第八話 名前を返さない
名前を戻せるかもしれない。
その可能性が見つかった翌朝、リゼはいつもより少し遅れて第七係へやってきた。
「おはようございます」
「おはよう。寝坊?」
「違います」
そう答えてから、少しだけ考える。
「……あんまり眠れなかったので、起きるのが遅くなりました」
「それを寝坊って言うんじゃない?」
「事情がある寝坊です」
「じゃあ仕方ないな」
「納得するの早いですね」
リゼは自分の席になりつつある窓際の椅子へ座り、持ってきた小さな紙袋からパンを取り出した。
昨日までなら朝食について何か話し始めるところだが、今日は袋を開けたまま、しばらく手をつけなかった。
「食べないの?」
「食べますよ」
「食べないなら俺がもらうけど」
「駄目です」
すぐにパンを抱える。
その反応だけは普段通りだった。
俺は少し安心して、自分の机へ戻った。
昨日見つかったのは、リゼが名称を預託した時の契約の控えだ。
首元の封蝋を使って本人が内容を確認し、名称を世界へ預けたことと、その手続きをエドラン・フェルクが管理していたことが分かった。
さらに、預託した理由を忘れたあとの自分へ向けて、リゼ自身が手紙を残していた。
名前を戻すかどうかは、未来の自分に決めさせてほしい。
その文章を読んだ時、俺は少し驚いた。
契約書には本人の同意があったと書かれているものの、当時どんな事情があったのかまでは分からない。追跡を逃れるためだったのか、それとも別の目的があったのか。
ただ、昔のリゼが、今のリゼに自分の決断を押しつけようとしていないことだけは分かった。
だから俺も、急いで答えを出させるつもりはなかった。
「セイン」
パンを半分食べたところで、リゼが呼んだ。
「何?」
「もし名前が戻ったら、私って変わるんですかね」
俺は机から顔を上げた。
「何が?」
「性格とか、好きな食べ物とか」
「そこは変わらないんじゃない?」
「本当に?」
「分からないけど、名前が戻るだけで急に野菜が好きになったりはしないと思う」
「私、野菜も好きですよ」
「昨日ニンジン残してたよね」
「あれは少し硬かったので」
「煮込みだったけど」
「そういう日もあります」
言い返してから、リゼは小さく笑った。
でも、笑みは長く続かなかった。
「昔の記憶が戻ったら、今のことを忘れたりします?」
今度はすぐに答えられなかった。
名称預託の契約には、本人や周囲の認識へ影響が出る可能性が書かれている。ただ、解除すれば失われた記憶がどうなるのかまでは分からない。
「そこはティセラにも聞こう」
「やっぱり分からないんですね」
「無理に大丈夫って言うよりはいいだろ」
「そうなんですけど」
リゼはパンの端を少しちぎった。
「私、今のことは忘れたくないんです」
顔を上げる。
「まだ何日も経ってないですけど、セインとかリオルとか、係長とか。怖いこともあったけど、楽しいこともあったので」
自分で言ってから、少し照れたように目を逸らした。
「まあ、係長のことは少しくらい忘れても困らないかもしれません」
奥から声が飛んできた。
「聞こえてるぞ」
「悪口ではないです!」
「じゃあ後で理由を聞こう」
「……セイン、助けてください」
「自分で言ったんだから自分で説明して」
「薄情ですね」
そう言いながらも、リゼはさっきより少し落ち着いた顔で残りのパンを食べ始めた。
名前を戻したいのかどうか。
本人にも、まだ決まっていないのだと思う。
それなら今日は、その判断をするために必要なことだけを確かめよう。
◇
ティセラは昼前にやってきた。
昨日使った古い照会板と、リゼの契約の控えを机へ並べると、細い眼鏡を押し上げて説明を始めた。
「先に言っておくけど、契約を解除した時に記憶まで全部戻るかどうかは分からないわ」
リゼが少し肩を落とした。
「やっぱり」
「古い資料には、認識が元へ戻る可能性があるとは書いてある。でも、どの範囲まで戻るかは契約によるし、本人への影響も一定じゃない」
「昔の私になっちゃう可能性も?」
「昔のあなたが今のあなたを上書きする、なんて言い方は正確じゃないわね。記憶が戻ったからといって、今経験したことまで消えるとは限らない。ただ、保証もできない」
言い方は少し冷たい。
でも、分からない部分を分からないと言ってくれるのはありがたかった。
「なら、まず承認権だけを戻す」
俺が言うと、ティセラが頷いた。
「そうね。契約書では、名前そのものと、名前を戻すかどうか承認する権利は別に扱われている。承認権を本人へ戻しただけで、名称預託が解除されることはないはずよ」
「はず?」
リゼが聞き返す。
「古式術式を扱う時に、絶対なんて言葉を使う研究者は信用しない方がいいわ」
「昨日から皆さん、安心させる気ないですよね」
「安心したいなら、調べない方がいいこともある」
ティセラは契約書を指した。
「でも、調べなければ自分で選べないでしょう」
リゼは黙ってその言葉を聞いた。
俺も契約書へ目を戻す。
名称を預託した本人は、解除するかどうかの承認権を一時的に管理者へ委ねる。
管理者が死亡した場合、または契約上の管理者として照合できなくなった場合、その権利は本人へ復帰する。
エドラン・フェルクは九日前に死亡した記録がある。
さらに、俺が彼の万年筆へ〈返却〉を使った時には、普通の死者と違い、返却先そのものを掴めなかった。
ただし、それだけで契約の条件を満たしていると断定はできない。
「係長」
俺は契約書を持ち上げた。
「この契約、今もエドランが管理者になってるんですか」
「名前は残ってる」
係長は椅子から立ち上がり、契約書の下部を指した。
「だが、照合状態は別だ」
小さな文字がある。
『管理者照合:不能』
俺は昨日、途中までしか理解していなかった欄をもう一度読んだ。
「ここか」
「ああ。管理者の名前が消えてないからといって、今もその人間が承認権を持っているとは限らん」
「じゃあ、条件は満たしてる?」
「契約上はそう読むのが自然だな」
ティセラも頷いた。
「ただし、権利の復帰処理は完了していないみたい。そこだけが途中で止まっている」
俺は契約書を見る。
今まで〈返却〉を使ってきたのは、財布や鍵、指輪のように、目で見て触れられる物ばかりだった。
でも、リゼの名前へ使った時から、その範囲が少し違うことには気づいている。
名前も、誰かへ預けられた権利も、物のように手で持つことはできない。
それでも、ある人間から別の場所へ移されたものなら、帰るべき先があるのかもしれなかった。
「リゼ」
「はい」
「〈返却〉を試す前に、もう一度確認する」
彼女が顔を上げる。
「これから戻そうとしているのは、名前じゃない。名前を返していいかどうか決める権利だ」
「はい」
「成功しても名前は戻らないし、昔の記憶も戻らないと思う。それでいい?」
リゼは契約書へ目を落とした。
エドランの名前。
照合不能の記録。
そして、自分へ戻るはずの承認権。
しばらく考えたあと、俺へ右手を差し出した。
「お願いします」
「分かった」
俺は契約書の上へ指を置いた。
移されていたものを、元の帰属先へ戻す。
今回の対象は、名前を取り戻すかどうか決めるための承認権。
それはもともと名称預託者本人が持っていたもので、契約の条件を満たせば本人へ復帰することになっている。
ならば帰る先は、リゼだ。
「〈返却〉」
指先から力が流れた。
最初は何も起きなかった。
万年筆の時のような行き止まりもなく、リオルのお守りで感じたような迷いもない。
ただ、何かが動こうとしているのは分かった。
それは俺の手から離れていくのではなく、契約書の中で長い間つながっていた二つの場所が、静かに結び直されていくような感覚だった。
ティセラが身を乗り出す。
「文字が」
契約書の下部にあった『管理者照合:不能』という記載は、そのまま残っている。
その下へ、新しい一行が浮かんだ。
『解除承認権:本人へ復帰済』
俺は術を止めた。
リゼの手には何も現れない。
首の封蝋も変わらず残っている。
けれど、契約書には今までなかった文字が確かに増えていた。
「……できた?」
リゼが自分の手を見る。
「できたみたいだ」
「もっと光ったりするのかと思いました」
「役所の権利が光ってたまるか」
「少しくらい夢があってもいいのに」
「名前そのものじゃないからな」
そう言うと、リゼはもう一度契約書を見た。
新しい一行を、指先でなぞる。
「じゃあ、私が決められるんですね」
「ああ」
「エドランさんに聞かなくても?」
「少なくとも、この契約の承認権はお前に戻ってる」
リゼはゆっくり頷いた。
その顔には安心もあったが、同じくらい戸惑いもあった。
今まで、名前が戻らないのは自分にどうすることもできなかったからだ。
今日からは違う。
戻すかどうかを、自分で選ばなければならない。
選べるということは、選んだあとのことまで引き受けるということでもある。
そう考えると、権利が戻ったことは喜ばしいだけの話ではなかった。
◇
ティセラが帰ったあと、第七係にはいつもの静けさが戻った。
係長は書類を読み始め、リオルは警備隊へ戻る前に窓際で茶を飲んでいる。さっきまで机を埋めていた契約関係の資料も、必要なものだけを残して片づけられていた。
ただ、リゼだけは自分の席へ戻らなかった。
契約書を前に置いたまま、何度も同じところを見ている。
「セイン」
「何?」
「名前って、戻した方がいいと思います?」
俺は少し考えた。
「それを俺に聞く?」
「返却士でしょう」
「だからこそ、本人が決めることだと思う」
「でも、セインならどうします?」
困った。
自分の名前を世界へ預けた経験なんて、もちろんない。
誰からも自分のことを覚えてもらえなくなる状況を想像しろと言われても、正直よく分からない。
「俺なら、理由が分かるまで待つかもしれない」
「どうして?」
「今返したら、どうなるのか分からないから」
「怖いから?」
「それもある。あと、今すぐ返さないといけない理由もまだ分かってない」
リゼは少し考えた。
「でも、本当の私の名前ですよ」
「それはそうだな」
「戻せば、昔の私が分かるかもしれない。仕立屋の人も思い出すかもしれないし、エドランさんとの関係も分かるかもしれない」
「うん」
「だったら、戻した方がいい気もするんです」
リゼが首元の封蝋に触れた。
昨日までは、そこに触れるたびに何かを確かめようとしていた。
今は少し違う。
触れたあとで、自分の手を見ている。
「ただ」
声が小さくなる。
「もし昔の私が、今の私と全然違う人だったら、どうしようって」
俺は顔を上げた。
「違う人?」
「何か怖いことをしてたかもしれないし、誰かを嫌いだったかもしれないでしょう。そもそも、何で名前を預ける必要があったのかも分からない」
リゼは俺を見る。
「昔の私は、今の私よりちゃんとした人だったんでしょうか」
その質問は、少し意外だった。
名前を取り戻すかどうかを考えているのだと思っていたが、リゼが気にしているのはそれだけではないらしい。
知らない過去の中に、自分がいる。
その自分が今とは違う考え方をしていたら、どちらが本当なのか分からなくなる。
「ちゃんとしてたかどうかは知らない」
俺は正直に答えた。
「でも、今のリゼを知らないまま、昔の方が本物だって決めるのも変じゃない?」
「同じ私ですよ」
「同じでも、今のお前は今のお前だろ」
うまく説明できなくて、少し考えた。
「俺が知ってるのは、名前をなくして管理局へ来たリゼだけだよ」
「……はい」
「パン屋の猫の名前を借りてたし、道端の札を全部拾ってくるし、三日前の干し肉は食べないし」
「最後は普通でしょう」
「仕立屋の人が具合悪くなった時には、自分が知りたいことを我慢して聞くのをやめた」
リゼの表情が少し変わった。
「昨日だって、自分が昔決めたことをそのまま信じるんじゃなくて、ちゃんと疑ってた」
俺は机の上の契約書を見る。
「それが今のお前だろ。昔の自分が何を考えてたとしても、今のお前がやってきたことまでなくなるわけじゃない」
言い終えてから、少し恥ずかしくなった。
別に説教をしたかったわけではない。
ただ、名前の有無だけで、目の前にいる人間の価値が変わるとは思わなかった。
「セイン」
「何?」
「昨日より、慰めるの上手になりましたね」
「そう?」
「最初は本当にひどかったので」
「そこまで言わなくても」
「でも、今のは嬉しかったです」
リゼはそう言って笑った。
その笑顔を見て、少しだけ安心した。
俺にできるのは、昔の彼女を知ることではない。
今の彼女がどうするかを決める時、必要な材料を一緒に探すことくらいだ。
それなら多分、俺にもできる。
◇
「じゃあ、決めます」
リゼが契約書を自分の方へ引き寄せた。
リオルも茶を飲む手を止めた。
係長は書類へ目を落としているが、話を聞いているのは分かる。
「名前を戻すかどうか?」
「はい」
「今日じゃなくてもいいよ」
俺が言うと、リゼは首を振った。
「今日決められるのは、今日の分だけなので」
「どういう意味?」
「明日になったら気が変わるかもしれないし、何か思い出すかもしれない。でも、今どうしたいかなら分かります」
その言い方が、妙にリゼらしかった。
「私は、まだ昔の名前を戻しません」
言葉ははっきりしていた。
係長が顔を上げる。
「理由は?」
「分からないことが多いからです」
リゼは一度、契約書の文字を見た。
「昔の私は何かの理由で名前を預けました。でも、その理由を今の私は覚えてません。だったら、せめてどうしてそうしたのか分かるまでは、戻さない方がいいと思います」
少しだけ間を置く。
「それに」
顔を上げた。
「私、今の名前が好きなので」
俺もリオルも、すぐには何も言わなかった。
リゼは自分の胸元を指す。
「リゼって、最初はセインが付けてくれた名前でしょう」
「ああ」
「でも、そのあとも使うって決めたのは私です。昨日も今日も、呼ばれると嬉しかったし、自分でもちゃんと振り返れます」
少し照れたように笑った。
「だから、今はこれでいいです」
「元の名前が気にならない?」
俺が尋ねる。
「気になりますよ。すごく」
「戻したくなったら?」
「その時に考えます」
「分かった」
それ以上は何も言わなかった。
本人が、今は返さないと決めた。
その判断に対して、俺が別の答えを押しつける理由はない。
「返却士なのに、名前を返さなくていいんですか」
リゼが少し不思議そうに聞いた。
「返せるものでも、本人がいらないって言ってるなら、無理に押しつける方がおかしいだろ」
「でも、落とし物ですよ」
「預かり物だよ」
リゼが瞬きをした。
「預かり物?」
「自分で預けたものなら、まだ捨てたわけじゃない。今は世界が預かってるってことじゃない?」
言いながら、自分でも少し妙な説明だと思った。
世界が人間の名前を預かる。
それを普通の役所の言葉で説明するのは、どう考えても無理がある。
「世界って、ちゃんと保管してくれますかね」
リゼが聞いた。
「今のところ、なくなってはいないみたいだし」
「じゃあ、もう少し預けておきます」
少しだけ嬉しそうだった。
最初に管理局へ来た時、リゼは自分の名前をなくしたと言っていた。
それから何日か経ち、名前を戻す方法が見つかった。
でも、取り戻さない。
それは諦めたからではなかった。
自分で考え、自分で選び、今は返してほしくないと決めたからだ。
その違いは、俺が思っていたよりずっと大きかった。
◇
「それじゃ、記録を作るか」
係長が立ち上がった。
「何のです?」
リゼが聞く。
「今回の件。本人が名称預託の継続を希望してるなら、その処理を残しておかないといけない」
俺は新しい受付帳簿を取り出した。
五年前の一七七三とは別だ。
あちらは、何が記録されていたのかすら分かっていない未解決の一件で、リゼの契約が見つかったからといって空白が埋まるものではない。
今から書くのは、今日ここにいるリゼ自身の判断だった。
現行の受付帳簿で、次の空いている行を開く。
受付日。
対象。
使用名。
処理内容。
俺はいつものようにペンを持った。
『受付対象:名称預託に関する照会』
『使用名:リゼ』
『処理:解除承認権を本人へ復帰』
『本人の希望により、名称預託を継続。名称の返還は行わない。』
そこまで書いてから、リゼに見せた。
「これでいい?」
リゼはゆっくり読んだ。
途中で一度だけ首を傾げたが、最後まで読んだあとに頷いた。
「いいです」
「直したいところは?」
「あります」
「どこ?」
リゼが指したのは、使用名の欄だった。
『リゼ』
俺は少し身構えた。
「名前、変える?」
「違います」
リゼは笑った。
「これ、私の名前としてちゃんと書いてくれたんですね」
「本人がそう名乗ってるからな」
「でも、昔の名前とは違いますよ」
「知ってるよ」
「役所なのに?」
「役所だから、今使ってる名前を書いたんだろ」
リゼはもう一度その文字を見た。
昨日まで、彼女の住民証明書には氏名欄がなかった。
過去の記録には、存在そのものが抜け落ちている。
そんな彼女の名前が、今新しく作った帳簿にはちゃんと残っている。
少しだけ嬉しそうな顔になる理由は、俺にも分かった。
「じゃあ、これでお願いします」
「了解」
記録へ確認印を押す。
係長も内容を読み、問題ないと判断したらしい。
「これで今回の処理は完了だな」
「名前は戻してないのに?」
リオルが尋ねる。
「返さないという判断を記録したんだ。役所の仕事としては、それで一つ終わる」
係長はいつもの眠そうな顔に戻っていた。
リオルも納得したように頷く。
俺は帳簿を閉じる前に、もう一度リゼの名前を見た。
昔の名前がどういうものだったのかは、まだ分からない。
でも、今日ここに残した記録には、彼女が自分で選んだ名前がある。
それだけで、この仕事にはちゃんと意味があったと思えた。
◇
夕方になると、リゼが古い返却帳簿を持ってきた。
「セイン」
「何?」
「これ、見てください」
五年前の帳簿だった。
「一七七三?」
「それもですけど、ほかにもあります」
リゼが頁を開く。
古い番号が並び、一つだけ抜けている箇所があった。
五四二の次が、五四四。
「五四三がない」
「はい」
さらに別の帳簿を開く。
一一八〇の次が一一八二になっている。
ただし、すべての記録が同じように消えているわけではなかった。
番号だけが抜けているもの。
返却対象の欄だけが空白になっているもの。
紙には何もおかしなところがないのに、リゼだけが何かの欠落を感じるもの。
「全部、同じ空白なの?」
俺が尋ねると、リゼは首を振った。
「少し違います。なくなった跡はあるんですけど、大きさも感じ方も違うんです」
「何があったかは?」
「分かりません」
少し困った顔になる。
「でも、全部が名前だとは思いません。あの仕立屋の絵みたいなのもあれば、もっと広い感じがするものもあるので」
俺は帳簿を何冊か開いてみた。
リゼが指す空白は、俺にはほとんど普通の記入漏れにしか見えない。
けれど、五年前の一七七三にあった赤い封蝋の跡を考えると、全部をただの書き忘れとして扱う気にはなれなかった。
「何かがなくなったことだけ分かるんだな」
「はい」
リゼは頷く。
「でも、そこに何があったかは分からない。だから、セインに見てもらおうと思って」
「俺にも分からないものはあるよ」
「それは知ってます」
「そこは少し遠慮して」
「でも、一人で考えるよりはいいでしょう」
その言い方が少し嬉しかった。
リゼには、存在していたものがなくなった跡が見える。
俺には、移されたものを本来の帰属先へ戻す力がある。
どちらか一つでは分からないことも、二人なら少し違った見え方になるのかもしれない。
「明日、ちゃんと調べよう」
俺が言うと、リゼは頷いた。
「今日は?」
「もう閉局だよ」
「役所って時間に厳しいですね」
「役所だからな」
「さっきも聞いた気がします」
俺が笑うと、リゼも笑った。
ちょうどその時、第七係の扉が三回叩かれた。
「もう閉局だぞ」
係長が奥から声を出す。
それでも、もう一度扉が叩かれる。
リオルが身分札を確かめながら扉へ向かった。昨日の襲撃以来、不審な客には少し慎重になっているらしい。
扉を開けると、そこには一人の男が立っていた。
二十代半ばくらいだろうか。
薄い茶色の髪に、旅人にしては手入れの行き届いた上着。特別目立つ服装ではないのに、妙に人目を引くところがあった。
何より、笑顔が自然だった。
初めて訪れた役所の入口で、こんなに楽しそうにしている人間は珍しい。
「まだ大丈夫?」
男が聞いた。
「用件は?」
リオルが答える。
「落とし物」
俺は片づけかけていたペンを置いた。
落とし物なら、閉局時間を少し過ぎていても話だけは聞くことにしている。
「拾ったの?」
男が頷く。
「うん」
「何を?」
「道」
俺は聞き間違いかと思った。
「道?」
「そう。僕も拾えるとは思ってなかったんだけどね」
男は肩へ掛けていた細長い包みを降ろし、机の上へ置いた。
布を外す。
中から現れたのは、青い塗料が少し剥げた古い街路標識だった。
中央に文字が残っている。
『青鐘通り』
知らない通りだった。
「どこで拾ったの?」
「南三区」
リオルが眉を寄せる。
「南三区にそんな通りはないぞ」
「今はね」
男の笑顔は変わらなかった。
「一時間くらい前まではあったよ。食堂が二軒と、小さな薬屋があって、突き当たりには青い屋根の家がある通り」
「その場所なら知ってる」
リオルが答えた。
「食堂と薬屋の間には壁がある」
「そう。今はね」
男は街路標識を指で軽く叩いた。
「でも、さっきまでは道があったんだ。人もいたよ」
「その人たちは?」
俺が尋ねる。
「分からない。道と一緒になくなっちゃったみたい」
それを言う時も、男は不思議なくらい落ち着いていた。
俺は返事に困った。
名前をなくした少女が来た時も驚いたが、道を拾ったと言われるのは初めてだ。
そのうえ、そこにいた人間までいなくなったという。
リオルは男をじっと見ていた。
リゼは標識の文字を眺めている。
係長だけが、奥の席から動かずに話を聞いていた。
「とりあえず、届出を作る」
俺は新しい用紙を一枚取った。
男は嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。助かるよ」
「まず名前を教えて」
「名前?」
「受付に必要だから」
男は少し考えた。
それから、何か面白いことを思いついたように笑った。
「それ、今いる?」
第一章を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
セインたちの物語は、ここからさらに広がっていきます。
続きも読んでみたいと思っていただけたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
これからも『王都の返却士』をよろしくお願いいたします。




