青い鐘が鳴る通りで
ミレアが煮込みの火を弱めた頃、青鐘通りには夕飯の匂いが満ちていた。
羊肉と豆、それから刻んだ玉ねぎを大鍋で煮込んだだけの、特別な料理ではない。香辛料だって王都の大きな店ほど使えないし、肉のいい部分は昼の客へ出してしまうから、夕方には少し硬いところが残る。
それでも、仕事を終えた人間が食べるには十分だった。
少なくともミレアはそう思っている。
「今日はちょっと薄いな」
鍋を覗き込んだ老人が言った。
「まだ食べてないでしょう」
「匂いで分かる」
「じゃあ匂いだけ嗅いで帰ってください」
「客に向かってひどいこと言うねえ」
「毎日ただで味見しようとする人は、客じゃありません」
老人は笑いながら、いつもの窓際へ座った。
青鐘通りにある二軒の食堂のうち、ミレアの店は少し奥まった方にある。店先には木製の小さな看板が掛かっていて、雨が降ると入口の右側だけが濡れるので、常連はみんな左から入ってきた。
夕方になると、店の前を荷車が通る。
通りの入口には薬屋があり、その先には小さな家が何軒か並んでいる。突き当たりの青い屋根の家は、毎年春になると雨漏りの修理をしているのに、なぜか秋にはまた雨漏りしていた。
王都には立派な建物がいくらでもある。
それでも、ミレアはこの狭い通りが好きだった。
近所の誰かが洗濯物を干し忘れれば、別の誰かが雨を知らせに走る。夜中に子供が熱を出せば、薬屋の主人は文句を言いながら戸を開ける。
良いことばかりではない。顔を合わせるたびに喧嘩する夫婦もいるし、借りた金をなかなか返さない男もいる。
それでも翌朝になれば、同じ通りを歩いて同じ店へ買い物に来る。
そんな場所だった。
「ミレア!」
店の外から声がした。
聞き慣れた声だ。
「今度は何?」
「今度はって何だよ!」
入口から顔を出したのはニコだった。
十歳になる少年で、髪はいつも適当に切られている。少し長くなった前髪が目へかかっているのを見かねて、ミレアが一度だけ切ってやったことがあるが、翌日からまた元通りになっていた。
あれ以来、本人は自分の髪を触らせてくれない。
「お腹減った」
「家で食べなさい」
「まだ誰も帰ってきてない」
「だったら帰ってくるまで待てばいいでしょう」
「待ってる間に腹減るじゃん」
「それはそうね」
ミレアが納得すると、ニコは嬉しそうに店へ入ってきた。
「じゃあ食べていい?」
「駄目」
「今納得したのに!」
「納得しただけよ」
窓際の老人が声を上げて笑った。
ニコは不満そうに頬を膨らませたが、諦めたわけではないらしい。鍋の方へ回り込み、湯気の向こうを覗こうとしている。
「豆、いっぱい入ってる?」
「入ってるわよ」
「肉は?」
「入ってる」
「どっちが多い?」
「豆」
「じゃあ明日来る」
「明日も豆よ」
「いつ肉の方が多くなるんだよ」
「ニコが偉くなって、私に大きな肉を買ってくれた日ね」
少年は少し考えた。
「じゃあ、俺が大人になってからか」
「そういうこと」
「遠いなあ」
真剣に困っているので、ミレアは笑いをこらえた。
鍋の底から肉を一切れ拾い、小皿へ載せる。
「ほら」
「いいの?」
「味見よ。食べたら帰りなさい」
ニコは喜んで受け取り、少し熱そうに口へ運んだ。
「うまい!」
「当たり前でしょう」
「でも豆多い!」
「帰りなさい」
少年は笑いながら店を飛び出していった。
外では別の子供が待っていたらしく、すぐに二人分の足音が遠ざかっていく。
「甘いねえ」
窓際の老人が言う。
「何がです?」
「ああやって毎日食わせてやって」
「味見させただけですよ」
「毎日な」
ミレアは答えず、鍋へ蓋をした。
自分でも甘いとは思う。
ただ、十歳の子供が腹を空かせて店へ来るのに、何も出さず帰すのも妙な気がした。
子供はよく食べる。
食べたら走る。
夜になれば帰って、また次の日も来る。
それでいい。
◇
日が傾くと、青鐘通りは少しずつ賑やかになった。
仕事を終えた職人が店の前を通り、薬屋では閉店前の客が二人ほど順番を待っている。向かいの食堂からは焼いた魚の匂いが流れてきて、ミレアは自分の煮込みの匂いと混ざるのがあまり好きではなかった。
せっかく羊肉を使っているのに、魚の匂いが勝ってしまう。
その文句を向かいの主人へ言ったところ、「そっちの豆の匂いも十分強い」と返されたので、それからはお互い何も言わないことにしていた。
もっとも、雨の日には相手の店から傘を借りるし、向こうが鍋を焦がした時には調味料を貸している。
喧嘩するほど暇ではないのだ。
「今日は遅いね」
赤い帽子を被った女が、買い物袋を抱えて店先へ立った。
「何が?」
「ニコ。まだ外で遊んでたよ」
「さっき帰れって言ったんだけどね」
「あの子が一度で言うこと聞いたら、明日は雪でも降るよ」
「秋に?」
「そういうくらい珍しいってこと」
女は笑い、袋を持ち直した。
「煮込み、まだある?」
「今ならあるわよ」
「あとで一皿持ち帰る。家で食べるの面倒になっちゃった」
「いつも面倒がってるじゃない」
「年を取るとね」
「私より若いくせに」
そんな話をしていると、通りの入口に見知らぬ男が現れた。
薄い茶色の髪をした、身なりのいい旅人だった。
王都の中心街なら珍しくもない服装だが、この辺りでは少し目立つ。商人のようにも役人のようにも見え、どちらにしてもこんな細い通りへ何の用があるのか不思議だった。
男は食堂の看板を見上げ、それから店の中へ視線を移した。
「こんばんは」
笑顔で声をかけてくる。
「いらっしゃい。食事?」
「うん。いい匂いだね」
「羊肉と豆の煮込みよ」
「それはいいな」
男は鍋から上がる湯気を眺め、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「まだ食べられる?」
「もちろん。今なら席も空いてるわ」
「じゃあ、あとで寄ろうかな」
「今食べないの?」
「ちょっと歩いてからにするよ」
旅人は通りの奥へ目を向けた。
散歩でもしているらしい。
変わった人だとは思ったが、王都にはもっと変わった人間がいくらでもいるので、ミレアは気にしなかった。
「冷めないうちに来てね」
「そうする」
男は軽く手を上げ、通りの入口にある古い街路標識へ目を向けた。
青鐘通り。
少し色褪せた文字を読んでから、何か考えるように立ち止まっている。
ミレアはその横を通り過ぎ、店先の掃除を始めた。
今日の仕事が終われば、明日の仕込みがある。
豆は一晩水へ浸けておかないと、朝になってから困るのだ。
◇
最初におかしなことが起きたのは、赤い帽子の女が立ち止まった時だった。
「ねえ、ミレア」
「何?」
「ここ、何て通りだったっけ」
箒を動かしていた手が止まる。
「何言ってるのよ」
「いや、急に出てこなくなって」
女は入口の標識を見上げた。
「変ね。毎日通ってるのに」
「疲れてるんじゃない?」
「かもしれない」
そう言って笑ったものの、女はすぐに歩き出さなかった。
標識の文字を見て、次に自分の買い物袋へ目を落とす。
「私、何買いに来たんだっけ」
「さっき煮込みを持ち帰るって言ったでしょう」
「ああ、そうだった」
女は安心したように頷く。
それでも、そのまま動こうとしない。
「どうしたの?」
「うん……」
通りの奥へ視線を向ける。
「私、こっちから来たんだっけ」
ミレアは少し笑いかけたが、女の顔を見てやめた。
本気で困っている。
酔っているわけでもないし、体調が悪そうにも見えない。
ただ、自分がどこにいるのか急に分からなくなった人間の顔をしていた。
「一回、店へ入りなさい」
「いいの?」
「座って水でも飲めば思い出すわよ」
女は小さく頷き、店へ入っていった。
ミレアはその後ろ姿を見送りながら、少しだけ嫌な気分になった。
この通りで迷子になる人間なんて、ほとんどいない。
道が一本しかないのだから、入口か奥へ歩けば必ず知っている場所へ出る。
それなのに、今の女はまるで初めて訪れた街にいるような顔をしていた。
「おかしいな」
通りの入口の方から、男の声が聞こえた。
見れば、さっきの旅人だった。
標識を眺めている。
「どうしました?」
ミレアが尋ねる。
「いや、ちょっとね」
男は穏やかに笑った。
「さっきまで、もっとちゃんと読めた気がするんだ」
何を言っているのか分からなかった。
ミレアは標識へ目を向けた。
青い板。
白い文字。
特に変わったところはない。
そう思った。
けれど、何と書かれているのかを確かめようとした瞬間、少しだけ目が滑った。
文字はそこにある。
形も分かる。
なのに、読んだはずの言葉が頭へ残らない。
「……変ね」
ミレアは箒を壁へ立てかけた。
何度か瞬きをする。
疲れているのかもしれない。
朝から仕込みをして、昼の客を相手にし、そのまま夕方まで働いている。
目が疲れていてもおかしくはなかった。
そう考えて店へ戻ろうとした時、向かいの食堂の主人が外へ出てきた。
「ミレア」
「何よ」
「うちの看板、誰か触った?」
「触るわけないでしょう」
「字がないんだよ」
「何言ってるの」
向かいの看板を見る。
木の板には、昼まで店の名前が書かれていた。
少なくとも、ミレアはそう覚えている。
今は何もない。
塗料を削った跡も、拭き取ったような跡も見えなかった。
古い木目がそのまま残っている。
「書き直したんじゃないの?」
「何で俺が自分の店の名前を消すんだよ」
「知らないわよ」
言い返したものの、何となく落ち着かなかった。
自分の店の看板へ目を向ける。
そこにも、文字がなかった。
今朝まで確かにあったはずなのに、木の板だけがいつもの位置へ掛かっている。
近づいて指で触れる。
塗料が剥がれた様子はない。
「……何これ」
背中が少し冷えた。
向かいの主人も黙っている。
通りでは別の男が足を止め、薬屋の看板を見上げていた。
「ここ、薬屋だったよな?」
誰かに尋ねるような声だった。
薬屋の主人が店から顔を出す。
「そうだけど」
「名前、何だった?」
「何って……」
主人が答えようとして、口を閉じた。
ミレアはその顔を見ていた。
さっき赤い帽子の女がしたのと、よく似た顔だった。
知っているはずのことを尋ねられて、そこへ手が届かなくなったような表情。
誰かが笑った。
誰かが、何かの悪戯じゃないかと言った。
ミレアもそう思いたかった。
ただ、悪戯なら誰かが看板を塗り直しているはずだし、同じ時刻に何人もの人間が道の名前を忘れる理由がない。
通りの奥で、子供たちがまだ走っている。
その足音が聞こえて、ミレアは少しだけ安心した。
ニコだ。
相手の子供を追いかけ、いつものように負けると文句を言っている。
何も変わっていないものが、まだある。
◇
「ミレア!」
店の中から赤い帽子の女が呼んだ。
戻ると、女は椅子へ座ったまま、自分の買い物袋を眺めている。
「どうしたの?」
「私、この店よく来るよね」
「何よ、急に」
「来るでしょう?」
「ええ。週に三回くらいは」
女は少し安心したようだった。
「じゃあ、よかった」
「何が?」
「さっきから、知らない店に来た気がして」
ミレアは返事ができなかった。
その顔は見覚えがある。
服も、赤い帽子も、買い物袋の持ち方も、全部知っている。
何度も煮込みを売った相手だ。
その女が、自分の店を知らないと言っている。
「今日は帰った方がいいわ」
「そうする」
女が立ち上がる。
ミレアは急いで小さな鍋へ煮込みを取り分けた。
「持っていきなさい」
「でも、お金」
「明日でいいから」
「明日?」
女は少し考えた。
「……明日も、ここにある?」
何を言っているのだろう。
ミレアは少し腹が立った。
「あるに決まってるでしょう」
自分でも驚くくらい強い声だった。
女が肩を揺らす。
「ごめん」
「謝らなくていいわよ。ただ、変なこと言うから」
ミレアは鍋を渡した。
「明日も店はあるし、私はここにいる。あなたはいつも通り食べに来ればいいの」
女は何度か頷いた。
受け取った鍋を両手で抱え、そのまま店を出ていく。
ミレアは後ろ姿を見送った。
その時、ふと気づいた。
自分は今、この店がある通りの名前を思い出せない。
ずっとここで暮らしてきた。
父親がまだ生きていた頃から、この店の厨房へ立っている。
通りの名前を何度も書いたことがあるし、客に道を教えたこともある。
なのに、今は最初の一文字さえ出てこない。
ミレアは店の奥へ戻り、古い注文帳を開いた。
配達先の欄。
毎日使っている帳面だ。
そこには番地が書かれている。
ただ、その手前にあるはずの通りの名前だけが抜けていた。
紙は傷んでいない。
書き忘れたように、綺麗に空いている。
ミレアはしばらくその行を見つめた。
背後では鍋が煮えている。
蓋が小さく揺れ、湯気が隙間から漏れていた。
いつも通りの音だった。
それが、かえって怖かった。
何かがおかしくなっているのに、夕飯の支度は止まらない。
火を消さなければ鍋は焦げるし、客が来れば食事を出さなければならない。
こんな時でも、生活というものは勝手に続いていく。
「ミレア!」
外からニコの声がした。
ミレアは注文帳を閉じた。
急いで店先へ出ると、少年が息を切らしながら立っている。
「何?」
「道が変なんだよ」
その言葉に、胸が少し強く鳴った。
「どう変なの?」
「奥まで走ったら、知らない家があった」
「知らない家?」
「いつもの青い屋根の家の隣。あんな家あったっけ」
ミレアは通りの奥を見る。
青い屋根は見える。
その隣にある建物も、別におかしなところはない。
少なくとも今見えている景色は、ミレアがよく知る通りのはずだった。
「前からあったでしょう」
「そうかな」
「そうよ」
ニコは納得していない顔だったが、すぐ別のことへ気が移ったらしい。
「明日さ、また肉ちょうだい」
「何で?」
「今日の美味しかったから」
「豆も食べるならね」
「豆はちょっと」
「じゃあ駄目」
少年は少し考えた。
「分かった。明日は豆も食べる」
「本当に?」
「半分」
「全部」
「……半分よりちょっと多く」
「交渉するところじゃないわよ」
ミレアは笑ってしまった。
ついさっきまで胸の中へ溜まっていた嫌な感覚が、少しだけ薄れた気がした。
ニコがいる。
相変わらず豆が嫌いで、肉が好きで、明日の食事を今から気にしている。
少なくとも、この少年はまだ目の前にいる。
「明日も来ていい?」
ニコが聞いた。
「ちゃんと家の人に聞いてからね」
「分かった!」
「それから、今日はもう帰りなさい」
「あと一回だけ遊ぶ!」
「何回言ったら分かるの」
少年は笑いながら走っていった。
追いかけようかと思ったが、店の中から客が呼んでいる。
ミレアはため息をついて、厨房へ戻ろうとした。
その時だった。
通りの入口に立っていた旅人が、こちらへ声をかけた。
「ねえ」
振り返る。
薄い茶色の髪。
さっき煮込みを食べると言っていた男だ。
男は通りの入口を見てから、ミレアへ視線を戻した。
「道が変だよ」
その言葉を聞いた時、ミレアは何だか妙に安心した。
自分だけではなかった。
変だと思っているのは、ほかにもいる。
そう考えて返事をしようとした瞬間、通りの入口から大きな金属音が響いた。
街路標識が、取り付け金具ごと地面へ落ちていた。
旅人が驚いたように一歩退く。
すぐに標識へ近づき、足元へ落ちた板を拾い上げる。
ミレアは思わず駆け寄ろうとしたが、背後から鍋の蓋が跳ねる音が聞こえた。
慌てて振り返る。
火を弱めたつもりが、いつの間にか煮込みが強く沸いていた。
「もう、こんな時に」
急いで厨房へ戻り、鍋を火から少しずらす。
蓋を開けると、羊肉と豆の匂いが湯気と一緒に顔へ当たった。
いつもの匂いだった。
今夜も客が来る。
明日も仕込みをしなければならない。
ニコはきっと、また肉ばかり欲しがるだろう。
そのことを考えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
ミレアは鍋をかき混ぜ、味を確かめる。
塩がほんの少し足りなかった。
外では子供たちの足音がまだ聞こえている。
ミレアは窓から顔を出した。
「ニコ、そろそろ帰りなさい!」
返事はすぐには来なかった。
けれど、少し離れたところから笑い声が聞こえたので、また遊んでいるのだろうと思った。
ミレアは窓を閉め、鍋へ塩を一つまみ加えた。
明日も店を開けるつもりだったし、ニコへ食べさせる肉も少し残しておくつもりだった。
通りの入口で何が起きたのかは、あとで誰かに聞けばいい。
今はまだ、夕飯の時間なのだから。




