグは男の手首を捻り、石壁へ叩きつけた。
刃が落ちる。
続けて膝を入れ、相手の身体を崩した。
灰色の男は倒れ込んだが、まだ逃げようとしている。
「……セインさん!」
ダグが叫んだ。
「そいつを押さえてください!」
俺は女性をリゼへ託し、男に飛びついた。
肩の傷に痛みが走った。
それでも、男の腕を掴んで地面へ押しつける。
「……動くな!」
相手が暴れたが、俺は離さなかった。
ダグが男の反対側の腕を押さえる。
その時、男の上着から小さな金属板が落ちた。
荷の管理に使うような、番号の刻まれた札だった。
ダグはそれを一瞬見た。
何かに気づいたように、目を細める。
だが、すぐに顔が歪んだ。
「……ダグさん?」
彼の身体が傾いた。
男の腕から手が離れる。
ダグは壁に片手をついた。
「……あれ?」
まるで、足を滑らせた時のような声だった。
俺は男を押さえたまま振り向いた。
「……ダグさん?」
ダグは自分の脇腹を見下ろした。
上着の色が、見る間に変わっていく。
彼はそこを手で押さえた。
「……まずい、な」
そう呟き、膝をついた。
「ダグさん!」
俺が叫ぶと、リゼが振り向いた。
彼女の顔から血の気が引いた。
「……セイン!」
「ダグさんが!」
その時、ようやく警護隊の兵士たちが小路へ駆け込んできた。
「武器を捨てろ!」
「こいつを押さえてくれ!」
俺は灰色の男を兵士へ引き渡し、ダグのもとへ走った。
ダグは壁にもたれ、座り込んでいた。
脇腹を押さえた指の間から、血が流れ続けている。
「……ダグさん!」
俺は膝をついた。
「大丈夫ですか!」
何を言っているんだろう、と思った。
大丈夫なはずがない。
こんなに血が出ている。
それでも、ほかに言葉が見つからなかった。
ダグは俺を見た。
「……セイン、さん」
「喋らないでください!」
俺は自分の上着を脱ぎ、傷口へ押し当てた。
ダグが小さく呻いた。
「……すみません、痛いですよね。でも、押さえないと……!」
上着がすぐに濡れた。
俺はさらに力を込めた。
「誰か! 医者を!」
兵士の一人が走り出す。
リゼもすぐに近づき、俺と一緒に傷口を押さえた。
「セイン、布をもっと……!」
「分かってる!」
俺は上着を折り重ねた。
それでも、血は止まらない。
ダグの顔がどんどん白くなっていく。
「……ダグさん」
俺は彼の顔を覗き込んだ。
「しっかりしてください。すぐ医者が来ますから」
彼は何か言おうとした。
けれど、うまく声にならない。
「……何ですか?」
俺は顔を近づけた。
ダグの唇が、ゆっくり動いた。
「……リオル、は」
俺の胸が締めつけられた。
「……リオルですか?」
ダグが小さく頷いた。
「今来ます! すぐ来ますから!」
俺はそう答えた。
ダグは少しだけ目を閉じた。
そして、また開いた。
「……よかっ、た」
その手が、俺の腕を掴んだ。
力が弱い。
「……ダグさん?」
彼は俺を見ていた。
何か伝えようとしているようだった。
だが、言葉が出てこない。
「……ダグさん、無理しなくていいですから!」
俺は必死に呼びかけた。
「あとで聞きます! ちゃんと聞きますから!」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがひどく冷たくなった。
あとで。
また、あとでと言っている。
俺は首を振った。
「……違う」
ダグが俺を見る。
「……今、聞きます。何でも聞きますから」
でも、彼の唇はもう動かなかった。
俺の腕を掴んでいた手から、力が抜けた。
「……ダグさん?」
返事がない。
リゼが息を呑んだ。
「……セイン」
「……ダグさん?」
俺は彼の肩へ手を置いた。
揺らしたくなかった。
でも、もう一度だけ目を開けてほしかった。
「……ダグさん!」
声が小路に響いた。
ダグは動かなかった。
◇
「……おい」
背後から声がした。
振り向くと、リオルが立っていた。
左手には抜いた剣。
右腕の固定具がずれ、額には汗が滲んでいる。
リオルは俺たちを見た。
それから、地面に座り込んでいるダグへ視線を移した。
「……何やってんだよ」
誰に言ったのか分からなかった。
「……ダグ?」
リオルは一歩近づいた。
俺は立ち上がろうとした。
けれど、膝に力が入らなかった。
「……リオル」
俺が呼ぶと、彼は顔を上げた。
「……何だよ」
「……ダグさんが」
そこまで言って、言葉が止まった。
リオルは俺を見たあと、またダグへ目を向けた。
「……おい」
彼は剣を鞘へ戻そうとした。
だが、うまく入らない。
何度か刃先を動かし、ようやく納めた。
そして、ダグの前にしゃがんだ。
「……ダグ」
返事はない。
「……おい、起きろよ」
リオルは左手で、ダグの肩を軽く叩いた。
「……何やってんだよ。仕事中だぞ」
ダグは動かなかった。
「……ふざけんな」
リオルの声が震えた。
「……なあ」
もう一度、肩を叩く。
「俺、帰ったら話があるって言ったよな」
俺は何も言えなかった。
リオルはダグの顔を見つめた。
「……お前、分かったって言っただろ」
声が少しずつ大きくなった。
「……逃げるかよって、言ったじゃねえか!」
彼はダグの上着を掴んだ。
右腕が動かないため、左手だけで身体を起こそうとする。
「……リオル!」
俺が声をかける。
けれど、彼は聞かなかった。
「……起きろよ!」
ダグの身体が、力なく傾いた。
リオルは慌てて支えた。
「……おい、ダグ」
彼の声が小さくなった。
「……頼むから」
その時、医師と救護の職員が駆け込んできた。
俺たちは場所を空けるよう言われた。
リオルは、すぐには離れなかった。
兵士に肩を掴まれ、ようやく立ち上がった。
医師がダグの状態を確かめる。
呼吸。
脈。
傷口。
何度も確認したあと、医師は顔を上げた。
「……残念ですが」
その先は、聞きたくなかった。
リオルが医師へ詰め寄った。
「……残念って何だよ」
「……」
「まだ、何もしてねえだろ!」
「……できる限り確認しましたが」
「だったら、もう一回やれよ!」
リオルが叫んだ。
「今来たばっかりじゃねえか! ちゃんと診ろよ! あいつ、さっきまで普通に喋ってたんだぞ!」
医師は黙った。
「……リオル」
俺が腕に触れると、彼は振り払った。
「……触んな」
低い声だった。
「……お前らも、何してたんだよ」
俺は顔を上げた。
リオルは俺とリゼを見ていた。
「二人とも、そこにいたんだろ」
「……うん」
「……だったら、何で」
言葉が途切れた。
俺は何も言えなかった。
リゼも、唇を噛んだままだった。
リオルはしばらく俺たちを睨んでいた。
それから、顔を背けた。
「……くそっ」
彼は石壁を殴ろうとして、左手を止めた。
右腕は動かない。
残った腕まで傷つけたら、もう誰かを守ることもできなくなる。
そんなことを考えたのかどうか、俺には分からなかった。
ただ、リオルは拳を握ったまま、その場に立ち尽くしていた。
◇
灰色の男は、警護隊に拘束された。
ほかの襲撃者たちも、何人かが捕らえられたという。
逃げた者もいた。
それを聞いた時、俺は何も感じなかった。
ただ、ダグを刺した男が生きているということだけが、頭から離れなかった。
「……セイン」
リゼが声をかけた。
俺たちは小路の出口に立っていた。
元受付係の女性は、警護隊に保護され、王宮へ向かう準備をしている。
顔色は真っ青だった。
けれど、彼女は自分の足で歩いていた。
「……あの人は、助かったんだね」
俺が言うと、リゼは頷いた。
「はい」
「……ダグさんが、守ったから」
「……はい」
彼女はそこで口を閉じた。
俺も、もう何も言えなかった。
守れた命がある。
守れなかった命がある。
どちらも目の前にあるのに、俺の頭はうまく働かなかった。
その時、元受付係の女性が俺たちへ近づいてきた。
「……あの」
俺は顔を上げた。
「……はい」
「警護隊の方は……」
彼女の視線が、ダグの運ばれていった方へ向いた。
俺は答えられなかった。
代わりにリゼが言った。
「……亡くなりました」
女性の顔が歪んだ。
「……そんな」
彼女は口元を押さえた。
「……私のせいで」
俺は反射的に、違いますと言いかけた。
けれど、声が出なかった。
女性はその場に膝をついた。
「……私が、あんな商会で働いていたから」
「……」
「もっと早く、本当のことを話していれば……」
彼女は泣きながら首を振った。
俺はその姿を見て、昨日のダグを思い出した。
自分が悪かった。
自分がもっと早く気づいていれば。
同じ言葉を、何度も聞いてきた。
でも、テオもダグも、もう戻らない。
俺は女性の前にしゃがんだ。
「……あの」
彼女が顔を上げる。
「……ダグさんは、あなたを守るために動きました」
それだけ言った。
立派だったとか、無駄じゃなかったとか、そんなことは言えなかった。
俺が勝手に決めていいことではない気がしたからだ。
女性は泣きながら頷いた。
「……私、話します」
声が震えていた。
「今度こそ、全部話します。あの人が、何を命じたのか……」
俺は頷いた。
「……お願いします」
女性は立ち上がった。
警護隊員に付き添われ、王宮へ向かって歩き出す。
その背中を見送りながら、俺はふと思った。
ダグは、あの女性が話すところを見たかったのではないだろうか。
きっと、証言が終わったあとに、少しだけ笑っていたはずだ。
そしてリオルに、またくだらないことを言われていたはずだ。
その光景を想像した途端、息が詰まった。
◇
王宮の調査室で、元受付係の証言が正式に記録された。
調査官の前で、彼女は何度も声を震わせながら話した。
ヨルンの殺害を命じたのは、グレゴール・ザントだった。
商会では購入者の体調不良を把握していながら、記録を書き換えるよう指示されていた。
そして、証言を撤回させるために、王宮の移送命令まで偽造された。
今日の襲撃についても、灰色の男たちが自分を殺そうとしたと証言した。
もちろん、そのすべてがグレゴール本人の直接指示だったと証明できたわけではない。
だが、彼女の言葉は今度こそ正式な記録になった。
取り消すには、新たな説明と証拠が必要になる。
カイエンは証言を確認すると、警護隊の指揮官へ言った。
「……この件は、もはや商会との紛争という範囲ではない」
その声は、いつもより低かった。
「殺人、誘拐、証人への脅迫、公文書の偽造。今回の襲撃が商会の指示によるものなら、王宮としても徹底的に調べなければならない」
俺は黙って聞いていた。
以前なら、その言葉を聞いて少し安心したかもしれない。
王宮が正式に動く。
調査が進む。
証拠が集まれば、グレゴールを追い詰められる。
それは間違っていない。
でも、今の俺には、それだけでは足りなかった。
「……カイエンさん」
俺が声をかけると、彼は顔を上げた。
「何だ?」
「ダグさんを刺した男は、どこにいるんですか」
「警護隊が拘束している。今は負傷の確認を受けさせた上で、取り調べの準備をしているところだ」
「……あの男が、誰の命令で動いたのか」
「当然、調べる」
カイエンは頷いた。
「拘束時に所持していた荷札や書類も押収した。商会との関係を確認中だ」
俺は顔を上げた。
「……荷札?」
「ああ。運河沿いの貨物管理に使われる形式だそうだ。番号が刻まれている」
俺は小路で見た小さな金属板を思い出した。
ダグも、それを見ていた。
あの時、何かに気づいたような顔をしていた。
「……その番号、見せてもらえますか」
俺が尋ねると、カイエンは少し眉を寄せた。
「捜査資料だ。今すぐ自由に見せるわけには……」
「……お願いします」
俺は頭を下げた。
「ダグさんは、あの札を見て何かに気づいていました。何か手がかりになるかもしれないんです」
カイエンはしばらく黙っていた。
やがて、指揮官へ視線を向ける。
「……警護隊で確認した上で、必要な範囲を共有してくれ」
「承知しました」
俺は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
カイエンは俺を見た。
「セイン」
「……はい」
「君たちが今日、何を失ったのかは分かっているつもりだ」
俺は何も言わなかった。
「だが、怒りに任せて動けば、また別の誰かが危険にさらされる」
「……分かっています」
そう答えた。
けれど、自分でも本当に分かっているのか、分からなかった。
怒りを抑えて、正しいことをする。
これまで何度も、そう考えてきた。
でも、正しいことをしている間に、テオは死んだ。
今日、ダグも死んだ。
その二つをどう受け止めればいいのか、まだ分からなかった。
◇
夜になっても、リオルは第七係へ戻ってこなかった。
警護隊の詰所にいると聞いて、俺は一度会いに行こうとした。
けれど、入口まで来て足が止まった。
何を言えばいいのか分からなかった。
謝るのか。
慰めるのか。
それとも、何も言わずに隣にいるのか。
結局、俺は扉を開けられなかった。
その時、内側から声が聞こえた。
「……あいつ、いつもそうだったんだよ」
リオルの声だった。
誰かと話しているらしい。
「人を捜し始めると、何も見えなくなる。飯も忘れるし、寝るのも忘れるし……」
声が少し途切れた。
「……俺が何回怒ったって、また同じことするんだ」
俺は扉の前で立ち尽くした。
「……それで、今日も」
しばらく、何も聞こえなかった。
やがて、リオルが小さく笑った。
「……馬鹿だよな」
その声が震えていた。
「……本当に、馬鹿なんだよ」
俺は扉に手をかけた。
けれど、開けなかった。
しばらくして、中から誰かが椅子を動かす音がした。
そして、リオルの声が聞こえた。
「……帰ったら、話すって言ったのにな」
俺は目を閉じた。
今朝、ダグは笑っていた。
逃げるかよ、と言っていた。
その時、リオルも少し笑っていた。
俺も、今日こそ二人がちゃんと話せると思っていた。
帰ったら。
その言葉を、誰も疑わなかった。
俺は扉から手を離した。
廊下の窓の向こうに、王都の灯りが広がっている。
今夜も、街はいつも通りに動いていた。
誰かが家に帰り、誰かが食事を作り、誰かが明日の約束をしている。
俺はその灯りを見つめた。
明日になれば、また王宮の会議がある。
調査が進み、書類が増え、誰かが判断を下す。
でも、ダグはもう帰ってこない。
テオも、帰ってこない。
俺は廊下を歩き出した。
足音だけが、冷たい石床に響いていた。
このまま何も変わらなければ、また誰かが死ぬ。
その予感だけが、どうしても消えなかった。




