第七話 私が名前を捨てた日
名前を戻すな。
昨日の男が残した言葉について、リゼは朝から何度も考えているようだった。
第七係の窓際でパンを食べている間も、何かを思いつくたびに首元の赤い封蝋へ手を伸ばし、結局何も言わずにパンへ戻る。いつもなら一口食べるごとに感想を聞かされるので、静かな朝食というものがかえって落ち着かなかった。
「気になる?」
俺が尋ねると、リゼは顔を上げた。
「何がです?」
「名前を戻すなって話」
「ああ」
パンを皿へ置く。
「気になりますよ。戻すなって言われたら、戻したくなるじゃないですか」
「そういう理由で戻すのはやめよう」
「じゃあ、ものすごく変な名前だったのかもしれません」
「それを隠すために三人がかりで襲ってきたの?」
「国家機密級に変だったとか」
「どんな名前だよ」
「分からないから気になるんです」
リゼは少し笑ったが、すぐに首元へ触れた。
名前を取り戻したい。
最初に管理局へ来た時は、間違いなくそれが目的だったはずだ。俺も返せるなら返すのが当然だと思っていたし、できないと分かってからは、どうすれば返せるのかばかり考えていた。
けれど、昨日から事情が変わっている。
誰かがリゼの名前を知っているらしい。
しかも、取り戻そうとすれば襲撃してまで止めようとする。
相手の言い分を信用する理由はないが、名前を戻した時に何が起きるのか分からない以上、無視していいとも思えなかった。
「二人とも、こっち来い」
奥から係長の声がした。
「まだ朝食中です」
リゼが答える。
「食べながらでいい」
「書類にパンくず落ちますよ」
「落としたら拾え」
それはそうだが、管理局の係長が言うと妙な説得力がある。
俺たちが奥へ行くと、係長の机には古い返却帳簿が開かれていた。
五年前のものだ。
一七七二の次が一七七四になっていて、その間の一行だけが不自然に空いている。返却番号一七七三。紙を削った跡はないのに、リゼには何かが存在していた跡として見えるらしい。
しかも、空白の端には彼女の首元と同じ紋章の赤い封蝋が残っている。
「またこれですか」
リゼが帳簿を見る。
「ああ。昨日から保管記録を調べていたんだが、一七七三に対応する場所が見つかった」
「何が保管されていたんです?」
「そこまでは分からん。記録が抜けているからな」
係長は帳簿を閉じた。
「ただ、保管棚そのものは残ってる。見に行くぞ」
リゼが俺を見る。
「セイン、今ならまだ帰れますよ」
「何で俺だけ」
「また変な紙が出てきそうなので」
「それならリゼもだろ」
「私は気になるので」
「俺だって気になるよ」
「じゃあ一緒ですね」
そう言って笑う。
昨日より元気そうではあったが、首元へ伸びる指の動きだけは、まだ少し落ち着かなかった。
◇
第七係の奥には、長い間持ち主の現れなかった拾得物を保管する部屋がある。
普段使う棚より古く、木箱の蓋には何度も補修された跡があり、棚札の中には文字が薄れて読みにくくなったものもあった。保管期限を過ぎても処分できない物や、持ち主の調査が終わっていない物が少しずつ集まってくるので、仕事で入るたびに何か増えている。
「すごいですね」
リゼが棚を見上げる。
「何が?」
「落とし物がいっぱいあります」
「嬉しそうだな」
「まだちゃんと置いてあるでしょう」
言われてみればそうだった。
棚へ収められた古い帽子や玩具、使い込まれた工具は、少なくとも捨てられたわけではない。持ち主が現れる可能性がある限り、ここで待つことになる。
「リゼ、ここで働いたら?」
「給料いいです?」
「まずそこ?」
「食費がかかるので」
否定できなかった。
昨日も昼飯のあとで甘い焼き菓子を二つ買っていたし、今朝も俺より大きなパンを食べている。
「何です、その顔」
「別に」
「今、食べすぎだと思いましたね」
「思ってないよ」
「嘘つくの下手ですね」
係長が棚の奥から呼んだので、それ以上は追及されずに済んだ。
「一七七二の次だ」
見れば、古い棚札が連続している。
一七七〇、一七七一、一七七二。
その隣には、札のない区画が一つあり、次が一七七四だった。
帳簿と同じように、一七七三だけが抜けている。
「ここにも何かがあったんですかね」
俺が尋ねると、リゼは黙って棚へ近づいた。
しばらく目を凝らし、最下段へしゃがみ込む。
「……あります」
「何が?」
「空白です。帳簿より少し弱いけど、ここにも何かがなくなった跡があります」
係長が横へしゃがみ、棚板の隙間へ指を入れた。
少し持ち上げると板が外れ、その下から細長い木箱が現れた。
「隠してあった?」
「元の棚にはなかった構造だな」
箱には小さな封が押されていた。
リゼの首元と同じ紋章だった。
俺は嫌な予感がしたが、係長は意外にもすぐ開けようとはしなかった。
「ティセラに見せる」
「呼べるんですか」
「朝、もう連絡した」
「いつの間に」
「お前らがパン食ってる間」
そういうことは先に言ってほしい。
もっとも、言われたところで俺にできることはないので、結果は変わらなかったと思う。
◇
ティセラが来たのは昼前だった。
濃紺の髪は前に会った時よりきちんとまとまっていたが、上着の袖にはインクがついている。部屋へ入るなり木箱を見て、それから係長を睨んだ。
「休日に呼ぶなら、もっと詳しく説明してください」
「来てくれただろ」
「来ましたよ。赤い封が出たなんて言われたら」
「助かる」
「感謝するなら研究所へ正式な依頼書を出して」
「それは面倒だな」
「でしょうね」
仲が良いのか悪いのか、いまだによく分からない。
ティセラはリゼの首を一度だけ確認すると、箱へ向き直った。
細い器具で封の縁を調べ、紙へ紋様を写していく。その動きには迷いがなく、目にした形を正確に写し取れる固有術〈転写〉も使っているらしい。
「同じ系統の封ね」
「同じものでは?」
リゼが聞く。
「同じ紋様だからといって、同じ契約とは限らない。鍵の形が同じだから、中身まで同じ部屋とは限らないでしょう」
「なるほど」
それなら俺にも分かった。
ティセラが安全を確認してから係長が封を外し、箱の蓋を開ける。
中には薄い金属板と、折り畳まれた古い説明書が入っていた。
何かの契約書ではない。
人の名前もない。
金属板は手のひらより少し大きく、表面には細い線が幾何学的に刻まれている。
「照会板……?」
ティセラが呟く。
「知ってるの?」
俺が尋ねると、彼女は説明書を開いた。
「現物は初めて見る。祖母の本で読んだことがあるだけ」
王家が昔使っていた〈預かりの封〉には、保管されている内容を確認するための仕組みがあったらしい。
名前を預けた人間が自分の名前を忘れても、何を預けたのか確かめられるようにする。そのため、封を持つ本人が望んだ場合に限り、契約の控えを取り出せる道具が作られたという。
「つまり、名前が分からなくても本人確認できる?」
俺が尋ねた。
「そういうこと。名前で本人を確かめられなくなる契約なんだから、名前以外の確認方法が必要だったのよ」
分かりやすい理由だった。
「じゃあ、この箱があればリゼの契約を調べられる?」
「同じ形式なら可能性はある。ただし、これが一七七三に保管されていたものの本体とは限らないわ」
ティセラが説明書の裏側を見せた。
そこには五年前の日付と、短い書き込みがあった。
『旧式封印照会用資料。処分不可。』
誰が書いたのかは分からない。
「この板だけ残して、肝心の落とし物はなくなったってことですか」
リゼが棚を見る。
「そうかもしれない。でも、まだ決めつけない方がいい」
俺は彼女の横へ並んだ。
五年前の一七七三には何かがあった。
その痕跡が、帳簿と保管棚の両方に残っている。
だが、箱の中にあるのは古い照会用の道具だけで、何が預けられていたのかを示す記録はない。
リゼが最近なくした名前と、五年前の一件が同じものだとは考えられなかった。
ただ、両方に同じ封が使われている。
少なくとも、同じ仕組みが関わっている可能性はあった。
「リゼ」
ティセラが金属板を持ち上げた。
「あなたの契約を調べる方法は見つかったかもしれない。でも、これは勝手に使うものじゃない」
「私が決めていいんですか」
「封の持ち主が同意しないと動かないはずよ。もっとも、この古さだから絶対とは言えないけど」
リゼが金属板を見る。
「何が出てくるか分かります?」
「契約が残っていれば、その控え。誰が何を預けたのか、どんな条件がついているのかが分かる可能性がある」
「昔の私の名前も?」
「それは保証できない。名称そのものが預けられているなら、控えでも読めないかもしれない」
リゼは黙った。
俺も急かさなかった。
昨日、彼女は名前を戻すなと言われたばかりだ。自分の過去について知ることが、必ず安心につながるとは限らない。
それでも、知らなければ判断できないこともある。
「やります」
やがてリゼが言った。
「名前を戻すかどうかは、あとで決めます。でも、どうしてなくなったのかは知りたいです」
ティセラが頷く。
「分かった。じゃあ、座って」
金属板を机へ置き、上から新しい紙を一枚重ねる。
リゼが椅子へ座ると、ティセラは板を首元の封蝋へ近づけた。
直接触れさせるわけではない。
赤い封蝋と板の間に、指一本ほどの隙間を残す。
「気分が悪くなったら、すぐ言って」
「はい」
少し間を置いて、ティセラが尋ねた。
「自分の預託内容を確認したい?」
「確認したいです」
リゼがはっきり答えた。
その瞬間、金属板の線が淡く光った。
机へ重ねられた紙に、黒い文字が浮かび始める。
誰かがペンで書いているわけではない。
最初から紙の中にあった文字が、ゆっくり表面へ現れてくるようだった。
俺は息を止めて見ていた。
しばらくすると光が消え、ティセラが金属板を引いた。
「終わったわ」
リゼの首元に変化はない。
封蝋もそのままだった。
ただ、机の上には新しい紙が残っている。
五年前の一七七三から取り出したものではない。
今、リゼ本人の封に照会して現れた、別の契約の控えだった。
◇
紙の一番上には、古い書式の文字が並んでいた。
『名称預託契約 本人照会控』
その下に、契約が成立した日付がある。
今から二週間ほど前だった。
「やっぱり」
俺は小さく呟いた。
リゼが名前をなくしたのは、五年前の事件ではない。
少なくとも、この契約はごく最近結ばれている。
「預託対象」
ティセラが読み上げる。
『名称』
続けて、
『預託先:世界』
リゼが顔を上げた。
「本当に世界なんですね」
俺も白い返却票を思い出した。
初めて〈返却〉を使った時に出た、『帰属先:世界』という言葉。
意味はまだ分からないが、契約書と返却票は同じことを示している。
「管理者は……」
ティセラの指が途中で止まった。
俺もその名前を見た。
『手続管理者:エドラン・フェルク』
リゼの顔から笑みが消えた。
「エドランさん」
九日前に死亡したことになっている記録官。
リゼが懐かしいと感じた名前の持ち主。
仕立屋の女主人の兄で、家族が遺体を確認していない男。
その人物が、リゼの名称預託を管理する立場にいた。
「じゃあ、エドランさんが私の名前を取ったんですか」
「そこはまだ分からない」
俺が答えると、ティセラも頷いた。
「管理者というのは、契約の手続きを管理する人のことよ。あなた自身の所有者という意味ではないし、名称を預けると決めた人とも限らない」
リゼは契約書へ目を戻した。
その下には、名称を預けた本人の署名欄がある。
ただ、そこだけ文字が抜けていた。
名前の形は分からない。
けれど、署名の下には短い文章が残っていた。
『私は、名称預託によって生じる影響の説明を受け、この手続きに同意します。』
リゼが動かなくなった。
「これ」
紙へ顔を近づける。
「私が書いたんでしょうか」
ティセラはすぐには答えなかった。
「筆跡を比べれば、多少は分かる」
俺が紙とペンを渡すと、リゼは同じ文章を書き始めた。
最初の一行は何でもなかった。
けれど書き進めるうちに、本人の顔つきが変わっていった。
文字の傾き。
線を折る位置。
最後の払い方。
よく見ると、古い契約の文章と似た癖がある。
「……私の字です」
リゼが小さく言った。
「それだけで断定はできない」
ティセラが答える。
「でも、かなり似ているわ」
リゼは紙の上でペンを止めた。
「私、自分で同意したんですか」
誰もすぐには答えなかった。
契約書には本人の同意と書かれている。
筆跡も似ている。
ただ、どんな事情の中で、何を考えてその署名をしたのかは分からない。
そこまで分からないのに、自分の意思だったと簡単に言い切ることはできなかった。
「少なくとも、そういう手続きが残ってる」
俺は答えた。
リゼは紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「ずっと、誰かに取られたんだと思ってました」
その声は、今までより少し低かった。
「だからその人を見つければいいって。でも、私が自分で預けたなら、何でそんなことをしたんでしょう」
「そこはまだ分からない」
「覚えてないのに、自分で決めたことだけ残ってるなんて」
ペンを机へ置く。
「ずるいですよね、昔の私」
俺は何か言おうとして、やめた。
昔のリゼにも理由があったのだろう。
ただ、その理由が正しかったのか、ほかに選べる道があったのか、今の俺たちには分からない。
ティセラが契約書の最後を確かめた。
「もう一枚あるわ」
最初の紙の下から、薄い紙が現れていた。
折り畳まれた手紙のような形をしている。
ティセラはそれを開かず、リゼへ渡した。
「本人宛てみたい」
「私に?」
「そう書いてある」
表には、たった一行だけあった。
『これを読んでいる私へ。』
リゼはしばらくその字を見ていた。
そして、自分で紙を開いた。
◇
リゼが手紙を読んでいる間、俺たちは黙って待った。
途中で眉を寄せ、次に口元を強く結ぶ。
最後まで読み終えた時には、さっきの怒りとは少し違う顔になっていた。
「何て書いてある?」
俺が尋ねると、リゼはすぐには答えなかった。
紙を裏返し、もう一度表へ戻す。
「……名前を預ける手続きを選んだのは、私だって」
そこで一度止まった。
「でも、理由を忘れているなら、すぐには戻さないでほしいって書いてあります」
「理由は?」
「書いてません」
リゼの声に少し苛立ちが混じる。
「追いかけてくる人がいるとか、何かから逃げてるとか、そういうことも書いてない。大事なところを全部抜かしてるんです」
そう言ってから、もう一度手紙へ目を落とした。
「ただ、最後に」
ゆっくり読み上げる。
「昔の私が決めたことを、今の私への命令にしないでほしい。名前を戻すかどうかは、何も知らなくなったあとの私が決めればいいって」
俺は少し驚いた。
昔のリゼは、今のリゼへ自分の判断を押しつけていなかった。
名前を預けた理由は残していないのに、どうするかを決める権利だけは残そうとしている。
「何なんですか、この人」
リゼが呟く。
「お前だろ」
「そうですけど」
少し悔しそうに紙を指で叩いた。
「もっとちゃんと説明してくれればいいのに。私が何を怖がってたのかも、誰を信じてたのかも、何で忘れていいと思ったのかも、全部分からないままなんですよ」
確かに、その通りだった。
理由が分からない決断を、昔の自分がしたからというだけで今も守る必要があるのか。
その答えは、俺にも分からない。
「リゼ」
「はい」
「昔のお前が何を考えてたかは、これから調べればいい」
「調べて分からなかったら?」
「その時は、その時考えよう」
「またそれですか」
「今あるものだけで全部決めなくてもいいだろ」
リゼは俺を見る。
「でも同じ私ですよ」
「同じでも、今のお前には昔のお前が知らなかったことがあるかもしれない。逆もある。どっちか一方が絶対に正しいって決める必要はないと思う」
「じゃあ、誰が決めるんですか」
「今ここにいるお前だろ」
リゼは何も言わなかった。
自分の手で書かれた古い手紙を、もう一度見つめていた。
その顔を見ていると、名前をなくすというのが単に呼び名を一つ失うことではないのだと分かってくる。
思い出せない過去にも、自分の判断があった。
その判断に従えば安全なのかもしれないし、今の自分が知らない何かを失うのかもしれない。
けれど、どちらにするかを決めるには、まだ知らないことが多すぎる。
「最後に、解除条件だけ確認しておくわ」
ティセラが契約書を指した。
名称を戻すには、本人の意思と、手続管理者に預けた承認権が必要になるらしい。
管理者の欄にはエドランの名前がある。
ただし、その下には例外も書かれていた。
管理者が死亡した場合や、管理者としての照合ができなくなった場合、預けられた承認権は本人へ戻る。
「エドランさんがいないなら」
リゼが言う。
「私が自分で決められる?」
「契約上は、その可能性がある」
ティセラが答える。
「でも今、戻ってるかどうかは分からない。まだ試していないから」
俺はその一文を見つめた。
本人から別の人間へ預けられた権利。
条件を満たせば本人へ戻るもの。
それなら〈返却〉で扱える可能性はある。
名前そのものを戻すわけではない。
ただ、名前をどうするか決める権利を、本人の手元へ戻す。
それができるなら。
ようやく、リゼは自分の名前について自分で判断できるようになる。
「明日、試してみよう」
俺が言うと、リゼは少し驚いた顔をした。
「今日じゃないんですか」
「俺の腕、まだ少し痛いし」
昨日切られた左腕を動かすと、包帯の下が引きつった。
「それに、契約書をもう少しちゃんと読みたい」
「慎重ですね」
「相手が名前だからな」
リゼは少し考えたあと、小さく笑った。
「じゃあ、明日まで預けておきます」
そう言って、手紙を丁寧に畳んだ。
自分で選んだのかもしれない。
誰かにそう選ばされたのかもしれない。
その違いさえ、まだ分からない。
けれど、少なくとも今のリゼは、自分の過去へ怒ることも、疑うこともできる。
それは、名前を取り戻すのと同じくらい大事なことなのかもしれなかった。
帰り際、俺はもう一度、五年前の古い返却帳簿を開いた。
番号一七七三。
空白は、朝と何も変わっていない。
リゼの契約の控えが見つかったからといって、ここに何が記録されていたのか分かったわけではなかった。
俺は帳簿を閉じ、係長の机へ戻した。
昔の事件と今の事件が、同じ封を使っている。
それ以上のことは、まだ言えない。
ただ、名前を世界へ預ける仕組みは、リゼが名前をなくすよりずっと前から存在していた。
その事実だけが、五年前の空白に新しい意味を与えていた。




