第八十五話 おかえり
「セイン、今日こそちゃんと休んでくださいね」
朝、第七係を出ようとしたところで、リゼに念を押された。
「分かってるよ。今日はもう、調査に行く予定もないし」
「昨日もそう言って、結局夕方まで帳簿を調べていたでしょう?」
「……あれは、途中で気になることが見つかったから」
「今日は見つかっても駄目です」
彼女はきっぱりと言った。
言い返そうとしたが、右肩を少し動かしただけで痛みが走り、俺は口を閉じた。
昨日、河岸管理課で六年前の運搬記録を調べた結果、第三搬出路が北門の旧染物場へ繋がっていたことが分かった。
しかも、グレゴールの商会が同じ記録の閲覧を申請していたという。
気になることは山ほどある。
ただ、資料は王宮が保全しているし、ムラサメにも報告が届いている。俺が一日休んだからといって、調査が止まるわけではない。
「……本当に休むよ」
「それならいいんですけど」
リゼはようやく笑った。
「ところで、お昼はどうしますか?」
「まだ決めてないけど……」
「だったら、青鐘通りへ行きませんか?」
「青鐘通り?」
「はい。最近、ミレアさんのお店にも顔を出せていませんし」
そう言われて、俺は思わず頷いた。
青鐘亭。
あの店で温かい料理を食べながら、くだらない話をする時間が、ずいぶん遠いものに感じられる。
「いいね。久しぶりに行こうか」
「じゃあ、リオルとコレットも誘いましょう」
「うん」
俺たちは顔を見合わせ、少し笑った。
今日は誰かを追いかけなくてもいい。
そんな一日があっても、きっと罰は当たらないはずだ。
◇
昼前の青鐘通りは、相変わらず賑やかだった。
焼きたてのパンの匂いが路地に漂い、果物屋の店先では客が値段を交渉している。荷車が通るたびに人々が道を空け、その隙間を子供たちが駆け抜けていった。
「やっぱり、ここはいいなあ」
リオルが気持ちよさそうに伸びをした。
もっとも、右腕はまだ固定されているので、左腕だけだ。
「お前、医者に何て言われたんだよ」
「もう少し大人しくしてろ、って」
「だったら大人しくしろよ」
「伸びをするくらい許してくれよ!」
そのやり取りを聞いて、コレットが笑った。
「ちょっと、二人とも! 会うたびに同じこと言ってない?」
「だって、こいつが全然治そうとしないんだよ」
俺が言うと、リオルは不満そうに口を尖らせた。
「それ、お前が言う?」
「そうそう! セインさんだって無茶ばっかりしてるじゃない!」
「……まあ、それは」
「ほら、否定できない!」
コレットは得意そうに笑った。
リゼまで隣で頷いている。
「二人とも、今日は無理しないって約束してくださいね」
「はいはい」
「はい……」
俺とリオルが返事をすると、コレットが吹き出した。
「ふふっ! 二人とも怒られてる!」
「お前もこの前、膝を怪我してたじゃないか」
俺が言い返すと、コレットは一瞬だけ目を丸くした。
「えっ? あれはもう平気だよ!」
「本当に?」
「もちろん! ほら!」
そう言って、彼女は軽く片足で跳ねてみせた。
「……いや、だから無茶するなって!」
リオルが慌てて止める。
コレットは楽しそうに笑い、リゼもとうとう笑い出した。
こうして四人で歩くのも久しぶりだった。
ここしばらくは、誰かが怪我をしていたり、事件の調査で別行動になったりすることが多かった。
今日は仕事の話をせず、ゆっくり食事をするつもりだ。
「ねえねえ、青鐘亭って何がおいしいの?」
コレットが俺に尋ねた。
「何でもおいしいよ」
「それ、一番困る答えだよ!」
彼女が笑うと、リオルが横から口を挟んだ。
「俺は肉の煮込みがおすすめだな」
「私は焼き野菜の入ったスープが好きです」
リゼも続ける。
「うわあ、どっちもおいしそう!」
コレットは嬉しそうに両手を合わせた。
「じゃあさ、みんなで違うもの頼んで、ちょっとずつ交換しようよ!」
「いいね!」
リオルが即答した。
「……ただし、俺の肉は多めに残してくれよ」
「もう! それじゃ交換にならないじゃない!」
コレットが笑いながら抗議する。
俺も思わず笑った。
そんな話をしながら角を曲がった時だった。
「おーい、そこの背の高い人! もうちょっと右!」
聞き覚えのある声がした。
俺は何となく、そちらへ顔を向けた。
青鐘亭の入口に、小さな人だかりができている。
店先には脚立が置かれ、扉の上に取りつけられた木製の看板を、誰かが直しているところだった。
「右って、俺から見て右? 君から見て右?」
「僕から見て右!」
「そりゃ難しいな。じゃあ、いっそ真ん中にしておこうか」
「だから、曲がってるんだってば!」
脚立の下から指示していたのはニコだった。
少年は腰に手を当て、上にいる人物を睨んでいる。
俺は思わず笑いかけた。
だが、脚立の上にいる青年が振り向いた瞬間、その笑いが止まった。
「……あれ?」
青年も俺を見た。
少し伸びた髪。
人をからかう時に、決まって浮かべるような笑顔。
何度も見たことのある顔だった。
「……ネイ?」
自分でも驚くほど、間の抜けた声が出た。
青年は目を丸くしたあと、にやりと笑った。
「お、やっと見つけた」
◇
「……お前、何してるんだよ!」
思わず声を上げた。
「見て分からない? 看板を直してるんだけど」
「そういう意味じゃなくて!」
「じゃあ、どんな意味?」
ネイは楽しそうに笑った。
相変わらず、人の反応を見て遊ぶのが好きなやつだ。
俺が何か言い返す前に、ニコが声を上げた。
「セイン兄ちゃん! ネイ兄ちゃんが看板直してくれてるんだよ!」
「……みたいだね」
「今朝来たばっかりなのに、僕がお願いしたら手伝ってくれたんだ!」
ニコが得意そうに胸を張る。
以前、ニコが危ない目に遭った時、ネイは自分も傷つきながら助けてくれた。
だから、ニコがこうして何の遠慮もなく話しかけているのを見ると、少し嬉しくなる。
「そりゃ、こんなに熱心に頼まれたら断れないからね」
ネイはそう言いながら、看板を少し動かした。
「どう、ニコ。今度こそ真っすぐ?」
「……うーん。あとちょっと右!」
「おっと。なかなか厳しい監督だなあ」
「ちゃんとやってよ!」
ニコの声に、俺たちは笑った。
ネイはようやく看板を固定すると、脚立を降りてきた。
「さて、これでよし。で、セイン」
青年は俺を見た。
「そっちは何をしてるんだい?」
「……お昼を食べに来たんだよ」
「へえ。奇遇だねえ」
「いや、お前こそ……」
そこまで言って、俺は言葉を止めた。
最後に会った時、こいつは旅に出るところだった。
俺がラヴェルへ向かう前、互いに別々の道を歩くことになったのだ。
その時、俺はネイに言った。
『帰ってこいよ』
返ってきたのは、いつもの軽い調子の言葉だった。
『じゃあ、お互い帰れたら』
あれから、ずいぶんいろいろなことがあった。
もう二度と会えないかもしれないと思ったこともある。
それなのに、当の本人は青鐘亭の看板を直している。
「……ほんとに帰ってきたんだな」
俺が呟くと、ネイがこちらを見た。
さっきまで笑っていた目が、少しだけ柔らかくなる。
「そっちこそ」
彼は小さく笑った。
「ちゃんと帰ってきたじゃないか」
俺は一瞬、何も言えなかった。
それから、思い切り笑ってしまった。
「……ああ!」
ネイも笑った。
「じゃあ、約束は守れたってことでいいかな」
「いいと思うよ」
「そりゃよかった」
そう言って、ネイは片手を差し出した。
俺はその手を握った。
少しだけ強く握りすぎたかもしれない。
「……痛い痛い。再会の挨拶にしては力が強いよ」
「お前が急に現れるからだろ」
「いやあ、もっと感動的に迎えてくれると思ったんだけど」
「十分感動してるよ!」
「なら、泣いてもいいんだよ?」
「泣くか!」
ネイが笑う。
俺も笑った。
何だか、ずっと前の時間に戻ったような気がした。
◇
「……お久しぶりです、ネイ」
リゼが近づいてきた。
ネイは彼女を見るなり、大げさに頭を下げた。
「これはこれは、リゼさん。相変わらずお美しいことで」
「……そういうところも変わりませんね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
リゼは呆れたように笑った。
リオルも左手を上げる。
「お前、いつ戻ったんだよ?」
「ついさっき。通りを歩いてたら、ニコに捕まってね」
ネイが少年を指さした。
「久しぶりに会ったと思ったら、店の看板が曲がってるから直してくれってさ」
「だって、ネイ兄ちゃん背が高いんだもん!」
ニコが胸を張る。
「なるほど。選び方が合理的だな」
リオルが感心したように頷いた。
「それより、腕どうしたの?」
ネイがリオルの右腕を見た。
「……ちょっと折った」
「ちょっと折るって言い方、初めて聞いたよ」
「まあ、いろいろあってさ」
「ふうん。元気そうで何よりだね」
ネイはそう言ったあと、俺の肩にも目を向けた。
「で、そっちは?」
「……俺も、いろいろ」
「便利な言葉だなあ、いろいろって」
俺たちは顔を見合わせ、笑った。
その横で、コレットがぱっと手を上げた。
「ねえねえ! 私、ネイとは初めましてだよね?」
「ああ、そうだった。俺はネイ。よろしく」
「私、コレット! よろしくね!」
彼女は嬉しそうに笑い、ネイへ手を差し出した。
ネイは少し驚いた顔をしたあと、その手を握った。
「いやあ、元気な子だねえ」
「よく言われる!」
「そりゃそうだろうね」
ネイは楽しそうに笑った。
「それにしても、セインの周りは賑やかになったねえ」
「……そう?」
「うん。前より人が増えた」
彼は俺たちを見回した。
「いいことだと思うよ」
コレットは嬉しそうに微笑み、リゼも小さく頷いた。
俺は何となく照れくさくなって、視線を逸らした。
すると、青鐘亭の中から声がした。
「ニコ! 看板はどうなったの!」
「もう直ったよ、母さん!」
奥からミレアが顔を出した。
店の仕事で忙しかったらしく、腰には前掛け(まえかけ)を結び、手には布巾を持っている。
「あら、セイン! みんなも来てくれたのね」
「こんにちは。久しぶりです」
「ちょうどよかったわ。お昼、食べていくでしょう?」
「もちろんです」
俺が答えると、ミレアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、早く入って。今日は少し忙しいのよ」
そう言ってから、ネイへ顔を向ける。
「あなたも看板を直してくれたんでしょう? よかったら食べていってちょうだい」
「それはありがたい。ちょうど腹が減ってたところでね」
ネイは嬉しそうに答えた。
どうやら、今日の昼食はずいぶん賑やかになりそうだった。
◇
青鐘亭の中は、昼時の客でいっぱいだった。
窓際には近所の職人たちが座り、奥の席では商人らしい二人が何か相談している。
ミレアは忙しそうに厨房と客席を行き来していた。
ニコも母親を手伝っているが、途中で何度も学校の宿題を気にしている。
「……ニコ、先に宿題を終わらせたら?」
俺が言うと、少年は頬を膨らませた。
「だって、分かんないんだもん」
「何が?」
「好きな場所について書け、って言われたんだけど」
ニコは机の上に広げた紙を指さした。
「好きな場所がいっぱいあって、どれを書けばいいか分かんない」
「……それは贅沢な悩みだな」
リオルが笑った。
「ほら、学校とか公園とか、いろいろあるだろ?」
「学校は宿題が出るから嫌」
「正直だなあ」
コレットが吹き出した。
「分かる分かる! 好きな場所って言われると、いっぱい思いついちゃうよね!」
「そうなんだよ!」
ニコが勢いよく頷く。
「じゃあさ、一番楽しい場所は?」
「ここも楽しいし、公園も楽しい!」
「うーん、そっかあ。じゃあ、迷っちゃうね!」
コレットは自分のことのように悩み始めた。
ネイは椅子を逆向きにして腰掛け、ニコの紙を覗き込んだ。
「じゃあさ、一番帰ってきたい場所を書けば?」
「帰ってきたい場所?」
「うん。遊びに行っても、仕事に出ても、最後には戻りたくなる場所」
ニコはしばらく考えた。
それから、ぱっと顔を上げる。
「……ここ!」
「ここ?」
「青鐘亭!」
少年は嬉しそうに答えた。
「母さんもいるし、おいしいご飯もあるし、いろんな人が来るから!」
厨房の方で、ミレアが手を止めた。
ニコは気づかずに続ける。
「あとね、誰かが帰ってくると、扉の鈴が鳴るんだ」
俺は入口を見た。
小さな鈴が扉についている。
誰かが入ってくるたび、軽やかな音が店に響いていた。
「……あの音が好きなの?」
リゼが尋ねる。
「うん!」
ニコは頷いた。
「だって、誰か来たって分かるから!」
ネイが小さく笑った。
「いいじゃないか。それを書けば?」
「……うん!」
ニコは勢いよく筆記具を握った。
しかし、最初の一文字を書いたところで手が止まる。
「……どうやって書けばいいんだろ」
「そこからかよ!」
リオルが吹き出した。
ニコはむっとした顔で睨み返す。
「リオル兄ちゃん、笑わないでよ!」
「ごめんごめん」
「もう、リオルってば!」
コレットは笑いながらニコの隣に座った。
「ほら、一緒に考えよ! 最初に『僕の好きな場所は』って書いたらどう?」
「……あ、それなら書ける!」
「でしょ!」
ニコが筆記具を動かし始めると、コレットは嬉しそうにその様子を見守った。
その時、ミレアが料理を運んできた。
「まったく。宿題を終わらせるって言ってたのに、みんなと遊んでるじゃない」
「遊んでないよ! 考えてたんだ!」
「そうなの?」
「うん。僕、青鐘亭のことを書く!」
ニコが答えると、ミレアは少し驚いた顔をした。
「……うちのこと?」
「そう!」
少年は胸を張った。
「帰ってくる人がいっぱいいる場所だから!」
ミレアは何か言いかけ、少しだけ口元を緩めた。
「……そう。じゃあ、ちゃんと書きなさいね」
「うん!」
ニコは元気よく返事をした。
俺は料理を受け取りながら、何となくネイを見た。
彼は少しだけ目を細め、少年の後ろ姿を眺めていた。
◇
「……それで、お前はどこに行ってたんだ?」
料理が運ばれてくると、俺はネイへ尋ねた。
「いろいろ」
「……お前までそれかよ」
「便利なんだよ、この言葉」
ネイは笑った。
「西の方へ行ったり、川沿いの町を歩いたりね。知ってる場所を確かめたり、知らないところへ行ってみたり」
「何か探してたの?」
「まあ、そんなところかな」
そう言って、ネイはスープを一口飲んだ。
「……うん。ここの料理、うまいねえ」
「話を逸らしただろ」
「ばれた?」
俺が呆れると、ネイは楽しそうに笑った。
相変わらずだ。
こいつは話したくないことがあると、決まってこんなふうに軽く受け流す。
昔なら、もう少ししつこく聞いていたかもしれない。
でも、今は無理に聞こうとは思わなかった。
俺にも、話せることと話せないことがある。それはネイだって同じなのだろう。
「……まあ、無事ならよかったよ」
俺が言うと、ネイは少し意外そうな顔をした。
「へえ。追及しないんだ?」
「お前が話したくなったら聞くよ」
ネイはしばらく俺を見つめた。
それから、ふっと笑った。
「……ちょっと大人になった?」
「何だよ、それ」
「いや。前はもっと、気になったら何でも聞いてきたからさ」
「……そうだったかな」
「そうだったよ」
彼は楽しそうに頷いた。
その横で、リオルが肉の煮込みを頬張りながら口を開いた。
「でも、セインは今でも結構そうだぞ」
「おい!」
「疑問があるとすぐ確かめに行くし、危ない場所にも飛び込むし」
「……それは否定できないなあ」
ネイが笑う。
コレットも勢いよく頷いた。
「そうなの! セインさんって、気づいたらもう走り出してるんだもん!」
「コレットまで!」
「だって本当でしょ? 見てる方はいつもハラハラするんだから!」
彼女はそう言って笑ったあと、少しだけ首を傾げた。
「……でもさ、困ってる人を見つけたら放っておけないところ、私、すごく好きだよ!」
「……えっ?」
思わず聞き返してしまった。
コレットはきょとんとした顔で俺を見た。
「え? だから、そういうところがセインさんらしいなって!」
「……そ、そっか」
彼女は何事もなかったように笑っている。
隣でリゼも静かに頷いた。
「……ええ。だから困るんです」
「どういう意味?」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ頬を赤くした。
「……そのままの意味です」
ネイが何か言いたそうな顔をした。
俺は嫌な予感がした。
「……何?」
「いやいや、何でもないよ」
「絶対何か考えてるだろ」
「さあ?」
彼はにやにや笑っている。
俺はもう追及しないことにした。
こいつにからかわれると、どうしても調子が狂う。
◇
昼食を終える頃には、店の客も少しずつ減っていた。
ミレアは空いた食器を片づけ、ニコはようやく宿題に取りかかっている。
俺たちも手伝おうとしたが、ミレアに止められた。
「今日はお客さんなんだから、座っていてちょうだい」
「ええっ、でも、まだいっぱいあるよ?」
コレットが厨房の方を見た。
「私、ちょっとくらいなら手伝えるよ!」
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
ミレアが笑った。
「それより、久しぶりに会ったんでしょう? ゆっくり話していきなさい」
そう言われ、俺たちはもう一度席へ戻った。
ただ、コレットだけはどうしても落ち着かないらしい。
厨房の方を何度も見ている。
「……コレット」
リゼが声をかけた。
「ん? どうしたの?」
「そんなに気になるなら、一緒にお茶を運ぶくらいは手伝いましょうか」
「えっ、いいの?」
コレットの顔がぱっと明るくなった。
「やった! 実はさ、ちょっと手伝いたかったんだ!」
「そうだと思いました」
リゼは小さく笑った。
「だったら、最初から一緒にやろうって言ってくれてもよかったのに」
「えへへ……。だって、せっかくみんなで来たのに、お願いするのも悪いかなって」
「そんなことありませんよ」
「……そっか」
コレットは少し照れくさそうに笑った。
それから、元気よくリゼの手を取った。
「じゃあ、一緒に行こ! リゼ!」
「はい」
二人はミレアへ声をかけ、空いた食器を運び始めた。
その後ろ姿を見ながら、俺は少しだけ安心した。
コレットはいつも元気で、人のために動くのが早い。
でも、自分から誰かに頼むことは少ない気がする。
リゼは、そんな彼女の気持ちに気づいたのだろう。
「……いい仲間が増えたね」
ネイが小さく言った。
「うん」
俺は頷いた。
「みんな、すごく頼りになるよ」
「そりゃ何より」
ネイは少し笑った。
そして、ふと真面目な顔になった。
「……でも、セインは随分疲れてるみたいだね」
俺は顔を上げた。
「……そう見える?」
「見えるよ。肩も痛そうだし、さっきから何度か考え込んでる」
「……まあ、最近いろいろあってさ」
「ふうん」
ネイはそれ以上、何も言わなかった。
俺は少し迷ってから、グレゴールの商会のことを話した。
固有術を奪われた人たちのこと。
北門の施設で亡くなったヨルンと、兄を捜し続けていたテオのこと。
そして、まだ捕まっていない検品人のことも。
ネイは途中で口を挟まず、静かに聞いていた。
「……なるほどね」
話し終えると、彼は小さく息を吐いた。
「随分ひどい話だ」
「……うん」
「そのグレゴールって男は、まだ普通に商売してるの?」
「王宮の調査は進んでる。でも、全部を明らかにするには、まだ証拠が足りないんだ」
「そっか」
ネイは少し考えた。
それから、俺を見た。
「……セイン」
「何?」
「もしかして、全部自分で何とかしようとしてない?」
俺は思わず口を閉じた。
ネイは笑っていなかった。
「一人で走り回って、一人で怒って、一人で抱え込んでさ。そんなことしてたら、いつか足が止まるよ」
「……でも」
「分かってる。放っておけないんだよね?」
俺は頷いた。
ネイは少しだけ笑った。
「だったら、周りを見なよ」
彼が視線を向けた先には、リゼとコレットがいた。
二人は食器を運びながら、何か楽しそうに話している。
リオルはニコの宿題を覗き込み、どういうわけか逆に算数の問題を出されていた。
「……セインには、ちゃんと仲間がいるじゃないか」
俺はその光景を見つめた。
「……うん」
「だったら、もっと頼ればいいんだよ」
ネイはそう言って、いつもの調子で笑った。
「一人で格好つけても、疲れるだけだろ?」
「……お前に言われるとは思わなかったな」
「おや。失礼だねえ」
俺も少し笑った。
けれど、その言葉は思っていたよりも深く残った。
◇
「……なあ、ネイ」
しばらくして、俺は声をかけた。
「何?」
「お前、前に言ってたよな。忘れるのが苦手だって」
ネイの表情が少し変わった。
「……ああ。言ったね」
「今でも、そうなの?」
ネイは窓の外へ目を向けた。
青鐘通りには人々の声が響き、荷車がゆっくりと通り過ぎていく。
「……どうだろうね」
彼は少し考えた。
「覚えていたいことは、たくさんあるよ。でも、覚えていられないこともある」
「……そっか」
「前にも話しただろ。昔、どうしても助けたかった人がいたって」
俺は頷いた。
ネイが、かつて消えてしまった町のことを話してくれた時のことを思い出す。
誰かを助けたかった。
けれど、その相手がどんな人だったのか、もう思い出せない。
名前も、顔も。
残っているのは、助けたかったという気持ちだけだという。
「……今でも、思い出せないの?」
「うん」
ネイは静かに答えた。
「いろんな場所を歩いて、何か思い出せないか試したこともある。でも、そう簡単にはいかないね」
俺は何も言えなかった。
ティセラのことが頭に浮かんだ。
彼女も、六年間の自分を思い出せない。
何かを残したはずなのに、何をしたのか分からない。
ネイも、きっと似たような気持ちを抱えているのだろう。
「……でもさ」
ネイが俺を見た。
「だからって、今会えてる人のことまで、忘れる前提で考えたくはないんだよ」
「……うん」
「セイン達と一緒に走り回ったことも、こうしてまた会えたことも、今はちゃんと覚えてる」
彼は笑った。
「それで十分だと思うことにしてるんだ」
俺はしばらくネイを見つめていた。
何か返事をしようとしたが、うまく言葉にならなかった。
結局、俺は小さく頷いた。
「……俺も、覚えてるよ」
「そりゃ助かる」
ネイはいつもの調子に戻った。
「また僕のこと忘れられてたら、さすがにちょっと寂しいからね」
「忘れるわけないだろ」
「本当に?」
「本当だって!」
ネイが笑う。
俺も笑った。
その時は、それだけで十分だった。
◇
夕方が近づくと、青鐘亭の客席にも少しずつ空きができた。
ニコは宿題を終えたらしく、嬉しそうに紙を持ってきた。
「セイン兄ちゃん! できた!」
「お、見せて」
俺が受け取ると、少年は得意そうに胸を張った。
紙には、少し曲がった文字が並んでいる。
『ぼくのすきなばしょは、青鐘亭です。ここには、おいしいごはんと、かあさんがいます。いろんな人がきて、いろんな人がかえっていきます。でも、またかえってきてくれる人もいます。だから、ぼくはこのばしょがすきです。』
俺はゆっくりと読み終えた。
「……いいじゃん」
「本当?」
「うん。すごくいいと思う」
ニコは嬉しそうに笑った。
「ネイ兄ちゃんにも見せてくる!」
少年は紙を抱え、ネイの方へ走っていった。
その姿を見送りながら、俺は入口の扉を見た。
さっきから何度も、小さな鈴が鳴っている。
客が来るたびに、ミレアが「いらっしゃい」と声をかける。
帰る人には「また来てね」と笑いかける。
ニコは、その音と声が好きなのだろう。
俺も少しだけ、その気持ちが分かった。
「……セイン」
隣からリゼの声がした。
「何?」
「いいお店ですね」
「うん」
俺は頷いた。
「なんかさ、ここに来ると落ち着くんだ」
「分かる気がします」
リゼは小さく笑った。
その笑顔を見て、俺は何となく嬉しくなった。
「……また、一緒に来ようか」
自然に口から出た。
リゼが少し目を見開く。
「……私と、ですか?」
「うん。もちろん、みんなでもいいけど」
そこまで言って、少しだけ迷った。
「……二人でも、いいし」
リゼは黙った。
俺は急に落ち着かなくなった。
何か変なことを言っただろうか。
そう思った時、彼女が小さく頷いた。
「……はい」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
「私も、また一緒に来たいです」
俺は思わず笑った。
「……そっか。よかった」
リゼも微笑んだ。
その横から、聞き覚えのある声がした。
「へえ。二人でねえ」
振り向くと、ネイがいた。
にやにや笑っている。
「……お前、いつからそこにいたんだよ!」
「今来たところだよ。いやあ、いい話が聞けた」
「聞いてたんじゃないか!」
「おっと、ばれたか」
俺が睨むと、ネイは楽しそうに笑った。
リゼは顔を赤くして、慌ててお茶を飲んでいる。
その様子が余計におかしくて、俺まで笑ってしまった。
◇
店を出る頃には、青鐘通りが夕暮れの色に染まっていた。
ニコが入口まで見送りに来てくれた。
「また来てね!」
「うん。また来るよ」
俺が答えると、少年はネイへ顔を向けた。
「ネイ兄ちゃんも!」
「もちろん」
「今度は看板が曲がってなくても来てよ!」
「そりゃ難しい注文だねえ」
「難しくないよ!」
ニコが笑う。
ミレアも入口から顔を出した。
「みんな、今日はありがとう。またいつでもいらっしゃい」
「ごちそうさまでした! すっごくおいしかった!」
コレットが元気よく頭を下げた。
俺たちも礼を言い、通りへ出た。
ネイはそのまま帰るつもりなのか、俺たちと並んで歩き始めた。
「……そういえば、お前、これからどうするんだ?」
俺が尋ねると、ネイは少し考えた。
「しばらく王都にいるつもりだよ」
「本当?」
「うん。まだ確かめたいこともあるしね」
何を確かめたいのかは、聞かなかった。
ネイは俺の顔を見て、少し笑った。
「……聞かないんだ?」
「話したくなったら聞くよ」
「おやおや。ますます大人になっちゃって」
「だから、何なんだよそれ!」
俺たちは笑った。
通りの向こうから、夕刻を知らせる鐘が聞こえてきた。
ネイは足を止め、空を見上げる。
「……いい音だね」
「うん」
「王都の鐘って、こんな音だったっけ」
「しばらく離れてたから、忘れた?」
「いや」
ネイは少し笑った。
「覚えてた音と、ちゃんと同じだったからさ」
俺はその横顔を見た。
ネイがどこを歩き、何を探していたのかは分からない。
でも、こうして帰ってきたことが、ただ嬉しかった。
「……ネイ」
「何?」
「今度、時間があったら第七係にも来いよ」
「いいの?」
「もちろん。みんなにも会ってほしいし」
ネイは少し考えたあと、頷いた。
「……そうだね。顔を出してみようかな」
「じゃあ、約束な」
「おっと。また約束?」
「嫌なの?」
「まさか」
ネイは楽しそうに笑った。
「セインとの約束は、なるべく守りたいからね」
俺も笑った。
それから、少しだけ真面目な顔で言った。
「……帰ってきてくれて、よかったよ」
ネイは目を瞬かせた。
いつものように冗談を返してくるかと思ったが、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに笑った。
「……ただいま、セイン」
俺は頷いた。
「おかえり、ネイ」
そう言うと、ネイは少しだけ照れくさそうに笑った。
そのあとすぐに、いつもの顔へ戻る。
「……いやあ、いいね。そういうの」
「何が?」
「帰ってきた時に、おかえりって言ってくれる人がいること」
俺は何も言わず、もう一度頷いた。
その気持ちは、俺にもよく分かった。
◇
ネイと別れ、俺たちは青鐘通りを歩いた。
リオルとコレットは、少し先で何かを言い合っている。
どうやら、夕飯まで青鐘亭で食べていけばよかったという話らしい。
「……まだ食べるつもりだったの?」
俺が呆れると、リオルが振り向いた。
「だって、あの煮込みおいしかったんだよ!」
「そうそう! 私、次は絶対あれ食べる!」
コレットも嬉しそうに頷いている。
「いや、お前もさっき相当食べてたよな?」
「えへへ。おいしいものは別腹だよ!」
「……それ、便利な言葉だなあ」
俺が呟くと、二人が笑った。
その様子を見て、俺も笑った。
隣ではリゼが、静かに歩いていた。
「……楽しかったですね」
彼女が言った。
「うん。本当に」
俺は頷いた。
ネイが帰ってきた。
たったそれだけのことなのに、今日は随分と気持ちが軽い。
昨日まで、俺は帰ってこない人たちのことを考えていた。
ヨルンはもう帰れない。
テオも、兄を待ち続けることはできなくなった。
ティセラが六年前に守ろうとした人たちの行方も、まだ分からない。
そんなことばかり続いていたから、誰かが無事に帰ってきてくれたことが、余計に嬉しかったのかもしれない。
「……セイン?」
リゼが顔を覗き込んだ。
「どうしました?」
「……いや」
俺は首を振った。
「今日は、いい日だったなって」
彼女は少し驚いた顔をしたあと、微笑んだ。
「……はい。私もそう思います」
その笑顔を見ながら、俺は歩き出した。
まだ、解決しなければならないことは山ほどある。
明日になれば、また忙しくなるだろう。
それでも、今日のことは忘れたくなかった。
青鐘亭の賑やかな食卓も、ニコの宿題も、ネイのあの笑顔も。
そして、帰ってきた友達へ、ちゃんと「おかえり」と言えたことも。
俺は夕暮れの青鐘通りを、仲間たちと並んでゆっくり歩いていった。




