第九十話 明日でいい
「……セインさん、すみません」
テオがそう言ったのは、中央運河の橋を渡り終えたところだった。
さっきまで降っていた雨はやんでいたが、石畳には水が溜まり、通りを行く馬車の車輪が泥を跳ね上げている。
「どうしたの?」
「ちょっと、休んでもいいですか」
テオは橋の欄干に手をついた。
その右手が震えていた。
商会の相談室でも震えていたが、今は左手で押さえても止まらない。
「……大丈夫?」
「はい。最近、たまにこうなるんです」
テオは笑おうとした。
「情けないですよね。二百四十万ルクも払ったのに、買ったのがこんな手だなんて」
「笑い事じゃないよ。医者には?」
「診てもらってます。あまり使うなって言われてるんですけど、今日は何もしてないんですよ」
リゼがテオの顔を覗き込んだ。
「顔色がよくありません。救護院へ戻りましょう」
「でも、さっきの書類は……」
「書類より、身体の方が大切です」
きっぱりと言われ、テオは困ったように俺を見た。
「……リゼさん、怒ると怖いですね」
「怒っていません。心配しているんです」
「それも結構怖いです」
俺が笑うと、テオも少し笑った。
「とりあえず救護院に寄ろう。書類は明日、カイエンに持っていけばいいから」
「……そうですね」
テオは頷いた。
「明日なら、もう少し落ち着いて話せそうです」
そう言って歩き出したが、三歩目で足が止まった。
「……あれ?」
テオが自分の右手を見た。
指が開かない。
彼は左手で無理に指を伸ばそうとした。
「……何だ、これ」
「テオ?」
「……セインさん、俺」
その顔から、急に表情が消えた。
膝が折れる。
俺が腕を掴むより早く、テオの身体が石畳へ倒れ込んだ。
「テオ!」
駆け寄って肩を抱くと、彼の身体が大きく跳ねた。
歯を食いしばり、息を吸おうとしているのに、喉からかすれた音しか出てこない。
「リゼ! 救護院に人を呼んで!」
「はい!」
リゼが走り出す。
俺はテオの身体を支えながら、必死に呼びかけた。
「テオ! 聞こえる? テオ!」
彼の目がこちらを向いた。
何か言おうとしている。
顔を近づけると、ようやく声が聞こえた。
「……こわ、い」
俺の腕を掴む左手に力がこもった。
「大丈夫。すぐ医者が来るから」
そう言いながら、俺は初めて気づいた。
自分が、何一つ分かっていないことに。
◇
救護院の診察室から、医師が出てきた。
「あなたが付き添いの方ですか?」
「はい! テオはどうなったんですか!」
「今は発作が落ち着いています。ただ、脈と呼吸が安定しません。固有術の移転を受けた方ですね?」
「そうです。〈追跡〉を買って、それからずっと手が震えてて……」
「移転した時の記録は?」
「……記録?」
「どんな処置を受けたのか、何を使って術を定着させたのか。身体にどんな反応が出たのか、それが必要なんです」
俺はリゼを見た。
「……商会が持ってます」
「なら、至急取り寄せてください」
医師の声が鋭くなった。
「検査で何をしたか分からないままでは、こちらも手探りで対処するしかありません」
「……分かりました。王宮から正式に照会してもらいます」
医師が眉を寄せた。
「どれくらいかかります?」
「カイエンという上級執務官に直接話せば、たぶん……」
「たぶん、では困ります」
俺は口を閉じた。
「今すぐ必要なんです。医師からの緊急要請書を出します。それを持って、直接取りに行けませんか?」
「……はい」
「お願いします。患者さんは若い。できることは全部やりたいんです」
医師はそう言って、診察室へ戻っていった。
扉の向こうから、何かを動かす音と、短い指示の声が聞こえてくる。
俺はその場に立ったまま、動けなかった。
「……セイン」
リゼが声をかけた。
「商会へ行きましょう」
「……うん」
俺は頷いた。
「でも、先にカイエンへ連絡を……」
「セイン!」
リゼの声に、顔を上げた。
彼女は俺の腕を掴んでいた。
「今、必要なんです」
その顔を見て、ようやく俺も理解した。
明日の調査ではない。
次の会議でもない。
今、この瞬間に必要なのだ。
「……分かった」
俺は医師が持ってきた要請書を受け取った。
「リゼはテオのそばにいて。俺が商会に行く」
「一人で?」
「リオルを呼ぶ。警護隊の立場からも要求してもらう」
「……お願いします」
リゼは頷いた。
俺は廊下を走り出した。
肩の古傷が引きつったが、構っていられなかった。
◇
ザント商会の本店に着いた時、外はもう暗くなっていた。
リオルが入口の扉を押し開ける。
「緊急だ! 責任者を呼んでくれ!」
受付の男が立ち上がった。
「……どういったご用件でしょうか」
「テオ・ベルクの移転記録が必要なんだ。本人が救護院に運ばれた。医師からの正式な要請書もある!」
俺が紙を差し出すと、男は目を通した。
「……少々、お待ちください」
「急いでるんだよ!」
リオルが声を荒らげる。
「人が死にかけてるんだぞ!」
「承知しております。ただ、こちらは機密資料になりますので……」
「機密だろうが何だろうが、医者が必要だって言ってるんだ!」
男は黙った。
奥へ引っ込もうとした、その時だった。
「おやおや。どうなさいました?」
階段の上から、聞きたくもない声がした。
グレゴール・ザントだった。
上等な上着を着たまま、ゆっくりと階段を下りてくる。
「こんな時間に、ずいぶん賑やかですな」
「グレゴール!」
俺は受付の机へ要請書を叩きつけた。
「テオが倒れた! 商会で受けた固有術移転の記録を出してくれ!」
「……テオ?」
「テオ・ベルクだよ! あんたの商会で〈追跡〉を買った!」
「ああ。あの青年ですか」
グレゴールは思い出したように頷いた。
「それはお気の毒に」
「医者が記録を必要としてるんだ。何を使って、どういう処置をしたのか、全部!」
「なるほど」
彼は要請書を手に取った。
軽く目を通し、隣の職員へ渡す。
「確認してください」
「……今すぐ出してくれ!」
「セイン君。落ち着いてください」
「落ち着いてられるか!」
グレゴールは小さく首を傾げた。
「私も彼の回復を願っておりますよ。ただし、診療記録の中には商会の機密技術が含まれます。患者本人の同意や開示範囲の確認は必要でしょう」
「医者からの要請書があるだろ!」
「ええ。ですから、確認しております」
彼は微笑んだ。
「慌てて誤った情報をお渡ししては、かえって危険ですからね」
俺は拳を握りしめた。
さっきまでテオの身体を押さえていた手が、まだ震えている。
「……あんたは知ってたのか?」
「何をでしょう」
「テオの身体が悪くなるってことを」
グレゴールは答えなかった。
「ずっと手が震えてたんだ。商会にも何度も相談してた。なのに、どうしてちゃんと治療しなかった!」
「私どもは医療機関ではありませんから」
「だったら医者に記録を渡せよ!」
受付の男が顔を上げた。
「……会長」
小さく声をかける。
「当該患者の資料ですが、移転後の経過報告に、重度の不調に関する記載が……」
「今、ここで読む必要はありません」
グレゴールが遮った。
俺はその男を見た。
「……重度の不調?」
「……いえ、その」
「何が書いてあるんだ!」
男が答える前に、グレゴールが口を開いた。
「セイン君。医学的な判断を、商会の受付でなさるおつもりですか?」
俺はグレゴールを睨んだ。
「……知ってたんだな」
「何を?」
「危ない状態になるかもしれないって、記録に残ってたんだろ!」
「危険性の記録が存在することと、実際の症状との因果関係は別の問題です」
グレゴールは声を荒らげなかった。
「それを混同されては困ります」
リオルが一歩前へ出た。
「もういい。今は責任の話をしてるんじゃねえ。記録を出せ」
「ですから、確認を……」
「何回言わせるんだ!」
リオルが机を蹴った。
大きな音がして、受付の男が飛び上がる。
その勢いで右腕を動かしかけたリオルは、苦痛に顔を歪めた。
「……くそっ」
グレゴールは一瞬だけ彼の腕を見た。
それから、俺へ視線を戻した。
「お二人とも、あまり感情的にならない方がよろしい。こうした場で暴れられると、対応そのものを中断せざるを得ませんから」
その時、俺は気づいた。
こいつは俺たちが怒ることを待っている。
俺かリオルが手を出せば、それを理由に話を終わらせられる。
テオに必要な記録を、渡さないままで。
「……分かった」
俺は机から手を離した。
「だったら、ここで待つ。医者が必要だって言ってる部分だけでも、今すぐ出してくれ」
グレゴールは少しだけ目を細めた。
「……承知しました」
職員を呼び寄せ、何か小声で指示する。
俺たちはその場で待った。
壁の時計の針が動く。
奥の部屋で扉が開く。
紙をめくる音がする。
いつまで経っても、誰も戻ってこなかった。
「……なあ、セイン」
リオルが言った。
「うん」
「俺、今すぐあいつを殴った方が、少しは早くなる気がしてきた」
「……俺も」
けれど、殴らなかった。
今はテオを助けることが先だ。
そう考えるようになった自分を、少し前なら成長したと思えたかもしれない。
俺たちは、もう一度職員に催促した。
返ってきたのは、同じ言葉だった。
「ただいま確認しております」
◇
ようやく書類を受け取った時には、外の雨がまた降り始めていた。
「……これだけ?」
俺は紙束を見た。
わずか数枚。
移転実施日、購入した固有術の種類、一般的な注意事項。
それだけだった。
「肝心の処置内容は?」
リオルが尋ねる。
職員は申し訳なさそうに頭を下げた。
「技術上の機密事項は、別途開示の判断が必要でして……」
「……ふざけんなよ」
リオルの声が低くなった。
俺は紙束を握った。
「これじゃ医者が困るって、何回言えば分かるんだよ!」
「恐れ入りますが、私の権限では……」
職員は目を伏せた。
その後ろで、グレゴールは静かに立っていた。
「可能な範囲では、迅速に対応したつもりです」
俺は彼を見た。
「……迅速?」
「ええ」
「……あんたにとって、人が死ぬまでの時間って、そんなに長いのか?」
グレゴールは少し考えるような顔をした。
「人によるでしょうね」
俺は言葉を失った。
「命の価値をどう考えるかは、実に難しい問題です。私の一存で技術上の機密をすべて開示すれば、多くの取引先に損害を与えることになりますから」
「……テオは取引先じゃないのかよ」
「もちろん、大切なお客様です」
グレゴールは微笑んだ。
「ですから、できる限りの対応をしております」
リオルが俺の肩を掴んだ。
「……行くぞ」
「でも!」
「もうここにいても、何も出てこねえ!」
俺は紙束を握りしめたまま、入口へ向かった。
階段の上から、グレゴールの声が追いかけてきた。
「セイン君」
足が止まる。
「彼が回復したら、ぜひお伝えください」
俺は振り向いた。
グレゴールは、いつもの笑顔だった。
「商会としても、たいへん心配していた、と」
俺は何も言わず、扉を開けた。
今、あの顔をもう一度見たら、本当に殴ってしまいそうだった。
◇
救護院の廊下に戻ると、リゼが立っていた。
その隣にはダグもいる。
ダグは俺たちの姿を見ると、すぐに近づいてきた。
「……記録は?」
「これだけです」
俺が紙を渡すと、ダグは急いで目を通した。
その表情が変わった。
「……処置内容がない」
「出してくれませんでした」
ダグは紙を握りしめた。
「……あいつら」
リオルが声をかける。
「ダグ、今は……」
「分かってる」
ダグは顔を上げなかった。
「分かってるから、黙っててくれ」
リオルが口を閉じた。
二人はまだ、まともに顔を合わせられていなかった。
俺は診察室の扉を見た。
「……テオは?」
リゼが答える前に、扉が開いた。
医師が顔を出す。
「書類は届きましたか?」
「はい。ただ……」
差し出した紙束を、医師は素早く確認した。
途中で手が止まる。
「……これでは足りません」
「……すみません」
「謝っていただきたいわけではありません。必要な情報がないんです」
医師は紙を机へ置いた。
「こちらで処置を続けます。ですが、今の状態では何が起きてもおかしくありません」
その言葉に、ダグが顔を上げた。
「……テオは、死ぬんですか」
医師は一瞬、言葉を選んだ。
「……助けるために、できることをしています」
誰も、それ以上聞けなかった。
扉が閉まる。
しばらくして、廊下の奥から看護の職員が走ってきた。
診察室へ飛び込んでいく。
中から医師の声が響いた。
俺は椅子から立ち上がった。
リゼが俺の腕を掴む。
「……セイン」
「……何?」
「今は、ここにいましょう」
俺は頷いた。
椅子に座る。
すぐに立ち上がる。
また座る。
それを何度か繰り返した。
足元には、濡れた靴から落ちた水が溜まっていた。
父さんなら、そんな靴を見たらすぐに脱げと言うだろう。
革が傷むから。
手入れすれば、まだ長く履けるから。
なのに俺は、目の前の扉の向こうにいる人間をどうすれば助けられるのか、何も知らなかった。
◇
扉が開いたのは、それから少し経ってからだった。
「……ご家族の方は、いらっしゃいますか」
医師が尋ねた。
俺たちは顔を見合わせた。
「……家族は」
テオの兄ヨルンは、もう亡くなっている。
ほかの家族の連絡先は、俺たちには分からなかった。
「俺たちは……知人です」
ダグが答えた。
医師は小さく頷いた。
「ご本人が、皆さんに会いたいとおっしゃっています」
俺たちは診察室へ入った。
テオは寝台に横たわっていた。
顔色はひどく悪かったが、目は開いていた。
「……あ」
俺たちを見て、少しだけ笑う。
「……みんな、来てくれたんですね」
「当たり前だろ」
俺が答えると、テオは小さく頷いた。
「……すみません」
「謝らなくていいから。今はゆっくり休んで」
テオの視線が、俺の手元へ移った。
「……書類」
喉から絞り出すような声だった。
「……見つかりました?」
「……うん。少しだけ」
「……そっか」
彼は目を閉じた。
「……俺、やっぱり、何か変だったんですね」
ダグが寝台のそばへ進んだ。
「テオさん。今はそんなこと、考えなくていいです」
「……ダグさん」
「はい」
「……俺、あの時」
テオは震える右手を持ち上げようとした。
ダグがそっと支える。
「……返したいって言いましたよね」
「……はい」
「……でも」
息が途切れる。
テオは苦しそうに眉を寄せた。
「……やっぱり、怖いです」
ダグが手を握った。
「……大丈夫です。ここにいますから」
「……これが、なくなったら」
テオは右手を見た。
「……俺、元に戻れますか」
ダグは答えられなかった。
「……もう一回、普通に字を書けますか。仕事に戻って……買い物に行って……」
テオは唇を震わせた。
「……兄さんの革袋、直したいんです」
俺は顔を上げた。
「……革袋?」
「……はい。あの時、返してもらったやつ」
ヨルンの遺品。
テオが昔、縫い直した革袋だ。
「あれ、また糸がほつれてて……」
テオは弱々しく笑った。
「……俺、直し方、知ってるんですよ。でも、今は手が……」
「……だったら、俺も手伝うよ」
言ってから、俺は自分の声が妙に大きいことに気づいた。
「俺の父さん、靴職人だからさ。革の縫い方なら教えられるし、道具だってある。一緒に直せるよ」
テオは俺を見た。
「……本当ですか」
「うん。だから、元気になったら持ってきてよ」
彼は小さく頷いた。
「……じゃあ」
息を吸う。
「……明日、話しましょう」
俺は頷いた。
「……うん」
テオの指が、ダグの手を握った。
「……ダグさん」
「はい」
「……俺、死にたくないです」
その声は、さっきまでよりはっきりしていた。
ダグの顔が強張る。
「……テオさん」
「……兄さん、いなくなったのに」
テオは首を振ろうとした。
「……俺まで、いなくなるの、嫌だ……」
涙が頬を伝った。
「……まだ、何も……」
突然、身体が大きく跳ねた。
医師が駆け寄る。
「皆さん、離れてください!」
俺たちは寝台から引き離された。
テオが何かを掴もうとして、左手を伸ばす。
ダグが反射的に手を伸ばした。
けれど、医師に制止される。
「外へ! 今すぐ!」
「……テオ!」
ダグの声が響いた。
俺はその腕を掴んだ。
「ダグさん、今は医者に……!」
「離してください!」
ダグが俺を振り払った。
「テオさん! 聞こえますか!」
テオの目が、一瞬だけこちらを向いた。
それから、閉じた。
俺たちは部屋の外へ押し出された。
扉が閉まる。
中から、慌ただしい足音が聞こえた。
医師が何かを叫んでいる。
器具のぶつかる音がする。
誰かが廊下を走っていく。
俺は扉に手をついた。
「……頼む」
自分の声が聞こえた。
「……頼むから」
誰に頼んでいるのかも、分からなかった。
◇
医師が出てきた時、その顔を見ただけで分かってしまった。
分かりたくなかった。
「……あの」
俺が尋ねる前に、ダグが一歩前へ出た。
「……テオさんは?」
医師は深く頭を下げた。
「……申し訳ありません」
それだけだった。
リゼが息を呑んだ。
リオルは壁に手をついたまま動かなかった。
「……いや」
ダグが呟いた。
「……だって、さっきまで」
医師は何も言わなかった。
「……さっき、話してたじゃないですか」
ダグは医師の顔を見た。
「明日、革袋を直すって……」
誰も答えなかった。
ダグは一度、笑った。
笑ったように見えた。
「……何だよ、それ」
次の瞬間、彼は壁を殴った。
鈍い音がした。
「……何だよ!」
もう一度、拳を振り上げる。
俺とリオルが止めた。
「ダグさん!」
「離せ!」
「ダグ!」
「離せよ!」
ダグは暴れた。
リオルの右腕にぶつかりかけ、俺が慌てて身体を押さえる。
「……あいつ、まだ若いんだぞ!」
ダグが叫んだ。
「兄貴を見つけて、これからだったんだぞ! 何でだよ! 何でまた、あいつらが……!」
言葉が途切れた。
ダグはその場に膝をついた。
両手で顔を覆い、何度も首を振っている。
「……俺が」
小さな声だった。
「……俺が、あの商会に連れて行かなければ……」
リオルが口を開きかけた。
けれど、何も言わなかった。
俺も言えなかった。
ダグは悪くない。
テオだって悪くない。
そう言えば、少しは楽になるのだろうか。
寝台の上で、死にたくないと言っていたテオの顔が浮かんだ。
あいつには、そんな言葉を聞く明日すら来ない。
俺は膝に置いた自分の手を見た。
何度も握って、開いた。
さっきまでテオの手を支えていた。
生きていた。
確かに、温かかった。
それなのに、もう二度と話せない。
俺は、誰かの死というものを、今までちゃんと考えたことがなかったのだと思う。
人がいなくなることも、遺された人が泣くことも知っていた。
ヨルンを見つけた時だって、テオの悲しむ姿を見ていた。
けれど、頭のどこかでは、俺たちは間に合うものだと思っていた。
苦しい事件があっても、調査を進めれば、証拠を集めれば、誰かを助けられる。
失敗したら、次に活かせばいい。
少し前の俺は、考えるより先に走っていた。
それを仲間に何度も止められて、ようやく考えてから動くようになった。
自分でも、少しは成長したつもりだった。
でも。
考えて、報告して、許可をもらって、それから動けばいい。
そんなふうに思えるのは、明日も相手が生きていると、勝手に信じていたからだ。
「……先生」
俺は医師を呼び止めた。
「……はい」
「記録が、ちゃんと届いていたら……助かりましたか?」
医師はすぐに答えなかった。
「……分かりません」
俺は顔を上げた。
「必要な情報があれば、危険な処置を避けたり、別の方法を選べたりした可能性はあります。ですが、確実に救えたとは申し上げられません」
「……そうですか」
「ただ」
医師は、俺たちが持ち帰った紙束を見た。
「治療に必要な情報を、確認することさえできなかった。それは事実です」
俺は頷いた。
助けられたかもしれない。
助けられなかったかもしれない。
でも、あの商会は、確かめるための情報すら渡さなかった。
俺はその紙束を手に取った。
わずか数枚。
端に、商会の紋章が押されている。
今日という一日の中で、俺たちは何度も書類を読んだ。
そして、テオは死んだ。
◇
翌朝、俺はほとんど眠らないまま第七係へ向かった。
王宮の門を抜けたところで、通りに人だかりができているのが見えた。
紙を配る男がいる。
「ザント商会からのお知らせです!」
その声を聞いた瞬間、足が止まった。
男は刷り物を道行く人へ配っていた。
「固有術移転後に亡くなられた青年について、商会から正式な声明が出ています!」
俺は男の手から一枚取った。
そこには、大きな文字でこう書かれていた。
『ザント商会、若き購入者の急逝に深い哀悼』
記事には、テオの名前があった。
商会は購入者の健康を常に気遣ってきたこと。
再検査の機会を設けていたこと。
しかし、本人との調整が整わず、必要な検査を完了できなかったこと。
そして、固有術移転と死亡の因果関係については、現時点で確認されていないこと。
最後に、グレゴールの言葉が載っていた。
『若い命が失われたことは誠に痛ましく、当商会としても深く心を痛めております。ご遺族には弔慰金をお渡しし、今後も誠意をもって対応してまいります』
俺は何度も読み返した。
テオは検査を受けようとしていた。
自分の身体に何が起きたのか、知りたがっていた。
必要な記録を渡さなかったのは商会の方だった。
それなのに、今朝の王都では、グレゴールが若者の死を悼む立派な商人になっている。
「……昨日、亡くなった人なんでしょう?」
近くにいた女性が言った。
「まあ……お気の毒に」
別の男が刷り物を読みながら頷いた。
「商会も大変だな。補償までしてくれるんだろ?」
「そうみたいね。立派な人もいるものだわ」
俺はその場から動けなくなった。
昨日、グレゴールは俺に言った。
『商会としても、たいへん心配していた、と』
あれは、テオに伝える言葉じゃなかった。
こうして世間に伝えるための言葉だったのだ。
俺は紙を握りしめた。
破いてしまいたかった。
でも、破かなかった。
紙に書かれている一行一行を、もう一度見た。
テオが何を望んでいたか。
何を怖がっていたか。
何のために生きたかったか。
そんなことは、どこにも書かれていなかった。
書かれているのは、商会がどれだけ誠実だったかという話ばかりだった。
その時、背後から声がした。
「……セインさん」
振り向くと、ダグが立っていた。
右手には包帯が巻かれている。
昨夜、壁を殴った時の傷だろう。
彼は俺の持っている紙を見た。
「……もう、出たんですね」
「……はい」
ダグは手を伸ばした。
俺は刷り物を渡した。
彼は一度だけ目を通し、紙を二つに折った。
そして、震える声で言った。
「……テオさん、最後に何て言ってました?」
俺はダグを見た。
「……兄さんの革袋を直したいって」
ダグが頷いた。
「……ほかには?」
俺は息を吸った。
「……死にたくないって、言ってました」
ダグは動かなかった。
しばらくして、小さく頷いた。
「……そうですか」
それから、刷り物を上着の内側にしまった。
「……ダグさん?」
「……俺、行かなきゃいけないところがあるんです」
「どこに?」
ダグは答えなかった。
ただ、俺の顔を見た。
「……セインさん」
「はい」
「テオさんは、死にたくなかったんですよね」
「……はい」
「……だったら」
彼の声が、少しだけ震えた。
「何で死んだのか、ちゃんと知りたいんです」
俺は頷いた。
「……俺もです」
ダグは少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
そして、歩き出した。
俺はその背中を見送った。
声をかけようとして、やめた。
ダグにも、一人で考える時間が必要なのかもしれない。
そう思ったからだ。
それが正しい判断だったのか、俺には分からなかった。
ただ、昨日までの俺なら、きっと同じように考えていた。
明日、話せばいい。
落ち着いてから聞けばいい。
今すぐでなくても、まだ時間はある。
テオにも、そう言った。
俺は商会の方角を見た。
石畳を踏みしめる足に、力が入る。
明日という言葉が、これほど恐ろしく聞こえたことはなかった。




