第五話 死んだ記録官
九日前に死んだ男について調べるのは、思っていたより難しくなかった。
むしろ資料は多すぎるくらいだった。
エドラン・フェルク。四十三歳。王立記録院に十二年間勤務した記録官で、死亡日は九日前。仕事を終えたあと地下書庫へ向かう階段から転落し、発見された時にはすでに息がなかった。その日のうちに医師が死亡を確認し、翌日には死亡届が受理され、その三日後には王立墓地へ埋葬されている。
発見した職員の名前も、診断した医師の署名も、埋葬された区画番号も残っていた。
昨日まで俺たちが見てきた「空白」とは正反対だった。
人が一人死んだという事実を証明するために、必要そうなものが全部揃っている。
「ちゃんとしてますね」
隣で記録を読んでいたリゼが言った。
「もっとこう、『死亡。以上』みたいなものかと思ってました」
「国の職員だからな。生きてる間も紙が増えるし、死んだあとも増える」
「死んでも役所から逃げられないんですね」
「本人が書かなくていいだけ、生きてる時より楽かもしれない」
口にしてから、自分でも少し嫌な言い方だったと思った。
リゼも同じだったらしく、じっと俺を見る。
「今の、ちょっと嫌です」
「俺もそう思った」
「じゃあ言わなきゃいいのに」
「言ったあとに気づいた」
「そこ素直なの、ずるいですね」
向かいではリオルが別の資料をめくっていた。
今日は王都警備隊の業務として正式に来ているので、昨日までと違って堂々と記録院の資料を広げている。制服を着て真面目な顔で紙を読んでいると、それなりに警備隊らしく見えるから不思議だった。
「セイン」
しばらくして、リオルが一枚の紙を抜き出した。
「これ、ちょっと変じゃない?」
「どれ」
「遺族確認」
差し出された紙へ目を通す。
エドランの遺体を最初に発見した職員、死亡を確認した医師、そのあたりはほかの記録と一致していた。
ただし、下の方にある遺族確認欄だけは斜線で消され、その横へ短く記されている。
『身寄りなし』
俺より先にリゼが反応した。
「でも、仕立屋の人のお兄さんですよね」
「ああ」
昨日、本人から直接「兄がよく家へ来ていた」と聞いた。その住所を住民記録から辿って見つけたのが、エドラン・フェルクだった。
少なくとも妹が一人いる。
「単純な記載ミスってこともあるんじゃない?」
俺が言うと、リオルは否定せずに紙をもう一度見た。
「ある。でも、ほかが綺麗すぎるんだよ」
「綺麗だと怪しいの?」
「人が作った記録って、普通もう少し汚いんだ。訂正とか、書き足しとか、誰かが確認し直した跡とかさ。特に死亡関係は複数の部署を通るから、全部が最初から同じ形で揃ってる方が珍しい」
「警備隊やってると性格悪くなりそうだな」
「お前、最近俺の仕事に失礼じゃない?」
「昔からだよ」
「もっと悪いな」
リオルは呆れながらも、遺族確認の紙を手元へ残した。
俺ももう一度、死亡記録の束を見る。
嘘だと言えるものはない。
けれど、全部が本当だと安心できる感じもしなかった。
何より、昨日見た職員画にはエドラン本人だけがいなかった。
十年以上前に描かれた絵から、九日前に死んだ男の姿だけが抜けている。
死亡したから消えたのだと考えるには、順番がおかしい。
「仕立屋へ行こう」
俺が言う前に、リゼが口を開いた。
「確認したいです」
言い切ったあとで、指先が少しだけ強く重なっているのに気づいた。
昨日、あの家では女主人がリゼを思い出しかけ、その直後に何を思い出そうとしていたのかまで忘れた。
本人が怖くないはずがない。
「俺とリオルだけで行ってもいいよ」
「それは嫌です」
「行くのは?」
「ちょっと嫌です」
「難しいな」
「昨日も言われました」
リゼは自分でも少し笑った。
「また知らないって言われるのは怖いです。でも、私がいないところで私のことが決まっていく方がもっと嫌なので、一緒に行きます」
その答えなら、俺が付け足すことはなかった。
「分かった」
「それだけ?」
「引き止めてほしい?」
「違いますけど、本当にあっさりしてますよね」
「本人が行くって決めたんだから、俺が止める理由ないだろ」
リゼはしばらく俺を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
少なくとも、昨日の俺なら「危ないなら来るな」と考えたかもしれない。
今は少し違う。
心配することと、相手の選択を取り上げることは同じではないらしい。
◇
「エドラン・フェルクさんをご存じですか」
仕立屋でリオルがそう尋ねると、女主人は迷わず頷いた。
「ええ。兄です」
その返事だけで、遺族確認欄の『身寄りなし』は間違っていることになる。
隣でリゼが小さく息を吸ったのが分かった。
「お兄様が亡くなられたのは、九日前で間違いありませんか」
「はい。記録院の方が知らせに来ました。地下の階段から落ちたと」
「遺体は確認されましたか」
女主人は一瞬、質問の意味を考えるような顔をしてから首を振った。
「していません」
リオルの視線が少し鋭くなる。
「一度も?」
「ええ。王立墓地へ埋葬する手続きはこちらで進めるからと言われて……ちょうど大きな注文も入っていて、店を空けられなかったんです」
そこまで話したところで、女主人は自分の服の裾を指でつまんだ。
「変ですよね。たった一人の兄なのに、最後の顔も見なかったなんて」
「責めているわけではありません」
リオルの声が柔らかくなる。
こいつはこういう時だけ、人へ話しかけるのが俺よりずっと上手い。
「事実を確認しているだけです。知らせに来た職員の名前は覚えていますか」
「そこまでは。ただ、記録院の方でした」
俺は次の質問を口にするまで少し迷った。
リゼが隣にいる。
それでも、ここは聞かないわけにはいかない。
「エドランさんに、子供はいらっしゃいましたか」
女主人の表情が、ごくわずかに止まった。
「……いいえ」
「結婚は?」
「していません。兄はずっと一人で暮らしていて、子供も」
そこまで言ったところで、声が途切れた。
眉間へ皺が寄り、何かを探すように目が泳ぐ。
昨日と同じだった。
記憶の奥にある何かへ手を伸ばした瞬間だけ、その道がなくなる。
リゼも気づいたらしい。
一歩前へ出かけて、そこで自分から止まった。
「無理に思い出さなくて大丈夫です」
俺は思わずリゼを見る。
女主人も同じように彼女を見た。
「でも、あなたは知りたいんじゃ」
「知りたいです」
リゼは素直に答えた。
「すごく。でも昨日、無理に聞いて具合悪くさせたので、今日はやめておきます」
悔しくないはずがない。
自分の父親かもしれない男について、目の前の人間が何かを思い出しかけている。
それでも止まった。
俺には、それが少し嬉しかった。
大げさに褒めたら本人に嫌がられそうなので黙っておく。
「兄のことを、あなたは知っているの?」
今度は女主人の方からリゼへ尋ねた。
「分からないんです」
リゼは首を傾げる。
「名前を見た時に、懐かしい感じがしました。でも顔も声も思い出せないし、何をしてくれた人なのかも分からないので、本当に知ってたのかすら自信がありません」
「そう……」
女主人はリゼを見つめた。
白い髪。
赤い目。
首元の封蝋。
昨日より長い時間、確かめるように見ている。
それでも、何かを思い出した様子はなかった。
「もう一つだけお願いします」
リオルが話を戻す。
「お兄様の遺品は、こちらへ返却されましたか」
「遺品?」
「財布や鍵、身につけていた物です」
「いいえ。一つも」
俺とリオルの目が合った。
「記録院から、遺品について何か連絡は?」
「ありません」
これは明らかにおかしい。
国の職員だからといって、死後の私物まで国のものになるわけではない。身寄りが本当にいないなら別だが、目の前には妹がいる。
「いつも持ち歩いていた物で、覚えているものはありますか」
俺が尋ねると、女主人は少し考えてから答えた。
「万年筆」
「どんな?」
「黒い軸の古いものです。銀色の金具がついていて、軸の根元に自分の名前の頭文字を刻んでいました。父のものだったと思います」
「子供の頃から?」
「ええ。私が勝手に触ると怒るくらい大事にしていました」
エドラン・フェルク。
E.F.
まだ実物を見てもいないのに、黒い軸へ銀色の文字が刻まれた形が頭の中に残った。
◇
記録院へ戻った時、前を歩いていたリオルの足がわずかに遅くなった。
「どうした」
「ちょっと待って」
周囲へ視線を走らせている。
受付の職員。
書類を抱えて歩く若い男。
閲覧席に座る老人。
俺には朝とほとんど変わらなく見える。
「何かいる?」
リゼが声を落とす。
「分からない。人の流れが一瞬変に見えただけ」
「気のせい?」
「ならいい」
そう答えながらも、リオルの右手は自然に剣へ近づいていた。
昔からこいつを見ているので、ただ格好をつけている時と、本当に警戒している時くらいは分かる。
今は後者だ。
俺も少し周囲を意識しながら受付へ向かい、エドランの遺品について確認したいと伝えた。
担当の男は最初、ごく普通の顔で帳簿を取り出した。
ところが一冊目を確認し、別の紙へ移り、もう一度最初の帳簿へ戻ったあたりから表情が変わっていく。何も言わず奥へ消え、しばらくして戻ってきた時には、顔色まで悪くなっていた。
「どうしました?」
「……保管物がありません」
「記録がないんですか」
「いえ、記録はあります」
男は帳簿をこちらへ向けた。
『エドラン・フェルク』
死亡時所持品、六点。
財布。
鍵束。
銀製の腕輪。
眼鏡。
手帳。
黒軸の万年筆。
「記録にはあるのに、現物だけない?」
「はい。保管棚にありません」
「遺族へ返却した記録は?」
リオルが聞く。
「ありません」
「職員が持ち出した記録は?」
「それもありません」
リオルの顔から、完全に笑みが消えた。
「保管室を確認させてください」
「ですが、職員以外の立ち入りは」
「王都警備隊として確認します」
声を荒らげたわけではない。
それでも担当の男は、それ以上断らなかった。
◇
地下の保管室へ続く階段は、外から想像していたより深かった。
石壁には一定の間隔で灯りが置かれているが、地上から離れるほど空気まで冷たくなり、俺たちの足音が壁へ反響して少し遅れて戻ってくる。
途中で、リゼが足を止めた。
「ここ」
「何?」
「エドランさんが落ちたのって」
案内していた職員が振り返る。
「もう一階下です。地下書庫へ降りる階段で」
九日前。
エドラン・フェルクは、この建物の中を歩いていた。
そのあと、記録上では死んだ。
それだけを考えていると、ただの事故に思える。
でも、職員画の空白や身寄りなしの記録、返されていない遺品まで一緒に考えると、普通の転落事故として見る方が難しくなってきた。
「先に保管室を見よう」
リオルが言った。
俺も頷く。
今は、順番に確かめるしかない。
地下の一番奥まで進み、職員が鍵を取り出す。
ところが差し込む前に、その手が止まった。
「どうした」
「……開いてます」
扉は、ほんの少しだけ浮いていた。
リオルが俺たちへ声を出すなと指で示し、ゆっくり扉を押す。
中は暗かった。
廊下から差し込む細い光の向こうへ何列もの棚が並び、箱や布袋、封をされた書類が規則正しく収められている。
ただ、一列だけ様子が違った。
紙が床へ散り、箱の蓋が開き、棚札まで落ちている。
「誰か入ったな」
リオルが声を抑える。
俺は足元に落ちていた札を拾った。
『エドラン・フェルク』
荒らされているのは、その周囲だけだった。
「この人のものを探した?」
リゼが囁く。
「そう見える」
俺たちがエドランを調べ始めた直後に、エドランの遺品だけがなくなった。
昨日までなら偶然と呼んだかもしれない。
今は、そう考える方が無理がある。
部屋の奥で、布が擦れるような小さな音がした。
リオルの身体がすぐそちらを向く。
「誰だ!」
棚の向こうから人影が飛び出した。
黒っぽい外套をまとい、顔の下半分を布で隠している。相手は俺たちへ向かってくるのではなく、奥の小さな扉を押し開け、そのまま廊下へ逃げた。
「待て!」
リオルが追う。
俺も走った。
階段へ出た瞬間には、もう差が開いている。
リオルは昔から速かった。十二歳の頃から鬼ごっこでまともに捕まえられた記憶がないのに、警備隊で鍛えられた今のあいつと同じ速度で走れるはずがない。
分かっていても、前を走る背中が遠ざかると少し腹が立つ。
「セイン!」
後ろからリゼの声がする。
振り返る余裕はなかった。
「来るな!」
「もう来てます!」
「じゃあ転ぶな!」
「子供じゃないです!」
返事ができるくらいなら、まだ大丈夫らしい。
階段を駆け上がり、細い廊下へ出る頃には息が上がっていた。
前ではリオルが相手との距離を縮めている。
「止まれ! 王都警備隊だ!」
人影は当然止まらない。
角を曲がる直前で一度だけ振り返った。
布の上から見える目が、最初に俺を捉え、そのあと俺の後ろへ移る。
リゼだ。
その瞬間だけ、相手の足が鈍った。
追いつかれそうだから焦った人間の動きではなかった。
そこにいるはずのない人間を見つけた時のように、ほんの一瞬だけ目を見開いていた。
「……私?」
リゼも足を緩める。
その隙にリオルが手を伸ばした。
あと少しで外套へ届くところだったが、人影は脇の窓を開き、迷いなく外へ飛び出した。
二階だ。
下には商店の日除けが張られていて、相手はそこへ落ちると、布を大きく沈ませながら路地へ転がり、そのまま人混みの方へ逃げていく。
「俺は下から追う!」
リオルは返事を待たずに走った。
俺があとから追っても、階下へ着く頃には多分何も残っていない。
それより気になるものがあった。
「リゼ」
「大丈夫です」
息を切らしながらも、窓の外から目を離していない。
「あいつ、知ってる?」
「分かりません。でも」
その答え方は、完全に知らない人間へ向けるものではなかった。
「向こうは、お前を知ってるように見えた」
リゼは何も言わなかった。
その代わり、床へ視線を落とす。
「セイン。あれ」
窓の近くに細長い黒い物が落ちていた。
拾い上げる。
使い込まれた万年筆だった。
黒い軸には細かな傷があり、銀色の金具は少しくすんでいる。
根元には、小さな文字が刻まれていた。
『E.F.』
仕立屋で聞いた特徴と、全部一致していた。
◇
リオルは結局、人影を捕まえられなかった。
「大通りへ出られた。人が多すぎた」
第七係へ戻ってからも、珍しく機嫌が悪い。
「お前が逃がすこともあるんだな」
「今言う?」
「珍しいから」
「今度お前を追う時は絶対捕まえるからな」
「俺なら最初から逃げないよ。すぐ捕まるし」
「そこは自信持つところじゃないだろ」
係長は俺たちの会話には混ざらず、拾った万年筆を灯りの下で調べていた。
「E.F.だけなら同じ頭文字の人間はいくらでもいる」
「じゃあ、まだエドランの物とは限らない?」
リゼが尋ねる。
「これだけならな」
係長が金具の根元を示す。
目を凝らさないと分からないほど小さな番号が刻まれている。
「記録院への私物持ち込み番号だ。職員が自分の筆記具を仕事で使う場合、登録する」
「照合できる?」
「できる」
確認には大して時間がかからなかった。
『エドラン・フェルク』
『個人所有』
『黒軸万年筆』
本物だった。
リゼが恐る恐る受け取る。
黒い軸を指でなぞり、持ち方を変えながら重さを確かめる。
「空白は?」
「ないです」
「じゃあ何も感じない?」
「それが」
リゼは自分の手を見る。
「持ったことがある気がします」
「思い出した?」
「そこまでは。でも、この重さを知ってる感じがする」
万年筆なんて誰が持っても似たような持ち方になる、と言われればそれまでだ。
今ある手がかりは、どれも一つずつなら偶然で説明できる。
ただ、その偶然があまりにも増えすぎている。
「返してみたら?」
リオルが言った。
「誰に」
「エドラン」
「死亡記録見ただろ」
「だからだよ。お前の〈返却〉、持ち主が死んでる物には反応が違うんだろ」
リゼが俺を見る。
「死んだ人の物に使ったことあるんですか」
「一度だけ」
以前、亡くなった父親の指輪を娘が持ってきたことがある。
生前なくしたものだから、棺へ入れる前に本人へ返してほしいと言われた。
あの時、〈返却〉は途中までは動いた。
誰の物なのかも分かった。
ただ、その先にはもう受け取る人間がいなかった。
道は見えるのに、最後だけ閉じているような感覚だった。
「やってみる」
俺は万年筆を受け取った。
エドラン・フェルク。
この筆記具の持ち主。
十二年間記録院で働き、九日前に死んだことになっている男。
そこへ帰す。
「〈返却〉」
力が動いた瞬間、違和感があった。
死者へ使った時とは違う。
あの時は進むべき先が見え、その最後だけが閉じていた。
今回は、最初から道そのものを掴めない。
「セイン?」
「少し待って」
もう一度、万年筆とエドランの名前を頭の中で結びつける。
所有者の記録はある。
仕立屋の証言もある。
この物がエドランのものだったという事実まで疑う理由はない。
それなのに〈返却〉だけが、その名前を行き先として認識しない。
机の上で紙が擦れる音がした。
足元へ目をやると、縁に細い金色の線が入った白紙が一枚落ちている。
リゼの名前へ〈返却〉を使った時と同じ紙だった。
文字がゆっくり浮かぶ。
『返却対象:筆記具』
『返却先:存在しない』
リオルが紙を読み、眉を寄せる。
「これ、死んでるって意味じゃないのか」
「多分違う」
「何が違う?」
「感覚が違うんだ。死んだ人なら、どこへ返すべきかは分かる。ただ、その相手がもう受け取れない。これは、エドラン・フェルクっていう返却先そのものに、俺の術がつながらない」
紙に書かれた『存在しない』という言葉だけなら、死者を指しているようにも読める。
でも俺の固有術は、それほど単純な反応をしていない。
エドランが生きていると断言できるわけでも、世界から完全に消えたと決められるわけでもない。
今分かるのは、普通に亡くなった人間の持ち物へ〈返却〉を使った時とは違う、それだけだった。
係長が白紙を手に取った。
一度読んだあと、もう一度文字を確かめる。
さっきまで残っていた眠そうな雰囲気が消えていた。
「係長」
「明日から、この件は第七係の中だけで調べる」
リオルがすぐ反応する。
「記録院の職員が死んで、保管室へ侵入までされてます。警備隊には正式に上げないと」
「遺品盗難と侵入については上げろ。ただし、リゼと白紙と赤い封についてはまだ出すな」
「理由は?」
係長は俺たち全員を見た。
「今日逃げた奴はエドランの遺品を狙っていて、そのうえリゼを見て反応した。こっちが何を調べているのか知っている人間がいる可能性が高い。相手がどこまで入り込んでるか分からないうちに、情報だけ広げるのは危ない」
筋は通っている。
それでも、俺には別の引っかかりが残った。
「係長」
「何」
「エドランのこと、本当に名前しか知らないんですか」
ほんの少しだけ間があった。
「名前だけだ」
「今、間ありましたよ」
「お前、だんだん面倒になってきたな」
「誰のせいですか」
「俺かもしれんな」
係長は白紙を折らず、そのまま机の引き出しへしまった。
いつもの紙を扱う時より、ほんの少しだけ慎重だった。
死亡届があり、墓まであるのに、妹は遺体を見ていない。遺族がいるにもかかわらず記録上は『身寄りなし』で、遺品は返される前に誰かが持ち出そうとしていた。その遺品を持って逃げた人間はリゼを知っているように見え、〈返却〉はエドランという行き先そのものを掴めない。
記録だけを見れば、エドラン・フェルクは九日前に死んでいる。
けれど今の俺には、その記録をそのまま信じるより、まだ何かが抜けていると考える方が自然に思えた。




