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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第四章 才能の値札

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第九十二話 仲直り


「帰ったら、話がある」


 リオルがそう言うと、ダグは露骨に嫌そうな顔をした。


「何だよ、朝から」


「昨日の続きだよ」


「まだ怒ってんのか?」


「怒ってる」


「……そうか」


 ダグは困ったように笑い、右手の包帯を巻き直した。


「だったら、仕事が終わってからにしよう。今から喧嘩するわけにもいかないだろ」


「喧嘩じゃねえよ」


「じゃあ何だ?」


「……それを話すんだよ」


 リオルが顔を背ける。


 ダグは少しだけ目を丸くしたあと、笑った。


「分かった。帰ってからな」


「絶対だぞ」


「逃げるかよ」


 俺はそのやり取りを、王宮の東門にある警護隊の控所で聞いていた。


 昨日、ダグとリオルはようやく少しだけ笑い合えた。


 でも、第七係の帰り道でリオルが俺に言っていた通り、二人の間にはまだ話さなければならないことが残っている。


 ダグが〈追跡〉を取り戻すために商会へ署名したこと。


 リオルの右腕の怪我を持ち出して、ひどいことを言ってしまったこと。


 そして、互いに相手のことを心配しているくせに、うまく伝えられないこと。


「セイン」


 隣からリゼが小声で呼んだ。


「何?」


「こちらの書類、確認が終わりました」


 渡されたのは、今日の証人移送に関する確認書だった。


 昨日救出したザント商会の元受付係を、王宮の正式な調査官の前へ連れてくる。


 そのための護衛には、ダグとリオルを含む警護隊員六人が就いていた。


 ただし、昨夜のうちに決まっていた移送経路は変更されている。


 前日の偽造命令書の件を受け、カイエンが出発直前まで新しい経路を伏せるよう指示したのだ。


「……変なところ、あった?」


「今のところは。ただ……」


 リゼは書類の綴じ目(とじめ)を指さした。


「こちらの控え、途中の一枚が抜き取られた跡があります」


「……また?」


「はい。〈空白視〉でも、不自然な欠損が見えます。ただ、誰がいつ抜いたのかまでは分かりません」


 俺は紙を受け取った。


 移送予定の日時や護衛人数は、昨日の時点で何者かに知られていた可能性がある。


 その上、控えの一枚がなくなっている。


 偶然かもしれない。


 だが、そう考えて済ませられる状況ではなかった。


「……リオル」


 俺が呼ぶと、彼はすぐにやって来た。


 事情を聞き、書類を確認する。


「……分かった。出発前に隊長へ伝える」


「護衛を増やせないのか?」


「もう増やしてる。経路も変えた。沿道の警戒も頼んである」


 リオルは俺の顔を見た。


「それでも心配か?」


「……うん」


「俺もだよ」


 意外な返事だった。


 リオルは右腕の固定具を確かめながら続けた。


「昨日の連中、証人をさらうために偽の王宮命令まで作ったんだ。今日も何かやるなら、こっちが警戒してることくらい承知してるだろ」


「……そうだよな」


「でも、だからって証人を閉じ込めたままにはできねえ。正式な証言を取らなきゃ、グレゴールを追い詰められないからな」


 俺は頷いた。


「何かあったら、すぐに知らせてくれ」


「ああ」


 リオルはいつものように笑おうとして、やめた。


「……セイン」


「何?」


「今日は、絶対にあの人を王宮まで届ける」


 それを聞いて、俺は少しだけ安心した。


 リオルは強い。


 ダグも、昨日は固有術なしで証人を救った。


 ほかにも警護隊の人間がいる。


 俺たちは、できる限りの準備をしている。


 それでも、俺はまだ何かが起こったあとに何をするかばかり考えていた。


 何かが起こる前に、どこまで踏み込めるのか。


 その答えを、持っていなかった。


     ◇


 証人を乗せた馬車が出発したのは、午前の鐘が鳴る少し前だった。


 俺とリゼは王宮に残り、到着後に提出する記録を確認することになっていた。


 元受付係の女性は、今日こそ正式な証言を残す。


 グレゴールがヨルンを殺すよう命じた、その場に自分がいたことを。


 彼女は昨日、母親の住所まで知られていると泣いていた。


 王宮は母親の保護についても警護隊へ指示を出したが、本人が安心できるまでには時間がかかるだろう。


「……あの人、ちゃんと話せるかな」


 俺が呟くと、リゼは書類から顔を上げた。


「昨日、あれほど怖い思いをしたばかりですからね」


「……うん」


「でも、話すと決めたのはご本人です」


 リゼは机の上の記録を揃えた。


「だから、私たちはその言葉を、今度こそ誰にも奪わせないようにしないと」


 その時、外から馬のいななきが聞こえた。


 続いて、何かが激しくぶつかる音。


 俺は窓へ駆け寄った。


 東門から少し離れた通りに、人が集まり始めていた。


「……何だ?」


 次の瞬間、鐘が鳴った。


 火事を知らせる鐘ではない。


 警護隊が非常時に鳴らす、短い警戒の合図だった。


 俺はリゼを見た。


「……行こう」


「はい!」


 書類を机へ置き、俺たちは走り出した。


     ◇


 東市場へ続く通りには、倒れた荷車が道を塞ぐように横たわっていた。


 積まれていた木箱が砕け、乾いた豆や穀物が石畳に散らばっている。


 馬が暴れ、人々が悲鳴を上げながら逃げていた。


「下がれ! そこを通るな!」


 警護隊の声が響く。


 俺は人混みを抜け、馬車の方へ走った。


「……リオル!」


 すぐに姿が見つかった。


 彼は左手を荷車の側面へ押し当てていた。


 倒れかけた荷台の下には、小さな子供と母親がいる。


 リオルの〈均衡〉によって、荷車を傾ける力が、反対側の車輪と石壁からの反力に釣り合っていた。


 それでも荷車そのものが軽くなったわけではない。


 馬が暴れるたび、車輪が石畳を擦って嫌な音を立てている。


「セイン! そこの子供を!」


「分かった!」


 俺は母親の手を掴み、子供を抱えて荷車の下から引き出した。


 リゼが二人を安全な場所へ誘導する。


 近くの警護隊員が馬の手綱を押さえ、別の二人が荷車を支えた。


「……もういい、離れろ!」


 隊員の声を聞き、リオルが左手を引いた。


 荷車が大きく揺れ、ようやく動きを止める。


「……何があった?」


 俺が尋ねると、リオルは息を切らしながら答えた。


「誰かが荷車を坂の上から転がした! 馬が驚いて護衛の列が乱れたんだ!」


「……証人は?」


「ダグが連れてる!」


「どこへ?」


 リオルが通りの奥を指さした。


「そこの細い道だ! 馬車の扉が開かなくなって、窓から外へ出した!」


 俺は走り出そうとした。


 するとリオルが叫んだ。


「待て、セイン! 武装した奴がいる!」


 その言葉が終わらないうちに、通りの奥から金属のぶつかる音がした。


 続いて、男の怒鳴り声。


「……逃がすな!」


 俺はリゼを振り向いた。


「警護隊に知らせて!」


「もう人を呼んでいます! 私も行きます!」


「……分かった!」


 俺たちは細い道へ飛び込んだ。


     ◇


 その道は、古い倉庫の裏手を通って運河へ抜ける小路だった。


 石壁が高く、昼間でも薄暗い。


 先へ進むと、地面に血が落ちていた。


 俺は足を止めた。


「……ダグさん?」


 返事はない。


 さらに奥へ進むと、壁際に元受付係の女性がしゃがみ込んでいるのが見えた。


 その前には、ダグが立っていた。


「……ダグさん!」


 呼ぶと、ダグが一瞬こちらを見た。


「セインさん! 女性をお願いします!」


 彼の正面には、灰色の上着を着た男がいた。


 男の右手には短い刃が握られている。


 ダグは左手で相手の手首を押さえ、右手では上着の襟元を掴んでいた。


 包帯が血で汚れている。


 男が身体を捻る。


 ダグもそれに合わせて足を動かし、刃を女性から遠ざけた。


「……警護隊か」


 灰色の男が呟いた。


「面倒ですね」


「……だったら、さっさと武器を捨てろ」


 ダグが答えた。


 息が荒い。


 頬の傷は、昨日よりも腫れていた。


 俺は女性へ駆け寄った。


「大丈夫ですか!」


「……あ、あの人が!」


 女性は震える指で灰色の男を指さした。


「馬車から降りたところで、突然……!」


「もう大丈夫です。俺たちが来ました!」


 そう言いながら、俺は周囲を見た。


 小路の奥に、別の男が倒れている。


 警護隊の剣を握っていたらしいが、手から離れていた。


 その傍らには、切れた綱が落ちている。


 ダグが一人で二人を相手にしたのだろうか。


「セインさん!」


 ダグが叫んだ。


「その人を、先に!」


「……はい!」


 俺が女性を立たせた瞬間、灰色の男が動いた。


 左手でダグの腕を払い、身体を低く沈める。


 ダグは相手の足を蹴って体勢を崩させた。


 だが、その一瞬。


 短い刃が、ダグの脇腹へ突き込まれた。


「……っ!」


 俺は息を呑んだ。


 何が起きたのか、すぐには分からなかった。


 男が刃を引き抜こうとする。


 ダグはその腕を離さなかった。


 むしろ、自分の身体を相手へ押しつけるようにして、男を壁際へ追い込んだ。


「……逃がすかよ」


 歯を食いしばった声だった。


 ダグは男の手首を捻り、石壁へ叩きつけた。


 刃が落ちる。


 続けて膝を入れ、相手の身体を崩した。


 灰色の男は倒れ込んだが、まだ逃げようとしている。


「……セインさん!」


 ダグが叫んだ。


「そいつを押さえてください!」


 俺は女性をリゼへ託し、男に飛びついた。


 肩の傷に痛みが走った。


 それでも、男の腕を掴んで地面へ押しつける。


「……動くな!」


 相手が暴れたが、俺は離さなかった。


 ダグが男の反対側の腕を押さえる。


 その時、男の上着から小さな金属板が落ちた。


 荷の管理に使うような、番号の刻まれた札だった。


 ダグはそれを一瞬見た。


 何かに気づいたように、目を細める。


 だが、すぐに顔が歪んだ。


「……ダグさん?」


 彼の身体が傾いた。


 男の腕から手が離れる。


 ダグは壁に片手をついた。


「……あれ?」


 まるで、足を滑らせた時のような声だった。


 俺は男を押さえたまま振り向いた。


「……ダグさん?」


 ダグは自分の脇腹を見下ろした。


 上着の色が、見る間に変わっていく。


 彼はそこを手で押さえた。


「……まずい、な」


 そう呟き、膝をついた。


「ダグさん!」


 俺が叫ぶと、リゼが振り向いた。


 彼女の顔から血の気が引いた。


「……セイン!」


「ダグさんが!」


 その時、ようやく警護隊の兵士たちが小路へ駆け込んできた。


「武器を捨てろ!」


「こいつを押さえてくれ!」


 俺は灰色の男を兵士へ引き渡し、ダグのもとへ走った。


 ダグは壁にもたれ、座り込んでいた。


 脇腹を押さえた指の間から、血が流れ続けている。


「……ダグさん!」


 俺は膝をついた。


「大丈夫ですか!」


 何を言っているんだろう、と思った。


 大丈夫なはずがない。


 こんなに血が出ている。


 それでも、ほかに言葉が見つからなかった。


 ダグは俺を見た。


「……セイン、さん」


「喋らないでください!」


 俺は自分の上着を脱ぎ、傷口へ押し当てた。


 ダグが小さく呻いた。


「……すみません、痛いですよね。でも、押さえないと……!」


 上着がすぐに濡れた。


 俺はさらに力を込めた。


「誰か! 医者を!」


 兵士の一人が走り出す。


 リゼもすぐに近づき、俺と一緒に傷口を押さえた。


「セイン、布をもっと……!」


「分かってる!」


 俺は上着を折り重ねた。


 それでも、血は止まらない。


 ダグの顔がどんどん白くなっていく。


「……ダグさん」


 俺は彼の顔を覗き込んだ。


「しっかりしてください。すぐ医者が来ますから」


 彼は何か言おうとした。


 けれど、うまく声にならない。


「……何ですか?」


 俺は顔を近づけた。


 ダグの唇が、ゆっくり動いた。


「……リオル、は」


 俺の胸が締めつけられた。


「……リオルですか?」


 ダグが小さく頷いた。


「今来ます! すぐ来ますから!」


 俺はそう答えた。


 ダグは少しだけ目を閉じた。


 そして、また開いた。


「……よかっ、た」


 その手が、俺の腕を掴んだ。


 力が弱い。


「……ダグさん?」


 彼は俺を見ていた。


 何か伝えようとしているようだった。


 だが、言葉が出てこない。


「……ダグさん、無理しなくていいですから!」


 俺は必死に呼びかけた。


「あとで聞きます! ちゃんと聞きますから!」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがひどく冷たくなった。


 あとで。


 また、あとでと言っている。


 俺は首を振った。


「……違う」


 ダグが俺を見る。


「……今、聞きます。何でも聞きますから」


 でも、彼の唇はもう動かなかった。


 俺の腕を掴んでいた手から、力が抜けた。


「……ダグさん?」


 返事がない。


 リゼが息を呑んだ。


「……セイン」


「……ダグさん?」


 俺は彼の肩へ手を置いた。


 揺らしたくなかった。


 でも、もう一度だけ目を開けてほしかった。


「……ダグさん!」


 声が小路に響いた。


 ダグは動かなかった。


     ◇


「……おい」


 背後から声がした。


 振り向くと、リオルが立っていた。


 左手には抜いた剣。


 右腕の固定具がずれ、額には汗が滲んでいる。


 リオルは俺たちを見た。


 それから、地面に座り込んでいるダグへ視線を移した。


「……何やってんだよ」


 誰に言ったのか分からなかった。


「……ダグ?」


 リオルは一歩近づいた。


 俺は立ち上がろうとした。


 けれど、膝に力が入らなかった。


「……リオル」


 俺が呼ぶと、彼は顔を上げた。


「……何だよ」


「……ダグさんが」


 そこまで言って、言葉が止まった。


 リオルは俺を見たあと、またダグへ目を向けた。


「……おい」


 彼は剣を鞘(さや)へ戻そうとした。


 だが、うまく入らない。


 何度か刃先を動かし、ようやく納めた。


 そして、ダグの前にしゃがんだ。


「……ダグ」


 返事はない。


「……おい、起きろよ」


 リオルは左手で、ダグの肩を軽く叩いた。


「……何やってんだよ。仕事中だぞ」


 ダグは動かなかった。


「……ふざけんな」


 リオルの声が震えた。


「……なあ」


 もう一度、肩を叩く。


「俺、帰ったら話があるって言ったよな」


 俺は何も言えなかった。


 リオルはダグの顔を見つめた。


「……お前、分かったって言っただろ」


 声が少しずつ大きくなった。


「……逃げるかよって、言ったじゃねえか!」


 彼はダグの上着を掴んだ。


 右腕が動かないため、左手だけで身体を起こそうとする。


「……リオル!」


 俺が声をかける。


 けれど、彼は聞かなかった。


「……起きろよ!」


 ダグの身体が、力なく傾いた。


 リオルは慌てて支えた。


「……おい、ダグ」


 彼の声が小さくなった。


「……頼むから」


 その時、医師と救護の職員が駆け込んできた。


 俺たちは場所を空けるよう言われた。


 リオルは、すぐには離れなかった。


 兵士に肩を掴まれ、ようやく立ち上がった。


 医師がダグの状態を確かめる。


 呼吸。


 脈。


 傷口。


 何度も確認したあと、医師は顔を上げた。


「……残念ですが」


 その先は、聞きたくなかった。


 リオルが医師へ詰め寄った。


「……残念って何だよ」


「……」


「まだ、何もしてねえだろ!」


「……できる限り確認しましたが」


「だったら、もう一回やれよ!」


 リオルが叫んだ。


「今来たばっかりじゃねえか! ちゃんと診ろよ! あいつ、さっきまで普通に喋ってたんだぞ!」


 医師は黙った。


「……リオル」


 俺が腕に触れると、彼は振り払った。


「……触んな」


 低い声だった。


「……お前らも、何してたんだよ」


 俺は顔を上げた。


 リオルは俺とリゼを見ていた。


「二人とも、そこにいたんだろ」


「……うん」


「……だったら、何で」


 言葉が途切れた。


 俺は何も言えなかった。


 リゼも、唇を噛んだままだった。


 リオルはしばらく俺たちを睨んでいた。


 それから、顔を背けた。


「……くそっ」


 彼は石壁を殴ろうとして、左手を止めた。


 右腕は動かない。


 残った腕まで傷つけたら、もう誰かを守ることもできなくなる。


 そんなことを考えたのかどうか、俺には分からなかった。


 ただ、リオルは拳を握ったまま、その場に立ち尽くしていた。


     ◇


 灰色の男は、警護隊に拘束された。


 ほかの襲撃者たちも、何人かが捕らえられたという。


 逃げた者もいた。


 それを聞いた時、俺は何も感じなかった。


 ただ、ダグを刺した男が生きているということだけが、頭から離れなかった。


「……セイン」


 リゼが声をかけた。


 俺たちは小路の出口に立っていた。


 元受付係の女性は、警護隊に保護され、王宮へ向かう準備をしている。


 顔色は真っ青だった。


 けれど、彼女は自分の足で歩いていた。


「……あの人は、助かったんだね」


 俺が言うと、リゼは頷いた。


「はい」


「……ダグさんが、守ったから」


「……はい」


 彼女はそこで口を閉じた。


 俺も、もう何も言えなかった。


 守れた命がある。


 守れなかった命がある。


 どちらも目の前にあるのに、俺の頭はうまく働かなかった。


 その時、元受付係の女性が俺たちへ近づいてきた。


「……あの」


 俺は顔を上げた。


「……はい」


「警護隊の方は……」


 彼女の視線が、ダグの運ばれていった方へ向いた。


 俺は答えられなかった。


 代わりにリゼが言った。


「……亡くなりました」


 女性の顔が歪んだ。


「……そんな」


 彼女は口元を押さえた。


「……私のせいで」


 俺は反射的に、違いますと言いかけた。


 けれど、声が出なかった。


 女性はその場に膝をついた。


「……私が、あんな商会で働いていたから」


「……」


「もっと早く、本当のことを話していれば……」


 彼女は泣きながら首を振った。


 俺はその姿を見て、昨日のダグを思い出した。


 自分が悪かった。


 自分がもっと早く気づいていれば。


 同じ言葉を、何度も聞いてきた。


 でも、テオもダグも、もう戻らない。


 俺は女性の前にしゃがんだ。


「……あの」


 彼女が顔を上げる。


「……ダグさんは、あなたを守るために動きました」


 それだけ言った。


 立派だったとか、無駄じゃなかったとか、そんなことは言えなかった。


 俺が勝手に決めていいことではない気がしたからだ。


 女性は泣きながら頷いた。


「……私、話します」


 声が震えていた。


「今度こそ、全部話します。あの人が、何を命じたのか……」


 俺は頷いた。


「……お願いします」


 女性は立ち上がった。


 警護隊員に付き添われ、王宮へ向かって歩き出す。


 その背中を見送りながら、俺はふと思った。


 ダグは、あの女性が話すところを見たかったのではないだろうか。


 きっと、証言が終わったあとに、少しだけ笑っていたはずだ。


 そしてリオルに、またくだらないことを言われていたはずだ。


 その光景を想像した途端、息が詰まった。


     ◇


 王宮の調査室で、元受付係の証言が正式に記録された。


 調査官の前で、彼女は何度も声を震わせながら話した。


 ヨルンの殺害を命じたのは、グレゴール・ザントだった。


 商会では購入者の体調不良を把握していながら、記録を書き換えるよう指示されていた。


 そして、証言を撤回させるために、王宮の移送命令まで偽造された。


 今日の襲撃についても、灰色の男たちが自分を殺そうとしたと証言した。


 もちろん、そのすべてがグレゴール本人の直接指示だったと証明できたわけではない。


 だが、彼女の言葉は今度こそ正式な記録になった。


 取り消すには、新たな説明と証拠が必要になる。


 カイエンは証言を確認すると、警護隊の指揮官へ言った。


「……この件は、もはや商会との紛争という範囲ではない」


 その声は、いつもより低かった。


「殺人、誘拐、証人への脅迫、公文書の偽造。今回の襲撃が商会の指示によるものなら、王宮としても徹底的に調べなければならない」


 俺は黙って聞いていた。


 以前なら、その言葉を聞いて少し安心したかもしれない。


 王宮が正式に動く。


 調査が進む。


 証拠が集まれば、グレゴールを追い詰められる。


 それは間違っていない。


 でも、今の俺には、それだけでは足りなかった。


「……カイエンさん」


 俺が声をかけると、彼は顔を上げた。


「何だ?」


「ダグさんを刺した男は、どこにいるんですか」


「警護隊が拘束している。今は負傷の確認を受けさせた上で、取り調べの準備をしているところだ」


「……あの男が、誰の命令で動いたのか」


「当然、調べる」


 カイエンは頷いた。


「拘束時に所持していた荷札や書類も押収した。商会との関係を確認中だ」


 俺は顔を上げた。


「……荷札?」


「ああ。運河沿いの貨物管理に使われる形式だそうだ。番号が刻まれている」


 俺は小路で見た小さな金属板を思い出した。


 ダグも、それを見ていた。


 あの時、何かに気づいたような顔をしていた。


「……その番号、見せてもらえますか」


 俺が尋ねると、カイエンは少し眉を寄せた。


「捜査資料だ。今すぐ自由に見せるわけには……」


「……お願いします」


 俺は頭を下げた。


「ダグさんは、あの札を見て何かに気づいていました。何か手がかりになるかもしれないんです」


 カイエンはしばらく黙っていた。


 やがて、指揮官へ視線を向ける。


「……警護隊で確認した上で、必要な範囲を共有してくれ」


「承知しました」


 俺は顔を上げた。


「……ありがとうございます」


 カイエンは俺を見た。


「セイン」


「……はい」


「君たちが今日、何を失ったのかは分かっているつもりだ」


 俺は何も言わなかった。


「だが、怒りに任せて動けば、また別の誰かが危険にさらされる」


「……分かっています」


 そう答えた。


 けれど、自分でも本当に分かっているのか、分からなかった。


 怒りを抑えて、正しいことをする。


 これまで何度も、そう考えてきた。


 でも、正しいことをしている間に、テオは死んだ。


 今日、ダグも死んだ。


 その二つをどう受け止めればいいのか、まだ分からなかった。


     ◇


 夜になっても、リオルは第七係へ戻ってこなかった。


 警護隊の詰所にいると聞いて、俺は一度会いに行こうとした。


 けれど、入口まで来て足が止まった。


 何を言えばいいのか分からなかった。


 謝るのか。


 慰めるのか。


 それとも、何も言わずに隣にいるのか。


 結局、俺は扉を開けられなかった。


 その時、内側から声が聞こえた。


「……あいつ、いつもそうだったんだよ」


 リオルの声だった。


 誰かと話しているらしい。


「人を捜し始めると、何も見えなくなる。飯も忘れるし、寝るのも忘れるし……」


 声が少し途切れた。


「……俺が何回怒ったって、また同じことするんだ」


 俺は扉の前で立ち尽くした。


「……それで、今日も」


 しばらく、何も聞こえなかった。


 やがて、リオルが小さく笑った。


「……馬鹿だよな」


 その声が震えていた。


「……本当に、馬鹿なんだよ」


 俺は扉に手をかけた。


 けれど、開けなかった。


 しばらくして、中から誰かが椅子を動かす音がした。


 そして、リオルの声が聞こえた。


「……帰ったら、話すって言ったのにな」


 俺は目を閉じた。


 今朝、ダグは笑っていた。


 逃げるかよ、と言っていた。


 その時、リオルも少し笑っていた。


 俺も、今日こそ二人がちゃんと話せると思っていた。


 帰ったら。


 その言葉を、誰も疑わなかった。


 俺は扉から手を離した。


 廊下の窓の向こうに、王都の灯りが広がっている。


 今夜も、街はいつも通りに動いていた。


 誰かが家に帰り、誰かが食事を作り、誰かが明日の約束をしている。


 俺はその灯りを見つめた。


 明日になれば、また王宮の会議がある。


 調査が進み、書類が増え、誰かが判断を下す。


 でも、ダグはもう帰ってこない。


 テオも、帰ってこない。


 俺は廊下を歩き出した。


 足音だけが、冷たい石床に響いていた。


 このまま何も変わらなければ、また誰かが死ぬ。


 その予感だけが、どうしても消えなかった。

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