第九話 道を拾いました
【これまでの返却記録|第一章「名前をなくした少女」】
王立遺失物管理局の返却士セインのもとに、「名前を落とした」という少女が現れた。
家族にも忘れられ、記録からも存在が抜け落ちた少女。セインの固有術〈返却〉を試すと、彼女の名前は「世界」に帰属していると記された、不思議な紙が現れる。
調査を進めるうち、少女はかつて自分の意思で名前を預けていたことが判明する。セインは〈返却〉によって、名前を取り戻すための権利を少女へ返した。
しかし少女は、過去の名前を取り戻さず、今の自分として「リゼ」を名乗り続けることを選ぶ。
事件が一段落した頃、二人は古い記録に増え続ける空白を発見する。
そして第七係に、一人の男が「存在しない通り」の標識を持ち込んだ。
失われていたのは、名前だけではなかった。
「それ、今いる?」
男は冗談を言っている顔ではなかった。
俺は手元の受付票を見る。
氏名、住所、拾得場所。いつもの欄が並んでいて、最初の二つはまだ空いている。
目の前の男は、存在しないはずの通りの標識を拾ったと言っている。
ただでさえ面倒な届出なのに、今度は届けに来た本人が自分の名前を書きたがらない。
「いるよ。拾得物の届出だから」
「名前がないと、物を拾ったことにならないの?」
「そういう話じゃない。あとで確認が必要になった時、誰が届けたか分からないと困るだろ」
「なるほど。それは確かに困るね」
男はあっさり納得した。
それなら最初から教えてほしい。
「じゃあ、名前は?」
「今のところ、特に決めてないんだ」
「……本名は?」
「あるよ、たぶん」
思わず顔を上げた。
男はにこにこしている。
薄い茶色の髪は襟にかかるほどで、旅人にしては上着も靴もよく手入れされていた。身につけている物はどれも目立たないのに、不思議と貧乏そうには見えない。
年齢は二十五歳前後だろうか。
ただ、目を見ていると、それよりずっと年上の人間と話しているような気もした。
「君も、名前がないの?」
男が俺の隣へ目を向ける。
リゼは少し驚いたあと、自分を指した。
「私ですか?」
「うん。名前の話になった時、ちょっと嬉しそうだったから」
「嬉しそうでした?」
「仲間が来たと思った顔だった」
リゼはすぐに否定しなかった。
「前はなかったんですけど、今はあります」
「そうなんだ」
「リゼです」
男の表情が少し変わった。
驚いたというほどではない。ただ、今まで漫然と眺めていたものへ、初めてきちんと目を向けたように見えた。
「いい名前だね」
「でしょう?」
リゼは嬉しそうだった。
俺が付けた名前だと教えてやってもよかったが、本人が気に入っているなら、それだけで十分だろう。
「自分で決めたの?」
男が尋ねる。
「最初に言ったのはセインです。でも、使うって決めたのは私です」
「そっか。それはいいね」
今度の返事は、妙に静かだった。
名前を褒められた時より、リゼが自分で選んだと聞いた時の方が、男は本当に嬉しそうに見えた。
もっとも、その理由を尋ねる前にリオルが口を挟んだ。
「名前の話はあとでいい。まず身分を確認させてくれ」
王都警備隊の制服姿で立つリオルを見て、男は少しだけ首を傾げた。
「警備隊?」
「そうだ」
「今日はずいぶん運がいいな。落とし物係へ来たら警備隊までいる」
「お前にとって運がいいかは、まだ分からないぞ」
「怖いこと言うね」
男は笑ったが、リオルは笑わなかった。
知り合って十分も経っていない相手へ、ここまで露骨に警戒するのは珍しい。
もっとも、リオルの立場なら当然かもしれない。
素性の分からない男が、王都には存在しない通りの標識を持って現れ、住所も本名も明かさず、通りそのものが消えたと言っている。
事情聴取の理由としては十分すぎた。
「身分証は?」
「今は持ってない」
「住所は?」
「決まった家はないかな。宿を転々としてるから」
「職業」
「旅をしてる」
「それは職業じゃないだろ」
「そうかな。結構忙しいよ」
リオルが俺を見る。
その顔には、何でこいつの受付を続けているんだ、と書いてある。
俺もできれば普通の客がよかった。
けれど、机の上には青鐘通りと書かれた標識がある。
それを無視するわけにはいかなかった。
「リオル、とりあえず標識の話を聞こう」
「こいつが嘘をついていたら?」
「現場を見れば分かるかもしれない」
「本当に道が消えてたら?」
「それはもっと困る」
「だよな」
リオルはため息をついたが、椅子は引かなかった。
警戒しながらでも話を聞くつもりらしい。
俺は標識を机の中央へ置き直した。
青い塗料がところどころ剥げた、古い金属製の板だ。裏側には取り付け用の金具が残っていて、下の方には錆も浮いている。
どこにでもありそうな街路標識だった。
そこに書かれた名前さえ、知らないものでなければ。
「もう一度、最初から聞かせてほしい」
男がこちらを見る。
「青鐘通りのこと?」
「ああ。まず、どこにあった?」
「南三区。小さな食堂と薬屋の間だよ」
リオルが眉を寄せた。
「そこなら知ってる。薬屋の隣は石壁だ」
「今はね」
「今は?」
「一時間くらい前までは道があったんだ」
男は俺たちの反応を楽しんでいるようだった。
ただ、嘘を考えている人間の顔には見えない。
むしろ本当のことを話しているのに、相手が信じてくれない状況を少し面白がっているように見えた。
「そこには何があった?」
俺が尋ねると、男はようやく標識から手を離した。
「食堂が二軒。小さな薬屋が一軒。古い家が何軒かあって、突き当たりには青い屋根の家があったよ。通りはあまり広くないけど、荷車なら通れるくらいだった」
「人もいたのか」
「もちろん」
「何人くらい?」
「そこまでは数えてないな。夕方だったし、買い物をしてる人も、帰ってきた人もいた。食堂からは煮込みの匂いがしてたよ」
それを聞いて、リゼが顔を上げた。
「何の煮込みですか?」
「羊肉と豆かな」
「食べました?」
「食べようと思ってたんだけどね」
「美味しそうなのに」
「そうなんだよ。結局、食べ損なっちゃった」
二人とも残念そうだった。
「食事の話はあとで」
俺が言うと、リゼは少し不満そうに口を閉じた。
男の方は笑ったままだったが、標識へ視線を戻した時だけ、ほんのわずかに表情が変わった。
俺はその変化が気になった。
「どうして標識を拾ったんだ?」
「倒れてきたから」
「急に?」
「うん。人が歩いてる通りの入口で、何の前触れもなく金具が外れたみたいに落ちてきた」
「怪我人は?」
「いなかったよ。ちょうど近くに僕しかいなかったから」
「それで拾った?」
「誰かが踏んだら危ないだろう?」
あまりにも普通の答えだった。
さっきまで道が消えたことを面白がっていた男と、同じ人間の口から出たとは思えないくらいに。
「それから?」
「振り返ったら、壁になってた」
男は机を指先で軽く叩いた。
「食堂も薬屋も、通りを歩いていた人たちも見えなくなってた。僕が持っていた標識だけ、そのまま残ってたんだ」
俺は標識を見る。
もし男の言うことが本当なら、この金属の板だけが、消えた場所の外へ取り残されたことになる。
リゼの住民証明書から名前がなくなった時とは、少し状況が違う。
今度は、場所そのものが失われている。
「消える前に、何か変わったことはなかった?」
その質問に、男は少し考えた。
初めて、答えるまでに時間がかかった。
「……あったね」
それまで笑っていた顔から、わずかに気楽さが消える。
「最初は、みんな普通に歩いてたんだ。食堂の女の人が店先を掃いていて、赤い帽子のお客さんが買い物袋を抱えてた。子供が二人、通りの奥で追いかけっこしてたかな」
声は穏やかだった。
その場面を思い出しているというより、今も目の前で眺めているような話し方だった。
「しばらくすると、その赤い帽子の人が標識を見上げたんだよ」
「青鐘通りって書いてある標識を?」
「うん。それを見て、知らない言葉でも読んだみたいな顔になった」
「通りを知らなかっただけじゃないのか」
リオルが言う。
「そう思ったよ。でも、その次に通った男の人も同じ顔をしたんだ。何度もここを通っていたはずなのに、自分がどこにいるのか確かめるように周囲を見回してた」
男はそこで一度言葉を止めた。
「そのあと、食堂の看板から文字が消えた」
リゼの背筋が伸びた。
「看板そのものじゃなくて?」
「そう。木の板は残ってるのに、店の名前だけがなくなってた。次は薬屋の看板で、その次は家の表札。見てる間に、少しずつ変わっていったんだ」
男の口調は相変わらず落ち着いていた。
けれど、今度は俺も冗談だと思えなかった。
リゼが見つけた肖像画の空白も、古い帳簿の欠けた一行も、何かが存在していたという事実だけが抜けていた。
もし同じことが街路全体で起きているなら、被害の大きさは今までの比ではない。
「そこにいた人は、どうなった?」
俺が聞く。
男は少しだけ目を伏せた。
「分からない。最後まで残ってた人は、何が起きてるのか分からずに立ち止まってたよ」
「助けようとはしなかったのか」
リオルの声が硬くなる。
「声はかけた」
「何て?」
「道が変だよ、って」
「それで?」
「女の人が振り返ってくれた。僕を見て、何か言おうとしてたんだけど、その前に標識が落ちてきたんだ」
男は青い板の縁へ手を置いた。
「もう一度顔を上げた時には、そこに誰もいなかった」
しばらく誰も喋らなかった。
最初からずっと人をからかっているように見えた男が、そこで初めて笑うのをやめていた。
ただ、その表情は長く続かなかった。
「だから、ここへ来たんだ」
顔を上げると、いつもの笑みが戻っている。
「落とし物係なら、なくなった場所も扱ってくれるかと思って」
「うちは普通、財布とか鍵とかだけど」
「でも、名前も扱ったんでしょう?」
俺の視線が男へ向いた。
隣でリゼも動く。
「どうして知ってる?」
「その子が言ってたよ。前は名前がなかったって」
確かに言っていた。
男は悪びれずに笑った。
「聞いたことを覚えてるだけだよ」
それ自体は何もおかしくない。
ただ、なぜかその言い方だけは耳に残った。
◇
「現場へ行く」
最初に立ち上がったのはリオルだった。
「人が残ってる可能性があるなら、明日まで待てない。少なくとも周囲の安全を確認する必要がある」
俺も椅子を引いた。
リオルが警備隊として動くなら、俺が同行する理由もある。
青鐘通りと書かれた標識は拾得物として届けられているし、道が本当に存在していたのなら、〈返却〉で何か分かる可能性もある。
「リゼはどうする?」
「行きます」
答えは早かった。
「危ないかもしれない」
「私にしか分からないものもあるかもしれないでしょう」
昨日なら、ここで俺が来るなと言った可能性もある。
でも、仕立屋の肖像画も、帳簿の空白も、見つけたのはリゼだった。
無理に連れていく必要はないが、本人が望んでいて、役割もあるなら止める理由はない。
「分かった。ただし、変なものを見つけても一人で触るなよ」
「セインも、一人で何かに〈返却〉しないでくださいね」
「それは状況による」
「私にも言わせてください、それ」
リオルが呆れたように笑い、それから標識を持ってきた男へ顔を向けた。
「お前も来てもらうぞ。場所を確認する必要がある」
「もちろん」
「逃げるなよ」
「どこへ?」
「それを聞いてるんだよ」
男は笑ったまま、少し考えた。
「そういえば、まだ名前を決めてなかったね」
「本名でいい」
「今はあまり使いたくないんだ」
その声だけ、妙にあっさりしていた。
リオルが何か言い返しかけたところで、リゼが口を開く。
「じゃあ、自分で決めたらどうですか」
男が彼女を見る。
「自分で?」
「私もそうしましたから。最初はセインに付けてもらったけど、最後は自分で決めたんです」
「それは知ってるよ」
「なら、あなたもそうすればいいでしょう」
リゼは少し得意そうだった。
男は面白そうに彼女を見つめたあと、ふと窓の外へ目を向けた。
夕方の街路に、長い影が伸びている。
「そうだなあ」
考えている時間は、ほんの少しだった。
「ネイでいいよ」
「ネイ?」
俺が繰り返す。
「うん。短いし、呼びやすいだろう?」
「由来は?」
リゼが尋ねる。
「特にないかな」
「適当ですね」
「君の名前は?」
「セインが付けました」
「由来は?」
リゼが俺を見る。
「……セイン?」
「特にない」
「一緒じゃないですか!」
ネイが楽しそうに笑った。
俺は別に悪いことをしたとは思っていない。
名前の響きにきちんとした理由が必要なら、世の中の親は随分苦労するはずだ。
「でも、私は気に入ってるのでいいんです」
リゼはそう言ってから、ネイを見る。
「あなたも、気に入りました?」
「うん。しばらくこれでいい」
「しばらく?」
リオルが聞き返す。
「名前って、ずっと同じじゃなきゃ駄目かな」
「本人確認のためには必要だろ」
「君は真面目だね」
「お前が適当すぎるんだ」
二人の声は荒くなっていない。
それでも、明らかに気が合っていなかった。
ネイはリオルの警戒を気にする様子もなく、リオルは男の笑顔を少しも信用していない。
俺としては、どちらの言い分も分かる。
素性を明かさない人間を無条件に信用するのは危険だ。
ただ、届けられた標識と現場の異常まで嘘だと決める理由もない。
「とりあえず行こう。ネイ」
呼ぶと、男はすぐ振り返った。
「うん」
その自然さに、少しだけ驚いた。
ついさっき決めた名前なのに、何年もそう呼ばれてきたような返事だった。
◇
南三区へ着く頃には、街の灯りがともり始めていた。
王都の中心から少し離れたこの辺りには、商人や職人の家が多い。仕事帰りの人間が狭い道を行き交い、店先にはその日の売れ残りが安く並べられている。
魚を焼く匂いと馬の汗の匂いが混じり、近くの酒場からは酔った男たちの笑い声が聞こえてきた。
いつもの王都だった。
もし本当に通りが一本なくなったのなら、もっと大騒ぎになっていてもおかしくない。
けれど誰も慌てていない。
そのことが、かえって嫌な感じだった。
「こっちだよ」
ネイが迷わず歩いていく。
リオルはその横へ並び、逃げられないようにというより、いつでも行動を止められる距離を保っていた。
ネイは気づいているはずなのに、特に何も言わない。
「ここ」
大通りを一つ曲がり、ネイが足を止めた。
右側に小さな食堂があり、左側には古い薬屋がある。
その二軒の間は、石壁で塞がれていた。
ごく普通の壁だった。
高さは二階の窓ほどあり、灰色の石がきれいに積まれている。苔のつき方も古く、今日突然作られたものには見えない。
少なくとも俺には、ここへ道があったとは思えなかった。
「ここに青鐘通りがあった?」
俺が尋ねる。
「そう」
ネイは壁の前に立つと、その両端を見比べた。
「このくらいの幅だったかな」
大人が三人並んで歩けそうな距離を指し示す。
リオルが壁を調べ始めた。
石の継ぎ目を確かめ、足元の土を軽く削り、近くに残っている荷車の跡まで見ている。
「壊した跡はないな。石もかなり古い」
「だろうね」
ネイが答える。
「どうしてそう思う?」
「今は、ずっと前からここにあったことになってるんだろう?」
リオルの手が止まった。
俺もネイを見る。
男は壁を眺めたままだった。
まるで、そんなことは最初から分かりきっていたという顔で。
「お前、何を知ってる?」
リオルが尋ねる。
「今話したことくらいだよ」
「本当に?」
「嘘なら、もう少し面白い話にすると思うけど」
リオルは納得していなかった。
俺も、正直そこは同じだった。
ただ、今は男の素性よりも、ここにあったはずの道を確かめる方が先だ。
「リゼ」
振り返ると、彼女はもう壁を見ていた。
いつものように首元の封蝋へ触れることもなく、じっと正面を見つめている。
「何かある?」
「……あります」
声が少し小さかった。
彼女は壁へ近づき、両手をゆっくり広げた。
「ここから、ここまで」
示した幅は、ネイがさっき指したものとほとんど同じだった。
「道?」
「分かりません。でも、何かがあったのは分かります」
「仕立屋の肖像画と同じ?」
俺が聞くと、リゼは首を振った。
「似てます。でも、こっちの方がずっと大きいです」
リゼは言葉を探すように少し黙った。
「絵の時は、人が一人いなくなったみたいな感じでした。帳簿の時は、一行だけ抜けてるような。でもここは、もっと奥まで続いてます」
「奥?」
「はい。どこまであるか分からないくらい」
俺には何も見えない。
ただの壁だ。
それなのに、リゼは確かに何かの形を追っている。
彼女がそのまま壁へ手を伸ばしたので、俺は手首へ軽く触れた。
「触るのは待って」
「どうして?」
「何が起きるか分からないから。見るだけなら問題ないんだろ?」
「多分」
「なら今はそれで十分」
リゼは一瞬だけ不満そうな顔をしたが、自分から手を下ろした。
「セインも無茶しないでくださいね」
「分かってる」
「本当ですか?」
「努力する」
「信用できない返事です」
横からリオルが頷いていた。
十年の付き合いがある人間ほど、こういう時は厄介だ。
「ねえ」
ネイが俺たちの少し後ろから声をかける。
「やっぱり、この子には見えるんだね」
「お前には見えないのか」
「うん。僕には普通の壁にしか見えない」
「だったらどうして、道があったことを覚えてる?」
ネイは少し考えた。
自分でも答えが分からないのか、それとも言い方を選んでいるのか、俺には判断できなかった。
「覚えてるから、としか言えないな」
「みんな忘れてるのに?」
「そうみたいだね」
リゼが振り返った。
「それって、怖くないんですか?」
ネイは彼女を見る。
「何が?」
「自分だけ覚えてることです。ほかの人がみんな知らないって言うのに、一人だけ覚えてるのって」
リゼはそこで少し言葉を止めた。
たぶん、自分のことを考えていた。
彼女は昔の自分を覚えていない。
仕立屋の女主人も、エドランとの関係も、名前があった頃のことをほとんど覚えていない。
それなのに、この男は逆だった。
誰も覚えていない道を、一人だけ覚えている。
ネイはしばらくリゼを見つめていた。
いつもなら軽口を返すところだと思った。
けれど、その時はすぐに笑わなかった。
「……忘れちゃう方が、怖いこともあるんじゃないかな」
静かな声だった。
リゼが瞬きをする。
「どういう意味です?」
「道が一本あったってこと、僕まで忘れたら誰が教えてあげるんだろうと思って」
そこで、ネイはいつもの調子へ戻った。
「まあ、君が見つけてくれたから、少し安心したけどね」
リゼは何も言わなかった。
俺もすぐには言葉が出なかった。
最初に会った時、この男はただ変わったものを見つけて楽しんでいるように見えた。
けれど、道が消えたことを覚えていられる人間が一人もいなくなれば、その場所は本当に誰からも見つけてもらえなくなる。
そう考えていたのだとしたら。
少なくとも、標識を拾って管理局まで届けた理由は少し分かる気がした。
だからといって信用できるかは別の話だったが。
◇
「すみません」
リゼが突然、隣の薬屋へ向かって歩き出した。
今度は壁に触れるためではないらしい。
「ちょっと聞いてきます」
俺は止めなかった。
中には年配の店主がいて、薬草の入った小瓶を棚へ並べている。
「いらっしゃい。何かお探しかな」
「少し聞きたいことがあるんです」
リゼは壁の方を指した。
「この隣って、ずっと壁でした?」
「隣?」
「食堂との間です」
老人は考えるまでもなく頷いた。
「ああ、そうだよ。昔からあそこは壁だ」
「道があったことはありませんか?」
「ないねえ。わしが子供の頃から変わっとらんよ」
俺は老人の顔を見る。
嘘をついているようには見えなかった。
「失礼ですが、こちらには長くお住まいで?」
リオルが尋ねる。
「生まれてからずっとこの辺りだよ。七十二になる」
「では、青鐘通りという名前に聞き覚えは?」
「青鐘通り?」
老人はゆっくり首を振った。
「ないな。王都の外の通りかい?」
リオルがそれ以上追及しなかったので、俺たちは礼を言って店を出た。
外ではネイが食堂の看板を眺めていた。
「どうだった?」
「七十二歳の店主が、子供の頃から壁だったって」
俺が答える。
ネイは少しだけ眉を上げた。
「それは随分長いこと壁だったんだね」
「お前は一時間前まで道だったって言ってる」
「そうだよ」
「どっちかがおかしいだろ」
リオルの言葉に、ネイは笑った。
「両方本当なのかもしれないよ」
普通なら意味の分からない返事だ。
でも、今まで見てきたものを考えると、俺には否定しきれなかった。
リゼの名前もそうだった。
彼女はここにいるのに、昔から彼女を知っていたはずの人間は覚えていない。
住民証明書にも名前はなく、家族の肖像画からも存在していた跡がなくなっている。
青鐘通りにも、同じことが起きているのかもしれない。
俺たちの知る王都では、最初から道がなかったことになっている。
ただし、リゼには失われた跡が見えていて、ネイは道があったことを覚えている。
そして何より、目の前には標識が残っていた。
「標識、見せて」
俺はリオルに言った。
包みを開くと、青い金属板に書かれた文字が街灯の光を受けた。
『青鐘通り』
名前は消えていない。
板そのものも、確かにそこにある。
「これを元の場所へ戻せば、何か分かるかもしれない」
俺が言うと、リオルはすぐに頷かなかった。
「〈返却〉する気か?」
「うん」
「名前の時みたいに、変な紙が出てくる可能性もあるぞ」
「それもある」
「何が起きるか分からないのに?」
「だから、何を返すかちゃんと決めてから使う」
俺は標識をもう一度持ち直した。
さっきまでの俺なら、青鐘通りという言葉を頭に浮かべるだけで術を使っていたかもしれない。
けれど、今は少し違う。
戻したいのは道ではない。
道を元の状態に戻せるかどうかも、まだ分からない。
ただ、この標識には置かれていた場所がある。
この街路標識が本当に青鐘通りの入口に取り付けられていたのなら、そこが帰るべき場所のはずだった。
「標識だけを返す。ほかのものには触れない」
そう説明すると、リオルがようやく剣から手を離した。
「分かった。周りは俺が見る」
近くを歩いていた人たちへ少し離れてもらい、俺たちは壁の前へ立った。
リゼは壁に残った空白を見ている。
ネイは少し離れたところで、さっきまでと同じ穏やかな顔をしていた。
「ネイ」
俺が呼ぶ。
「何?」
「お前、本当にあそこに道があったんだな」
「うん」
「間違いない?」
ネイはすぐには答えなかった。
青い標識を見てから、石壁へ視線を移す。
「僕は、あそこを歩いてた人たちの顔を覚えてるよ」
その返事が、なぜか一番信じられる気がした。
俺は標識の金具を握り、取り付けられていたはずの場所を思い浮かべる。
青鐘通り。
その入口。
長い間、この標識が誰かに道の名前を知らせていた場所。
「〈返却〉」
指先から力が流れた。
いつものように、持ち物が持ち主へ引かれる感覚がある。
ただ、今回は引かれる方向がおかしかった。
正面にあるのは壁だ。
標識が取り付けられていた場所も、本来ならその向こうにはないはずだった。
それでも、術は迷わなかった。
確かな行き先を見つけた時と同じ感覚が、手の中を通り抜けていく。
次の瞬間、標識が消えた。
「……え?」
リゼが声を上げた。
俺は空になった自分の手を見てから、目の前の壁へ視線を戻す。
石壁は何も変わっていなかった。
道が現れたわけでもなく、隙間が開いたわけでもない。
「どこ行った?」
リオルが尋ねる。
「帰った」
「どこへ?」
その答えを探すために術を使ったのだから、俺も困っていた。
ただ、一つだけ分かったことがある。
〈返却〉は失敗していない。
標識は、帰るべき場所へ戻った。
それが正しいなら、青鐘通りは今もどこかに存在している。
誰も覚えていなくても。
王都の地図から消えていても。
俺たちの目の前に壁があっても。
標識が帰るべき場所だけは、なくなっていなかったことになる。
「セイン」
リゼが俺の袖をつかんだ。
「今、何か……」
そこまで言いかけたところで、壁の向こうから小さな音がした。
金属が石へ当たるような、乾いた音だった。
俺たちは顔を見合わせる。
リオルが壁へ近づき、耳を澄ませた。
しばらくすると、向こう側で何かを引きずる音がして、そのあと、かすかに人の声が聞こえた。
俺は思わず壁へ手を当てた。
冷たくて硬い石の感触は、さっきと何も変わらない。
けれど、その向こうでは確かに誰かが動いている。
「……人がいる」
リオルの声は低かった。
リゼが壁を見つめたまま頷く。
今朝までの俺なら、壁の向こうに人がいるなんて話を聞いても、少なくとも一度は笑ったと思う。
でも、今は笑えなかった。
そこに道があったことを誰も覚えていないだけなら、失われたのは街の一部分で済む。
けれど、ネイの話が本当なら、その通りには店があり、家があり、夕飯の準備をしていた人たちがいた。
今聞こえているのが、その人たちの声だとしたら。
俺たちが探していたのは、道だけではなかった。
「ほら」
ネイが壁の方を見た。
笑っていた。
でも、初めて第七係で会った時のように、ただ面白がっている顔ではなかった。
「まだ、いるだろう?」
その時、壁の向こうから、今度ははっきりと人の声がした。
近くにいる相手へ話しかける、ごく普通の女の声だった。
俺はその声を聞きながら、誰かがまだ夕飯を食べようとしていることに、こんなにも安心する日が来るとは思わなかった。




