第一話 名前を落としました
「名前を落としました」
朝一番の客がそう言ったので、俺は書きかけていた遺失物届から顔を上げた。
窓の外では王都の鐘が八つ鳴り終わり、中央街の石造りの建物へ朝日が差し始めていた。向かいのパン屋から焼き麦の匂いが流れてきて、その前を荷車が音を立てて通り過ぎる。王立遺失物管理局の朝はいつも忙しいが、正確には、物をなくした人間が朝から忙しくしているだけだ。
財布、鍵、指輪、帽子、剣、それに買ったばかりの靴。王都では毎日、誰かが何かを落としている。一度だけ馬を拾ったという男が現れ、係長に受理してよいか尋ねたら、「拾ったと言っているんだから拾得物だろ」と真顔で返されたこともあった。
だから、変わった相談を最初から断るつもりはない。それでも名前を落としたという申し出は、二年働いた俺にも初めてだった。
「すみません。もう一度お願いします」
「だから、名前を落としたんです。たぶん」
机を挟んで座る少女は、自分の胸元を指さした。
「最後の『たぶん』が結構重要なんだけど」
「落とした瞬間を見たわけじゃないですから」
「……それはそうだな」
改めて相手を見ると、年は十七、八くらいだろうか。肩に届かない白い髪は左側だけ少し跳ねており、黒い外套は右側が腰まであるのに左側だけ短く仕立てられていた。中には白い服を着ていて、足元には簡素な黒い短靴を履いている。
もっとも目を引いたのは、首筋の赤い封蝋だった。手紙を閉じる時に使う蝋を、そのまま肌へ押し当てたように見える。中央には細かな紋章が刻まれていた。
「首のそれ、痛くないのか」
「痛くはないです。ただ、取れないんですよ」
「取ろうとした?」
「しますよ。こんなのが付いてたら」
少女は昨日、子供から「お姉ちゃん、お手紙なの?」と尋ねられたらしい。
「何て答えたんだ」
「『たぶん大事なお手紙』って」
「間違ってはいないな」
「でしょう?」
妙に満足そうな顔をする。自分の名前を失ったばかりの人間には見えないが、冗談で片づけられる状況でもなさそうだった。
俺は机から届出用紙を取る。
ここは王立遺失物管理局、第七係。名前だけは立派な職場だが、建物は古く、強い雨が降れば窓から水が入り込む。棚に積まれた拾得物の一番上には、昨日届けられた緑色の帽子が少し潰れたまま置かれていた。
俺はセイン・アルケット、二十一歳。なくなった物を持ち主へ返す仕事をしている。固有術の〈返却〉は落とし物を元の持ち主や場所へ戻す。少なくとも、俺はずっとそういう術だと思って使ってきた。物騒な場面では役に立たないが、この仕事には都合が良くて気に入っている。
「届出を作るぞ。紛失物は……名前、でいいか」
「たぶん」
「そこもか」
「だって、自分のことなのに断言する材料がないんです」
妙な話だと思いながらも、俺は項目を書き込んでいった。しかし、なくした時期を尋ねると、それまで軽口を叩いていた少女の表情が変わった。
「昨日はもうなかったです。一昨日も、たぶん。でも一週間前となると……分からないんです」
「そのあたりの記憶がない?」
「全部じゃありません。何を食べたとか、雨が降ったとか、歩いた道は覚えています。でも、誰かが私を呼んでいた記憶だけ、音がないんです」
少女はこめかみに触れ、思い出そうとするように目を閉じた。
「口が動いているのは分かるのに、名前が入るところだけ聞こえない。知っているはずの人の顔を思い出しても、その人が誰だったのか分からなくなることもあります」
俺はペンを置いた。今の話が本当なら、単に呼び名を思い出せないのとは違う。
「医者には行ったのか」
「昨日、西通りの診療所へ。体にも頭にも異常はないって言われました」
「それで、どうして管理局へ?」
「先生が『なくしたと思うなら落とし物係にでも行け』って」
「追い出されたな」
「やっぱり?」
笑った顔に少しだけ元気が戻る。俺は用紙へ目を戻し、いつもの癖で氏名を尋ねてから、自分の間抜けさに気づいた。
「名前がないって言いに来てるんだったな」
「そうなんです」
氏名欄へ線を引き、所持金も念のため確かめておく。少女は「七ルクです」と答えたので、その額を記録してから住所を確認した。差し出されたのは、王都中央区の住民証明書だった。
外套の内側から紙を取り出す時、腰のあたりで金属が鳴った。犬の鑑札や荷車の登録札、宿屋の部屋札らしい物までぶら下がっている。何をしたらこんなに札を集めることになるのか気になったが、まずは証明書の確認が先だった。
発行番号も公印も本物らしく、生年月日、性別、居住区も記されている。ところが、氏名の欄だけが最初から何も書かれていなかったように白かった。
「自分で消した?」
「役所でも聞かれました。削った跡も薬品の跡もないそうです」
「発行記録は?」
「見つからないって。でも証明書は本物らしいです」
住所は中央三区十二番通り四十八番。読み上げた途端、少女の顔が曇った。
「行ってないのか」
「……ちょっと怖くて」
もし知らない人が出てきたら困るし、知っている人が出てきて、その人に忘れられていたらもっと怖い。少女はそう言って目を伏せた。
名を取り戻してから行きたいという気持ちは分かる。とはいえ、名前が普通の落とし物と同じように〈返却〉できるのか、俺には確信がなかった。
「できそうですか?」
「やってみないと分からない」
「もっと『必ず取り戻します』とか言わないんですか」
「できない約束はしない」
「女性に人気なさそうですね」
「仕事と関係ある?」
「たぶん、ありません」
少女は口元を緩めた。
「そうだ。今は何て呼べばいい?」
「昨日はオスカーでした」
「……男の名前じゃないか」
「パン屋さんが、昔飼ってた猫の名前だって」
「何でそんな名前を」
「私に名前がないと、パンを売る時に気になるそうです。親切な人でしたよ」
今日はまだ決めていないらしい。毎日呼び名を変えるのは、仮につけられた名前を本当の名前だと思い込むのが怖いからだという。
「だったら、今日は何がいいと思います?」
「俺が決めるのか?」
「変なのは嫌ですよ」
注文が多い。教会では名は神から授かると教えられるが、目の前の少女に一日分の名前を考えるだけで、そんな大仕事を任された気になる。
白い髪と赤い目を持つ少女は、少し曲がった黒い外套の襟を直しながら、俺の返事を待っていた。首元の赤い封蝋が、窓の光を受けて鈍く光る。
「……リゼ」
「リゼ?」
「嫌なら別のを考える」
少女は自分の口で二度ほど繰り返し、ようやく笑った。
「今日は、それにします」
ただの呼び名なのに、彼女は朝から一番嬉しそうな顔をしていた。
◇
中央三区十二番通りまでは、歩いて十五分ほどだった。
昼が近づくにつれて市場には人が増え、店先では肉や花、色とりどりの布が並べられている。リゼは周囲を注意深く見ていたが、懐かしそうにすることも、立ち止まって何かを思い出すこともなかった。
「そういえば、その札は拾ったのか?」
俺が腰を指すと、リゼは真鍮の札を鳴らした。
「はい。全部拾いました」
「何で持ってる?」
「捨てたらかわいそうじゃないですか。落とされたんですよ?」
「じゃあ、管理局で預かろう。落とし物だから」
そこで初めて、リゼは自分が遺失物管理局へ来たことを思い出したような顔をした。
「……ちゃんと返ってきます?」
「持ち主が見つかれば」
「七枚あるので、お願いします」
「これ以上拾って増やすなよ」
「努力します」
努力でどうにかなる話だろうか。
四十八番地は、小さな仕立屋だった。薄緑色の扉には糸巻きを描いた看板が下がり、窓の向こうには赤や青の糸が並んでいる。
リゼが立ち止まったので、俺が先に扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
作業台にいた小柄な女性は、俺の身分札を見ると少し緊張した様子になった。俺は事情を簡単に説明してから横へ退き、後ろのリゼが見えるようにする。
「この子を知りませんか」
女性はリゼを見つめた。何かを思い出すかもしれないと期待したが、その顔には驚きも懐かしさも浮かばなかった。
「……いいえ。どこかで会ったかしら」
リゼは外套の端を握った。
「本当に?」
「ごめんなさいね」
証明書の住所を見せると、女性は自分の店の住所だと認めたものの、家族は夫と息子の三人だけだと言った。息子は東の砦へ行っているらしく、娘がいたこともないという。
その答えに嘘があるようには見えなかった。
俺がもう一つ質問しようとすると、リゼが部屋の奥を見つめていることに気づいた。そこには、夫婦と少年を描いた家族の肖像画が掛けられていた。
「……あの絵」
「どうした?」
「男の子の隣です。そこ、なくなってる」
俺には背景の壁が描かれているようにしか見えない。絵の表面に傷や塗り直しも見当たらなかった。
「何が見える?」
「見えるというより、分かるんです。歯が抜けたところを舌で触った時みたいに、そこだけ何かが足りない」
「何があったかは分からない?」
「はい。ただ、なくなったことだけ分かります」
女性は戸惑っていた。俺だって、まだリゼの言葉をどう受け止めたらいいか分からない。
これ以上、知らない相手へ質問を重ねても仕方がない。俺は礼を言い、リゼを連れて店を出た。
◇
仕立屋を離れてしばらく、リゼは口を閉ざしていた。鍛冶屋の槌の音や商人の呼び声が、さっきまでより妙に大きく聞こえる。
「大丈夫か?」
「分かりません。慰めるの、下手ですね」
「自覚はあるよ」
それでも、彼女は少しだけ笑った。
「あの人が本当に私のお母さんだったら、私を忘れているのは悲しいです。でも全然知らない人だったら、私が勝手に人の家を自分の家だと思い込んでいることになりますよね」
「その可能性も、まだあるな」
「そういうところですよ。慰めるの下手って」
「今のは慰めじゃなくて確認だ」
「もっと悪いです」
今度はリゼも声を立てて笑った。
俺は立ち止まった。試せることが一つだけ残っている。
「手を出して。〈返却〉を試したい」
「……ここで?」
「嫌ならやめてもいい」
リゼの表情が変わった。
「本当に戻るかもしれない?」
「可能性はある。でも名前が分かっても、家族や記憶まで戻るかどうかは保証できない」
俺は急かさず待った。自分の名前をどう扱うかを決めるのは、ほかでもない彼女だ。
やがてリゼが右手を差し出す。
「お願いします」
〈返却〉は、対象となる物とその帰属先を定めて働かせる。財布なら持ち主へ、鍵なら普段使う人間へ、靴なら履いていた人へ返す。理屈だけなら名前も同じように扱えそうだった。
リゼの名前は、リゼのものだ。
俺はそう考えて、彼女の手首に軽く触れた。
「〈返却〉」
しかし、いつも感じるはずの、物が本来の場所へ引かれる感覚はなかった。帰る先を間違えたというより、そもそも手元に返す対象が存在していないようだった。
「……駄目だ」
俺が手を離すと、リゼはしばらく自分の掌を見つめた。
「まあ、今日はリゼですから。明日はもっと格好いい名前にしてくださいね」
「自分で決めればいいだろ」
「セインの方がセンスがよさそうなので」
「今日のは俺が決めたけどな」
「……あ」
リゼが口を開いたところで、足元から小さな音がした。
見覚えのない白い紙が、石畳に落ちていた。拾い上げると普通の帳票より厚手で、縁には細い金色の線が入っている。王立遺失物管理局の名前が印刷されているのに、俺の知っている書式ではなかった。
「それ、職場の紙ですか?」
「違う。こんなの、見たことない」
すると、誰も触れていない紙へ、黒い文字が内側から滲むように浮かび上がってきた。
『返却対象:名称』
『帰属先:世界』
俺は何度も読み返した。
「……リゼ。お前の名前、世界のものになってるみたいだ」
リゼは紙と俺の顔を交互に見つめてから、ひどく真面目な顔で尋ねた。
「それ、見つけたら謝礼は出ます?」
「誰に請求するんだよ」
「世界に」
「窓口はどこだよ」
二人で顔を見合わせたあと、答えがないことに気づいて黙った。
市場では焼きたてのパンを運ぶ少年が走り、商人が客を呼び、子供たちが石畳の上で遊んでいる。いつもと変わらない王都の景色を背に、俺はもう一度白い紙を見下ろした。
今朝までは、人の名前が落とし物になるなんて考えたこともなかった。それどころか、世界そのものに持ち物があるという発想さえ、俺にはなかったのだ。




