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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第四章 才能の値札

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第八十九話 取り戻したい


「もし、失くした固有術が戻ると言われたら、どうしますか?」


 朝の第七係で、ダグがそんなことを尋ねてきた。


 俺は机に置きかけた湯飲みを止めた。


「……戻るんですか?」


「分かりません。ですが、こんなものが届きまして」


 ダグが差し出した封筒には、ザント商会の紋章が押されていた。


 リオルの顔つきが変わる。


「おい。何だよ、それ」


「今朝、警護隊の詰所に届いた。差出人が俺宛てだと知って、上官が渡してくれたんだ」


 ダグは封筒から一枚の紙を取り出した。


『旧保持者優先再適合審査のご案内』


 見慣れない言葉が並んでいる。


 俺が読み進めると、ダグは机の端に腰を預けた。


「成人間の固有術移転に伴う不適合を調べ、元の保持者への再移転が可能か審査するそうです」


「……そんなことができるの?」


 リゼが尋ねた。


「そこまでは書かれていません。ただ、可能性のある方には優先的に検査を行う、と」


 リオルが紙を奪うように受け取った。


 しばらく読んでいたが、やがて鼻で笑った。


「馬鹿馬鹿しい。こんなの、どう見たって罠だろ」


「かもしれないな」


「かもしれない、じゃねえよ! お前の〈追跡〉を勝手に持っていった連中だぞ!」


「分かってる」


「だったら、何でわざわざ持ってきたんだよ」


 ダグは答えなかった。


 俺はもう一度、案内状を覗き込んだ。


 末尾には小さな文字で、審査に必要な条件が記されている。


『譲渡手続きに関する異議が継続している案件については、検査の実施を保留する場合があります』


「……これって」


 俺が指さすと、リゼが隣から覗いた。


「商会への異議を取り下げないと、検査を受けられないということでしょうか」


「そのように読めますね」


 ダグが静かに答えた。


「……分かってて行くつもりなんですか?」


 俺が聞くと、ダグは小さく笑った。


「まだ行くとは言ってませんよ」


「でも、迷ってるんですよね」


 今度は答えなかった。


 リオルが紙を机に叩きつけた。


「ダグ。俺は反対だ」


「だろうな」


「お前が強制的に術を奪われたことは、王宮でも調べてるんだぞ。今さら商会の言いなりになってどうする!」


「……リオル」


「何だよ」


「お前には、まだ〈均衡〉があるだろ」


 リオルが口を閉じた。


 ダグはすぐに視線を逸らした。


「……悪い。今のは余計だった」


「いや」


 リオルは右腕を見下ろした。


 固定具で吊られた腕は、もう随分長いこと自由に動かせていない。


「……言いたいことは分かるよ」


「分かるなら、少し考えさせてくれ」


 ダグは案内状を拾い上げた。


 その指先が、わずかに震えていた。


     ◇


 ダグが〈追跡〉を失ってから、もう何度も一緒に捜索をしてきた。


 北門の旧染物場では、彼の観察力がなければ、水路側から運び出されようとしていた患者たちを見つけられなかっただろう。


 ヨルンの行方を突き止めたのも、固有術ではなく、ダグ自身の経験と判断だった。


 だから俺は、彼なら大丈夫だと思っていた。


 術がなくても、人を捜す仕事を続けていける。


 そう信じていた。


 けれど、その考えがダグ自身の気持ちと同じかどうか、尋ねたことはなかった。


「……ダグさん」


 俺が声をかけると、彼は顔を上げた。


「はい」


「前に、人を捜すのは諦めないって言ってましたよね」


「言いました」


「俺、あの時すごいなと思ったんです。術がなくても、ちゃんと人を見つけてたから」


 ダグは黙って聞いていた。


「だから、今さらあんな商会を頼らなくても……」


「セインさん」


 静かな声だった。


「一つ、聞いてもいいですか」


「……はい」


「もし明日から〈返却〉が使えなくなったら、どうします?」


 思いがけない質問だった。


「……え?」


「落とし物を見つけても、持ち主に返すことができない。今までできていたことが、急にできなくなるんです」


 俺は返事を探した。


 手を伸ばせば届いていたはずのものが、届かなくなる。


 持ち主が目の前にいても、自分には何もできない。


「……困ると思います」


「でしょうね」


 ダグは頷いた。


「でも、周りの人はきっと言ってくれますよ。セインさんには靴を直す腕もある。人を助ける気持ちもある。〈返却〉がなくたって、立派な返却士だって」


 俺は何も言えなかった。


「……それで、納得できますか?」


 ダグの顔には、怒りも笑みもなかった。


「俺は、まだ納得できていないんです」


 リオルが口を開きかけたが、ダグはそれを制した。


「仕事が嫌になったわけじゃない。むしろ逆だ。人を捜すのが好きなんだよ。だから、取り戻せるかもしれないと言われたら……」


 そこで一度、息を吐いた。


「……気になって仕方ない」


 俺は案内状を見た。


 商会は、それを分かった上で送ってきたのだろう。


 ダグが何を失い、何を欲しがっているのか。


 書類の向こうにいる誰かが、正確に知っている。


     ◇


 案内状に指定されていたのは、中央運河沿いの旧倉庫だった。


 午後、俺たちはダグに同行してそこへ向かった。


 カイエンの命令で停止されたのは、危険な移送や一部の取引、それに王国事業としての手続きだった。商会がすべての診察や相談まで禁止されたわけではない。


 その隙間を突くように、建物には『固有術適合相談室』という看板が掲げられていた。


「……悪趣味だな」


 リオルが吐き捨てた。


「昨日は生活救済、今日は適合相談かよ。次は何を始めるつもりだ」


「客が来るうちは、何でもやるんでしょうね」


 ダグが答えた。


 入口には商会の職員が立っていた。


 俺たちを見ると、丁寧に頭を下げる。


「ご予約の方でしょうか?」


「ダグ・ハーランです」


 ダグが名乗ると、職員は名簿を確かめた。


「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


「同行者も入れますか?」


「相談内容には個人情報が含まれますので、原則としてご本人のみですが……」


「立会人として来ています」


 リオルが警護隊の身分を示した。


「本人が希望するなら、同席させてもらいたい」


 職員は少し困ったような顔をした。


 しかし、ダグが頷くと、それ以上は拒まなかった。


「では、こちらでお待ちください。担当者をお呼びします」


 通された部屋には、長机が一つ置かれていた。


 壁際には木箱が積まれ、奥には厚い布で仕切られた検査用らしい区画がある。


 棚には革の手袋や金属製の器具が並んでいた。


 それらを見ているうちに、北門の施設で見た寝台や拘束具が頭に浮かんだ。


 もちろん、ここにある器具が同じ目的に使われているとは限らない。


 それでも、落ち着かない。


「……ダグ」


 リオルが小声で言った。


「嫌になったら、すぐ帰るぞ」


「分かってる」


「本当に分かってんのか?」


「お前は俺の母親か」


「母親だったら、そもそも来させねえよ」


 ダグが少し笑った。


「……そうだな」


 その時、奥の仕切りが動いた。


 出てきたのは、以前リオルの売却拒否を受け付けた商会の代理人だった。


「おや。皆様もご一緒でしたか」


 男は笑みを浮かべた。


「本日は、旧保持者様向けの相談です。競売ではございませんので、ご安心ください」


「……安心できる要素が一つもないな」


 リオルが言った。


 代理人は聞こえなかったふりをした。


「それでは、始めましょう」


     ◇


「まず、誤解のないよう申し上げます」


 代理人は机に書類を広げた。


「現在、固有術を元の保持者へ安全に戻せるという確証はございません」


 ダグの顔が強張った。


「……では、なぜ呼んだんですか」


「可能性を調べるためです。元の保持者と、移転後の受領者。それぞれの状態を比較する必要がありますので」


「受領者を特定できているんですか?」


 リゼが尋ねた。


「候補者はおります。ただし、同じ固有術かどうかの確定には至っておりません」


 代理人はあくまで慎重な言い方をした。


「ですので、現段階では再移転をお約束できません」


 ダグは黙っていた。


 俺は案内状の文面を思い出した。


 そこには、戻せるとは一度も書かれていなかった。


 ただ、戻るかもしれないと思わせる言葉だけが並んでいたのだ。


「……検査を受けるには、何が必要なんですか」


 ダグが尋ねた。


 代理人は一枚の紙を差し出した。


「まず、これまでの申告内容を整理していただきます」


 俺は横から紙を読んだ。


『譲渡手続きに関する申告訂正書』


 胸の奥に嫌な予感が広がった。


「……訂正?」


 ダグも同じ言葉を繰り返した。


「はい。ダグ様は以前、本人の意思に反して固有術が搬出されたと申し立てられましたね」


「事実です」


「もちろん、そのように認識されたことは理解しております」


 代理人は頷いた。


「ただ、商会といたしましては、本人確認の行き違いがあった可能性も含め、改めて調べたいと考えております」


「……行き違い?」


「ええ。そこで、こちらの書類にご署名いただきたいのです」


 ダグが紙を受け取った。


 俺も目を通す。


『従前の申告について、手続きの理解に相違があった可能性を認め、当該申告に基づく異議をいったん取り下げる』


「……待ってください」


 俺は思わず声を上げた。


「これじゃ、ダグさんが間違ってたことになるじゃないですか!」


「そのようなことは申し上げておりません」


 代理人は落ち着いていた。


「ただ、互いの認識を整理した上で、前向きに検査を進めたいのです」


「検査と、異議の取り下げは別でしょう?」


 リゼが言った。


「その通りです。ただし、紛争中の案件は検査結果の取り扱いにも問題が生じやすいので」


「それは商会側の都合ですよね」


「そうとも言えますね」


 代理人はあっさり認めた。


「ですが、検査を実施するのも私どもですから」


 リオルが椅子から立ち上がった。


「……結局、認めろってことだろ。自分が売ったかもしれません、って」


「そのような表現はしておりませんよ」


「言葉を変えてるだけじゃねえか!」


 代理人は肩をすくめた。


「ご納得いただけないのであれば、本日の検査は見送らせていただきます」


 ダグが紙を握りしめた。


 その時だった。


 奥の仕切りの向こうから、何かが床に落ちる音がした。


「……っ、すみません!」


 続いて、聞き覚えのある声がした。


 俺は振り向いた。


 布の隙間から、一人の青年が姿を現した。


「……テオ?」


 青年も俺を見て、驚いたように足を止めた。


「……セインさん?」


 テオ・ベルクだった。


 兄ヨルンを捜すため、二百四十万ルクで〈追跡〉を買った青年。


 その右手は、以前よりも強く震えていた。


     ◇


「……どうして、ここに?」


 俺が尋ねると、テオは困ったように笑った。


「購入した術の不調について、再検査を受けるよう連絡が来たんです」


「……再検査?」


「はい。手の震えが続いているので、原因を調べたいって」


 彼は右手を左手で押さえた。


 指先が細かく揺れている。


「王宮の医師にも診てもらっています。でも、術を移した時の詳しい記録は商会が持っているそうで……」


 俺は代理人を見た。


「……同じ日に呼んだのは、偶然ですか?」


「双方の経過を比較する機会ですから、予定を合わせることはございます」


 代理人は平然と答えた。


「ただし、何度も申し上げている通り、お二人の固有術が同一のものかどうかは、まだ確認できておりません」


 ダグが立ち上がった。


「……テオさん」


「……ダグさん」


 二人が向き合った。


 以前、ダグは〈追跡〉なしで、テオの兄を捜し出した。


 その結果は、誰も望んでいなかった。


 それでも、テオはダグに感謝していた。


 だが今、二人は別の立場でここにいる。


「……手、ひどくなってませんか」


 ダグが尋ねた。


 テオは苦笑した。


「最近、字を書くのも少し大変で。医者には無理に発動するなと言われてます」


「……そうですか」


「でも、ダグさん」


 テオは顔を上げた。


「もしかしたら、この〈追跡〉……あなたのものかもしれないんですよね」


 ダグはすぐに答えなかった。


「……まだ、そうとは決まっていません」


「はい。分かってます」


 テオは頷いた。


 そして、震える手を見下ろした。


「……もし、本当にあなたのものだったら」


 言葉が途切れた。


 テオは一度唇を結び、それから続けた。


「……返したいです」


 ダグの表情が変わった。


「……え?」


「俺、もう使いたくないんです」


 テオは無理に笑おうとした。


「買った時は、兄さんを見つけられると思ったんです。二百四十万ルクも払ったんだから、きっと見つけられるって」


 声が震えた。


「でも、兄さんはもう死んでた。俺が買うより前に……」


 部屋が静かになった。


「こんな力、何のために買ったんだろうって、毎日思うんです」


 テオはダグを見た。


「もし、あなたが取り戻せるなら……俺は、それでいい」


 ダグは何も言えなかった。


 俺も、言葉が出なかった。


 その時、代理人が静かに口を開いた。


「実に素晴らしいお考えですね」


 テオが顔を上げる。


「買い手の方が、元の保持者へ返したいと願う。私どもも、そうした円満な解決を望んでおります」


 その言葉に、リオルが鋭く反応した。


「……おい」


「はい?」


「今の話を、商売に使うんじゃねえぞ」


 代理人は目を丸くした。


「とんでもない。ただ、双方が望まれるのであれば、前向きな検討ができると申し上げたまでです」


「だったら、さっさと検査してくれよ」


「もちろんです」


 男は微笑んだ。


「先ほどの書類にご署名いただければ、審査を開始いたします」


 ダグの手元に、もう一度紙が置かれた。


 俺はようやく、代理人が何を狙っていたのか分かった気がした。


 術を失った人間には、取り戻せるかもしれない希望を。


 買った人間には、手放せるかもしれない希望を。


 二人を同じ部屋へ呼び、互いの願いを見せた上で、商会に都合のいい書類へ署名させようとしている。


「……ダグさん」


 俺が声をかけた。


「それには、署名しない方がいいです」


 ダグは答えなかった。


 紙を見つめたまま、ゆっくりと椅子に座った。


「……もし」


 彼が代理人へ尋ねた。


「これに署名したら、本当に検査を受けられるんですか」


「審査を開始することはお約束できます」


「術が戻るかどうかは?」


「結果を見なければ分かりません」


 ダグは頷いた。


 それから、筆記具を手に取った。


「……ダグ!」


 リオルが声を上げた。


「やめろって!」


 ダグは顔を上げなかった。


「分かってる」


「だったら!」


「分かってるんだよ!」


 突然、ダグが怒鳴った。


 俺たちは息を呑んだ。


 普段のダグからは、想像もできない声だった。


「俺が何を失ったか、お前に全部分かるのか!」


 リオルが動きを止めた。


「……ダグ」


「俺はあの力で、何人も見つけてきた。迷子も、行方不明者も、帰れなくなった人も!」


 ダグの声が震えた。


「それが、ある朝突然使えなくなった。自分の意思で売った覚えなんか、一度もないのに!」


 彼は紙を握りしめた。


「なのに、戻せるかもしれないって言われたら、今度はお前たちが諦めろって言うのかよ!」


「……そんなこと言ってねえだろ!」


「同じだろ!」


 ダグは立ち上がった。


 リオルの右腕へ目を向ける。


「お前の腕は、治ればまた使える! 〈均衡〉だってなくなってない! でも俺の〈追跡〉は、戻るかどうかも分からないんだぞ!」


 リオルの顔が強張った。


 それでも、何も言い返さなかった。


 ダグは唇を噛んだ。


「……悪い」


 小さな声だった。


「そんなこと言いたいわけじゃないんだ」


 テオが一歩前へ出た。


「……ダグさん」


「……はい」


「俺のために、無理しないでください」


 ダグは目を上げた。


「……俺は」


 テオは震える手を握った。


「俺だって、この術がどうなったらいいのか、まだ分からないんです。だから、嘘を書いてまで……」


 その言葉を聞いて、ダグはしばらく黙っていた。


 やがて、椅子へ座り直した。


「……テオさん」


「はい」


「あなたのためじゃありません」


 彼は苦しそうに笑った。


「俺が、取り戻したいんです」


 そして、紙に自分の名前を書いた。


     ◇


「……確かに、承りました」


 代理人が署名済みの紙を受け取った。


 ダグは筆記具を置いたまま、動かなかった。


「それでは、検査日程については改めてご連絡いたします」


「……今日じゃないんですか」


 ダグが顔を上げる。


「本日は、申告内容の整理と事前相談ですから」


「……でも、審査を始めるって」


「もちろん。こちらの書類を受領した時点で、手続きは開始しております」


 代理人は微笑んだ。


「ただし、実際の検査には設備や担当者の準備が必要です。日程は追ってお知らせいたします」


 ダグは何も言わなかった。


「……それと」


 リゼが口を開いた。


「今の書類は、正式な異議の取り下げとして扱われるんですか?」


「ご本人が、そのように署名されましたので」


「でも、ダグさんは固有術を自分の意思で譲渡したとは言っていません」


「ええ。そこまでは書かれておりませんね」


 代理人は頷いた。


「ただ、従前の申告に基づく異議を取り下げる。こちらについては、ご本人が明確に意思を示されました」


 リゼが唇を結んだ。


 ダグが署名したのは事実だった。


 商会に脅されて手を動かしたわけでもない。


 それでも、戻るかもしれないという期待がなければ、書かなかったはずだ。


 俺は代理人を睨んだ。


「……あんたたち、最初からそのつもりだったんだろ」


「何のことでしょう?」


「術を戻す話なんかじゃなくて、異議を取り下げさせるために呼んだんじゃないのか!」


 代理人は困ったように笑った。


「セイン様。私どもは、ご本人の希望を尊重しただけでございます」


 その言葉が、ひどく耳障りだった。


 俺が何か言い返そうとすると、ダグが立ち上がった。


「……帰りましょう」


 顔を上げないまま、彼は出口へ向かった。


 リオルはその背中を見ていたが、追いかけなかった。


     ◇


 外へ出ると、細かな雨が降っていた。


 中央運河の水面に、小さな輪がいくつも広がっている。


 ダグは建物の前で立ち止まり、しばらく空を見上げた。


「……馬鹿なことをしたと思うか?」


 突然、彼が尋ねた。


 リオルは答えなかった。


「……リオル」


「思うよ」


 短い返事だった。


 ダグが顔を向ける。


「俺は、お前が馬鹿なことをしたと思ってる」


 リオルの声は低かった。


「俺たち、あの北門で何を見た? 何人助けた? 何人、助けられなかった?」


「……分かってる」


「分かってるなら、どうしてあいつらに名前を渡した!」


「……お前に、何が分かるんだよ」


 ダグが呟いた。


 リオルの眉が動く。


「……何?」


「お前はまだ、元に戻れるだろ」


「……ああ?」


 リオルの顔から表情が消えた。


 ダグは自分でも言いすぎたと気づいたのか、口を閉じた。


 けれど、もう遅かった。


「……俺の腕のこと、そんなふうに思ってたのか」


「……違う」


「違わねえだろ。さっきから何度も言ってんじゃねえか」


 リオルは右腕を見下ろした。


「医者は治るって言ってるよ。けど、いつ前みたいに動くかなんて、まだ分からねえんだ」


 雨が固定具の布を濡らしていく。


「……俺だって、今すぐ現場に戻りたいよ」


 その声には、怒りだけでないものが混じっていた。


「ダグと並んで走ってた頃みたいに、何も考えず剣を振って、誰かを助けたいんだよ」


 ダグは目を伏せた。


「でも、今はできない。だから、できることを探してる」


「……分かってる」


「いいや。分かってねえよ」


 リオルは左手で額を拭った。


「お前が術を失っても人を捜してたから、俺もまだやれるって思えたんだ」


 ダグが顔を上げた。


「……お前が?」


「ああ。情けねえ話だけどな」


 リオルは苦笑いしなかった。


「だから腹が立つんだよ。お前が、自分には何も残ってないみたいな顔をするから」


 ダグは何も言わなかった。


「……あの時、テオの兄さんを見つけたのは誰だ?」


 リオルが尋ねる。


 ダグは目を伏せたまま答えた。


「……俺だよ」


「そうだろ。術なんかなくたって、お前は……」


「見つけたのは、遺体だ」


 リオルの言葉が止まった。


 ダグは顔を上げた。


「俺が見つけたのは、帰ってこない人間だった」


「……ダグ」


「もっと早く見つけられたんじゃないかって、今でも考える。〈追跡〉があれば、ほかの道を見つけられたかもしれないって」


「ヨルンさんが亡くなったのは、お前のせいじゃねえだろ!」


「知ってるよ!」


 ダグが叫んだ。


 雨の音に混じって、声が響いた。


「知ってる! そんなの、頭では分かってるんだよ!」


 彼は顔を伏せた。


「……でも、考えちまうんだ」


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 やがて、リオルが小さく息を吐いた。


「……だったら、俺に言えよ」


 ダグが顔を上げる。


「戻したいって。苦しいって。何でもいいから言えよ」


 リオルは怒った顔のままだった。


「俺たち、同期だろ」


 ダグの口元が動いた。


 だが、返事は出なかった。


 リオルはそれ以上、何も言わなかった。


「……先に戻る」


 そう言い残し、雨の中を歩き出した。


 ダグは追いかけなかった。


     ◇


「……俺、どうしたらよかったんでしょうね」


 しばらくして、ダグが呟いた。


 俺は隣に立っていた。


 リゼも少し離れた場所で、運河を見つめている。


「……分かりません」


 俺は正直に答えた。


「俺も、あの場で何て言えばよかったのか……」


 ダグは小さく笑った。


「セインさんらしいですね」


「……そうですか?」


「はい。分からないことを、分かったふりしないところが」


 彼は濡れた髪を掻き上げた。


「……俺、リオルにひどいこと言いました」


「……はい」


「自分でも嫌になるくらい」


 俺は黙っていた。


 ダグは運河の向こうを見た。


「でも、後悔してるかって聞かれたら……署名したことは、まだ後悔してないんです」


「……え?」


「馬鹿だって分かってますよ。でも、あれで検査を受けられる可能性が残ったと思うと、少しだけ息ができる気がする」


 俺は何も言えなかった。


「……人間って、嫌なもんですね」


 ダグは自嘲するように笑った。


「自分が正しいと思ってたことを、こんなに簡単に曲げられるんだから」


 彼は俺へ顔を向けた。


「セインさん。お願いします」


「……何ですか?」


「俺が署名したことで、調査が難しくなるかもしれません。でも、ほかの被害者たちのことまで諦めないでください」


 俺は頷いた。


「……もちろんです」


 ダグはほっとしたように笑った。


 それから、警護隊の詰所へ戻ると言って歩き出した。


 俺はその背中を見送った。


 自分の意思で売った覚えはない。


 あれほど強く言っていたダグが、今日、自分の手で異議を取り下げた。


 それでも、彼が固有術を自発的に譲ったことにはならない。


 その違いを、商会が大切に扱うはずはなかった。


     ◇


「……セイン」


 隣に来たリゼが、静かに声をかけた。


「何?」


「今日、少し分かった気がします」


「……何が?」


「グレゴールが、どうしてあれほど自信を持っていられるのか」


 俺はリゼを見た。


「昨日は、お金に困っている人たちを利用しました。今日は、失った固有術を取り戻したい人の気持ちを利用した」


「……うん」


「そして、どちらも本人が選んだことにしてしまうんです」


 リゼは唇を噛んだ。


「強制した証拠なんて残さなくても、相手が自分から署名するように仕向ければいい」


 俺は先ほどの部屋を思い出した。


 ダグもテオも、嘘をついていたわけじゃない。


 どちらも、本当に自分の人生を取り戻したかった。


 だからこそ、利用された。


「……でも」


 リゼが続けた。


「今日のことで、一つはっきりしたことがあります」


「何?」


「商会は、元の保持者と受領者の状態を比較しようとしています。しかも、あの二人を同じ日に呼び出した」


「……ああ」


「同じ固有術だと確定したわけではありません。でも、商会には、その可能性を調べるための記録や手段があるはずです」


 俺は顔を上げた。


 リゼは頷いた。


「だったら、そこを調べましょう。本人たちに異議を取り下げさせるのではなく、商会が何を根拠に二人を候補者として選んだのか」


「……カイエンに相談する?」


「はい。検査の安全性についても、王宮で確認してもらう必要があります」


 俺は頷いた。


 ダグが署名した以上、その事実をなかったことにはできない。


 だが、商会が過去に何をしたのかまで消えるわけではない。


「……分かった。明日、行こう」


 リゼも頷いた。


 その時、背後から声がした。


「……あの」


 振り向くと、テオが立っていた。


 雨に濡れた上着を握りしめ、息を切らしている。


「テオ? どうしたの?」


「……これ、見てください」


 彼は鞄から一枚の紙を取り出した。


 商会で渡された再検査の案内だった。


 裏面には、細かな文字が印刷されている。


「さっき、帰ろうとして気づいたんです」


 テオは震える指で、その一行を示した。


『再検査対象者の術式照合には、原帰属者記録及び搬出履歴を使用する』


 俺はリゼを見た。


「……搬出履歴?」


 テオが続けた。


「俺が術を買った時は、元の持ち主のことは教えられないって言われたんです。売り手が誰かも、どこから来た術なのかも」


「……うん」


「でも、これって……」


 彼は紙を握りしめた。


「商会は、持ち主を調べるための記録を持ってるってことですよね?」


 リゼの表情が変わった。


 俺は紙を受け取った。


 そこには確かに、原帰属者記録という言葉がある。


 六年前、第三搬出路の返送確認欄が廃止されていた。


 それなのに、今の商会は固有術の搬出履歴を使って、元の保持者と受領者を照合しようとしている。


 同じ記録とは限らない。


 それでも、確かめる価値はあった。


「……テオ」


 俺が顔を上げると、彼は頷いた。


「俺も、もう黙って言われる通りにするのは嫌なんです」


 握った手は、まだ震えていた。


「兄さんのことも、俺が買った術のことも……ちゃんと知りたい」


 リゼが一歩近づいた。


「その案内書を、王宮に提出してもらうことはできますか?」


「……はい」


 テオは迷わず答えた。


「必要なら、俺が直接話します」


 俺はもう一度、紙を見た。


 ダグが失った〈追跡〉。


 テオが買った〈追跡〉。


 まだ、その二つが同じものかは分からない。


 けれど、商会自身が、元の持ち主を調べる記録の存在を認めている。


 だったら、確かめる方法はあるはずだ。


 雨の向こうに、運河沿いの倉庫が並んでいた。


 さっきまであの建物の中で、ダグは失ったものを取り戻すために署名した。


 今度は俺たちが、商会が隠しているものを見つけ出す番だった。

本日もお読みいただき、ありがとうございます。


物語を楽しんでいただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


明日も更新予定です。引き続きよろしくお願いいたします。

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