第四話 なくなったものが見える子
仕立屋から戻っても、俺の頭には女主人が口にした「兄」という言葉が残っていた。
昔はよく家へ来ていた。
それだけなら何もおかしくない。
けれど、三人家族だと言い切る家には四脚の椅子があり、子供用の器が二つ残り、家族の採寸帳には名前だけない四人目がいた。息子から届いた手紙には「また四人で市場へ行こう」と書かれていて、そのうえ、女主人はリゼの髪を思い出しかけた直後に、自分が何を思い出そうとしていたのかまで忘れた。
そこへ、頻繁に出入りしていたという兄まで加わる。
一つずつなら偶然で済ませられるものが、そろそろ偶然だけでは片づけにくくなっていた。
ただ、その前に確かめておきたいことがある。
「まず、リゼが何を見てるのか調べよう」
第七係へ戻った俺は、机の上へ一本の鍵を置いた。
向かいに座っていたリゼが、あまり嬉しくなさそうな顔をする。
「その言い方、実験される動物みたいで嫌です」
「切ったり刺したりはしない」
「それ、安心させる時に最初に言う言葉じゃないですよ」
「嫌ならやめる」
「それはもっと嫌です」
結局やるらしい。
仕立屋で見つけたものについて係長へ報告すると、最初に聞かれたのが「全部同じように見えたのか」だった。
答えは違う。
肖像画にあった人ひとり分の空白。
第七係の古い帳簿から抜けた返却番号一七七三。
リゼが「なくなった」と感じたのは、その二つだけだった。
一方で、四脚目の椅子や赤い花の器、名前のない採寸記録には何も感じなかったという。
そこが俺にはよく分からない。
「これは第七係の予備鍵」
俺は机の鍵を持ち上げた。
「さっきまで壁の鍵掛けにあった」
「見てました」
「今はここにある」
「見れば分かります」
「何か変な感じは?」
「全然」
鍵を元の場所へ戻す。
「今は?」
「何も」
もう一度外して机へ置いた。
リゼがじっと鍵を見る。
「やっぱり何も」
「真面目に見てる?」
「見てますよ」
少しむっとした顔になる。
「見えないものを頑張って見たって、見えないです」
「それはそうだな」
「たまにすごく素直ですよね」
「俺、いつも結構素直だと思うけど」
「その自己評価は改めた方がいいです」
隣の机で報告書を書いていたリオルが小さく笑った。
「それは俺も賛成」
「何でお前まで参加するんだよ」
「昔からそういう顔してるから」
「顔と素直さ関係ないだろ」
「あるんだよ、セインの場合」
どんな顔なのか説明してほしかったが、二人とも答える気はないらしい。
リオルは仕立屋での聞き取りについて警備隊へ報告する必要があると言って、第七係までついてきていた。その報告書はとっくに書き終わっているように見えるが、係長が追い出さないので俺も放っている。
次に、紙を一枚取った。
「これ見て」
中央に大きく、
『リゼ』
と書く。
「はい」
本人が確認したところで、その上から黒く塗りつぶした。
「これは?」
「文字を隠しましたね」
「変な感じは?」
「ないです」
今度は別の紙へ同じ文字を書き、薄い刃で表面を慎重に削る。紙ごと傷めないようにすると、完全には消えず、少しだけ文字の跡が残った。
「じゃあこれは?」
リゼは紙を自分の方へ引き寄せ、指先で削った場所をなぞった。
「これも違います」
「名前はなくなってるけど」
「なくなったんじゃなくて、セインが消したんでしょう?」
俺の手が止まった。
「違うの?」
「多分」
「そこ大事だから、もう少し自信持って」
「私だって今日初めて自分がこんなの見えるって知ったんですよ」
「それもそうか」
「ほら、またすぐ納得する」
「間違ってるのに粘る意味ないだろ」
リゼは何とも言えない顔をしたあと、削った紙と最初の黒塗りを並べた。
「これって、どっちも見れば分かるんです。黒くした。削った。元々そこに何かあって、人が手を加えたって」
「仕立屋の絵は?」
「違いました」
彼女の表情が少し真面目になる。
「あそこは、消した跡がないんです。最初から誰も描かれてなかったように見える。でも、私にはそこだけ気持ち悪かった」
「帳簿も?」
「はい。番号が一つ飛んでるからじゃないです。数字を確認する前から、あそこだけ何かが抜けてる感じがしました」
俺は二枚の紙を見る。
書いた場所を黒くする。
削る。
物を別の場所へ動かす。
どれもリゼには普通に見える。
彼女が反応したのは、そこに何かが存在していたという痕跡まで、綺麗になくなっている場所だけだ。
「なくなった物が見えるんじゃなくて」
言葉にしながら、自分でも少しずつ整理する。
「『そこにあった』っていう事実がなくなった場所が分かる?」
リゼが顔を上げた。
しばらく考えたあと、自分の胸元へ手を当てる。
「……それが一番近い気がします」
「何があったかまでは?」
「分かりません」
「誰が消したかも?」
「分かりません」
「いつ消えたか」
「分かりません」
「結構分からないな」
「便利な能力だとでも思いました?」
「少し」
「失礼ですね」
俺も少し期待した。
空白を見ただけで、誰が、いつ、何を消したか全部分かれば楽だった。
でも、そんな都合のいい話ではないらしい。
リゼに見えるのは、もっと単純なものだ。
ここには、何かがあった。
それだけ。
「じゃあ」
いつの間に戻ってきたのか、係長が茶を持って俺たちの横に立っていた。
「この子が見つけられるのは、なくなった物そのものじゃないわけだ」
「多分」
リゼが答える。
「『あったこと』を、なくされた場所か」
係長は湯気の立つ茶を机へ置いた。
言葉にすると簡単だった。
でも、その意味を考えると急に気味が悪くなる。
財布をなくす。
鍵をなくす。
名前をなくす。
そこまでは、まだ理解できる。
存在していた物がどこかへ行ったという話だからだ。
けれど、リゼが見ているものが本当に係長の言う通りなら、消えているのは物ではない。
そこにいたこと。
そこに書かれていたこと。
誰かと暮らしたこと。
そんなものまで、落とし物みたいになくせることになる。
「そんなこと、普通にできるんですか」
リゼが尋ねた。
係長は茶を一口飲んだ。
「普通には無理だろうな」
「普通じゃなければ?」
「知らん」
「そこは知らないんですか」
「知らないものまで知ってるふりしたら、お前ら余計困るだろ」
言っていることは正しい。
正しいのだが、この人の場合、どこまで本当に知らないのか分かりにくい。
昨日、白い返却票を見た時も。
リゼの首にある赤い封蝋を見た時も。
ほんの少しだけ、反応が遅れた。
「係長」
「何」
「赤い封蝋、本当に知らないんですか」
茶を持つ手は止まらなかった。
「知らん」
「今、間なかったですね」
「疑い深くなったな」
「誰のせいだと思ってるんです」
「知らん」
便利な言葉だ。
係長は俺の視線を無視し、仕立屋で聞いた内容を書いた紙を指で叩いた。
「ただ、調べる場所ならある」
「王立記録院?」
「そう。仕立屋の兄が昔どこで働いていたかも、住民記録を辿れば分かるかもしれん。赤い封についても古い資料が残ってる可能性がある」
リオルが露骨に嫌そうな顔をした。
「記録院かあ」
「行ったことある?」
「警備隊の古い事件記録を取りに。一枚見るために申請書三枚書かされた」
「普通だろ」
「役人はこれだから」
「お前も国から給料もらってるだろ」
「警備隊はもう少し人間的です」
「昨日人のパン食べた奴が言うな」
「まだ言ってるのかよ」
リゼが笑った。
その横で、係長だけは仕立屋の報告書を見ていた。
女主人の兄。
何でもない一言だったはずなのに。
この人も、そこに引っかかっている。
「行ってきます」
俺が言うと、係長は小さく頷いた。
「リオルも連れてけ」
「俺も?」
「警備隊の身分札ある方が話早い」
「仕事中なんですけど」
「じゃあ戻れ」
「行きます」
「早いな」
リオルは立ち上がりながら笑った。
◇
王立記録院は、管理局から王城の方へ二十分ほど歩いた場所にある。
王都の中心へ近づくにつれて道幅は広くなり、商店より役所や貴族の屋敷が増えていく。記録院もその中にある灰色の石造りの建物で、正面の太い柱には上から下まで細かな文字が刻まれていた。
「何て書いてあるんです?」
リゼが見上げる。
「国の記録は国の記憶である、とか」
「とか?」
「最初のところしか読んだことない」
「こんなに長いのに?」
「全部読んで入る人、多分いないよ」
「作った人かわいそう」
「リゼは札にも同じこと言ってたな」
「置いていかれたものが気になるんです」
本人は何気なく言ったのだろう。
俺は少しだけその横顔を見た。
名前をなくしたからそうなったのか。
元からそういう人なのか。
まだ俺には分からない。
建物へ入ると、外より空気がひんやりしていた。
天井近くまで棚が伸び、紙と古い革と埃の匂いが混じっている。遺失物管理局も古い物は多いが、こちらは物ではなく、人間が残した文字ばかりだ。
受付で係長から渡された申請書を出すと、担当の男は俺たちを見るより先に書類を三度読んだ。
「調査対象は、五年前の返却記録、旧職員名簿、旧式の王家封印記録」
「はい」
「封印記録は閲覧許可がまだ下りていません」
「申請中だと聞いてます」
「早ければ三日です」
隣でリオルが俺の耳元へ口を寄せる。
「な?」
「何が」
「面倒だろ」
受付の男がこちらを見る。
リオルは一瞬で笑顔になった。
「厳重な管理で安心します」
「よく言うな」
「社会人だからな」
封印の方は諦め、今日は旧職員名簿から調べることになった。
仕立屋の女主人の兄。
名前は聞いていない。
ただ、あの家を住所として登録していた人物なら記録から辿れる。
中央三区十二番通り四十八番。
年代を遡りながら同じ住所を探す。
途中でリゼが別の家の記録を読み始めたので、「今は四十八番」と戻し、リオルは五冊目あたりから明らかに飽きていた。
「警備隊の捜査ってもっとこう、聞き込みとか走ったりするんだけど」
「帰っていいよ」
「そこまで言ってない」
「じゃあ探して」
「お前、上司いないと急に厳しくなるな」
「俺の上司じゃないし」
「係長が聞いたら喜ぶぞ」
「何で」
「育ったなって」
何となく嫌だったので返事をしなかった。
「ありました」
少し離れたところでリゼが呼ぶ。
今度は余計な記録ではなかった。
十数年前の王立記録院職員名簿。
住所欄を指で追うと、確かに同じ住所がある。
『エドラン・フェルク』
役職は記録官。
中央三区十二番通り四十八番。
「エドラン」
リゼがその名前を口にした。
直後。
彼女の指が止まった。
「リゼ?」
顔から少し色が抜けている。
「どうした」
「分からない」
胸元へ手を当てる。
「何か変です」
「空白?」
「違う。これは……私の方」
「知ってる名前?」
「分かりません」
思ったより強い声が返ってきた。
俺が黙ると、リゼはすぐに目を伏せる。
「ごめんなさい。セインに怒ったんじゃなくて」
「分かってる」
「本当に分からないんです。この名前を見ても、誰なのかは出てこない。でも」
もう一度、名簿を見る。
「嫌な感じ?」
リオルが聞いた。
「それだけでもなくて」
答えるまで少し時間がかかった。
「……懐かしいのかもしれません」
その言葉の方が、俺には気になった。
怖いならまだ分かる。
名前を消した相手かもしれない。
でも懐かしい。
名前を失った本人が、知らない男の名前だけを懐かしいと感じている。
「当時の職員の絵って残ってますか」
俺が担当者へ聞く。
「年度ごとの職員画なら」
案内された棚から該当する年を探す。
出てきたのは、二十人ほどの職員を一枚に描いた集合画だった。
前列に年配の職員が座り、若い人間は後ろに並んでいる。下には位置に対応した番号と名前が記されていた。
「エドランは十四番」
リオルが指で追う。
後列。
右から四人目。
そこを見た瞬間。
俺は、自分が番号を間違えたのだと思った。
もう一度数える。
一番。
二番。
三番。
十四番。
間違っていない。
でも。
そこには誰もいなかった。
背景の壁はある。
後ろの窓も描かれている。
両脇に立つ職員も普通にいる。
ただ十四番の位置にだけ、人ひとりが立てる不自然な隙間が空いている。
「リゼ」
俺が呼ぶより先に。
「いた」
彼女が呟いた。
絵のすぐ前に立っている。
「見えるの?」
「見えません」
「じゃあ」
「でも、分かる」
リゼは絵へ触れず、数センチ手前で指を止めた。
「ここに誰か立ってた。昨日の家の絵より、ずっとはっきり分かります」
「それがエドラン?」
「多分」
名簿を見る。
十四番。
エドラン・フェルク。
名前はある。
職歴もある。
住所もある。
なのに、姿だけがない。
「リゼとは逆だな」
リオルが言った。
俺も同じことを考えていた。
リゼは人間がここにいるのに、名前がない。
エドランは名前が記録に残っているのに、絵の中から本人だけが抜けている。
同じことが起きているのか。
まったく別なのか。
まだ分からない。
「職歴も見よう」
名簿へ戻る。
記録官として十二年勤務。
異動歴。
担当部署。
特別変わったところはない。
最後の欄に指が届くまでは。
「……これ」
退職理由。
そこには短く記されていた。
『死亡』
「死んでるの?」
リゼが俺の肩越しに見る。
「ああ」
「いつです?」
日付を読む。
一度、見間違いかと思って確認した。
「九日前」
リゼが黙った。
九日前。
彼女自身、いつ名前を失ったのか正確には分かっていない。
昨日、一昨日より前の記憶が曖昧だと言っていた。
少なくとも、大昔の話ではない。
そして、彼女が懐かしいと感じた名前の持ち主は、その少し前に死んだことになっている。
俺は死亡の二文字を見ながら、職員画の空白を思い出していた。
普通なら。
人が死んだと聞けば、それでその人がいない理由にはなる。
でも、これは違う。
死んだのは九日前だ。
この職員画は十年以上前に描かれている。
人は死ねば今はいなくなる。
だからといって。
昔そこに立っていたことまで、なくなるはずがない。
「セイン」
リゼが俺を呼ぶ。
「この人のこと、もっと調べたいです」
いつもの軽さはなかった。
「うん」
「もし、私と何の関係もなかったら?」
「その時は、その時考えよう」
「またそういう答え」
「今分からないことまで先に決めても仕方ないだろ」
リゼは名簿に書かれた名前を見る。
エドラン・フェルク。
しばらくして、小さく頷いた。
「じゃあ、それで」
俺ももう一度その名前を見る。
九日前に死んだ記録官。
仕立屋の女主人の兄。
リゼが理由も分からず懐かしいと感じた男。
そして、昔の職員画からだけ、人ひとり分きれいに抜け落ちている。
リゼが見つけられるのは、なくなった物ではない。
そこに「あったこと」をなくされた跡。
だとすれば。
エドラン・フェルクという男にも。
すでに何かが起きていた。




