第十話 壁の向こうは夕食中
壁の向こうで、食器が落ちる音がした。
続いて、女の人が子供を叱る声が聞こえてくる。
「だから、食べながら立つんじゃないって言ったでしょう」
「立ってないよ!」
「じゃあ、どうして椅子が倒れてるの」
「椅子が勝手に」
「ニコ」
「……ごめんなさい」
俺たちは石壁の前で顔を見合わせた。
ついさっきまで、ここはただの壁だった。青鐘通りの標識を〈返却〉してから、その向こうで人の声が聞こえるようになったのだ。
食器の触れ合う音。椅子を引く音。誰かが鍋をかき混ぜる音まで聞こえてくる。
どれも、驚くほど普通の夕食の音だった。
「ニコって、子供の名前かな」
俺が言うと、リゼは壁へ耳を近づけた。
「そうみたいですね。結構怒られてました」
「お前もよく怒られてるけどな」
「セインほどじゃありません」
言い返すのが速い。
リオルはそんな俺たちを横目に、石壁を確かめていた。表面を軽く叩き、左右へ回り込み、隙間がないか探している。
「……普通の石だな」
「ああ。でも向こうには人がいる」
「それなら、まず話してみるしかないか」
リオルが壁へ向かって呼びかけた。
「すみません! そちらに誰かいますか!」
食器の音が止まった。
少し間があって、子供の声がする。
「ミレア、今の誰?」
「知らないわよ。店の外じゃない?」
返事が聞こえた。
どうやら、こちらの声も届いているらしい。
その時、少し後ろにいたネイが壁へ近づいた。
「こんばんは! まだ煮込み、残ってる?」
「お前、今それを聞くのか!」
リオルが振り返った。
「気になってたんだ」
「食事の注文をしてる場合じゃないだろ」
「でも、返事が来るかもしれないよ」
壁の向こうが静かになった。
「……誰?」
女の声だった。
俺たちは一斉に壁を見る。
「さっき店の前にいた人かしら」
「そう。食べ損ねちゃってね」
「こんな時間に、どこから声かけてるの?」
ネイは俺を見て、少しだけ肩をすくめた。
今度は俺が前へ出る。
「王立遺失物管理局、第七係のセインと申します。少しお話を聞かせていただけますか」
「遺失物管理局? 何か落としたの?」
「……説明が難しいんですが、今、青鐘通りについて調べています」
「青鐘通りなら、ここよ」
女は当たり前のことのように答えた。
その一言で、俺は肩から少し力が抜けた。
壁の向こうにあるのは、確かに青鐘通りだ。
◇
女の名前はミレア。
青鐘通りで食堂を営んでいるという。
店の名前は青鐘亭。羊肉と豆の煮込みが評判で、近所の住民が夕食を食べに来ることも多いらしい。
そして、今も店にはニコという十歳の少年がいた。
「ここに住んでる子なんですか」
俺が尋ねると、ミレアは少し笑った。
「近所の子よ。家の人の帰りが遅い日は、うちで食べさせてるの。放っておくと肉ばっかり食べるから困るわ」
「豆も食べますよ、俺!」
向こうから抗議の声が飛んできた。
「それなら三粒残したお皿を持ってきなさい」
ニコは黙った。
リゼが小さく笑った。
俺もつられそうになったが、今は確認しなければならないことがある。
「ミレアさん。今日、通りで変わったことはありませんでしたか」
「変わったこと?」
「例えば、看板の文字が消えたり、いつもの道が分からなくなった人がいたり」
返事まで少し時間がかかった。
「……あったわ」
それまで明るかった声が低くなる。
「うちの看板から字が消えたの。それに、買い物帰りの人が、ずっと通ってる道なのに名前を思い出せないって」
「ほかには?」
「入口の標識が落ちたわね。危ないと思ってたんだけど、さっき見たら元の場所に戻ってたのよ」
リオルが俺を見る。
やはり、あの標識は向こうへ帰っていた。
「それ、俺が戻したんです」
「そうだったの? ありがとう。誰かが直してくれたんだと思ってたわ」
ミレアは驚くより先に礼を言った。
標識が突然現れたことより、通りの名前が元へ戻ったことの方が大切なのだろう。
「もう一つ確認させてください。通りの入口から、大通りは見えますか」
「見えるわよ。今も人が歩いてる」
「その人たちに声をかけてもらえませんか」
「どうして?」
「こちらから見えている景色と、そちらから見えている景色が違うかもしれないんです」
ミレアは不思議そうだったが、断らなかった。
少しして足音が遠ざかる。
彼女が誰かを呼ぶ声が何度か聞こえた。けれど、返事はない。
戻ってきたミレアの声には、さっきまでなかった戸惑いが混じっていた。
「……おかしいわ」
「どうしました?」
「呼んでも、誰も振り向かないのよ。すぐそこを人が歩いてるのに」
「姿は見えるんですね」
「ええ。でも、私のことが見えてないみたい」
リゼが壁へ近づいた。
「ミレアさん。誰かがいるのに、その人たちには自分がいないと思われてる感じですか」
「……そうかもしれない」
しばらく沈黙があった。
「あなた、どうして分かるの?」
リゼは少し考えてから答えた。
「私も、似た経験があるので」
自分の過去を詳しく話すことはしなかった。
それでも、ミレアには何か伝わったらしい。
「そう……。あなたは今、どうしてるの?」
「今ですか?」
「ちゃんと、こうして誰かと話せてるでしょう」
リゼは俺を見た。
「助けてもらいました。それから、自分で決めた名前で暮らしてます」
「そっか」
ミレアの声が、少し和らいだ。
「じゃあ、私たちも何とかなるかしら」
俺は壁へ向き直った。
「方法を探します。まだ何が起きているのか分かっていませんが、あの標識は戻せました。向こうへ届く方法があるのは確かです」
「……分かったわ」
ミレアは一度息を吐いた。
「じゃあ、私は何をすればいい?」
その質問に、少し驚いた。
けれど、考えてみれば当然かもしれない。
ミレアには店がある。ニコがいる。通りの向こうには、自分と同じように困っている人たちがいる。
ただ待つわけにはいかないのだ。
「まず、通りの外へ無理に出ようとしないでください。今は境目がどうなっているか分かりません」
「分かった。ほかには?」
「近所の人に声をかけて、具合の悪い人がいないか確かめてほしいんです。できれば、今通りの中に何人いるかも」
「正確には分からないけど、百人くらいかしら。店もあるから、外から来てる人もいると思うわ」
百人。
思っていたより多かった。
家が一軒消えたわけでも、誰か一人が迷子になったわけでもない。
百人ほどの暮らしが、王都から切り離されている。
リオルも同じことを考えたらしい。
「応援を呼んでくる。周囲を封鎖して、ほかの人間が不用意に近づかないようにする」
「頼む」
「お前はここで連絡を続けてくれ。リゼも無理するなよ」
「分かりました」
リオルはそれを確認すると、ネイへ目を向けた。
「お前も、しばらくここにいろ」
「うん」
「勝手に動くなよ」
「今は動く理由もないしね」
リオルはまだ何か言いたげだったが、結局近くの警備隊詰所へ走っていった。
◇
その間、ミレアはニコに夕食を食べさせることにした。
こちらの心配をしている場合ではない、と言いかけたが、やめた。
十歳の子供に腹を空かせたまま待てと言う方がおかしい。
「ニコ、座って食べなさい。外へ行っちゃ駄目よ」
「分かってるって」
「その返事で一度も分かってたことがないでしょう」
向こうから椅子を引く音がした。
リゼが壁へ向かって声をかける。
「ニコ、ちゃんと豆も食べてくださいね」
「お姉ちゃん、誰?」
「リゼです」
「どこにいるの?」
「壁の向こうです」
「……壁の中?」
「違います!」
俺は笑いをこらえた。
リゼがこちらを向く。
「セイン、笑ってます?」
「少し」
「怖いこと言われたんですよ」
「向こうも怖いと思うよ。知らないお姉さんが壁から話しかけてくるんだから」
リゼは少し考えた。
「確かに」
向こうでニコが笑っている。
今まで、俺は声の聞こえる方に人がいるということばかり考えていた。
けれど、そこにいる人たちは俺たちの知らないところで暮らしてきたのだ。
俺たちと会う前から、ミレアは店を開け、ニコへ食事を作っていた。
今日も明日も、同じように暮らすつもりだったはずだ。
「ミレアさん」
ネイが壁へ話しかける。
「明日、煮込みを食べに行ってもいいかな」
俺は思わず振り返った。
けれど、ミレアは少し笑った。
「もちろん。無事に店を開けられたら、いくらでも食べに来て」
「うん。約束だね」
「ええ」
ネイはそれ以上、何も言わなかった。
青鐘通りのことを知っている唯一の外部の目撃者で、誰よりも気楽そうに見える男だった。
でも、今の約束をただの冗談とは思わなかった。
◇
リオルが警備隊員を連れて戻ったのは、空がすっかり暗くなってからだった。
壁の周囲に人払いのための縄が張られ、通行人は別の道へ誘導された。事情を知らない人々には奇妙な光景だっただろうが、少なくともこれ以上、誰かが壁へ近づいて怪我をする心配は減った。
「係長には使いを送った。明日の朝には連絡がつく」
リオルが言った。
「ありがとう。ティセラにも相談したい」
「古い術式が関わってるなら、あの人の知識が必要だろうな」
その時、リゼが壁の左端へ移動した。
さっきから同じ場所を見ていたのが気になっていた。
「どうした?」
「空白が、少し広がってるんです」
俺とリオルが顔を見合わせる。
「壁そのものが動いてる?」
「そうじゃありません。ここまでしかなかった、何かが消えた跡のようなものが、もう少し外まで伸びています」
リゼは自分の足元を指した。
俺には、石の色が違うようにも見えなかった。
ただ、以前にもリゼが同じように空白を感じた場所から、失われた記録が見つかっている。
「今は大丈夫でも、放っておけば状況が変わるかもしれないな」
リオルが呟く。
俺はミレアへ声をかけた。
「そちらで何か変わったことはありませんか」
「今のところはないわよ。ニコが豆を残したくらい」
少し安心した。
少なくとも向こう側では、まだ大きな変化は起きていないらしい。
ただ、このまま何もせず朝を待つわけにはいかない。
そこでリオルが口を開いた。
「セイン。標識は青鐘通りへ戻せたんだよな」
「ああ」
「なら、ほかの物にも同じことができるんじゃないか」
俺も考えていた。
標識は、確かに元の場所へ帰った。
壁の向こうからミレアが教えてくれたから、そこに届いたことも分かっている。
「できると思う。ただし、何でも好きな場所へ送れるわけじゃない」
「本来の持ち主か、元々あるべき場所が必要なんだな」
「そういうこと」
ネイが石壁へ近づいた。
「だったら、借り物を試したら?」
「借り物?」
「中の誰かが外から借りた物なら、返す相手がはっきりしてるでしょう」
俺はリオルを見る。
確かに、試す価値はあった。
「ミレアさん!」
俺は声をかけた。
「通りの外にいる人から、今借りている物はありませんか」
少し間があった。
「あるわよ。秤」
「秤?」
「うちのが壊れたから、昼間、入口の外にある薬屋から借りたの」
リオルはすぐ隣の薬屋へ確認に走った。
ほどなくして店主を連れて戻ってくる。
店主は俺たちの説明を半信半疑で聞いていたが、秤を貸したこと自体は覚えていた。
「誰に貸したのかは思い出せないんだ。でも、昼間、誰かが借りに来たのは確かだよ」
俺は頷いた。
借りた相手を忘れていても、秤が店主の物であることは変わらない。
「ミレアさん。その秤を壁の近くまで運んで、石に当ててもらえますか」
「いいけど、どうするの?」
「持ち主のところへ返せるか、確かめたいんです」
向こうで足音が遠ざかり、しばらくして金属が触れ合う音がした。
「持ってきたわよ」
「じゃあ、壁に当てたまま少し動かしてみてください」
石の向こうで、硬い物を擦る音がする。
俺が手を当てても、当然ながら秤には触れなかった。
〈返却〉は対象となる物へ術を通す必要がある。触れられない物を、持ち主が分かるというだけで自由に動かせるわけではない。
「……難しいな」
俺が呟くと、リゼが隣へ来た。
「セイン、もう一度ミレアさんに動かしてもらってください」
「何か分かった?」
「少しだけ」
リゼは壁の一点を見つめていた。
ミレアが秤を動かすと、その指先もわずかに動く。
「形は見えません。何があるのかも、教えてもらわなかったら分からなかったと思います。でも、空白の端が少し揺れるんです」
「揺れる?」
「はい。壁の向こうから何かが近づいた時だけ、そこが変わるような感じです」
なるほど。
物が透けて見えているわけではない。
見えない場所との境目に生まれる変化だけが、リゼには分かるのだ。
「そこなら届くかもしれない?」
「分かりません。でも、試す場所は絞れます」
リゼが俺の右手を取った。
左腕には、第七係を襲われた時の傷がまだ残っている。リゼは包帯に触れないよう気をつけながら、俺の手を壁へ導いてくれた。
「ここです」
俺は石の表面へ指を当てた。
触れているのは、やはり普通の壁だった。
「ミレアさん。しばらくその位置で秤を動かさないでください」
「分かったわ」
俺は目を閉じた。
対象は、薬屋の店主から借りた秤。
持ち主は今、壁のこちら側にいる。
返すべき先も分かっている。
ただ、物そのものに術が届くかどうかは、まだ試したことがなかった。
「〈返却〉」
最初は何も起きなかった。
冷たい石の感触だけが手に残る。
やはり無理かと思った時、リゼが小さく声を上げた。
「そこです。もう少し右」
俺は指先をわずかに動かした。
すると、石の奥に別の重さを感じた。
硬い壁の向こうにあるものへ、ほんの一瞬だけ触れたような感覚だった。
「……届いた」
俺は秤の持ち主を思い浮かべた。
長い間、薬屋で使われてきた道具。
昼間だけ貸し出され、今は見えない通りの中にある物。
それを、本来の持ち主へ。
「〈返却〉」
今度は、はっきりと力が動いた。
石壁の表面に、小さな波紋が広がる。
次の瞬間、金属製の秤が壁から飛び出してきた。
「危ない!」
リオルが前へ出て、落下しかけた秤を受け止める。
鈍い金属音が響いた。
薬屋の店主が目を見開く。
「……俺の秤だ」
受け取った秤を、何度も確かめている。
古い傷も、少し曲がった皿の縁も、そのままだった。
「間違いない。父の代から使ってるやつだ」
壁の向こうからミレアが呼んだ。
「セインさん! 秤が消えたわ!」
「持ち主のところへ戻りました!」
「本当に? よかった。借りたままにしなくて済んだわね」
俺は思わず笑ってしまった。
こんな時でも、ミレアは借り物を返せたことを気にしている。
リゼが俺の袖を引いた。
「セイン」
「何?」
「できましたね」
「ああ」
「私が境目を見つけて、セインが返した」
その言葉には、少し誇らしげな響きがあった。
俺も嬉しかった。
リゼには、失われた場所の境目が分かる。
俺には、帰る場所のある物を返せる。
二人でなければ、今の秤には届かなかった。
リオルが石壁を見つめる。
「物は通った。人が外へ出られるかは、まだ分からない。でも、大きな手がかりだな」
俺は頷いた。
薬屋の主人が秤を持って店へ帰る。
その背中を見送ってから、もう一度石壁へ目を向けた。
向こうには、まだ人がいる。
青鐘通りがどこへ消えたのか、誰が何のためにこんなことをしたのかは分からない。
それでも、物が行き来する道は完全には失われていなかった。
「……捨てられたんじゃないかな」
隣で、ネイが呟いた。
「何が?」
「青鐘通り」
彼は壁を見ていた。
「なくなったんじゃなくて、誰かに捨てられたのかもしれない」
俺が聞き返す前に、向こうからニコの声が聞こえた。
「ミレア! 明日の肉、ちゃんとある?」
「豆を食べたらね!」
そのやり取りを聞いて、ネイは少しだけ笑った。
「ほら。まだ、いるだろう?」
俺は答えず、石壁へ手を当てた。
誰かの夕食が、まだその向こうで続いている。
それが分かっただけでも、今日はここへ来てよかったと思った。




