第九十一話 追跡者の足跡
人が一人死んでも、王都の朝は変わらなかった。
パン屋の前には焼きたてを待つ客が並び、荷馬車は通りの真ん中で道を塞ぎ、鐘楼からはいつもの鐘が聞こえてくる。
昨日、テオが死んだ。
俺にとっては、それだけで昨日までの王都とは別の場所になってしまったのに、通りを歩く誰もが普通の顔をしていた。
当たり前のことなのだろう。
それでも、腹が立った。
「……セイン」
名前を呼ばれて振り向くと、リゼが立っていた。
銀白の髪をいつもより簡単に束ね、手には書類の入った鞄を持っている。
「ダグさんは?」
「……さっき会った。どこかへ行くって」
「どこへ?」
「聞いたけど、答えてくれなかった」
リゼは少し眉を寄せた。
「……追いかけなかったんですか?」
俺は答えに詰まった。
今朝のダグは、あまりにも疲れた顔をしていた。
一人で考えたいこともあるのだろうと思った。
だから、無理に引き止めなかった。
そう説明しかけて、やめた。
「……俺、また同じことをしたのかな」
「同じこと?」
「テオにも言ったんだ。書類は明日でいいって」
リゼが黙った。
「ダグさんにも、落ち着いたら話そうと思った。でも……」
俺は通りの向こうを見た。
「落ち着くまで、待ってていいのかな」
リゼは少し考えてから答えた。
「……ダグさんの気持ちを考えることは、間違いではないと思います」
「うん」
「でも、今どこにいるかは確認した方がいいです」
俺は彼女を見た。
「一人にしてあげることと、一人にしておくことは、同じではありませんから」
その言葉で、ようやく足が動いた。
「……リオルのところへ行こう」
「はい」
俺たちは警護隊の詰所へ向かった。
◇
「ダグなら、夜明け前に来たぞ」
リオルは開口一番、そう言った。
「……夜明け前?」
「ああ。昨日の件で、どうしても確認したいことがあるってな」
「何を?」
「商会の元受付係だ」
俺は顔を上げた。
以前、ザント商会で働いていた女性。
購入者の体調不良を受理したのに、記録を書き換えるよう命じられた人物だ。
さらに彼女は、グレゴールがヨルンの殺害を直接指示した場にも居合わせていた。
その証言は、まだ正式な裏づけを集めている途中だった。
「……その人がどうかしたの?」
「昨日の夜、保護先の移動を求める通知が来たらしい」
リオルは机の上に書類を置いた。
「理由は、証人の安全確保。王宮の臨時調査室へ移すって話だ」
「それなら、普通じゃない?」
「そう思うだろ」
リオルは紙を指さした。
「でも、通知に書いてある担当者の所属が変なんだ」
俺には、一見すると普通の公文書に見えた。
王宮の印。
移送日時。
証人の名前を伏せた管理番号。
必要なことは揃っている。
「……どこがおかしいの?」
「この担当部署、三年前に統合されて名前が変わってる」
「……え?」
「古い様式を使った可能性もある。だから昨日のうちに、正式な発令かどうか照会してるんだ」
リゼが書類を覗き込んだ。
「照会の返事は?」
「まだ来てない」
「……じゃあ、その女性は?」
「今は護衛つきの保護先にいるはずだ」
リオルはそこで口を閉じた。
「……はず?」
俺が聞き返すと、彼は苦い顔をした。
「ダグが気にしてたのも、そこだ。移送先の記載はあるのに、誰が迎えに来るか、護衛が何人か、確認が取れない」
「だったら、どうして止めないんだよ!」
「止めるよう連絡は入れてる!」
リオルの声が大きくなった。
俺たちは黙った。
彼は額を押さえ、少ししてから続けた。
「……悪い。俺も苛立ってる」
「……ううん」
「ダグは、その通知が届いた経路を調べに行くって言ってた。あいつなら、どこを疑うか大体分かる」
「一人で?」
「止めたよ」
リオルが俺を見た。
「昨日、あんなことがあったばかりだしな。でも、あいつは言ったんだ」
『一人で突っ込むほど馬鹿じゃない。まず誰が何を運ぼうとしてるか調べる』
「……ダグさんらしいな」
「だろ」
リオルは少し笑いかけ、すぐに表情を消した。
「……俺も、そう思った」
その時、扉が勢いよく開いた。
「セインさん!」
飛び込んできたのはコレットだった。
蜂蜜色の短い髪が乱れ、頬が赤くなっている。
「よかった、ここにいた!」
「コレット? どうしたの?」
「救護院の人に聞いて、探してたんだよ!」
彼女は息を整える間も惜しんで言った。
「昨日亡くなった人のことで、何か分かったんじゃないかなって。あの商会から、また書類が届いたの!」
俺の背中が冷たくなった。
「……どんな?」
「亡くなった人の治療記録を確認したいなら、遺族の正式な申請が必要だって」
「……遺族?」
「そう。しかも、申請書を受け付けるのは商会の担当窓口だけなんだって」
リゼが顔をしかめた。
「テオさんのお兄さんは、すでに亡くなっています。ほかのご親族とは、まだ連絡が取れていないのに……」
「うん。救護院の人も困ってた」
コレットは握りしめていた紙を広げた。
「ねえ、セインさん。これって変だよね? 死んじゃった人のために必要な記録なのに、その人が死んだら、ますます取り出しにくくなるなんて」
俺は紙を受け取った。
商会の紋章が押されている。
何度も見た印だった。
「……本当に、どこまでも」
思わず紙を握り潰しかけた。
コレットが俺の手を見た。
「……セインさん」
いつもの明るい声ではなかった。
「私、昨日は救護院にいたんだ。でも、テオさんのこと、何もできなかった」
「……コレットのせいじゃないよ」
「うん。そう言ってくれると思った」
彼女は小さく笑った。
けれど、その笑い方が痛々しかった。
「でもね、私が誰かのせいじゃないって言われてる間に、あの人は死んじゃったんだよ」
俺は何も言えなかった。
コレットはすぐに顔を上げた。
「だから、今日は何か手伝いたい。書類を運ぶのでも、誰かを迎えに行くのでもいいから」
リゼが彼女の肩へ手を置いた。
「……ありがとう。でも、今は少し危険なことになっているかもしれません」
「知ってる」
「コレット?」
「だから、三人だけで何とかしようとしないで」
彼女は俺たちを順番に見た。
「……私にも、できることあるでしょ?」
俺は一瞬、救護院でコレットと一緒に荷物を運んだ日のことを思い出した。
あの時、コレットは仕事を抱え込みすぎて、倒れそうになっていた。
リゼが手伝おうと言っても、最初は遠慮していた。
最後には、少しずつ人に頼ることを覚えてくれたのに、今度は俺たちが遠慮する番になっている。
「……分かった」
俺は頷いた。
「じゃあ、手伝ってほしい」
コレットの顔が少しだけ明るくなった。
「うん!」
リオルが立ち上がる。
「よし。まずはダグを見つける。セイン、リゼ、俺と来い。コレットは救護院へ戻って、受付の人に確認してほしいことがある」
「何?」
「今朝、王宮の名を使って患者や証人を移すような連絡が来てないか。来てたら、その場で動かず、警護隊に知らせるよう伝えてくれ」
「分かった!」
「あと、知らない相手に病室を教えるなよ」
「それはもう、みんな気をつけてるよ!」
コレットは少し怒ったように言ってから、俺を見た。
「セインさん」
「何?」
「……今日は、誰も一人にしないでね」
俺は頷いた。
「……うん」
彼女は走り出した。
その背中を見送ってから、俺たちも詰所を出た。
◇
ダグを見つけたのは、北側の貨物通りだった。
古い荷車の車輪を調べている男がいる。
上着の袖を捲り、右手に巻いた包帯を汚しながら、地面を指でなぞっていた。
「……ダグさん!」
俺が呼ぶと、彼は振り向いた。
「……セインさん?」
「何やってるんですか!」
「……仕事です」
いつも通りの答えだった。
だが、目の下には深い隈ができている。
リオルが歩み寄った。
「お前、朝から何も食ってねえだろ」
「食ったよ」
「何を」
「……覚えてない」
「食ってねえじゃねえか」
ダグは苦笑いした。
「相変わらず細かいな」
「お前が雑になってるだけだ」
二人の間に、少し気まずい沈黙が落ちた。
昨日の喧嘩は、まだ終わっていない。
ダグは視線を落とし、足元の車輪跡を示した。
「……これを見てくれ」
泥の中に、二本の轍が続いていた。
「荷車の跡?」
俺が尋ねると、ダグは頷いた。
「見た目は普通の荷馬車だ。ただ、右側の車輪に古い傷がある。一定の間隔で、泥の端が少しだけ削れてる」
「……本当だ」
リゼがしゃがみ込んだ。
俺には単なる泥の跡に見えたが、よく見ると右側だけ小さな欠けが繰り返されている。
「これがどうしたんですか?」
「今朝、保護先の近くで同じ跡を見たんです」
リオルの表情が変わった。
「……証人の?」
「そうだ」
ダグは立ち上がった。
「王宮の正式な護送なら、警護隊の車両か、それに準じたものを使う。ところが保護先の近くに来ていたのは、荷台を布で覆った民間の馬車だった」
「……怪しいですね」
「ええ。だから運送業者を回って、似た車輪の車がないか聞いていたんです」
「見つかったの?」
ダグは首を横に振った。
「車そのものはまだ。ただ、この轍は北側の貨物通りから運河へ続いてる」
リオルが腕を組んだ。
「……それで、一人で追ってたのか」
「誰かに連絡してから動くつもりだったよ」
「その連絡は?」
「……今、するところだった」
リオルが睨む。
ダグは目を逸らした。
「……悪い」
少しして、彼は俺を見た。
「セインさん。テオさんのこと、すみませんでした」
「……え?」
「昨日、救護院で取り乱して。あなたにまでひどい態度を取った」
「そんなこと……」
俺は言いかけて、口を閉じた。
ダグは包帯の巻かれた右手を見ていた。
「……俺、あの人に術を返してほしいって言われた時、嬉しかったんです」
俺は顔を上げた。
「……嬉しかった?」
「はい」
ダグは笑わなかった。
「テオさんが苦しんでいるのに、俺は自分の〈追跡〉が戻るかもしれないと思った。それで、あの書類に署名した」
「……ダグさん」
「ずっと、あの力さえ戻ればって考えてた。テオさんの身体のことより、自分のことばかりだった」
リオルが口を開いた。
「……ダグ」
「分かってる。今さら俺が何を言ったって、あの人は戻らない」
ダグは包帯を握った。
「だから、せめて」
彼は足元の轍へ目を落とした。
「……今、守れる人を守りたいんだ」
その言葉は、静かだった。
俺は頷いた。
「……俺もです」
リオルがダグの肩を軽く叩いた。
「だったら、勝手に一人でやるな」
「……ああ」
「お前、昔からそうなんだよ。人を捜してる時だけ、周りの声が聞こえなくなる」
「お前に言われたくないな」
「俺はちゃんと聞いてるぞ」
「聞いた上で無茶するだろ」
リオルが少し笑った。
「……違いねえ」
ダグも小さく笑った。
ほんの一瞬だったが、俺はほっとした。
昨日からずっと、二人がこのまま口をきかなくなってしまうのではないかと思っていた。
けれど、次の言葉で空気が変わった。
「……あの女の人、まだ保護先にいるんですよね?」
俺が尋ねると、ダグは顔を上げた。
「……それが、分からないんです」
「え?」
「今朝、保護先の近くまで行った時、護衛の兵士が一人も見えなかった」
リオルが顔をしかめた。
「……どういうことだ?」
「入口にはいたんだ。でも、正門の警備だけだった。裏手の出入口が開いていて、荷馬車が一台出ていった」
俺の胸が嫌な音を立てた気がした。
「……まさか」
ダグは頷いた。
「その荷馬車と同じ車輪跡が、ここにある」
リゼが立ち上がった。
「……急ぎましょう」
◇
運河沿いの倉庫街は、昼間でも薄暗かった。
建物の隙間を縫うように細い道が続き、ところどころに荷車や木箱が積まれている。
ダグは足元を見ながら進んだ。
「……この先で曲がってる」
「分かるの?」
リゼが尋ねる。
「右の車輪だけ、溝が少し深い。荷が片側に寄ってるんでしょう」
ダグは立ち止まり、地面へ視線を落とした。
「……おかしいな」
「何が?」
「ここで一度止まってる」
俺には、ただ車輪の跡が濃くなっているように見えた。
「……荷物を積んだのかな」
「可能性はある。でも、止まった位置が変だ」
ダグは通りの端を指さした。
「普通、荷を積み直すなら倉庫の入口に寄せる。ところが、この車は道の真ん中で止まってる」
リオルが顔を上げた。
「……誰かを乗せた?」
「あるいは、降ろしたか」
その時だった。
奥の倉庫から、何かが倒れる音がした。
続いて、低い男の声。
「……静かにしろ!」
俺たちは顔を見合わせた。
リオルが左手で剣の柄を押さえる。
「……セイン、リゼ。ここにいろ」
「でも!」
「中の様子が分からねえ。まず俺とダグで確認する」
ダグが頷いた。
「裏口があるか見てくる」
「……一人で?」
俺が言うと、彼は振り向いた。
「大丈夫です。今度はちゃんと、戻ってきますよ」
軽く笑ってから、倉庫の横へ回った。
俺はその背中を見送った。
昨日なら、その言葉で安心しただろう。
でも、今日は違った。
「……リオル」
「何だ?」
「俺も、裏側を見てくる」
「おい、勝手に……」
「リゼと一緒に行く。中には入らない。ダグさんを見失わないようにするだけ」
リオルは少しだけ俺を見た。
「……分かった」
それから、声を落とす。
「何かあったら、すぐ合図しろ。自分たちだけで何とかしようとするなよ」
「うん」
俺とリゼは倉庫の横へ回った。
◇
裏口の近くで、ダグがしゃがみ込んでいた。
「……ダグさん」
小声で呼ぶと、彼は指を唇へ当てた。
俺たちは足を止めた。
倉庫の中から、女の声が聞こえていた。
「……私は、もう何度も話しました!」
聞き覚えのある声だった。
ザント商会の元受付係だ。
「だから、同じことを何回聞かれても……!」
「落ち着いてください」
男が答えた。
「私どもは、あなたの証言内容を確認したいだけです」
「……商会の人でしょう?」
「さて、どうでしょう」
俺の背中が冷たくなった。
ダグが小さく頷く。
「……いました」
彼は倉庫の扉を指さした。
「中に二人。少なくとも男が二人いる。正面に見張りが一人」
「……どうする?」
俺が尋ねると、ダグは考えた。
「警護隊へ連絡したい。ただ、ここから詰所まで戻ると時間がかかる」
「俺が走ります」
リゼがすぐに首を振った。
「セインはここにいてください。私が行きます」
「……リゼ」
「私の方が、警護隊に状況を説明できます」
彼女は俺を見た。
「それに、あなたは何かあればすぐ動ける場所にいた方がいいでしょう?」
俺は一瞬迷った。
けれど、今はどちらが正しいか言い合っている場合ではなかった。
「……分かった。お願い」
「はい」
リゼはすぐに走り出した。
ダグが倉庫の中を覗いた。
「……まずい」
「何が?」
「女の人、縛られてます」
俺は息を呑んだ。
ダグはしばらく中の様子を見ていたが、やがて俺へ向き直った。
「……セインさん」
「はい」
「あなたの〈返却〉で、人を外へ出すことはできますか?」
俺は首を振った。
「……できません。人間は落とし物じゃないですから」
「……そうですよね」
ダグは頷いた。
「だったら、普通に助けるしかない」
その言い方が、妙に落ち着いていた。
俺は思わず尋ねた。
「……怖くないんですか?」
ダグがこちらを見た。
「……怖いですよ」
少しだけ笑った。
「術があった頃より、ずっと」
彼は倉庫の中へ視線を戻した。
「でも、怖いからって、やめるわけにはいかないでしょう」
その時、正面から大きな声が響いた。
「警護隊だ! 中の者は動くな!」
リオルだった。
倉庫の中が騒がしくなる。
「……今だ」
ダグが立ち上がった。
俺たちは裏口へ駆け寄った。
◇
扉は、外側から閂が掛けられていた。
ダグがそれを外す。
中へ踏み込むと、薄暗い倉庫の奥に三人の男がいた。
一人は受付係の女性の腕を掴み、もう一人は木箱の上に置かれた書類を慌ててかき集めている。
「……誰だ!」
男が叫んだ。
「警護隊だ。女性を離せ」
ダグが低い声で答えた。
「……警護隊?」
「その人は保護中の証人だ。正当な移送命令もなく、連れ出した理由を説明してもらう」
男が舌打ちした。
「……面倒なことになったな」
次の瞬間、男は女性を突き飛ばした。
「きゃっ!」
俺は咄嗟に駆け寄り、倒れかけた身体を支えた。
肩に痛みが走ったが、今は気にしていられない。
「大丈夫ですか!」
「……あ、あなたは!」
女性は俺の顔を見るなり、震える声を上げた。
「お願い、助けて……!」
「大丈夫。ここから出ます!」
俺が言った時、奥の男が短剣を抜いた。
「……邪魔するな!」
刃がこちらへ向かってくる。
俺は女性を背中に庇った。
次の瞬間、ダグが男の腕を掴んだ。
「……セインさん、下がって!」
ダグは相手の手首を捻り、短剣を床へ落とさせた。
だが、男はすぐに体勢を立て直し、ダグへ殴りかかる。
ダグはそれを避けきれず、頬を打たれた。
「……っ!」
「ダグさん!」
「構わず、女性を外へ!」
ダグが叫ぶ。
俺は女性の手を引き、裏口へ向かった。
ところが、外へ出ようとした瞬間、別の男が木箱の陰から飛び出してきた。
「……逃がすか!」
腕を掴まれ、女性が悲鳴を上げる。
俺は反射的にその男へ体当たりした。
肩が激しく痛んだ。
それでも男は女性の腕を離さない。
「……離せよ!」
俺が叫んだ時、背後から何かが飛んできた。
木製の小さな箱だった。
男の肩に当たり、手が緩む。
「……何だ!」
振り向くと、ダグが立っていた。
「……セインさん!」
「はい!」
「今です!」
俺は女性の腕を引き、倉庫の外へ飛び出した。
直後、正面の扉が開く。
リオルと警護隊の兵士たちがなだれ込んできた。
「武器を捨てろ!」
鋭い声が響く。
男たちは抵抗したが、すぐに取り押さえられた。
俺は女性を壁際へ座らせた。
「……大丈夫ですか?」
「……はい」
彼女は震えていた。
「……ありがとうございます」
ダグが倉庫から出てきた。
頬が赤く腫れ、口元に血が滲んでいる。
「……ダグさん!」
俺が駆け寄ると、彼は手を振った。
「大丈夫です。このくらい」
「全然大丈夫じゃないですよ!」
「……そうですね。少し痛いです」
ダグが苦笑いした。
その時、リオルが近づいてきた。
「……お前、何やってんだよ」
声が低かった。
「……リオル」
「一人で突っ込むなって言っただろ」
「……セインさんもいた」
「そういう問題じゃねえ!」
リオルが怒鳴った。
ダグは黙った。
「……悪い」
小さく謝る。
リオルはしばらく睨んでいたが、やがて息を吐いた。
「……あとで、ちゃんと話すぞ」
「……ああ」
ダグは頷いた。
俺は二人を見た。
昨日より、ほんの少しだけ距離が近づいたように思えた。
それが嬉しかった。
◇
保護された女性は、警護隊の兵士に付き添われながら事情を説明した。
今朝、王宮から正式な移送命令が出たと言われ、保護先の職員が応対した。
ところが迎えに来た男たちは、途中で行き先を変更した。
「……最初は、王宮の調査室へ行くと言われたんです」
女性は震える声で話した。
「でも、馬車が違う方向へ曲がって……怖くなって尋ねたら、黙っていろって」
「……それで、この倉庫へ?」
「はい」
彼女は頷いた。
「ここで、もう一度証言を確認すると言われました」
ダグが顔を上げた。
「……どんな内容を?」
「……グレゴール様が、ヨルンさんを殺すよう命じたという話です」
女性は唇を噛んだ。
「そんなことは言われなかった。自分の勘違いだったと書けば、家族にも危害は加えないと……」
俺は息を呑んだ。
「……家族に?」
「はい。私の母は、王都の外れで一人暮らしをしています。住所も、全部知られていました」
女性は両手を握りしめた。
「……だから、怖くて」
ダグは静かに頷いた。
「……よく、話してくださいました」
「でも、私……」
女性が顔を上げた。
「私があの時、もっと早く止めていれば、ヨルンさんも……」
「……それは違います」
ダグが答えた。
思ったより強い声だった。
「あなたが悪いわけじゃない」
「……でも」
「悪いのは、命令した人間と、それを実行した人間です」
女性は泣き出した。
俺はダグを見た。
昨日、彼も同じようなことを言っていた。
自分が悪かった。
自分がもっと早く気づいていれば。
けれど、今は別の人に、そうではないと言っている。
その横顔を見て、俺は少しだけ胸が痛くなった。
ダグ自身は、まだ自分を許せていないのだろう。
◇
夕方、俺たちは王宮の臨時調査室へ向かった。
カイエンは報告を聞き終えると、長く息を吐いた。
「……証人が連れ出された件については、重大な問題だ」
彼は机の上に偽の移送命令書を置いた。
「警護隊の調査によれば、この通知に記された部署名は現在使われていない。王宮の正式な発令記録にも存在しない」
「……偽造ってことですね」
俺が尋ねると、カイエンは頷いた。
「少なくとも、正規の命令ではない。ただし、王宮の印影を模したものが使用されている。誰が作成したのか、どのように保護先へ届いたのかは調べる必要がある」
「……グレゴールの差し金でしょう」
リオルが言った。
カイエンは否定しなかった。
「その疑いは強い。証人が撤回を迫られた内容から考えても、商会に利益があるのは明らかだ」
「だったら、今すぐ商会を……!」
「セイン」
カイエンが俺を見た。
「私は商会を守るために、調査を遅らせているわけではない」
俺は口を閉じた。
「すでに関連部署には、証人への不当な接触と文書偽造の疑いを伝えた。今回拘束された男たちの身元も確認させている」
「……はい」
「だが、誰が命じたのかを証明しなければ、責任者までは追及できない」
カイエンは書類を揃えた。
「だからこそ、証人を守らなければならない」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「……守る?」
「ああ。今回の女性は、グレゴール本人の殺害命令を直接聞いたと証言している。彼女が正式な証言を行えば、商会にとって極めて不利になる」
カイエンは静かに続けた。
「その前に証言を撤回させようとしたのなら、また接触を試みる可能性がある」
「……じゃあ、どうするんですか」
「明日、王宮の正式な調査官立ち会いで、証言を記録する。その後は別の保護先へ移す」
俺は頷いた。
「……分かりました」
リゼが口を開いた。
「護衛は、どうされるんですか?」
「警護隊から選抜する。移送経路は必要な者だけに伝える」
リオルが一歩前へ出た。
「……俺も、護衛に加えてください」
カイエンが彼の右腕を見た。
「君は、まだ治療中だろう」
「分かってます。でも、現場で状況を知っている人間が必要です」
「……判断は警護隊の指揮官に任せる」
「ありがとうございます」
リオルは頭を下げた。
その隣で、ダグが静かに言った。
「……俺もお願いします」
俺は思わず彼を見た。
「……ダグさん」
「俺は今日、あの女性の移送に使われた馬車を追いました。相手がどんな車を使い、どの道を通ったのか、ある程度分かっています」
カイエンは彼を見た。
「……それは有用な情報だな」
「はい」
ダグは頷いた。
「それに、俺は警護隊員です。固有術がなくても、やれることはあります」
リオルが小さく息を吐いた。
「……お前、まだその話してんのか」
「……何が?」
「術がないとか、あるとか」
リオルはダグを見た。
「今日、あの人を見つけたのは誰だよ」
ダグが黙る。
「お前だろ」
「……ああ」
「だったら、もういいじゃねえか」
ダグは少しだけ笑った。
「……そうだな」
俺はそのやり取りを聞きながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
昨日までなら、こんなふうに笑い合う姿を見ることすら難しいと思っていた。
テオは戻らない。
それでも、生きている俺たちは、まだ何かを変えられる。
そう思いたかった。
◇
調査室を出ると、廊下にはコレットが待っていた。
「……あっ!」
俺たちを見るなり、彼女が駆け寄ってくる。
「無事だったんだ! よかった!」
「コレット?」
「救護院の人から聞いたよ。証人の女の人が連れ出されてたって」
彼女は俺とリゼを見た。
「怪我してない?」
「俺は大丈夫。ダグさんが少し……」
「……えっ!」
コレットはすぐにダグの顔を覗き込んだ。
「ちょっと! ほっぺた腫れてるじゃん!」
「……このくらい、大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ! ちゃんと診てもらって!」
ダグは困ったように笑った。
「……分かりました」
「絶対だよ!」
コレットはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「……テオさんのこと、聞いたんだ」
ダグの表情が変わった。
「……はい」
「私、あの人とちゃんと話したことはなかったけど……」
彼女は言葉を探していた。
「……生きててほしかったな」
誰も返事をしなかった。
コレットはそれ以上、無理に笑わなかった。
しばらくして、ダグが小さく頷いた。
「……俺もです」
その声を聞いた時、俺は胸の奥が苦しくなった。
テオの死を悼む言葉は、何度聞いても慣れなかった。
慣れたくもなかった。
◇
夜になり、第七係の部屋には俺とリゼだけが残っていた。
机の上には、今日の報告書が並んでいる。
偽の移送命令。
商会の元受付係の証言。
拘束された男たちの調書。
そして、テオの死亡に関する救護院の記録。
どれも大切な書類だ。
だが、昨日までの俺とは、その見え方が違っていた。
「……リゼ」
「はい」
「俺、今日ダグさんを追いかけてよかったと思う」
リゼは顔を上げた。
「……はい」
「一人で何とかしようとしてたら、また危なかった」
「そうですね」
「でも……」
俺は机の上の紙を見た。
「今日、助けられたのは、たまたま間に合ったからなんだよな」
リゼは何も言わなかった。
「もしダグさんが車輪跡を見落としてたら。もし俺たちがもう少し遅れてたら。あの人も、テオみたいに……」
そこまで言って、口を閉じた。
リゼが静かに答えた。
「……そうかもしれません」
俺は顔を上げた。
「でも、今日は間に合いました」
「……うん」
「だから、明日も間に合わせましょう」
その言葉に、俺は少しだけ笑った。
「……簡単に言うなあ」
「簡単じゃありませんよ」
リゼも小さく笑った。
「だから、考えるんです。今度は、考えたことをちゃんと行動に移すために」
俺は頷いた。
少し前まで、考えることは立ち止まることだと思っていた。
けれど、本当は違うのかもしれない。
考えるのは、走るべき時に迷わないためだ。
そう思った。
その時、扉が開いた。
「……まだいたのか」
リオルだった。
「どうした?」
俺が尋ねると、彼は一枚の紙を差し出した。
「明日の証人移送の件だ。正式に護衛が決まった」
「……誰が?」
「俺とダグ。それに警護隊から数人」
俺は頷いた。
「……そっか」
「お前たちには、証人が王宮へ着いた後の記録確認を手伝ってもらうことになる」
「分かった」
リオルは少しだけ肩を落とした。
「……あいつ、今日は随分張り切ってたな」
「ダグさん?」
「ああ。術がないなら、足で追えばいいってさ」
リオルは苦笑いした。
「……本当に、頑固な奴だよ」
俺は少し笑った。
「……でも、すごかったよ」
「……ああ」
リオルは頷いた。
「俺も、そう思う」
それから、静かに続けた。
「……明日、ちゃんと話すつもりだ」
「……何を?」
「昨日のこと。あいつに言いすぎたこととか、いろいろ」
リオルは右腕を見下ろした。
「……別に、謝りたいわけじゃねえけど」
「……そうなの?」
「いや、謝りたいんだけどな」
俺は思わず笑った。
「どっちだよ」
「うるせえ」
リオルも少し笑った。
その笑顔は、久しぶりに見た気がした。




