第二話 世界にも落とし物があるらしい
王立遺失物管理局へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
朝より風が強くなっていて、中央街の店先に吊るされた布が忙しなく揺れ、露店の主人が飛ばされかけた籠を両腕で押さえている。空はよく晴れているのに、風だけが妙に冷たかった。
仕立屋を出てから、リゼはあまり喋っていない。
知らない女に「あなたなんて知らない」と言われただけだ、と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。
ただ、住民証明書に書かれていた住所は確かにあの店で、壁に掛かった家族の肖像画には、リゼにしか分からない「なくなった跡」があった。
もしあの場所が本当に彼女の家だったなら。
もしあの女が、本当に彼女を知っていたはずの人なら。
何も覚えていない本人より、忘れられている方が怖いのかもしれない。
俺には分からない。
分からないことを、分かった顔で慰めるのも違う気がしたので、今は何も聞かなかった。
「それ」
隣から声がした。
「何」
「足元」
見ると、一枚の紙が俺の靴へ引っかかっている。
拾い上げると肉屋の値札だった。
豚肩肉、三十七ルク。
「高いな」
「そこですか?」
「そこだろ」
「それも管理局へ持って帰るんですか」
「肉屋そこにあるじゃん」
振り返ると、五軒ほど後ろで店主が地面を見回していた。
俺が値札を持ち上げると、向こうもすぐ気づいたらしい。
「でも、落とし物ですよ」
リゼは本気で言っている。
どうやら朝から俺と一緒にいたせいで、道に落ちている物は全部いったん管理局へ運ばなければならないと思い始めたらしい。
「全部役所に持ってくるようにしたら、三日で建物が埋まるよ」
「そんなに?」
「人間は思ってるより物を落とす」
肉屋へ値札を渡すと、店主は「ああ、そこだったか」と受け取り、そのまますぐ肉を並べる作業へ戻った。
礼らしい礼もない。
値札一枚なら、まあそんなものだ。
隣を見ると、リゼが少し笑っていた。
「何」
「ちゃんと返すんですね」
「何を今さら」
「勤務時間じゃないのに」
「目の前に持ち主がいるのに、わざわざ持ち帰る方が面倒だろ」
「それだけ?」
「それだけ」
リゼはしばらく俺を見ていたが、納得したのかしていないのか分からない顔で前を向いた。
「そういうことにしておきます」
「何なんだよ」
返事はない。
ただ、仕立屋を出た時より歩き方が少し軽くなったので、それ以上は聞かなかった。
◇
管理局の扉を開けると、古い紙と乾いた木の匂いがした。
二年も働いていると普段は意識しないのに、外から戻ってくるとよく分かる。高い天井、壁いっぱいの棚、その前へ積まれた受け取り待ちの箱。その一番上には昨日届けられた緑色の帽子が、少し潰れたまま持ち主を待っている。
三日以内に来なければ地下の保管室行きだ。
その帽子を横目に第七係へ入ると、俺の席に誰か座っていた。
しかも、俺が朝置いていったパンを食べている。
「おかえり、セイン」
「それ、俺のだけど」
男は手にしているパンを一度見てから、俺を見る。
「知ってる」
「知ってて食うなよ」
「昼過ぎまで放置されてたからな。かわいそうだろ」
隣から小さく吹き出す声が聞こえた。
リゼだ。
「何」
「いえ。朝、私が札のこと言った時と同じだなって」
「全然違う」
「同じだろ?」
パンを食べている本人まで参加してくる。
リオル・ハーゼン。
二十二歳。
王都警備隊の制服を着た、俺の幼なじみだ。
十二歳の頃からの付き合いだから、もう十年になる。茶色い髪は適当に後ろへ流しているくせに制服だけはいつも整っていて、昔から部屋は散らかすのに靴だけ妙に綺麗だった。
試験勉強も前日までやらない。
それなのに俺より点が高い。
そういう細かいところが、昔から少し腹立たしい。
その代わり、俺が本当に困った時には、大抵こいつが近くにいる。
それも昔からだった。
「で」
リオルが残ったパンを口へ放り込み、俺の後ろを見る。
「誰、その綺麗な子」
「落とし物」
リオルの咀嚼が止まった。
俺を見て。
リゼを見て。
「人身売買なら友達やめるぞ」
「名前だけ」
「さらに分からなくなった」
「私、リゼです」
本人が横から言った。
少し間を置き、
「今日だけ」
と付け加える。
「今日だけ?」
「昨日はオスカーでした」
さすがのリオルもすぐには返事が出なかった。
数秒考えたあと、俺の方へ少し身体を寄せる。
「お前、何に巻き込まれた?」
「朝からずっと俺も考えてる」
「私は巻き込んでませんよ」
「名前なくして役所に来てる時点で十分だろ」
リゼは反論しかけ、それから少し考え込んだ。
「それは……そうかもしれません」
「話が早いな」
「褒めました?」
「たぶん」
リオルが笑う。
初対面の相手との距離を詰めるのが、こいつは昔から妙にうまい。俺が一か月くらいかけてようやく顔を覚えてもらう相手と、リオルは十分後には一緒に飯を食っている。
「本当に友達なんですね」
リゼが俺たちを見比べる。
「腐れ縁」
「十年分を四文字で片付けるなよ」
「じゃあパン返せ」
「友情とパンは別だろ」
「お前が先に友情出したんだけど」
リゼがまた笑った。
仕立屋を出た時には消えていた笑顔だったので、まあパンくらいはいいかと思う。
本人には絶対言わない。
◇
「それで、本当に名前が消えてるのか」
椅子を一つ引き寄せ、リオルがようやく真面目な顔になった。
俺は朝からのことを順番に説明した。
リゼの住民証明書から氏名だけが抜けていたこと。
書かれていた住所を訪ねたが、仕立屋の女主人はリゼを知らなかったこと。
そして、その家の肖像画を見たリゼが、そこには何かが「なくなった跡」があると言ったこと。
「そこ、もう少しちゃんと説明してください」
途中でリゼが口を挟んだ。
「何を」
「絵です。穴みたいに感じたって言ったでしょう」
「何かがなくなってるって言った」
「違います」
「何が」
「結構違います」
本人が妙にこだわるので、仕方なく歯が抜けた後の穴の話まで説明した。
リオルは笑わなかった。
こいつは普段ふざけていても、仕事に関わる話を聞く時だけは意外なくらい丁寧だ。
「つまり、文字が消えたのを見つけたわけじゃない」
「はい」
リゼが答える。
「何もない場所なのに、何かがなくなったって分かる?」
「……多分」
「多分多いな」
「名前までなくしてる人に断言を求めないでください」
「それもそうか」
リオルはあっさり引いた。
俺は懐から白い紙を取り出した。
「それで、これ」
リオルが受け取る。
紙には今も同じ文字が浮かんでいる。
『返却対象:名称』
『帰属先:世界』
一度読んだあと、もう一度読み直す。
「〈返却〉を使ったら出てきた?」
「ああ」
「今までにも?」
「ない」
「一回も?」
「一回も」
リオルは裏返し、窓の光へ透かし、紙の端まで眺めてから机へ戻した。
「まず悪戯じゃないか確認した方がいいな」
「誰の」
「それを調べるんだよ。偽物かもしれないし、誰かが仕込んだのかもしれない。本人が何か隠してる可能性だって、仕事なら考える」
リゼの顔が少し曇る。
リオルもすぐ気づいた。
「ああ、ごめん。君を嘘つきだって言ってるわけじゃない」
「今ちょっと言いましたよ」
「警備隊って、変な事件ほど普通の理由から潰していくんだ。最初から怪物とか未知の術とか言い始めると、大体ろくなことにならない」
「じゃあ普通の理由を全部調べて」
「全部違ったら」
リオルは白い紙を指先で軽く叩いた。
「その時は、ちゃんと怖がる」
リゼが少し目を丸くする。
「今のちょっと格好よかったです」
「だろ?」
「自分で言わなければ」
「そこまで含めて俺だから」
相変わらずだと思う。
でも、言っていることは間違っていない。
リオルが王都警備隊へ入ったと聞いた時、昔の俺は少しだけ意外だった。人を守る仕事なんて向いているのかと思ったこともある。
今なら。
多分、向いていると思う。
それも本人には言わない。
「騒ぐなら外でやれ」
奥から低い声が飛んできた。
リゼが肩を揺らして振り返る。
第七係の一番奥。
書類の山に半分埋まるようにして、一人の男が座っていた。
係長だ。
四十代。少し伸びた黒髪に、いつも眠そうな目。制服の襟は今日もわずかに曲がっていて、朝淹れたらしい茶が机の端で完全に冷えている。
一見すると、何に対してもやる気がない人にしか見えない。
俺も最初はそう思っていた。
ただ、第七係へ配属されて二年。
この人が仕事上の判断を間違えたところを、俺はほとんど見たことがない。
前に地下保管室で小さな火事が起きた時も、他の職員が慌てて水を探している横をいつもの歩調で通り、その途中にあった砂袋を拾って火元へ放った。
一番慌てていなかった人が、一番早く火を消した。
そういう人だ。
「係長。聞こえてたなら来てくださいよ」
「面倒だった」
「来てください」
「今行く」
悪びれもせずに立ち上がり、こちらへ来る。
「紙」
「はい」
渡す。
係長は受け取ると、しばらく何も言わなかった。
ただ紙を眺める。
その途中で、眠そうだった目がほんの少しだけ変わった。
俺はそれを見逃さなかった。
「これ知ってるんですか」
「知らん」
「今、知ってる人の顔しましたよ」
「文字が小さかった」
「まだ老眼じゃないでしょう」
「四十過ぎれば色々ある」
「便利ですね、年齢」
係長は答えず、紙を裏返した。
「どこで出た」
「中央三区です。リゼに〈返却〉を使った直後」
「何を返そうとした」
「名前」
その時、係長がリゼを見た。
顔。
服。
足元。
そして首元。
赤い封蝋。
視線がそこで止まった。
ほんの一瞬だったが、今度は俺にもはっきり分かった。
係長は、何かを知っている。
「それ」
係長がリゼの首元を指す。
「最初からあった?」
「私が気づいた時には」
「外れない?」
「引っ張っても駄目でした。お湯にも浸けました」
「やめろ。皮膚ごと持っていかれるぞ」
「やっぱり?」
「やっぱりじゃない」
係長はもう一度白い紙へ目を落とした。
「これは偽物じゃない」
「分かるんですか」
「右下触れ」
返された紙を受け取り、指示された場所を撫でる。
見た目には何もない。
けれど指先へ意識を向けると、ごく細かな凹凸があった。
「これ?」
「王立機関用の認証印」
リオルも横から覗き込む。
「何も見えないけど」
「見えたら偽造防止にならんだろ」
係長は面倒そうに言いながら、紙の角を指した。
「こういう紙には製造時点で認証が入る。使う機関ごとに位置が違う。遺失物管理局は左下」
「これは右下」
「そういうこと」
「どこの機関です?」
係長は少しだけ間を置いた。
「知らん」
さっきと同じ答え。
でも、今度はその言葉自体より、答えるまでのわずかな間の方が気になった。
「正式な王立機関の紙なのに、係長も分からない?」
リゼが尋ねる。
「王都には役所が多いからな。俺の知らない部署くらいある」
「係長でも?」
「牛車の車輪幅だけ調べてる部署もあるぞ」
俺が言うと、リゼがこちらを向いた。
「何のために?」
「俺も知らない」
「この国、大丈夫ですか」
「今のところは」
リオルは笑った。
俺はあまり笑えなかった。
係長が知らないと言う書式。
それなのに王立機関の認証がある、本物の紙。
そして。
係長はさっき、リゼの封蝋を見た。
何も知らない人の見方ではなかった気がする。
「書式帳」
係長が言った。
「持ってこい」
「何年度?」
「全部」
「全部?」
「ああ」
嫌な予感だけは、こういう時よく当たる。
◇
王立機関の書式帳は、一冊でもかなり重い。
それを十年分。
俺とリゼで棚から運んでいると、リオルは椅子に座ったまま楽しそうに眺めていた。
「役人って大変だな」
「手伝え」
「俺、警備隊」
「俺のパン食べた」
「まだ言ってるのかよ」
「食べ物の恨みは長い」
「セインが言うと妙に怖いんだよな」
結局、リゼが三冊、俺が四冊、文句を言いながらリオルも三冊運んだ。
机の上へ積むと、向こう側にいるリゼの顔が半分隠れるくらいの高さになる。
「これ全部見るんですか」
「そのために運んだ」
「役所って、何でも紙にするんですね」
「紙にしておかないと、あとで誰も覚えてないから」
口にしたあと、自分で少し引っかかった。
覚えていない。
今日、その言葉を使うと意味が変わって聞こえる。
リゼも同じことを思ったのか、一度だけ俺を見た。
俺も何も言わなかった。
係長が一冊目を開き、俺たちも調べ始める。
一時間ほど探しても似た書式は出てこなかった。
さらにもう一時間が過ぎた頃、机の向こうから腹の鳴る音が聞こえた。
結構大きい。
リゼは聞こえなかった顔をしている。
「腹減った?」
リオルが聞く。
「減ってません」
もう一度鳴った。
「説得力がないな」
「昨日からパンしか食べてないので」
「七ルクしかないんだったな」
俺が言うと、リゼが嫌そうな顔をした。
「覚えてたんですか」
「届出に書いたから」
係長が帳簿から顔も上げずに言う。
「棚に干し肉あるぞ」
リゼの顔が一瞬で明るくなった。
「食べていいんですか?」
「俺はいらん」
「いつのです?」
「三日前」
棚へ伸びていた手が止まる。
「どうして三日前から残ってるんです?」
「うまくなかった」
「やめとけ」
俺が言うと、リゼは何も言わず手を戻した。
リオルが笑い、俺も少し笑った。
こういうくだらないやり取りをしている間だけは、朝から起きていることが少し普通の出来事に戻った気がする。
名前がなくても腹は減る。
世界なんて言葉が紙に出ても、昼飯は必要だ。
多分、人間はそのくらいでちょうどいい。
「なあ」
リオルが俺の肩を小さく叩く。
「あとで何か食わせてやろうぜ」
「俺に言うな」
「お前が拾ったんだろ」
「人を拾得物にするな」
机の向こうからリゼが睨んでいた。
「全部聞こえてますよ」
「悪い悪い」
リオルはまったく悪そうではなかった。
◇
十年分の書式帳を最後まで調べても、白い紙と同じものは見つからなかった。
「ないですね」
俺は最後の一冊を閉じた。
「似てるのも?」
リオルが聞く。
「ない」
答えたのは係長だった。
リゼは頬杖をつきながら、机の上の白い紙を見る。
「じゃあ、存在しない役所の紙?」
「そこまで決めるのは早い」
係長が言う。
「記録にないだけかもしれん」
「記録にない」
リゼが小さく繰り返した。
そのまま何かを考えるように、第七係の壁を見回す。
古い帳簿が何十冊も並んでいる棚。
「そっちは?」
「昔の返却記録」
「何を誰に返したか?」
「ああ」
「見ていいですか」
「順番崩すなよ」
「分かりました」
リゼが立ち上がり、一冊を抜く。
五年前のものだった。
最初は何となく眺めているだけに見えた。
鍵。
財布。
指輪。
仕事道具。
迷子の犬。
俺たちにとっては、見慣れた落とし物ばかりだ。
その間、俺はもう一度白い紙を見る。
『帰属先:世界』
見れば見るほど分からない。
世界へ返す。
世界とはどこにある。
誰かが受け取るのか。
そもそも「持ち主」という考え方をしていいものなのか。
俺の〈返却〉は、帰る場所があるものを返す術だ。
だとすれば、この紙は。
世界にも、何かが帰る場所があると言っている。
「セイン」
リゼの声がした。
さっきまでと違う声だった。
「どうした」
「これ」
机の上へ帳簿を開く。
一行だけ空いている。
前後には普通に記録があった。
九月十六日。
銀の指輪。
その次。
九月十七日の欄だけが白い。
九月十八日には革袋。
「書き忘れじゃない?」
俺が言う。
「違う」
リゼはすぐ答えた。
「どうして」
「同じだから」
「何と」
彼女は自分の胸元に触れ、それから首の封蝋へ指を移した。
「私と」
軽い調子は完全に消えていた。
「ここ、最初から何も書かなかった空白じゃないです。あの肖像画と同じで、何かがあったのに、その何かごとなくなってる」
俺にはただの白い一行にしか見えない。
紙を削った跡も、滲んだ跡もない。
「文字を消したんじゃなくて?」
「それなら多分分かりません。私は消された文字が見えるわけじゃないから」
「じゃあ何が分かる」
リゼは言葉を探すように少し黙った。
「……そこに、何かがあったってことだけ」
俺はその言い方に引っかかった。
何が書かれていた、ではない。
何かがあった。
係長が立ち上がる。
リオルまで少し驚いた顔をした。係長が自分から動く時は、それだけで多少の事件だからだ。
「見せろ」
帳簿を受け取ると、係長は空白を光へかざし、紙の表面を指で確かめた。
「削った跡はない」
「記載漏れじゃないんですか」
リオルが聞く。
「可能性はある」
係長は答えながら、ページの左端へ指を移した。
「ただ、番号を見ろ」
俺たちも覗き込む。
九月十六日。
返却番号、一七七二。
九月十八日。
一七七四。
「一七七三がない」
「そうだ」
書き忘れなら。
番号まで綺麗に一つだけ飛ぶだろうか。
人間は間違える。
役人も間違える。
俺だって昨日、猫の首輪を犬用品の箱へ入れて、係長に黙って直した。
だから、これ一つだけなら間違いで済ませてもよかった。
でも。
今日見たものを全部並べると。
そう思うには、少し出来すぎている。
「こっちにも何かあります」
リゼが言った。
帳簿の端へ、薄い赤色が残っている。
指で触ると硬い。
乾いた蝋だ。
係長の目が変わった。
彼はページを机の中央へ置き直し、赤い跡をよく見る。
半分以上潰れているが、円形の中に細い線が何本も交わった紋様が残っていた。
俺はその形を見ながら、胸の奥が少し冷えるのを感じた。
知らない紋章ではない。
朝からずっと。
目の前にあった。
ゆっくり顔を上げる。
リゼも気づいたらしく、自分の首元を手で覆っていた。
白い肌へ押された、赤い封蝋。
帳簿に残ったものと。
同じ紋章だった。
「……これ」
リゼの声が小さくなる。
怖がっているようにも見える。
それなのに、ほんの少しだけ安心しているようにも見えた。
「私だけじゃないんですね」
その言葉に、すぐ返事はできなかった。
一人だけなら。
リゼ自身にだけ起きた異常だったのかもしれない。
でも、五年前の返却記録にも同じ空白があり、そこに同じ赤い封蝋が残っている。
誰かが。
何かが。
同じことを以前にもやっている。
窓の外で午後の鐘が鳴った。
通りでは誰かが笑い、荷車が石畳を走り、向かいのパン屋から焼きたての匂いが入ってくる。
王都は朝と何も変わっていない。
何一つ欠けていない街に見える。
それでも俺は、帳簿の白い一行から目を離せなかった。
世界にも落とし物がある。
朝、あの白い紙はそう言っていた。
もしそれが本当なら。
俺たちが今まで気づかなかっただけで。
この街にはずっと前から、いくつもの「なくなった跡」が残っていたのかもしれない。




