第八十八話 拍手の値段
「……こいつを、リゼの家に届けたのか」
俺が尋ねると、リゼは机の上に置いた紙を見下ろした。
『次は、誰の生活を壊しますか?』
赤いインクで書かれた文字は、印刷された記事よりずっと乱暴だった。
「はい。今朝、扉に挟まっていました」
「誰か見なかったの?」
「いいえ。近所の方にも聞きましたけど、分からないそうです」
リゼは淡々と答えたが、紙の端を押さえる指には力が入っていた。
リオルが舌打ちする。
「気に入らねえな。記事だけでも腹が立つのに、住んでる場所まで知られてるなんて」
「警護隊には報告しておきます」
「それは俺からも頼んでおく。しばらく一人で帰るなよ」
「……分かりました」
リゼは素直に頷いた。
けれど、次の言葉は少し違った。
「でも、外へ出るなとは言わないでくださいね」
「誰も言ってないだろ」
俺が答えると、リゼはちらりとこちらを見た。
「セインは言いそうでしたから」
「……そんなに信用ない?」
「昨日のことがありますから」
俺は返す言葉を失った。
昨日、リゼは救護院の患者情報を探っていた男を見つけた。だが、大勢の前で問い詰めてしまったため、男は商会からの生活支援を見合わせられた。
その男、ヨゼフには、腹を空かせた娘がいるという。
俺たちを批判する記事は、そこだけを切り取って作られていた。
「おい、二人とも」
リオルが窓を指さした。
「ちょっと外を見てみろ」
通りの向こうを、紙束を抱えた少年が走っていく。
「ザント商会の臨時救済! 今日限り、生活支援金をお渡しします!」
大声で呼びかけながら、道行く人へ紙を配っていた。
リオルの表情が険しくなる。
「今朝の刷り物を配ってた連中と同じだと思うか?」
「分からない。でも、随分準備がいいな」
俺が答えると、リゼは窓際へ歩み寄った。
受け取った人々が、紙を見ながら何か話している。
「……行きましょう」
リゼが言った。
「今度は、何を始めるつもりなのか確かめたいです」
「リゼ」
俺が呼ぶと、彼女は振り向いた。
「昨日みたいに、いきなり問い詰めたりしません。分かっています」
そう言ってから、少しだけ眉を寄せる。
「でも、何もしないで待つのは嫌です」
リオルが立ち上がった。
「だったら俺も行く。警護隊の仕事として、見ておきたいことがある」
「右腕は?」
「まだ折れてる」
「堂々と言うなよ!」
「左腕と両足はあるだろ」
リオルは上着を羽織り、扉へ向かった。
「それに、昨日みたいなことがまた起きるなら、今度は俺も黙ってられない」
その声には、いつもの冗談めいた調子がなかった。
◇
救護院から二筋ほど離れた広場に、大きな天幕が建てられていた。
入口にはザント商会の紋章が掲げられ、その下に『臨時生活救済金交付』と書かれている。
広場は人で溢れていた。
杖をついた老人、赤ん坊を抱えた女性、仕事着のまま並ぶ職人。誰もが手に書類を握り、天幕の奥に置かれた机を見つめている。
机の上には銀貨の入った箱がいくつも並んでいた。
「……すごい人数だな」
俺が呟いた時、壇上に男が現れた。
よく仕立てられた上着。
指に光る大きな宝石。
そして、人好きのする笑顔。
グレゴール・ザントだった。
「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
穏やかな声が広場に響いた。
「療養中のご本人も、ご家族も、たいへんな思いをされていることでしょう。商売を続けられなくなった方、家賃に困っている方、明日の食事を心配されている方もいらっしゃると聞いております」
人々が静かになった。
「本来なら、こうした苦しみは一日でも早く取り除かれるべきです。しかし残念ながら、昨日、私どもの支援事業に不当な疑いが向けられました」
俺の隣で、リゼの肩が動いた。
「ですが!」
グレゴールは両手を広げた。
「人々の暮らしを、争いの犠牲にしてはなりません。そこで本日は、私個人の判断で支援金をお渡しすることにいたしました!」
拍手が起きた。
最初はまばらだったが、すぐに広場全体へ広がっていく。
「……昨日のことを利用してる」
リゼが小さく言った。
その通りだった。
昨日、支援を見合わせられたヨゼフの姿が頭に浮かぶ。
あいつは、今日も娘に食事をさせられずにいるのだろうか。
そう考えた時、人混みの中に見覚えのある顔を見つけた。
「……いた」
ヨゼフだった。
薄汚れた上着を着て、小さな女の子の手を握っている。
女の子は七つか八つくらいだろうか。髪を細い紐で結び、父親の後ろに隠れるように立っていた。
ヨゼフは俺たちに気づくと、露骨に顔を背けた。
「……セイン」
リゼも見つけたらしい。
俺は頷いた。
「今は声をかけない方がいい」
「……はい」
リゼは唇を結んだ。
壇上では、グレゴールが支援金の説明を続けていた。
「ただし、私どもも無制限にお金を配れるわけではありません。正しく支援するため、申請者の皆様にはお名前とご住所、療養中のご家族の状況を確認させていただきます」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「……待てよ」
「どうしました?」
「患者の名前だ」
リゼもすぐに気づいた。
昨日、救護院を訪ねていた男は、患者の名前や病室を知ろうとしていた。
だが、今なら。
金を必要としている患者や家族が、自分から商会へ名前と住所を書きに来る。
リオルが低い声で呟いた。
「……救護院へ忍び込む必要がなくなったってわけか」
机の前では、すでに何人かが書類を受け取り、記入を始めていた。
グレゴールは満足そうに頷く。
「私どもは、苦しんでいる方を一人でも多く助けたい。そのためには、皆様のご協力が必要なのです」
また拍手が起きた。
今度は、さっきよりも大きかった。
◇
「……おや?」
壇上から降りてきたグレゴールが、俺たちに気づいた。
「これはこれは。第七係の皆様ではありませんか」
周囲の何人かが振り向いた。
俺は嫌な予感がした。
「本日は視察ですかな? それとも、また支援を止めに?」
「……そんなつもりはありません」
リゼが答えた。
「では、ご覧になってください」
グレゴールは微笑んだ。
「昨日、不当な疑いを向けられたにもかかわらず、商会はこうして支援を続けております」
「患者さんの情報を集めているんですか?」
リゼが尋ねた。
「支援対象を確認するために、必要な情報をいただいております」
「病室や症状まで、詳しく知る必要があるんでしょうか」
「必要な場合もあるでしょうね」
グレゴールは当然のように答えた。
「療養の程度によって、必要な金額も変わりますから」
「それは、本人が納得しているんですか?」
「もちろんです。誰にも強制はしておりません」
彼は記入台を指さした。
「支援を望まない方は、申請しなければよろしい。実に簡単な話でしょう?」
俺は思わず拳を握った。
「……金がなくて困ってる人に、それを言うのかよ」
「おや、セイン君」
グレゴールが笑った。
「困っているからこそ、私どもはお金をお渡しするのですよ」
「だったら、余計な条件をつけるなよ!」
声が大きくなった。
近くにいた人々がこちらを見る。
「何をお怒りなのか、私には分かりませんな」
グレゴールは困ったように眉を下げた。
「私がしようとしているのは、ただの慈善事業です。王宮の皆様も、困窮者の生活を守るお立場でしょう?」
「……それと患者の情報を集めることは、別です」
リゼが言った。
グレゴールは彼女へ向き直った。
「では、どこまでなら聞いてよいのでしょう? 名前も住所も聞かず、見知らぬ相手へお金を渡せと?」
「そうは言っていません」
「なるほど。でしたら、条件をお示しください。皆様が納得できる方法があるのなら、私もぜひ教えていただきたい」
リゼは返事をしなかった。
名前も住所も確認せずに金を配ることはできない。
だが、商会がその情報を何に利用するのかは分からない。
俺たちが即答できないことを、グレゴールは最初から知っているようだった。
「……実に残念です」
彼は周囲へ聞こえる声で言った。
「昨日は支援を妨害され、今日は必要な手続きにまで疑問を向けられる。どうやら私どもは、何をしても叱られてしまうらしい」
人混みから不満そうな声が上がった。
「もういいだろ、早く配ってくれよ!」
「こっちは遊びで並んでるんじゃないんだ!」
誰かがリゼを指さした。
「あの女だろ、昨日の!」
リゼの顔色が変わった。
俺が前へ出かけた時、リオルが左手で俺の腕を掴んだ。
「……今ここで怒鳴ったら、向こうの思うつぼだ」
「でも!」
「分かってるよ!」
リオルも怒っていた。
掴んだ指に力が入っている。
「だからこそ、少し考えろ」
俺は歯を食いしばった。
その時だった。
「……あの!」
人混みの向こうから声がした。
ヨゼフだった。
彼は娘の手を引き、恐る恐るグレゴールへ近づいてきた。
「私は……昨日、支援を見合わせられた者です」
グレゴールは驚いたように目を見開いた。
「おお、ヨゼフさん!」
声を弾ませ、彼の手を取る。
「昨日は大変でしたね。お嬢さんもご一緒ですか」
「……はい」
ヨゼフは娘を背中へ隠した。
「生活支援の件、もう一度お願いできないでしょうか」
その声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
グレゴールは優しく頷いた。
「もちろんです。困っている方を見捨てるつもりなどありませんよ」
ヨゼフの顔に、ほっとした色が浮かんだ。
「ただし、一つだけ」
グレゴールが続けた。
「昨日の件について、誤解を解いていただきたいのです」
「……誤解?」
「あなたは、大勢の前で商会から何かを頼まれたとおっしゃったそうですね」
ヨゼフの肩が強張った。
「……それは」
「お気持ちは分かります。突然問い詰められて、取り乱してしまったのでしょう」
グレゴールは穏やかに言った。
「ですが、あなたが患者の名前を聞きに行ったことと、私どもの支援事業を結びつけられては困ります」
男の唇が震えた。
「……私は、頼まれて」
「誰に?」
グレゴールの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「その方のお名前は? 正式な職員でしたか? 商会の指示書はお持ちですか?」
ヨゼフは答えられなかった。
グレゴールは小さく息を吐いた。
「困りましたな。証拠のない話で商会の信用を傷つけられては、ほかの皆様への支援にも支障が出てしまう」
「……そんな」
「ですから、訂正していただきたいのです」
彼は隣の職員に合図した。
差し出されたのは、一枚の紙だった。
「あなたが救護院を訪れたのは、ご自身の判断だった。それだけ確認できれば、支援金をお渡しできます」
ヨゼフは紙を見つめた。
「……これに、署名を?」
「ええ」
グレゴールは微笑んだ。
「もちろん、無理にとは申しません」
その言葉と同時に、ヨゼフの娘が父親の袖を引いた。
「……お父さん」
「何だ?」
「今日、パン買える?」
ヨゼフが動かなくなった。
女の子は父親の顔を見上げている。
「昨日、お父さんが明日は買えるって言ったから……」
広場のざわめきが遠くなった気がした。
ヨゼフは娘の頭を撫で、ゆっくりと紙を受け取った。
「……分かりました」
俺は思わず声を上げた。
「待ってください!」
ヨゼフが振り向く。
「それに署名したら、全部あなたの責任にされるんですよ!」
「……分かってるよ」
「だったら!」
「分かってるって言ってるだろ!」
ヨゼフが怒鳴った。
俺は口を閉じた。
「昨日だって、あんたらが正しいことを言ってたのは分かってる。あいつらがまともじゃないことだって……!」
彼は娘の手を握り直した。
「でも、あんたらが帰ったあと、俺には何が残った?」
「……ヨゼフさん」
リゼが声をかけた。
男は彼女を見た。
「頼むから、もうやめてくれ」
その目には怒りよりも、深い疲れがあった。
「この子の前で、俺をこれ以上みじめにしないでくれよ」
リゼは何も言えなくなった。
ヨゼフは震える手で筆記具を握った。
そして、紙に名前を書いた。
グレゴールが満足そうに頷く。
「ありがとうございます。これで、皆様にも安心して支援を続けられます」
隣の職員が銀貨の入った小袋を渡した。
ヨゼフはそれを両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
頭を下げた瞬間、娘が嬉しそうに笑った。
「お父さん、よかったね!」
男は答えなかった。
ただ、娘の手を引いて人混みの中へ消えていった。
◇
「……お見事でしたな」
グレゴールが俺たちへ言った。
「これで一人、ご家族の暮らしを守ることができました」
「……ふざけるな」
口から声が漏れた。
グレゴールが眉を上げる。
「何か?」
「今のが、本当に助けたことになるのかよ!」
「もちろんです。お嬢さんは今日、温かい食事ができます」
俺は一歩踏み出した。
「だったら最初から渡せばよかっただろ! あんな紙を書かせなくても!」
「それでは、商会の信用を守れません」
グレゴールは笑みを消さずに答えた。
「私にも守るべきものがあるのですよ。何百人もの従業員、その家族、取引先。彼らの暮らしも背負っているのですから」
「……自分の商会を守るためなら、あの人がどうなってもいいのか」
「どうなるも何も、彼はお金を受け取ったでしょう?」
グレゴールは不思議そうに首を傾げた。
「セイン君。あなたは結果が不満なのですか? それとも、私が望む結果を出したことが不満なのですか?」
俺は返事ができなかった。
今、目の前の男を殴れば、どんなにすっきりするだろう。
だが、そうすれば明日の刷り物には、王宮職員が慈善事業の責任者を襲撃したと書かれるに違いない。
俺の手を、リゼがそっと押さえた。
「……セイン」
彼女は俺を見ず、グレゴールを睨んでいた。
「私から、一つだけ言わせてください」
「どうぞ」
リゼは周囲の人々にも聞こえるように、声を張った。
「昨日、ヨゼフさんのことを大勢の前で尋ねたのは、私の間違いでした。ご本人の事情を考えず、結果として追い詰めてしまったことを謝罪します」
周囲が静かになった。
「ただし、救護院の患者さんの情報を、本人の同意なく集めようとした人物がいたことは事実です。その目的について、調査を続ける必要があると考えています」
グレゴールが、ゆっくりと拍手を始めた。
ぱち、ぱち、と乾いた音が響く。
「いやあ、素晴らしい!」
彼は周囲へ呼びかけた。
「皆様、お聞きになりましたか! 昨日の件について、王宮の方が自ら非を認めてくださった!」
リゼが息を呑んだ。
「……私は、調査をやめるとは」
「もちろんですとも。調査は大いに結構」
グレゴールは話を遮らず、それでいて彼女の言葉を人々へ届けさせなかった。
「しかし、過ちを認める勇気は称賛されるべきです。さあ、皆様!」
広場に拍手が広がった。
リゼは立ち尽くしていた。
人々は彼女が何に謝り、何については譲らなかったのか、もう聞いていない。
ただ、グレゴールが拍手しているから拍手していた。
「……あなたは」
リゼが低い声で言った。
「自分に都合のいい言葉しか、聞こえないんですか」
「とんでもない」
グレゴールは彼女にだけ聞こえる声へ落とした。
「私は、皆様が聞きたがっている言葉を選んでいるだけですよ」
そして、いつもの笑顔に戻った。
「お三方も、お忙しいでしょう。どうぞお仕事へお戻りください」
彼はもう俺たちを見なかった。
次の申請者を呼び、銀貨の小袋を渡し、礼を言われている。
その姿を見ながら、俺はやっと理解した。
こいつは、人が苦しんでいることを知らないわけじゃない。
知っていて、利用している。
ヨゼフが娘に食事をさせたいことも、リゼが自分の間違いを認めようとしたことも。
全部、最初から自分のために使えるものとして見ていたのだ。
◇
第七係に戻ると、カイエンからの呼び出しが届いていた。
王宮の小会議室へ向かうと、カイエンはすでに数枚の書類を広げていた。
「来たか。座ってくれ」
俺たちが席につくと、彼は単刀直入に切り出した。
「今朝の刷り物と、生活救済事業に関する報告は受けている」
「……でしたら、今すぐ商会を調べてください」
リゼが言った。
「患者さんの情報が集められています。昨日の不審な訪問者とも繋がっている可能性があります」
「承知している。警護隊にも照会をかけている」
カイエンは頷いた。
「だが、今のところ、商会が不正に情報を取得したと認定するには足りない」
「……ヨゼフさんが、頼まれたと言っていました」
「誰に、だ?」
リゼが口を閉じた。
「本人は今日、自分の判断だったと署名したそうだな」
「それは、生活支援を受けるために……!」
「そうかもしれん」
カイエンは否定しなかった。
「だが、そう言わせた証拠が必要だ。困窮しているから虚偽の証言をしたに違いないと決めつけるわけにもいかない」
リゼは悔しそうに俯いた。
「それと、もう一つ」
カイエンは別の紙を差し出した。
「救護院からの正式な連絡だ」
そこには、患者情報の取り扱いについて書かれていた。
リゼの名前もある。
「……これは?」
「昨日の騒動を受けて、救護院が患者情報の外部提供を一時的に制限する。第七係による直接の聞き取りについても、警護隊を通した手続きが必要になった」
「……私たちが、患者さんに会えなくなるんですか?」
「必要な調査は続ける。ただし、しばらくは正式な手続きを経てもらう。患者や家族を、これ以上騒動に巻き込まないためだ」
俺は机を叩きそうになった。
「おかしいでしょう! あいつらが患者を調べてたのに、どうして俺たちの方が!」
「セイン」
カイエンの声が鋭くなった。
「怒りは分かる。だが、君たちだけを特別扱いするわけにはいかない」
「……でも」
「それに、今のまま現場へ出れば、君たちが接触した患者が再び標的にされるおそれもある」
返す言葉がなかった。
ヨゼフの娘の顔が浮かんだ。
あの親子がまた何かを失うことになったら、俺はどうすればいいのだろう。
カイエンは少し声を落とした。
「商会の不正を調べることはやめない。だが、君たちには一度、方法を考え直してもらいたい」
リゼは紙を見つめたまま動かなかった。
「……分かりました」
やがて、彼女が言った。
その声は静かだったが、納得しているようには聞こえなかった。
◇
王宮を出た時には、すっかり夕方になっていた。
リオルは警護隊への報告に向かい、俺とリゼは二人で第七係へ戻ることになった。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「……リゼ」
俺が呼ぶと、彼女は立ち止まった。
「はい」
「今日、あの場で謝ったのは……間違いじゃなかったと思う」
リゼは俺を見た。
「……でも、全部グレゴールに利用されました」
「それは、あいつが悪いんだよ」
「分かっています」
短い返事だった。
「分かっていますけど……悔しいんです」
彼女は唇を噛んだ。
「私は、ヨゼフさんを助けたかった。患者さんたちも守りたかった。でも、どちらもできませんでした」
「……うん」
「それなのに、グレゴールは笑っていました。あの親子にお金を渡して、みんなに拍手されて……」
リゼは顔を上げた。
銀白の髪が夕日に照らされている。
「……私、あの人が嫌いです」
思わず、彼女を見た。
リゼが誰かをあれほどはっきり嫌いだと言うのは、初めて聞いた気がした。
「……俺もだよ」
「でも、嫌いだからといって、何をしてもいいわけじゃないんですよね」
彼女は苦しそうに笑った。
「そんなこと、分かっていたはずなのに」
俺は少し考えた。
「……正直、俺は殴りたかった」
リゼが目を見開いた。
「えっ?」
「グレゴールを。あの場で」
俺は苦笑いした。
「でも、殴ったらもっと大変になるって分かってたから、我慢した」
「……そうだったんですか」
「うん。別に、落ち着いてたわけじゃないんだ」
リゼはしばらく俺を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「……少し安心しました」
「何で?」
「私だけが、こんなに腹を立てているわけじゃなかったんですね」
「そりゃそうだろ」
俺が答えると、彼女は小さく頷いた。
けれど、すぐに真面目な顔に戻った。
「……セイン」
「何?」
「次は、同じようには負けたくありません」
俺は頷いた。
「うん」
「今度は、相手が何をしようとしているのか、もっと先まで考えたいです」
「……そうだね」
リゼはもう一度、広場の方を振り返った。
「それに……」
言いかけて、彼女は黙った。
「どうしたの?」
「いえ。少し、気になったことがあって」
リゼは鞄から、今日の支援申請書を取り出した。
表には名前と住所を書く欄がある。
そして、裏面には細かい文字で、情報の利用目的が並んでいた。
「……見てください」
彼女が指さしたのは、申請者の同意に関する部分だった。
『申請者は、療養状況及び生活状況の確認に必要な範囲で、関連する施設への照会及び情報の共有に同意する』
「……これが?」
「今日、あの広場にいた人たちは、みんな自分からこの書類を書いていましたよね」
「……うん」
「救護院が情報を渡さなくても、申請者本人が商会に名前も住所も教えてしまう」
俺は紙を見下ろした。
リゼは続けた。
「しかも、この文章なら、本人が同意したことになります」
「……そうか」
胸の奥が冷たくなった。
グレゴールは救護院に入り込めなくても困らない。
人々が金を求めて、自分から情報を渡しに来る仕組みを作ってしまったのだ。
「……リゼ」
「はい」
「これ、何人くらい書いたんだろう」
彼女は答えなかった。
俺も、もう一度広場の方を見た。
夕方になっても、天幕の前にはまだ長い列ができていた。
並んでいる人々の中には、あの北門の施設から救出された患者や、その家族がいるかもしれない。
グレゴールが以前、何をしていたのか。
あの場所から人がどこへ運ばれていたのか。
俺たちは、まだ全部を知っているわけじゃない。
だが、少なくとも一つだけは分かった。
グレゴールは、救護院の患者を諦めたわけじゃなかった。
今度は患者たちの方から、自分の居場所を差し出させていたのだ。




