第六話 王家の赤い封蝋
翌朝、第七係へ行くと、係長の机が珍しく片付いていた。
正確には、積み上がっていた書類を左右へ追いやって中央だけ空け、その場所へ二枚の白い紙を並べている。
一枚目には、
『返却対象:名称』
『帰属先:世界』
二枚目には、
『返却対象:筆記具』
『返却先:存在しない』
同じ書式。
同じ金色の縁取り。
ただし、一枚はリゼの名前へ〈返却〉を使った時に現れ、もう一枚はエドランの万年筆へ使った時に現れた。
別々の出来事だと思っていたものが、机の上で並ぶと急に一つの事件に見えてくる。
「何か分かったんですか」
俺が聞くと、係長は紙から顔を上げた。
「まだ分からん」
「朝から呼んでおいて最初の答えがそれ?」
「分からんから、分かりそうな奴を見つけた」
係長が一枚のメモをこちらへ滑らせる。
『ティセラ・ローヴェン』
その下には住所が書かれていた。
「誰です?」
「古い紋章と封印を調べてる研究官。王立紋章研究所にも籍がある」
リオルが横からメモを見る。
「正式に研究所へ問い合わせればいいんじゃないですか」
「正式に出せば記録が残る」
昨日、係長は白紙とリゼについて情報を広げるなと言った。
記録院へ侵入した人間が、俺たちの調査を知っていた可能性があるからだ。
「ティセラって人なら信用できる?」
俺が聞くと、係長は即答した。
「できる」
「性格は?」
「悪い」
「その二つ両立するんですね」
「性格と信用は別だろ」
妙に説得力があった。
リゼは二枚の白紙より、自分の首へ残った赤い封蝋を気にしている。
「その人なら、これも分かります?」
「俺よりは詳しい」
「係長、ここ数日そればっかりですね」
「お前、俺への遠慮なくなってない?」
「少し慣れました」
「良くない慣れ方だな」
そう言いながら、係長は少し笑った。
俺はその顔を見つつ、まだ疑っている。
この人は赤い封蝋を初めて見た人間の反応をしていなかった。
白紙も。
エドランの名前も。
何か知っている気がする。
ただ、今問い詰めても「知らん」で終わることも分かってきたので、別の場所から調べた方が早い。
「この二枚も持っていけ」
係長が白紙を封筒へ入れ、俺へ渡した。
「なくすなよ」
「遺失物管理局の職員に言います?」
「お前だから言ってる」
「何で」
「前に給料袋なくしただろ」
リオルが振り返る。
「給料なくしたの?」
「一回だけ。机の裏に落ちてた」
「〈返却〉使わなかったの?」
「普通に拾った」
リゼまで呆れた顔をする。
「能力いらないですね」
「見つかったんだからいいだろ」
三人から責められる理由がよく分からなかった。
ただ、こういう話をしている間だけは、封筒の中の二枚が普通の役所の書類に近く感じられるので、それほど悪くもなかった。
◇
係長に渡された住所は、王立紋章研究所ではなかった。
中央街から少し離れた住宅地を抜け、石造りの家が並ぶ細い道を進むと、一階が製本屋になった三階建ての建物へ着いた。
二階へ続く階段の横には、小さな金属札が掛かっている。
『ローヴェン紋章資料室』
「個人でも研究してるんだ」
リオルが札を見る。
「休みの日まで?」
リゼが心底嫌そうに言った。
「研究する人ってそういうものじゃない?」
「セインは休みの日に落とし物を調べます?」
「絶対やらない」
「ですよね」
扉を叩く。
返事はない。
もう一度、今度は名前を呼びながら叩くと、中で何かが派手に落ちた。
「ちょっと待って!」
女の声がした。
しばらくして扉が開く。
二十代後半くらい。
黒に近い濃紺の髪を後ろでまとめているが、片側だけかなり崩れて肩へ落ちている。細い金属縁の眼鏡、白いシャツ、その上から暗色の長い上着を羽織っている。
服装だけなら隙のない研究官に見えた。
ただし眼鏡の端に、小さな紙片が一枚引っかかっている。
「誰?」
「王立遺失物管理局です」
身分札を見せる。
「帰って」
扉が閉まり始めた。
「早くないですか」
「今日は休み」
「係長から来ました」
扉が止まる。
「……あの人?」
「知り合いですか」
「残念ながら」
今度こそ閉まりそうになったので、俺は先に言った。
「赤い封蝋について聞きたいんですが」
ティセラの視線が俺を離れ、後ろにいるリゼへ向く。
白い首元に押された赤い封蝋を見た瞬間、顔つきが変わった。
「入って」
「休みでは?」
「今それ必要?」
「いえ」
素直に入ることにした。
◇
資料室は、本に占領されていた。
本棚に本があるのは普通だが、床にもあり、机にもあり、窓辺にまで積まれている。その間へ古い金属板や封蝋、紋章を写した紙片、何に使うのか分からない石まで混ざっていた。
「座って」
ティセラが言う。
リゼが部屋を見回す。
「どこに?」
ティセラ自身も見回した。
「……待って」
椅子へ積まれた本をまとめて抱え、床へ移す。
「どうぞ」
「床に置いて大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃない」
「いいんですか」
「あとで後悔する」
係長が言うほど性格が悪い人には、まだ見えなかった。
「首を見せて」
俺たちが何とか場所を作って座ると、ティセラは余計な前置きをせず本題へ入った。
リゼが俺を見る。
「何で俺を見る」
「知らない人にいきなり首を見せろって言われたら、一応確認したくなるでしょう」
「嫌なら断っていいよ」
「そこはそう言うんですね」
「本人の首だから」
リゼは少し考えたあと、自分で髪を持ち上げた。
「お願いします」
ティセラは細い器具を取り出し、封蝋へ直接刃を入れたりせず、縁を慎重になぞっていく。角度を変えて光を当て、中央に刻まれた紋章だけを薄い紙へ写し取る。
さっきまで本を床へ投げるように移していた人と同じとは思えないほど、指先は丁寧だった。
「いつからある?」
「気づいた時には」
「誰につけられた?」
「分かりません」
「取ろうとした?」
「お湯につけたり」
ティセラの手が止まった。
「二度とやらないで」
「そんなに危ないんですか」
「何につながっているのか分からない術式を、自分の首につけたまま温める人がある?」
「ここに」
俺がリゼを指す。
「あなたは黙ってて」
「何で俺が怒られるんです」
「止めなかったから」
「知り合う前です」
「なら今回は許す」
理不尽なようで、少し筋は通っている気もした。
ティセラは調査を終えると本棚へ向かい、三冊抜いて二冊戻し、さらに奥からかなり古びた一冊を取り出した。
「実物を見るのは初めてだけど、多分これ」
開かれた頁には、王冠や宝石、剣などが描かれていた。
どの絵にも、赤い封印が押されている。
「〈預かりの封〉」
聞いたことのない名前だった。
「何を預かるんです?」
リゼが聞く。
ティセラは説明の仕方を考えるように、机の上の本を一冊持ち上げた。
「この本は今、私のもの。でも昔の王家では、重要な物を保管する時に、一定期間だけ帰属を別の場所へ預ける術式が使われることがあった」
「持ち主を変える?」
「完全に譲るのとは違う。誰が持っていても、一定の条件が終わるまでは指定された帰属先との結びつきを残すの。王冠、国宝、重要な記録、国家間の契約物。保管する人間が裏切っても、簡単には自分のものにできないようにする」
俺にはその説明の方が分かりやすかった。
「盗まれても、盗んだ人のものにはならないようにする?」
「そういう使い方もあった」
「じゃあ」
俺はリゼを見る。
「リゼ自身が、どこかへ預けられてる?」
「違う」
ティセラの返事は速かった。
「人間そのものを誰かへ帰属させる術式じゃない。少なくとも、この形では成立しない」
そこで少し安心した。
人間に持ち主はいない。
〈返却〉を使う時も、それだけははっきりしている。
誰かを別の誰かのものだと考えて術を使っても、何も起きない。
「ただ」
ティセラはリゼの封蝋を見る。
「もし本当に〈預かりの封〉の系統なら、この子自身ではなく、この子から切り離された何かへ使われている可能性はある」
リゼが自分の首に触れる。
少し考えてから、静かに言った。
「名前」
ティセラの目が動く。
「どうしてそう思うの」
俺は係長から預かった封筒を開き、一枚目の白紙だけを机へ置いた。
『返却対象:名称』
『帰属先:世界』
ティセラは最初に紙を見て、次にリゼの封蝋を見たあと、もう一度紙へ視線を戻した。
「これ、どこで手に入れた?」
「俺の〈返却〉をリゼの名前へ使ったら出ました」
「名前へ〈返却〉?」
「はい」
「あなたの固有術って、物を持ち主へ返すだけじゃなかった?」
「俺も最近そう思えなくなってきました」
「その『最近』の範囲は知らないけど、少なくとも普通の返却術には見えない」
ティセラは白紙を長く眺めた。
「世界」
その言葉だけを、小さく口にする。
「何か分かります?」
「分からない」
「係長と同じこと言う」
「分からないことを分かったふりする研究者の方が嫌でしょう」
係長より理由が立派だった。
「ただ、仕組みとしては少し筋が通る」
「何がです?」
「名前だけが本人から切り離されて預けられ、その帰属先として『世界』が指定されているなら、この封が外れない理由も説明できる」
「世界へ預けるなんてできるんですか」
「私が知っている〈預かりの封〉では無理。普通は王家、国、寺院みたいに、帰属先として扱える相手が必要だから」
「じゃあ違う?」
「現代の術式とは違う。でも、もっと古い形式なら断言できない」
分からないことはまだ多い。
それでも今回は、少なくともバラバラだったものが一本の線でつながり始めていた。
リゼの首の封蝋。
名前。
世界。
「この本、誰のものです?」
リゼがページの端にある書き込みへ気づいた。
ティセラの字とは少し違う。
何気ない質問だったと思う。
でも、ティセラの指が止まった。
「祖母」
「研究者?」
「違う。昔、王宮にいた人」
声が少し硬くなる。
「女官で、古い封や記録の扱いに詳しかった。子供の頃は色々教わった」
「その人に聞けば早くないですか」
リゼが言う。
「嫌」
即答だった。
「仲悪いんですか」
「悪い」
「どのくらい?」
「六年会ってない」
「結構ですね」
「余計なこと聞かないで」
「聞いたのリゼです」
「あなたも聞きそうな顔してた」
「顔だけで怒らないでください」
ティセラはため息をついた。
それでも、本を見る目だけはさっきまでと違った。
ただ嫌いな人を思い出した顔ではない。
長い間、開かないようにしていた箱の蓋へ、うっかり指をかけてしまったような顔だった。
「祖母なら、私より知ってる可能性はある」
しばらくしてティセラが言った。
「世界へ名前を預ける方法も?」
「そこまでは分からない」
「会いに行けます?」
「今は行かない」
「必要でも?」
ティセラは本を閉じる直前に、少しだけ迷った。
「必要になったら、その時考える」
リゼが俺を見る。
「セインみたいですね」
「一緒にしないで」
俺とティセラの声が重なった。
◇
資料室を出た頃には、昼をかなり過ぎていた。
細い道を三人で歩きながら、リゼは何度も首の封蝋へ触れている。
「じゃあ私、名前だけどこかの倉庫に預けられてるみたいな状態なんですかね」
「倉庫かは分からない」
「世界って倉庫大きすぎません?」
「場所でもないかもしれないし」
「余計分からなくなりました」
リオルが隣で笑う。
「昔から名前は大事にされてるからな。教会でも、人の名は神から授かるものだって教えるし」
「リオル、信じてるんですか」
「全然」
「急に軽いですね」
「うちの母親がそういう話好きだっただけ」
リゼは少し考える。
「授かるものなら、自分で決めちゃ駄目なんでしょうか」
「俺は別にいいと思うけど」
リオルが答える。
「セインが付けたやつでも?」
「俺の名前の付け方に何か文句ある?」
「由来ないって言ってたじゃないですか」
「由来がないのと適当は違う」
「何が違うんです?」
「……何となく」
「やっぱり適当では?」
うまく説明できなかった。
ただ、今日もリゼと呼べば本人が振り返り、本人もそれを自分の名前として使っている。
教会が何と言おうと、少なくとも今はそれでいい気がした。
「私、国宝くらい大事な名前かもしれないですよ」
リゼが言う。
「国宝はもう少し静かだと思う」
「私だって静かにできます」
「今から?」
「できますよ」
リゼが黙る。
十歩ほど進んだところで、こちらを見る。
「どうです?」
「短い」
「厳しいなあ」
リオルが声を上げて笑った。
俺も少し笑った。
昨日は記録院で追跡をして、今日は王家の古い封印を調べている。
名前をなくした少女を家へ返すだけのつもりだった話が、日に日に大きくなっている。それでも、こうして三人でくだらない話をして歩いている時間だけは、最初に管理局へやってきた朝とそれほど変わらなかった。
リオルの足が止まる。
笑いが消えた。
「セイン」
声の調子だけで分かった。
俺も足を止める。
「リゼを後ろへ」
考えるより先に彼女の腕を引いた。
「何」
「俺の後ろにいて」
前方に一人。
少し離れた後ろにも一人。
右の細い路地から、さらに一人が出てくる。
三人とも濃い色の外套を着て、顔の下半分を布で隠していた。
正面の男には見覚えがある。
記録院からエドランの万年筆を持って逃げた男だった。
リオルが剣の柄へ手を置く。
「何の用だ」
相手の視線は俺たちではなく、俺の鞄へ向いていた。
「紙を渡せ」
「何の紙?」
「持っているだろう」
白紙の存在だけでなく、今それを俺が持っていることまで知られている。
係長が情報を絞った理由を、今さら納得したくはなかった。
「嫌だと言ったら?」
リオルが尋ねる。
「奪う」
「分かりやすくて助かる」
剣が抜かれた。
俺はリゼを壁際へ動かしながら、自分ができることを考える。
リオルがいると、俺まで戦えるような錯覚をすることがある。
もちろん錯覚だ。
あいつは十年近く剣を使い続けているし、俺は落とし物を返す仕事をしている。ここで急に同じ動きができるようになる理由はない。
だから最初から、相手の身体ではなく、相手が持っている物を見ることにした。
正面の一人へリオルが踏み込み、金属音が細い路地へ響く。
右側にいた男が、その隙に俺を回り込もうとした。
「リゼ、壁から離れないで」
「セインも気をつけてください!」
「それは努力する!」
男の手には短い刃物がある。
腕が動くのを見て身体を引いたが、完全には間に合わず、左腕へ鋭い熱が走った。
服が裂け、その下から血が滲む。
痛みは少し遅れてきた。
刃物で切られると痛い。
当然のことなのに、身体から教えられると妙に腹が立つ。
「セイン!」
「浅い!」
「見えてます! 浅くても痛いでしょう!」
「かなり!」
言い返している余裕があるうちは大丈夫だと思うことにした。
相手がもう一度距離を詰める。
まともに打ち合えば、次は腕では済まない。
後ろへ下がりながら、手元を見る。
刃物。
腰袋。
外套の留め具。
俺が扱えるのは、ああいう物だ。
別の男がこちらへ短剣を投げた。
身体をひねった俺の頬の横を刃が抜け、背後の木柱へ刺さる。
一瞬、リゼを狙ったのかと思った。
けれど、投げた男は最後の瞬間に手首を外側へ逃がしていた。
昨日、記録院でリゼを見た途端に足を鈍らせた男だ。
今回も彼女へ当てるつもりがなかったように見える。
「何をしてる」
中央の男が低い声を飛ばす。
「……いや」
短剣を投げた男は短く答えた。
俺はそこを考え続ける余裕はなく、足元へ落ちた別の短剣を拾った。
「セイン、それ捨てろ!」
リオルが叫ぶ。
「少し待って!」
短剣を握っていたのは、目の前の男だ。
でも、今持っている人間が本当の所有者とは限らない。
俺は柄を強く握り、帰る先を探した。
「〈返却〉」
短剣が手の中から消える。
目の前の男が反射的に手を伸ばしたが、そこへは戻らなかった。
少し離れた大通りの方から、誰かの驚く声が聞こえる。
「なんでこれが……」
見えなくても分かった。
本当の持ち主は、あちらにいる。
俺は目の前の襲撃者を見る。
「借り物?」
男の目がわずかに動いた。
「人を切るなら、せめて自分の物を使えば」
口にしてから、自分でも今言うことではないと思った。
ただ、腕が痛くて少し腹が立っていた。
その一瞬をリオルは逃さず、相手の手首へ剣の腹を当て、武器を落とさせると、そのまま俺たちと相手の間へ入った。
「下がれ!」
残る二人も距離を取る。
リオルは追わない。
俺とリゼを置いて動けば、そこを狙われると分かっているからだ。
向こうもそれを理解しているらしく、再び正面から踏み込んでくることはなかった。
昨日の男だけが、リゼを見ている。
敵意よりも別の感情があるように見えた。
「あなた」
リゼが俺の後ろから声を出す。
「私を知ってるんですか」
「リゼ、前に出ないで」
「でも」
「今はここにいて」
少し強く言うと、彼女は止まった。
男の目が揺れる。
そのあと、低い声が聞こえた。
「名前を戻すな」
俺もリオルも、すぐには意味を飲み込めなかった。
リゼだけが、俺の肩越しに男を見続けている。
「どういう意味?」
返事はない。
「私の名前を知ってるんでしょう。あなた、誰なんですか」
男は答えなかった。
それでも、リゼへ刃を向けようとはしない。
中央の男が何か小さな物を地面へ叩きつけた。
白い煙が一気に広がる。
「目閉じろ!」
リオルの声と同時に、俺は後ろへ手を伸ばし、リゼの腕をつかんだ。
咳が出る。
目を閉じていても涙が滲み、周囲を走る足音だけが何度も方向を変える。
煙が薄くなった時には、三人とも消えていた。
◇
「痛い」
「動かないでください」
「動いてない」
「今動きました」
「消毒が痛いんだよ」
「子供みたいなこと言わないでください」
夕方。
第七係へ戻り、なぜかリゼに傷の手当てをされていた。
左腕の傷は思っていたより浅く、血ももう止まっている。
それでも消毒液を入れられると普通に痛い。
「もう少し優しくして」
「怪我した人が悪いです」
「理不尽じゃない?」
「避けられなかったんでしょう」
「俺、警備隊じゃないし」
「知ってます」
「なら少し褒めて」
「生きて帰ってきて偉いです」
「それ褒めてる?」
「かなり」
包帯を結び終える。
リゼが結び目を確認している間、向かいではリオルが係長へ襲撃の報告をしていた。
正式な記録に残すのは、路上で三人の不審者から襲撃されたこと。
白紙。
赤い封。
名前を戻すなという言葉。
そこはまだ伏せる。
「やっぱり変ですよね」
リゼが小さく言った。
「かなり」
「そうじゃなくて」
自分の首元へ指を置く。
「あの人たち、私にはちゃんと攻撃しなかった」
昨日も今日も、あの男だけはリゼを傷つけることを避けている。
「それに名前を戻すなってことは、私の名前がなくなってるのを知ってるんですよね」
「多分」
「だったら」
少しだけ声が弱くなる。
「私が誰だったのかも、知ってるかもしれない」
否定できなかった。
少なくとも今まで会った誰より、あの男はリゼの過去へ近い場所にいる。
それが味方なのかどうかは、まったく分からない。
「あ」
リオルが突然声を出した。
制服の内側へ手を入れ、細い紐を引っ張り出す。
先端には、小さな銅色のお守りがついていた。
紐が途中で切れている。
「さっき切れたみたいだ」
「まだ持ってたのか」
「何その言い方」
見覚えがある。
俺が十二歳の頃に渡したものだ。
近所の祭りで買った安いお守りで、リオルが将来警備隊へ入りたいと言った時に、
『死ぬなよ』
と言って渡した。
当時の俺は、警備隊へ入ったらすぐ死ぬと思っていた。
今考えるとかなり失礼だ。
「もう十年くらいだろ」
「お前がくれた物だからな」
「そんな大事にするほどの物じゃないよ」
「十年持たせたあとに言うな」
リオルが笑う。
リゼが興味深そうにお守りを見る。
「セイン、そういうことする子供だったんですね」
「十二歳だから」
「今は?」
「やらない」
「何で?」
「恥ずかしいから」
「つまらない大人になりましたね」
「今日かなり頑張ったと思うけど」
「それとこれとは別です」
どこかで聞いた言い回しだった。
「紐だけ直すかな」
リオルがお守りを外す。
「俺に言うな。裁縫できない」
「じゃあ、せっかくだから〈返却〉で戻してみてよ」
「お守りを?」
「十年前の記念」
「手渡しでいいだろ」
「いいじゃん」
面倒だと思いつつ受け取る。
昔は俺が買った。
でも、十年前に自由な意思でリオルへ渡した。
だから今の持ち主は俺ではない。
リオルだ。
「〈返却〉」
術を通した瞬間。
いつもと違う感覚があった。
帰る方向が一本に定まるはずなのに、今回はごく短い間だけ二つの方向へ引かれたように感じた。
俺は反射的に術を止めかけたが、次の瞬間には流れが一つへ戻り、お守りは手のひらから消える。
リオルの左手へ戻っていた。
「お、便利」
本人は何も気づいていない。
「セイン?」
リゼが俺の顔を見る。
「今、一瞬だけ変だった」
リオルの笑みが薄くなる。
「何が?」
「戻り先が迷った感じがした」
「俺の物じゃないってこと?」
「それは違うと思う。俺から渡して、お前が十年持ってる。少なくとも今の俺には、お前以外の帰属先を思いつかない」
「もう一回やる?」
リオルが尋ねる。
以前なら、確かめるためにすぐ繰り返したかもしれない。
今回はやめた。
「いや。今はしない」
「珍しいな」
「正しくない〈返却〉を何度もやるの、良くない気がする。何が起きるか分からないし」
自分の固有術について、こんなふうに警戒したことは今までなかった。
けれどリゼの名前、エドランの万年筆、そして今のリオルのお守りまで、同じ〈返却〉がそれぞれ違う反応をしている。
俺が思っていたより、「誰のものか」という話は単純ではないらしい。
リオルは壊れた紐ごとお守りをポケットへ戻した。
俺はその動きを見ながら、さっきの違和感だけは覚えておくことにした。
ただ、今夜一番頭から離れなかったのは別の言葉だった。
名前を戻すな。
これまで俺たちは、どうすればリゼの名前を返せるのかばかり考えていた。
返せるなら返す。
落とし物なのだから、それが正しいと思っていた。
けれど、あの男は事情を知った上で止めようとしている。
理由が分からない以上、言われた通りにするつもりはない。
それでも初めて、俺は考えた。
返せるものなら、何でも元へ戻せばいい。
本当にそうなのだろうか。




