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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第四章 才能の値札

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第八十七話 善意の請求書


「セイン。今日は、私に任せてくれませんか?」


 救護院へ向かう途中、リゼが突然そんなことを言い出した。


「……何を?」


「不審な訪問者の件です。受付の記録を調べるところから、私が中心になって進めたいんです」


「もちろんいいけど……」


 俺が答えると、リゼは少し意外そうな顔をした。


「反対しないんですか?」


「何で反対するんだよ。リゼの方が書類を読むのも得意だし、〈空白視〉もあるだろ」


「……そうですね」


 彼女は頷いたものの、なぜか納得していないようだった。


「ただ、危なそうだったら無理するなよ。警護隊にも話は通してあるし」


「分かっています」


 返事が少し硬かった。


「私だって、何でも一人でできると思っているわけじゃありませんから」


「……うん?」


 どうしてそんな言い方になったのか分からず、俺は首を傾げた。


 昨日、救護院の受付から聞いた話では、患者の名前や病室を知りたがる見知らぬ訪問者が、何度も現れているという。


 グレゴールの商会に関係があると決まったわけではないが、北門の施設から救出された患者たちがいる以上、放置はできない。


 今回は俺も同行することになった。まだ肩が万全ではないため、警護隊への正式な調査依頼と、救護院での聞き取りが主な仕事だ。


 リゼは少し先を歩きながら、何か考え込んでいる。


「……リゼ?」


「はい?」


「怒ってる?」


「怒っていません」


「……そっか」


「ただ、セインは私が危ないことをすると、すぐに止めようとするでしょう?」


「そりゃ心配だから」


「それは分かっています。でも……」


 彼女は一度言葉を切った。


「私にも、自分で判断できることがあります」


 俺は足を止めた。


 リゼは振り向かず、救護院の門へ歩いていく。


 少し前なら、彼女がこんなことを言うとは思わなかった。


 けれど、考えてみれば当然なのかもしれない。


 俺が心配している間にも、リゼは何度も自分の力で俺たちを助けてくれていたのだから。


     ◇


 受付の女性は、俺たちを見るとすぐに奥の部屋へ案内してくれた。


「実は、昨日お話ししてから、以前の訪問記録を確認してみたんです」


 机の上に三枚の紙が置かれる。


「こちらです」


 リゼが身を乗り出した。


「拝見してもいいですか?」


「はい。ただ、患者さんの個人情報が含まれますから、持ち出しは控えていただけると……」


「もちろんです」


 紙には訪問日時と申告された用件が記されていた。


 最初は、入院中の親戚に会いたいという申し出。


 二度目は、知人への見舞い。


 三度目は、生活支援について患者本人に説明したいという内容だった。


「……全部、違う用件ですね」


 リゼが呟いた。


「はい。ですが、職員の話では、訪ねてきた男性の特徴がよく似ているんです」


「同じ人が、理由を変えて来てたってことですか?」


 俺が尋ねると、女性は困ったように頷いた。


「まだ断定はできません。でも、何度も患者さんの名前を聞こうとしていたそうです」


 リゼは三枚の紙を並べ直した。


 しばらく見比べていたが、やがて一枚の上に指を置いた。


「……ここ、おかしくありませんか?」


「どこです?」


「訪問理由の下にある欄です」


 俺には、ただの空白に見えた。


 けれど、リゼの目には違うものが見えているのだろう。


「何かが書かれていた場所に、欠けた跡があります。ほかの二枚にも、同じ位置に」


「……消されたの?」


「はい。ただ、何が書かれていたかまでは分かりません」


 リゼは三枚を順番に確かめた。


「それに、紙の大きさも罫線(けいせん)の位置も同じです。別々に持ち込まれた書類なのに、同じ書式を使っています」


「救護院の用紙じゃないの?」


「違います」


 受付の女性は首を振った。


「最初から記入されたものを持ってきたんです。職員は用件だけ確認して、受付の記録として預かりました」


 リゼは紙の下端に視線を移した。


「……小さな番号がありますね」


 三枚とも、端に同じ記号が印刷されていた。


 彼女は紙から顔を上げる。


「この書式を使っている場所を調べれば、訪問者がどこから来たのか分かるかもしれません」


「なるほど」


 俺が頷くと、リゼは受付の女性へ尋ねた。


「最近、救護院の近くで患者さん向けの相談窓口ができたと聞いたことはありませんか?」


「ああ……そういえば」


 女性が思い出したように言った。


「昨日から、通りの向こうに天幕(てんまく)が出ています。生活費の相談に乗ってくれるとか」


「生活費?」


「療養中で働けない方や、そのご家族を支援するそうです」


 俺とリゼは顔を見合わせた。


 彼女は三枚の紙をもう一度確認し、静かに言った。


「……セイン。そこへ行ってみましょう」


     ◇


 救護院の門を出て少し歩くと、問題の天幕はすぐに見つかった。


 入口には『療養者生活相談所』と書かれた看板が立ち、十人ほどの男女が順番を待っていた。


 杖をついた老人もいれば、小さな子供を連れた女性もいる。


「……結構、人がいるな」


「ええ」


 リゼは列の様子を観察していた。


 天幕の中から、上品な服装の女性が出てくる。


 濃紺の手袋をはめ、髪をきっちりと結い上げていた。


「お待たせしております。皆様、順番にご案内いたしますので」


 物腰は丁寧だった。


 彼女は並んでいる人たちへ微笑み、何人かに書類を渡していく。


「そちらは?」


 俺たちに気づいた女性が声をかけてきた。


「生活支援のご相談でしょうか?」


「少し、お話を伺いたいんです」


 リゼが答えた。


「どういった支援をされているのか、教えていただけますか?」


「もちろんです」


 女性はにこやかに紙を差し出した。


「療養中の方やご家族へ、当面の生活費をお渡ししております。医療費だけでなく、家賃や食費にも困っている方が多いでしょう?」


「……それはありがたいですね」


 リゼが言う。


「ええ。病気になった方を、社会全体で支えなければなりませんから」


 女性は胸に手を当てた。


「私どもも、少しでもお役に立てればと考えております」


 俺は渡された紙を読んだ。


 表には、支援対象者や申請方法が分かりやすく書かれている。


 だが、裏側には細かい文字がびっしりと並んでいた。


「……これは?」


 リゼが裏面を指さす。


「支援金の交付条件です」


「『申請者は、支援事業者の信用を損なう行為を行わないこと』……」


 リゼが読み上げた。


「この部分は、どういう意味ですか?」


「簡単なことですよ。虚偽の情報を流して、善意の支援を妨げないでいただきたいということです」


「虚偽かどうかは、誰が判断するんでしょう?」


 女性の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。


「……当然、事実関係を確認した上で判断いたします」


「商会が、ですか?」


 リゼの言葉に、女性は目を細めた。


「よくご存じですね」


 彼女は紙の下部を指さした。


 小さな文字で、運営者の名前が印刷されている。


『ザント商会 生活救済部』


 俺は思わず顔を上げた。


「……グレゴールの商会?」


「はい。商会としても、昨今の混乱を重く受け止めておりますので」


 女性は笑った。


「被害を受けた方々の暮らしを守ることが、私どもの責任だと考えております」


 何を言っているんだ、と思った。


 患者たちを苦しめた商会が、今度はその患者たちを助けると言っている。


 だが、列に並ぶ人たちは違う反応を見せた。


「……本当に、今日もらえるんでしょうね?」


 後ろから男の声がした。


 振り向くと、痩せた中年の男が立っていた。


 着古した上着の袖口を握り、俺たちを不安そうに見ている。


「娘が、もう何日もまともに食べてないんです。家賃も払わないといけなくて……」


「もちろんです。審査が済めば、順次お渡しします」


 女性は優しく答えた。


 男はほっとしたように肩を落とした。


 リゼが静かに尋ねる。


「……この方も、商会の支援を受けるんですか?」


「ええ。何か問題でも?」


「いえ。ただ、交付条件を十分に理解されているのかと思いまして」


 女性は微笑んだまま、紙を男へ差し出した。


「こちらに記載しております。すでに説明も済んでおりますよ」


「……はい」


 男は小さく頷いた。


 けれど、その視線は地面に落ちたままだった。


     ◇


 リゼは男の顔をじっと見ていた。


 やがて、受付の書類に視線を戻す。


「……あの」


 彼女が声をかけると、男の肩がびくりと動いた。


「もしかして、救護院へ何度か来られていませんか?」


 男は顔を上げた。


「……え?」


「患者さんの名前や病室を尋ねたことがありませんか?」


 その瞬間、男の顔色が変わった。


 俺にも分かるほどだった。


「……どうして、それを」


 リゼは言葉を失った。


 どうやら、当たっていたらしい。


 男は慌てて周囲を見回した。


「ち、違うんです。私はただ、頼まれて……」


「頼まれた?」


 リゼが聞き返す。


 男は口を閉じた。


 濃紺の手袋の女性が、静かに二人の間へ入ってくる。


「お客様。少々、声が大きいようですが」


「……救護院の患者さんの情報を集めていたんですか?」


 リゼは女性へ尋ねた。


「何のことでしょう?」


「この男性が、何度も救護院へ来ていたようです。訪問理由を変えて、患者さんの名前を尋ねていました」


 男が小さく首を振った。


「待ってくれ……」


 だが、リゼは女性から目を離さなかった。


「患者さんの情報を、本人の同意なく集めることは認められません」


 女性は一度、男を見た。


 それから、わずかに口元を緩めた。


「……なるほど」


 その声には、さっきまでの温かさがなかった。


「ヨゼフさん。救護院へ行かれたんですね?」


 男が凍りついた。


 俺は違和感を覚えた。


 この女性は、最初から男の名前を知っていた。


「……はい」


「それで、何か分かりましたか?」


「……いいえ。誰がどの病室にいるかは、教えてもらえませんでした」


「そうですか」


 女性は落ち着いた声で言った。


「それなら、もう結構ですよ」


「……え?」


「当面の生活支援については、いったん審査を見合わせます」


 男の顔から血の気が引いた。


「ま、待ってください!」


 彼は女性へ詰め寄った。


「そんな……話が違うじゃないですか! 言われた通り、三度も行ったんです!」


 周囲がざわついた。


 女性は一歩も動かなかった。


「皆様の前で、そうしたお話をされるのは困りますね」


「でも、娘が……!」


「ご事情は理解しております。ただ、信用に関わる問題ですので」


 男は口を開いたまま固まった。


 俺の隣で、リゼが息を呑む。


「……支援を止めるんですか?」


 女性が振り向いた。


「止めるとは申し上げておりません。審査を見合わせるだけです」


「この方は、生活に困っているんでしょう?」


「ですから、私どもが支援しようとしていたんですよ」


 女性は穏やかに答えた。


「ただ、こうして皆様の前で不適切な疑いを向けられますと、残念ながら簡単には進められません」


 リゼの表情が強張った。


「……それは、私のせいだと言いたいんですか?」


「さあ。どうでしょう」


 女性は微笑んだ。


「私どもは困っている方へ手を差し伸べているだけです。調査をなさる方々は、皆様の生活まで責任を持ってくださるのでしょうか?」


 その言葉に、列の中から声が上がった。


「……ちょっと待ってくれよ」


 杖をついた老人だった。


「あんたたち、王宮の人間なのか?」


「……はい。王立遺失物管理局の者です」


 俺が答える。


 老人は顔をしかめた。


「なら、どうして邪魔するんだ。こっちは今日の飯代だって必要なんだぞ」


「邪魔するつもりはありません。ただ、契約内容に問題がないかを……」


「問題があったって、金がなきゃ困るんだよ!」


 老人の声が響いた。


 誰かが小さく頷いた。


「王宮は治療費を出してくれるんだろうけど、うちの店は閉めたままなんだ」


「仕事に戻れるかも分からないし……」


「助けてくれるって人まで追い返さないでよ」


 俺は返す言葉を失った。


 商会の手口が許せないことと、この人たちが金を必要としていることは、どちらも本当だった。


「……皆さん」


 リゼが口を開いた。


「支援を受けることを責めているわけではありません。ただ、この書類に署名すると、後から商会に不利な事実を話した場合でも、支援金を返すよう求められるおそれがあります」


「だから何だっていうんだ!」


 男が叫んだ。


 ヨゼフだった。


「娘が腹を空かせてるんだよ! あんたらは今日帰ったら飯があるんだろ!」


 リゼが言葉を止めた。


「俺だって、あいつらがまともな連中だとは思ってない!」


 ヨゼフの声は震えていた。


「でも、名前を聞いてくるだけで金を出すって言われたら……! もう、ほかにどうしろっていうんだよ!」


 周囲が静まり返った。


 リゼは男を見つめていた。


 俺が一歩前へ出ようとした時、彼女が小さく首を振った。


 今は自分で話したい。


 そんな顔だった。


「……すみません」


 リゼが言った。


「ここであなたのことを尋ねるべきではありませんでした」


 男は黙ったままだった。


「ただ、患者さんの情報を集めさせられているなら、あなた自身も危険です。警護隊や王宮の相談窓口に……」


「そんなところで、今日の飯が買えるのか?」


 男が遮った。


 リゼの唇が動いたが、言葉は出なかった。


 濃紺の手袋の女性が、そっと男の肩へ手を添えた。


「ヨゼフさん。お気の毒に」


 彼女は柔らかく言った。


「どうか、お帰りになって休んでください。娘さんにもよろしくお伝えくださいね」


 男はその手を振り払った。


 そして、俺たちを睨んだ。


「……あんたらが来なきゃよかったんだ」


 それだけ言い残し、人混みを押し分けて歩き去っていった。


 俺は追いかけようとしたが、リゼがその場に立ち尽くしているのを見て、足を止めた。


     ◇


「……立派なことをおっしゃいますね」


 女性がリゼへ声をかけた。


 その笑顔は、少しも崩れていなかった。


「皆様を守るために調査されているのでしょう?」


「……あなたたちは、患者さんの名前を何に使うつもりだったんですか?」


 リゼが尋ねた。


「支援が必要な方を、正しく把握するためですよ」


「それなら、なぜ身分を偽って病室を聞く必要があるんですか?」


「私どもは、そうした指示を出しておりません」


 女性は即答した。


「先ほどの男性が、独断で動かれたのかもしれませんね」


「……さっき、本人が頼まれたと言っていました」


「人は追い詰められると、思わぬことを口にするものです」


 女性はそう言うと、列へ顔を向けた。


「皆様、お騒がせいたしました。支援の受付は通常通り続けますので、ご安心ください」


 何人かがほっとしたように息を吐く。


 俺は腹の底が熱くなるのを感じた。


「……おい」


 声をかけると、女性は俺を見た。


「はい?」


「困ってる人を利用してまで、患者の情報を集めてたんだろ」


「何のことでしょう?」


「ヨゼフさんが三度も救護院に行ったって、自分で言ったじゃないか!」


「ええ。それは聞きました」


 女性は微笑んだ。


「ですが、私どもが命じたという証拠はございますか?」


 言葉が詰まった。


 女性はその反応を見て、ほんの少し目を細めた。


「……正義感は結構です。でも、皆様が正しいことをするたびに、その結果を引き受けるのは誰なのか、お考えになった方がよろしいかもしれません」


 リゼが顔を上げた。


「あなたに、それを言う資格はありません」


 静かな声だった。


 けれど、俺は驚いて彼女を見た。


「困っている人へお金を渡すことは、悪いことではありません。でも、その人が断れないと知りながら、別の人を危険にさらすようなことを頼むのは……」


 リゼは握りしめていた書類を見下ろした。


「……支援とは呼びません」


 女性は少しだけ黙った。


 それから、丁寧に頭を下げた。


「ご意見、承りました」


 勝ち誇った様子も、怒った様子もなかった。


 それが余計に気味悪かった。


 俺たちは、列の人たちから向けられる視線を背中に受けながら、その場を離れた。


     ◇


 救護院へ戻ると、リゼは受付の女性へ事情を説明した。


 先ほどの三枚の書類については、警護隊が正式に確認することになった。原本は救護院で保全し、俺たちが持ち帰った相談所の案内書についても、入手した状況を記録しておく。


 商会が患者情報を集めようとしていた疑いは強まった。


 少なくとも、救護院への不審な訪問が、生活支援を名乗る窓口と無関係ではないことが分かった。


 だが、それで事件が解決したわけではなかった。


「……ヨゼフさんのことですが」


 リゼが受付の女性に尋ねた。


「生活に困っているご家族を、緊急に支援する制度はありませんか?」


「王宮の支援制度はあります。ただ、申請と確認が必要で、すぐに現金をお渡しできるものは……」


「……そうですか」


 リゼは目を伏せた。


 俺も何かできないか考えたが、ヨゼフの住まいも分からない。警護隊に事情を伝えて相談先を案内してもらうことはできるだろう。


 それでも、今日失った金の代わりをすぐに用意できるわけではなかった。


 救護院を出ると、リゼはほとんど口を開かなかった。


 俺も、どう声をかければいいのか分からなかった。


 しばらく歩いてから、思い切って言った。


「……リゼ」


「はい」


「今日のこと、全部リゼが悪いわけじゃないからな」


 彼女が立ち止まった。


「……全部?」


「え?」


「では、少しは私が悪いと思っているんですね」


 俺は言葉に詰まった。


「……いや、そういう意味じゃ」


「いいんです」


 リゼはこちらを向いた。


「私も、あの方のことを大勢の前で尋ねたのは間違いだったと思っています。商会の人たちがいる場所で、名前を出すべきではありませんでした」


「……うん」


「でも、あのまま黙っていたら、また誰かの病室を調べに行かされたかもしれない」


 彼女は唇を噛んだ。


「どうすればよかったんでしょうね」


 俺には、すぐに答えられなかった。


 あの場で商会を問い詰めずに帰れば、ヨゼフは金を受け取れたかもしれない。


 だが、商会に渡す情報を集め続けていたら、救護院の患者たちが危険にさらされた可能性もある。


「……俺だったら、もっとひどいこと言ってたと思う」


 正直に言うと、リゼは少し顔を上げた。


「セインなら、そうでしょうね」


「……そこは否定してくれてもいいんだけど」


「今日のあの人に対する態度を見たら、否定できません」


 思わず苦笑いしたが、リゼは笑わなかった。


「でも、セイン」


「何?」


「私は、あなたに止められたくなかったんです」


 その言葉には、思った以上に力がこもっていた。


「……俺に?」


「はい」


 彼女は少し迷ってから、続けた。


「セインは危ないことがあると、いつも私より先に動こうとするでしょう? 私を守ろうとしてくれるのは嬉しいんです。でも、時々……」


 リゼは目を逸らした。


「私のことを、何もできない人みたいに扱っているように感じるんです」


「そんなつもりないよ」


「分かっています!」


 声が大きくなった。


 通りを歩いていた人が振り向く。


 リゼははっとして口を閉じた。


 けれど、すぐに俺を見た。


「……分かっているから、嫌なんです」


 俺は何も言えなかった。


 彼女はいつもより少し赤い顔で、言葉を探している。


「あなたが私を心配してくれるのは、嬉しいです。でも、守られるばかりじゃなくて、私だってあなたの力になりたい。私が頼りになるって、もっと思ってほしいんです」


「……リゼ」


「今日だって、ちゃんとできるところを見せたかったのに」


 彼女はそこで口を閉じた。


 小さく息を吸い、視線を落とす。


「……失敗しましたね」


 俺は反射的に、そんなことないと言いかけた。


 けれど、あの相談所で起きたことを思い出して、言葉を飲み込んだ。


 リゼは確かに手がかりを掴んだ。


 それと同時に、ヨゼフの立場を悪くしてしまった。


 どちらか一方だけを見て、慰めることはできなかった。


「……なあ、リゼ」


「はい」


「俺、リゼのこと頼りにしてるよ」


 彼女が顔を上げる。


「……本当に?」


「本当だって。今日も俺が気づかなかった書類の違いを見つけただろ。リゼがいなきゃ、あの相談所にも辿り着けなかった」


「……でも」


「それと、心配するのは別なんだよ」


 俺は彼女を見た。


「頼りにしてるからって、危ない目に遭っても平気なわけじゃない」


 リゼはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく言った。


「……セインは、ずるいです」


「……え?」


「そういうことを、何でもないみたいに言うから」


 彼女は俺から顔を背けた。


 銀白の髪が揺れ、横顔が隠れる。


「……今日は、少し一人で考えたいです」


「あ……うん」


 俺は頷いた。


「分かった。また明日」


「……はい」


 リゼは小さく頭を下げ、通りの向こうへ歩いていった。


 俺はその背中を見送った。


 追いかけた方がいいのかもしれない。


 でも、今のリゼにかける言葉を、俺はまだ見つけられなかった。


     ◇


 翌朝、第七係の扉を開けると、リオルが妙な顔で机を見つめていた。


「……セイン」


「おはよう。どうした?」


「これ、もう見たか?」


 差し出されたのは、一枚の刷り物だった。


 まだ新しい紙で、端には黒い印刷の跡が残っている。


 俺は何気なく受け取り、見出しを読んだ。


『王宮職員、療養者への生活支援を妨害』


「……何だ、これ」


 大きな文字の下には、昨日の相談所で起きた出来事が書かれていた。


 ただし、内容は俺が見たものとは違っていた。


 王宮職員が、生活支援を求める人々に金を受け取らないよう圧力をかけた。


 家族のために支援を申請した男性を、衆目の前で厳しく問い詰めた。


 その結果、生活に困っていた男性の支援手続きが停止された。


「……ふざけるなよ」


 思わず紙を握った。


 書かれていることには、事実の一部が混ざっている。


 だからこそ、たちが悪い。


 俺たちが何を調べようとしていたのか。


 なぜ、あの男性に声をかけたのか。


 商会が患者の名前を集めようとしていた疑いについては、一行も書かれていなかった。


「どこで配られてた?」


 俺が尋ねると、リオルが答えた。


「今朝から街のあちこちで配られてるらしい。警護隊にも何枚か持ち込まれた」


「……商会が?」


「まだ誰が刷らせたのかは分からない。でも、見てほしいのはそこじゃない」


 リオルが紙の下を指さした。


 俺は視線を移した。


 そこには、昨日の出来事について詳しく記した小さな文章が載っていた。


 そして、その末尾に。


『現場で患者家族を問い詰めたのは、王立遺失物管理局第七係所属のリゼとみられる』


 俺の手が止まった。


 リオルが低い声で言った。


「……名前まで出されてる」


 紙を握る指に力が入った。


 昨日、リゼは自分の判断で動こうとした。


 俺はそれを止めなかった。


 彼女は商会の不審な動きに気づき、実際に手がかりを掴んだ。


 それなのに、今朝の王都では。


 患者を守ろうとしたリゼが、患者の生活を脅かした人間として名前を知られようとしていた。


「……リゼは?」


 俺が尋ねると、リオルは入口の方へ目を向けた。


「まだ来てない」


 その時、廊下の向こうで足音がした。


 扉が開き、リゼが姿を現した。


「……おはようございます」


 いつも通りの声だった。


 けれど、俺の手にある刷り物を見た瞬間、彼女の表情が変わった。


「……セイン」


 リゼはゆっくりと近づいてきた。


「それ、もう配られているんですか?」


 俺は顔を上げた。


「……知ってたの?」


「はい」


 彼女は鞄から、四つ折りになった紙を取り出した。


 俺が持っているものと、同じ見出しだった。


「……今朝、家の扉に挟まっていました」


 リゼは紙を机に置いた。


 そこには赤いインクで、一文だけ書き足されていた。


『次は、誰の生活を壊しますか?』

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