第三話 存在しない娘
翌朝、第七係へ行くと、リゼが俺より先に来ていた。
窓際の椅子に座り、両手でパンを持っている。昨日リオルに食われた俺のパンではないことを確認してから、ようやく上着を脱いだ。
「おはようございます」
「早いな」
「寝る場所が変わると、あんまり眠れなくて」
昨日の夕方、係長が中央区の保護宿へ話を通したらしい。本来なら名前のない人間を泊めるだけでも面倒な手続きが要るはずなのに、係長は何枚か紙を書いただけで済ませていた。
どうやったのか聞いたら、「知り合いがいる」で終わった。
あの人は、仕事をしていないように見える時ほど、俺の知らないところで何かしている。
「今日の名前は?」
自分の席へ座りながら聞く。
リゼはパンをかじる手を止めた。
「リゼです」
「昨日と同じ?」
「駄目ですか」
「昨日、自分で毎日変えるって言ってなかった?」
「昨日の話が終わってないので」
そう言って、また一口食べる。
「終わるまでは、これでいいかなって」
名前なんて、普通はそんな理由で一日延長するものではない。
でも、昨日俺が何となく口にした音を、今日も本人が使うと決めた。その事実が、思ったより少し嬉しかった。
顔には出さない。
「好きにすれば」
「名付けた人にしては冷たいですね」
「本人が決めたなら、その方がいいだろ」
リゼが一瞬だけ俺を見る。
何か言いたそうだったが、結局言わずにパンへ戻った。
机の上には、昨日見つけた古い返却記録を置いてある。
返却番号一七七三だけが抜けた空白。
その端には、リゼの首にあるものと同じ紋章の赤い封蝋が残っていた。
偶然だと言える材料は、昨日一日でかなり減った。
「もう一度、仕立屋へ行く」
俺が言うと、リゼの手が少し止まった。
「やっぱり?」
「住民証明書の住所だけじゃなくて、家の肖像画にも空白があった。確認しない方が変だろ」
「そうですよね」
返事は早かったのに、パンの表面を親指で細かくちぎっている。
「嫌なら俺だけで行く」
「嫌です」
「じゃあ来なくていい」
「行かないのも嫌です」
「難しいな」
「自分でも思ってます」
少し笑った。
昨日までなら、それで誤魔化していたのかもしれない。
でも今日は、そのあとも言葉が続いた。
「また知らないって言われるのは嫌です。でも、昨日は本当に何も知らない顔だったのに、家の中にはあの空白があった。だったら、もう少し見れば何かあるかもしれないでしょう」
「うん」
「だから行きます」
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
怖いなら行くなとも、きっと大丈夫だとも言えない。
少なくとも、自分で行くと決めたことだけは尊重したかった。
◇
管理局を出ると、玄関脇の壁へリオルが寄りかかっていた。
今日はちゃんと王都警備隊の制服を着ている。昨日より髪まで整っていて、黙っていれば割と真面目な警備隊員に見えた。
「何でいるの」
「係長に頼まれた」
「俺には何も言ってないけど」
「お前に説明するより、俺に頼む方が早いと思ったんじゃない?」
「少し腹立つな」
「否定は?」
「できないのがもっと腹立つ」
隣からリゼが顔を出す。
「今日はちゃんと仕事してるんですね」
「昨日もしてたよ」
「人のパンを食べる仕事?」
「警備隊には色々あるんだ」
「ないよ」
俺が言うと、リオルは聞こえなかったことにした。
「昨日みたいに身分札を見せるだけじゃ、家の中まで詳しく見せてもらうのは難しいだろ。住民証明書に別人の住所が載ってるなら、偽造か記録ミスの確認ってことで警備隊も立ち会える」
「今日は本当に仕事してますね」
リゼが感心する。
「だから昨日もしてたって」
「昨日はパンの印象が強くて」
「パン一個で信用失いすぎじゃない?」
三人で歩き出す。
昨日と同じ中央街なのに、朝は店先の景色が違った。魚屋が石畳へ水を撒き、染物屋の前には濡れた布が並び、焼いた麦の匂いに少しだけ炭の煙が混ざっている。
リゼは静かだった。
それでも道端の猫を見つけると目で追い、逃げられると少し傷ついた顔をした。
「嫌われました」
「猫だから」
「昨日のオスカーは懐いてくれたのに」
リオルが反応する。
「そういえば昨日はオスカーだったのか」
「パン屋さんの猫です」
「じゃあリゼは?」
リゼが俺を見る。
リオルも俺を見る。
「俺」
「知ってる。由来」
「特にない」
「もう少し考えて付けてくださいよ」
「昨日は今日だけの予定だっただろ」
「今日も使ってます」
「それはリゼが決めたことじゃん」
言ってから。
少しだけ引っかかった。
俺が付けた名前ではある。
でも、今日もそれを名乗ると決めたのは本人だ。
名前というものが誰のものなのかなんて考えたこともなかったが、少なくとも今の「リゼ」は、昨日より少しだけ彼女自身のものになっている気がした。
◇
薄緑色の扉の前で、リゼが足を止めた。
昨日と同じ仕立屋。
糸巻きを描いた小さな看板が風に揺れている。
「少し待って」
リゼが一度深く息を吸う。
俺もリオルも急かさなかった。
やがて彼女が頷いたので、俺が扉を開ける。
女主人は昨日と同じ窓際で縫い物をしていた。俺たちを見ると驚いた顔をし、そのあとリオルの制服に気づいて少し緊張する。
「何かあったんですか?」
「昨日の件の確認です」
リオルが身分札を見せる。
俺たちと喋る時より声まで真面目だった。
「犯罪を疑っているわけではありません。ただ、この方の住民証明書にこちらの住所が記載されています。記録の誤りなのか、それ以外の事情があるのか、少し確認させてもらえますか」
女主人はリゼを見る。
やっぱり、知らない人を見る顔だった。
「分かりました」
しばらく考えてから、俺たちを店の奥へ通してくれた。
仕事場の後ろは、そのまま住居になっている。
小さな居間に食卓があり、窓辺には布を干すための細い紐が張られていた。壁には昨日見た家族の肖像画が掛かっている。
夫婦と少年。
三人。
リゼは一度だけ絵を見たあと、すぐ視線を外した。
「現在、ご家族はご主人と息子さんのお三方で?」
リオルが尋ねる。
「ええ。息子は今、東の砦ですけど」
「昔、この家で他に一緒に暮らしていた人はいませんでしたか。親戚のお子さんや、住み込みの職人でも」
「いませんよ」
女主人はそう答えてから、少し考えた。
「兄がよく来ていた時期はありましたけど、住んでいたわけではありません」
「お兄さん?」
「ずいぶん前の話です」
リオルはそれ以上追わなかった。
俺も今は置いておく。
探しているのは、この家にリゼがいた痕跡だ。
そこで最初に気づいたのは、食卓だった。
「椅子、四つあるんですね」
リオルが言う。
確かに四脚ある。
「来客用ですよ」
女主人は自然に笑った。
それだけなら何もおかしくない。
家族が三人でも椅子が四つある家くらいいくらでもある。
次に目についたのは棚だった。
大人用の皿に混ざって、小さな器が二つ残っている。一つには青い線が描かれ、もう一つには小さな赤い花が描かれていた。
「息子さんのものですか?」
「ええ。昔の器を捨てられなくて」
「二つとも?」
俺が聞くと、女主人は初めて少し困った顔をした。
「……そうね。二つとも」
答え方に嘘っぽさはない。
でも、自分でも理由が分かっていないように聞こえた。
リゼが赤い花の器へ近づく。
手を伸ばしかけて、触れる前に止めた。
「知ってる?」
「分かりません」
器を見つめたまま答える。
「でも、嫌な感じはしない」
「昨日の絵みたいな空白は?」
「ないです」
リゼに分かるのは、昔使った物かどうかではないらしい。
まだ何が見えているのか、俺たちにも本人にもはっきりしていない。
「古い採寸帳があるなら、見せてもらえますか」
リオルが尋ねる。
仕立屋なら家族の服を作った記録が残っているかもしれない。
「昔のものなら」
女主人が棚から何冊か取り出してくれた。
年ごとにまとめられた帳面を順番に開く。
夫。
妻。
息子。
肩幅、腕、腰、丈。
服を作るための数字が細かく書かれている。
何冊目かを開いた時。
俺の指が止まった。
「これ」
三人分の記録の下に、もう一つ欄がある。
名前はない。
そこだけ綺麗に空いているのに、身体の寸法だけが残っていた。
肩。
腕。
腰。
丈。
数字を見る限り、小柄な子供だったらしい。
「これは誰です?」
女主人が帳面を覗き込む。
「……さあ」
「家族用の帳面ですよね」
リオルが確認する。
「ええ。でも」
女主人は自分で書いた文字を指先でなぞった。
「私の字ですね」
「覚えてませんか」
「全然」
笑おうとしたが。
うまく笑えなかった。
リゼは数字を見ている。
「この大きさ」
自分の肩へ手を当てる。
「今の私より小さいですけど、子供なら……」
「同じくらいにはなる?」
「多分」
証拠ではない。
同じくらいの身体の子供なんて王都にいくらでもいる。
ただ、三人家族の家に四脚ある椅子。
二つ残された子供用の器。
そして家族の採寸帳に、名前だけがない四人目。
一つなら偶然で済むものが、少しずつ積み上がっていく。
俺は昨日より、この家をただの住所間違いだと思えなくなっていた。
「息子さんからの手紙は残っていますか」
リオルが聞く。
「家族について書いてあるものがあれば」
「何通かありますよ」
女主人が引き出しから紐でまとめた手紙を持ってくる。
東の砦から送られたものだった。
父親の腰を心配する文。
母親へ寒くなるから無理をするなという文。
休暇が取れれば帰るという文。
何通か読んだあと。
一枚だけ、妙なものがあった。
「リオル」
俺が渡す。
リオルの表情もすぐに変わった。
「何です?」
リゼが近づいてくる。
手紙の冒頭。
『父さんへ。
母さんへ。』
そこまでは普通だ。
その次に、本来なら誰かの名前が入っていたはずの間がある。
紙は削られていない。
インクが消された跡もない。
ただ、文章だけが不自然に空いている。
そして手紙はそのまま続いていた。
『東の砦はまだ寒い。
今年は春祭りまでに帰れそうだ。
帰ったら、また四人で市場へ行こう。』
「四人」
リゼが呟いた。
女主人が手紙を受け取る。
最初は意味が分からない顔をしていた。
それから、もう一度読む。
「そんな」
声が小さくなる。
「うちは三人です」
俺たちへ言っているというより、自分へ確認しているようだった。
「私と主人と息子。それだけです」
でも、椅子は四つある。
子供用の器は二つある。
家族用の採寸帳には四人目がいる。
息子の手紙には「また四人で」とある。
俺が何かを言う前に。
リゼが一歩前へ出た。
「あの」
女主人が顔を上げる。
「私、本当に知らないですか」
店の奥が静かになった。
通りから人の声が聞こえる。
布を切る鋏の音も、隣の店から響く荷物の音も、さっきまでと同じなのに、この部屋だけが少し遠くなったように感じた。
女主人はリゼを見る。
昨日より長く。
顔を。
赤い目を。
白い髪を。
首元の封蝋を。
「ごめんなさい」
やがて首を振った。
「やっぱり、知らないわ」
リゼの肩がわずかに落ちた。
俺にはそれしか分からなかった。
たぶん本人の中では、もっと色々なものが落ちた。
「でも」
女主人が続けた。
「変ね」
リゼが顔を上げる。
「何がですか」
「あなたの髪」
女主人の視線が、リゼの左側へ移る。
「その跳ね方を、知ってる気がする」
リゼが自分の髪へ触れた。
「誰の?」
「分からない」
「女の子?」
「たぶん」
女主人の眉間に皺が寄る。
思い出そうとしている。
「白い髪じゃなかった気がする。もっと暗くて。でも朝になると、左だけいつも跳ねていて……何度直しても、すぐ戻って」
リゼの息が止まったように見えた。
「それ、私ですか」
「分からない」
「名前は?」
「名前……」
女主人の呼吸が少し浅くなる。
額へ手が上がった。
それでもリゼは止まれなかった。
「お願いします。一文字でもいいから」
俺も止めるべきか迷った。
名前を探しに来た。
ここまで初めて、人の記憶がそこへ届きかけている。
あと少し聞けば、何かが分かるかもしれない。
そう考えた。
多分リゼも同じだった。
「リ……」
女主人の唇から、音が漏れた。
その直後。
「痛っ……」
身体が大きく傾いた。
リオルがすぐ腕を支える。
「座ってください」
「もういい」
俺はリゼの肩をつかんだ。
「でも今」
「もういい」
「セイン」
「思い出すためにこの人が倒れたら、戻った名前を喜べないだろ」
少し強く言った。
リゼが俺を見る。
悔しそうだった。
あと一歩だったと思っているのかもしれない。
俺もそう思っている。
それでも、今ここで女主人を追い詰める理由にはならない。
リゼはしばらく俺を見ていたが、やがて視線を落とした。
「……ごめんなさい」
今度は女主人へ向ける。
「無理に聞いて」
「あなたが謝ることじゃ」
女主人が椅子へ座ったまま答える。
顔色は少しずつ戻っていた。
「何か、思い出せそうだったの。私も知りたくて」
そこで。
彼女はふと黙った。
「どうしました?」
リオルが聞く。
女主人は不思議そうに俺たちを見た。
「私、今」
自分の額へ触れる。
「何を思い出そうとしてたんでしたっけ」
リゼの顔から表情が消えた。
俺もすぐには答えられなかった。
ほんの少し前まで。
確かに何かがあった。
髪の跳ね方。
朝の記憶。
名前の最初の音。
そこまで届いていたものが。
また。
最初から何もなかったようになっている。
リゼはその場所を見ていた。
女主人の顔ではなく。
その人の中にできた、俺には見えない何かを。
◇
店を出てから、しばらく三人とも喋らなかった。
昼が近づき、通りには親子連れが増えている。母親に手を引かれて市場へ向かう小さな女の子を、リゼが一度だけ目で追った。
そのあと。
「私」
前を向いたまま言う。
「あの家にいたんでしょうか」
「可能性は高くなったと思う」
昨日なら、まだ分からない、とだけ答えたかもしれない。
今日はそう言う方が不自然だった。
「でも、まだ確定はできない」
「そこは言うんですね」
「大事だから」
「分かってます」
少し不満そうではあったが、昨日ほど傷ついた顔はしなかった。
歩きながら、自分で一つずつ整理しているようだった。
「私があの家にいたとして、あの人は私を知らない。息子さんの手紙にも何かあったのに、名前だけない」
「うん」
「思い出しかけても、また忘れた」
「そう見えた」
リゼの歩く速度が少し落ちる。
「それって」
しばらく言葉を探してから、俺を見る。
「私、本当にいたんですかね」
意味は分かった。
記録から名前がない。
肖像画から姿がない。
家族らしい人間も覚えていない。
もし自分自身まで昔の名前を思い出せないなら、何をもって自分がそこにいたと言えばいいのか。
気の利いた言葉を探した。
何も出てこなかった。
俺はそういうのが本当に得意ではない。
「証拠ならある」
代わりに、思ったことをそのまま言った。
リゼが少し眉を上げる。
「椅子と器と採寸帳?」
「それも」
「他に?」
「俺が昨日からリゼと話してる」
言ったあと、自分でも少し恥ずかしくなった。
それでも続ける。
「昔のお前がどこにいたかはまだ分からない。でも、今のお前がここにいることまで誰かに消されたことにはならないだろ」
リゼは何も言わなかった。
言い方を間違えたかと思った頃。
「それ、慰めてます?」
「一応」
「昨日よりは上手です」
「上達早いな」
「低いところから始まってますから」
口元が少しだけ緩んだ。
「それに」
俺は続ける。
「もしあの人が思い出さなくても、調べる方法は他にある。記録だってまだ残ってる。今日駄目だったから終わりじゃない」
「何回でも?」
「必要なら」
「仕事だから?」
聞かれて。
少し迷った。
「今は」
そう答えた。
リゼはそれ以上聞かなかった。
「二人とも」
少し後ろからリオルの声がする。
振り返る。
「俺をいないことにするなよ」
「いたの?」
「ずっといたよ」
「静かだったので」
「ちゃんと空気読んでたんだよ」
「珍しい」
「セイン、お前まで?」
リゼが笑った。
今度は、無理に作った笑い方ではなかった。
俺たちはまた歩き出す。
昔の彼女が誰だったのかは、まだ分からない。
あの仕立屋の家で暮らしていた四人目が本当にリゼだったのかも、まだ確定していない。
でも、一つだけはっきりした。
彼女から失われたのは。
名前だけではない。
誰かと一緒に暮らしていたことも。
誰かに髪を直してもらったことも。
誰かが手紙へ名前を書いたことも。
彼女がそこにいたという事実そのものが。
少しずつ。
世界から抜け落ちている。




