第十一話 人は返せない
「捨てられたんじゃないかな」
ネイは石壁を見つめたまま、そう言った。
つい先ほど、壁の向こうから借り物の秤が戻ってきたばかりだった。薬屋の主人は自分の店へ戻り、今はリオルの部下が事情を聞いている。
あの秤は、昼間まで青鐘通りの食堂にあった。
俺たちには見えず、誰も存在を覚えていない場所から、確かに戻ってきた。
それを見届けたネイが、青鐘通りは誰かに捨てられたのかもしれないと言い出したのだ。
「捨てられたって、誰に?」
俺が尋ねると、ネイは首を傾げた。
「そこまでは知らないよ」
「じゃあ、どうして捨てられたと思うんだ」
「だって、まだあるから」
彼は壁へ手を伸ばし、指先で軽く石を叩いた。
「本当になくなったなら、声も聞こえないし、標識も帰る場所がないはずだろう?」
「それはそうだけど」
「でも、あそこには人がいる。食堂も家も残ってる。それなのに、王都の方が青鐘通りを知らないことになってる」
ネイは俺の顔を見た。
「なくなったというより、仲間外れにされたみたいじゃない?」
その言い方は、妙に分かりやすかった。
今まで俺は、通りが消えたという説明を頭の中で繰り返していた。けれど実際には、向こうで暮らす人間が生きていることも、標識が元の場所へ戻ったことも確認している。
街路そのものがなくなったのではなく、王都とのつながりだけが失われている。
そう考えるなら、目の前にあるのはただの石壁ではないのかもしれなかった。
「リゼには、どう見える?」
俺が尋ねると、彼女は壁の端へ移動した。
さっき秤の位置を教えてくれた時も、リゼはここに立っていた。
「空っぽじゃないんです」
しばらく目を凝らしてから、そう答える。
「仕立屋の肖像画にあった空白とは、少し違います。あの時は、誰かがそこにいたということ自体が抜けていました。でも、ここは向こうへ続いている感じがするんです」
「通りが?」
「はい。ただ、途中で切られているみたいな」
リゼは言葉を探しながら、空中へ指で線を引いた。
「例えば、長い紐を引っ張っていたら、途中に布をかぶせられて見えなくなったような。紐の続きはあるのに、こっちからは触れないんです」
「なるほど」
俺が頷くと、リゼが少し嬉しそうにした。
「今の、分かりやすかったですか?」
「かなり」
「もっと早く思いつけばよかった」
「俺も助かったよ」
説明の上手さを褒められたからか、リゼはもう一度壁を見つめ、今度は少し自信を持って言った。
「だから、ここには何もないわけじゃありません。青鐘通りは、まだ向こうにあります」
俺は手を伸ばして石壁へ触れた。
冷たい石の感触は変わらない。
それでも向こうからは食器を片づける音や、人の話し声が聞こえてくる。
見えないだけで、そこには暮らしが続いている。
「セイン」
リオルが近づいてきた。
部下への指示を終えたらしく、さっきより少し疲れた顔をしている。
「秤を戻せたなら、人間も同じ方法で出せないのか?」
考えていなかったわけではない。
むしろ、秤がこちらへ出てきた瞬間から、その可能性は頭にあった。
けれど俺は首を振った。
「それは無理だ」
「どうして?」
「〈返却〉は人間そのものを対象にできない」
リオルが眉を寄せる。
「生まれた家へ帰すとか、そういう指定も?」
「できない。家があるからといって、その家の持ち物になるわけじゃないからな」
「でも、そこが本人の帰りたい場所だったら?」
「それでも同じだよ」
俺は少し考えてから、続けた。
「本人が家へ帰りたがってるなら、帰れるように手伝うことはできる。でも、俺の術でその人を家のものだと決めることはできないんだ」
リオルは黙って聞いていた。
「親も、国も、家も、その人の持ち主じゃない。〈返却〉にとっては、そこが大事なんだと思う」
今までにも似たことを試された経験はあった。
酔っ払った客を自宅へ返してほしいと頼まれたこともあれば、迷子を母親のところへ送ってほしいと言われたこともある。
どちらも術は働かなかった。
人間は、自分の意思で帰るものだからだろう。
「じゃあ、百人全員に家があっても駄目なのか」
「ああ。誰かの都合で、人間を荷物みたいに返すことはできない」
リオルは壁へ目を向けた。
俺も同じ方を見る。
百人近い人間が、あの向こう側にいる。
その全員に帰る場所があるとしても、俺が一人ずつ送り出すことはできない。
「……いい術だね」
不意に、ネイが言った。
振り返ると、いつもの笑みが少しだけ薄くなっていた。
「何が?」
「人を物として扱えないところ」
彼は俺を見つめた。
「誰かが帰る場所を決めてあげるんじゃなくて、本人に決めさせるんでしょう?」
「そういうことになるかな」
「それなら、いい術だと思う」
珍しく真面目な言い方だった。
からかわれると思っていたので、少し調子が狂った。
「急に褒めるなよ」
「褒めちゃ駄目?」
「駄目じゃないけど」
「じゃあ、もう一回言おうか」
「一回でいい」
ネイは楽しそうに笑った。
けれど、石壁へ視線を戻した時、小さく何かを呟いた。
近くにいた俺にだけ聞こえる声だった。
「……世界より、よっぽどまともだ」
「何?」
聞き返すと、ネイは首を振った。
「何でもないよ」
笑顔は戻っていた。
ただ、さっきの言葉を冗談として聞き流す気にはなれなかった。
◇
夜が深くなるにつれ、石壁の周囲には人が集まり始めた。
警備隊が道を封鎖しているのだから、当然といえば当然だった。
食堂と薬屋の間に昔からある壁を、突然警備隊が囲んでいる。しかも、その壁へ向かって役人らしい若い男が何度も話しかけているのだから、通りかかった人間が不思議に思わない方がおかしい。
何をしているのかと尋ねられるたびに、リオルの部下が説明に困っていた。
「ここは通行止めです。別の道をお通りください」
「何でだい? 壁が崩れるのかい?」
「調査中です」
「何の調査だよ」
「……壁の状態です」
少し離れたところで、そのやり取りが聞こえた。
リゼが俺を見る。
「壁の状態って、間違いではないですよね」
「まあな」
「でも、壁の向こうに百人いますって言った方が早いのでは?」
「多分もっと人が集まる」
「ですよね」
リゼは納得したように頷き、石壁へ向き直った。
俺はリオルのところへ行った。
「人払い、大丈夫そう?」
「今のところはな。ただ、このまま夜中まで説明を続けるのは無理だと思う」
「警備隊だけじゃ足りない?」
「人数の問題じゃないんだ。何が起きてるか分からないまま、大通りの一部を封鎖し続けるには上への説明がいる」
リオルは近くの隊員へ手で合図を送り、少し離れた場所へ移動した。
「係長には使いを送った。明日の朝には正式に話を通せると思う」
「ティセラにも相談したい」
「ああ。古い術式が関わってるなら、あの人の知識が必要だろうな」
その点は俺も同じ考えだった。
ただ、朝まで待つことに不安がなかったわけではない。
リゼには、空白の範囲が少しずつ広がっているように見えている。
原因も分からないまま時間だけが過ぎていくのは、あまり気分のいいものではなかった。
「セインさん?」
壁の向こうからミレアの声がした。
俺はリオルに断ってから戻った。
「はい、います」
「さっきの秤、本当に外へ出たのね?」
「はい。持ち主の方にも確認してもらいました」
「よかったわ。借りたものがなくなったら困るところだった」
ミレアの声は、思っていたより明るかった。
百人近い人間が街から切り離されているというのに、彼女が最初に安心したのは借り物を返せたことだった。
けれど、少し考えるとその気持ちも分かる気がした。
店をやっていれば、毎日誰かから何かを借りることもある。
借りたものは返す。
明日の仕込みをする。
客が来れば食事を出す。
そういう当たり前のことを、一つずつ守ろうとしているのかもしれない。
「ミレアさん」
リゼが壁へ近づいた。
「ニコはもうご飯食べました?」
「ええ。今は皿洗いを手伝わせてるところ」
すぐに子供の声が割り込んだ。
「手伝ってるんじゃなくて、やらされてる!」
「同じことよ!」
リゼが笑う。
「豆、ちゃんと食べました?」
「食べた!」
「全部?」
「……ほとんど」
向こうからミレアの声がする。
「三粒残したわ」
「三粒くらいいいじゃん!」
「数えてるじゃないですか」
リゼは楽しそうだった。
俺もつられて笑ったが、そのあと少しだけ考え込んだ。
ニコは、今日も食事をしている。
店の手伝いをさせられ、豆を残してミレアに叱られている。
何もおかしなことはしていない。
けれど、王都の外側にいる人間からは、その少年が住む通りそのものが見えなくなっている。
そこまで考えて、初めて分かった。
俺たちが救おうとしているのは百人という数字ではない。
ミレアが明日も店を開けること。
ニコがまた豆を残して叱られること。
そして、ほかの住民たちが何事もなかったように家へ帰れることだ。
それができなくなるかもしれないから、今ここにいる。
「セインさん」
ミレアが呼んだ。
「何でしょう」
「少し聞いてもいい?」
「はい」
「この壁、明日になったらなくなってると思う?」
返事に迷った。
無責任に大丈夫だと言うことはできない。
かといって、分からないから答えられないと突き放すのも違う気がした。
「明日までになくせるかは、まだ分かりません」
「そう」
「でも、標識も秤も戻せました。だから、何もできないわけじゃないんです」
少し間があった。
「そうよね」
ミレアは静かに言った。
「できることからやればいいのよね」
その返事に、俺の方が少し救われた気がした。
「今夜は皆さん、通りの中で過ごしてください。外へ出る方法が分かるまで、無理に移動しない方がいいと思います」
「分かったわ。近所の人にも伝えておく」
そこでリゼが口を開いた。
「それと、ミレアさん」
「何?」
「ニコをちゃんと寝かせてくださいね」
「もちろん」
「明日も学校でしょう?」
向こうから、さっきまで黙っていた少年の声がした。
「学校ないかもしれないじゃん!」
「だからって夜更かししていい理由にはなりません!」
妙なところで厳しい。
俺が思わず笑うと、リゼは少し得意そうだった。
「子供にはちゃんと言わないと」
「リゼも結構夜更かしするだろ」
「私は大人です」
「年齢分からないんじゃなかった?」
「そういうこと言わないでください」
壁の向こうでミレアが笑った。
少し遅れて、ニコの笑い声も聞こえる。
こちらからは何も見えない。
それでも、笑っている人たちの顔が少しずつ想像できるようになっていた。
◇
問題が起きたのは、その少しあとだった。
「いつまで待てばいいんだよ」
壁の向こうから、男の声が聞こえてきた。
低く、苛立った声だった。
ミレアやニコとは違う。
「ガロ、落ち着きなさい」
ミレアがなだめている。
「落ち着いてるよ。でも、ずっとここにいろって言われても困るだろ」
俺は壁へ近づいた。
「すみません。どなたですか」
「ガロ。青鐘亭で働いてる」
男はすぐに答えた。
「そっちは役所の人間だろ?」
「王立遺失物管理局のセインです」
「じゃあ、ちょうどいい。俺たち、いつ外へ出られるんだ」
責めるような聞き方だった。
けれど、怒っている理由は理解できた。
普段通っている道から出るなと言われ、壁の向こうにいる知らない役人の指示へ従えと言われている。何が起きているのか本人には見えず、いつ終わるかも分からない。
不安にならない方がおかしい。
「今、原因を調べています」
「それはさっき聞いた。俺が知りたいのは、いつ出られるかだよ」
「まだ時間は分かりません」
「……そうか」
男が息を吐く音がした。
それから、少し離れたところで何かを動かす音が聞こえてくる。
「おい、ガロ」
ミレアの声が強くなった。
「何してるの」
「外を見てくるだけだよ」
俺はすぐに声を上げた。
「待ってください。今は通りの外へ出ないでください」
「そっちから壁に見えてるだけだろ?」
「そうです。でも、通れるかどうか分かりません」
「こっちからは普通の道なんだよ」
言い返されると、俺にはそれ以上のことが言えなかった。
ガロにとっては、今も入口が見えている。
いつも仕事の行き帰りに使ってきた道だ。
そこへ歩いていけば、外へ出られると思うのは自然なことだった。
「俺だって、閉じ込められてるかどうかくらい自分で確かめたいんだよ」
その声には怒りだけでなく、悔しさも混じっていた。
「通りの中にいろって言うなら、ちゃんと理由を教えてくれ。危ないかもしれないってだけじゃ、何も分からないだろ」
俺は口を閉じた。
言っていることは間違っていない。
俺たちには外から見える壁がある。
でもガロには、それすら見えていないのだ。
リオルがこちらへ来た。
「どうした」
「中の人が外へ出ようとしてる」
リオルはすぐに壁へ向き直った。
「ガロさん、聞こえますか。王都警備隊のリオルです」
「警備隊?」
「はい。今、青鐘通りの周辺は立ち入りを制限しています。安全を確認できるまで、通りの外へ出るのは控えてください」
「そっちは見えない壁の外にいるんだろ。俺が出られるかどうかくらい、俺自身が確かめればいい」
「それで何か起きたら、助けに行けない可能性があります」
リオルは一度言葉を切った。
「だから、せめて俺たちが調べ終わるまでは待ってほしいんです」
ガロは返事をしなかった。
向こうで足音が遠ざかる。
ミレアが名前を呼んでいる。
「ガロ!」
俺も壁へ近づいた。
「待ってください!」
返事はなかった。
リオルが拳を握り、すぐに開いた。
声が届いても、手は届かない。
相手の目の前へ立って止めることも、腕をつかんで引き戻すこともできない。
さっき秤を戻せた時には、少しだけ壁を越えられた気がしていた。
でも今は、壁の厚さを思い知らされる。
「セイン」
リゼが隣へ来た。
「ガロさん、見えますか」
「人の姿は見えません。でも、空白の端へ近づいてるのは分かります」
リゼは壁の左側へ移動した。
目を凝らしている。
「そっちが入口ですか?」
「多分」
「危なくなったら教えて」
「分かりました」
俺たちは黙って待った。
遠くで荷車が通る音がする。
警備隊員が誰かを誘導している声も聞こえた。
こちら側の王都では、今も普通の夜が続いている。
そのすぐ向こうで、一人の男が外へ出ようとしている。
どれほど待っただろう。
最初は十数秒ほどだったと思う。
それから、さらに少し時間が過ぎた。
「……あれ?」
壁の向こうで、ガロの声がした。
さっきまでより近かった。
しかも、声の聞こえる方向が違う。
「ガロ?」
ミレアが呼ぶ。
「何でだよ」
返事は震えていた。
「どうしました?」
俺が尋ねる。
「俺、今、外に出たよな?」
その言葉を聞いて、リオルが顔を上げた。
「どこから?」
「通りの入口だよ。いつも大通りへ出るところ」
「そこを通ったんですか」
「ああ。いつも通りに歩いた。前には大通りが見えてたんだ」
ガロは途中で言葉を切った。
何かを確かめるように、荒い息が聞こえる。
「でも、歩いてたら急に景色がおかしくなって」
俺は壁へ手を当てた。
「それで?」
「……青鐘通りに戻ってきた」
背中が冷えた。
リオルも黙っている。
「どういうことですか」
リゼが尋ねた。
「分からないんだよ!」
ガロの声が大きくなる。
「まっすぐ歩いたんだ。道を曲がった覚えもないし、引き返してもいない。それなのに、気づいたら反対側の入口から入ってきてたんだ!」
向こうでミレアが声をかけている。
ガロは返事をしなかった。
ただ、何度も同じことを繰り返している。
大通りへ出た。
まっすぐ歩いた。
それなのに、青鐘通りへ戻ってきた。
俺はリゼを見る。
「空白は?」
「変わってません。外へ出た感じは、なかったです」
「じゃあ」
リオルが低い声で言った。
「中からも出られないってことか」
今までは、王都の側から青鐘通りが見えないだけだと思っていた。
通りの中にいる人間には、外の景色が見えている。
だから、向こうから普通に歩けば出てこられる可能性があると思っていた。
けれどガロは、入口から外へ出たはずなのに、反対側の入口へ戻ってきたという。
こちらから見えないだけではない。
青鐘通りそのものが、王都のほかの場所へつながらなくなっている。
「ガロさん」
リオルが壁へ呼びかけた。
「聞こえますか」
「……ああ」
「もう一度試すのはやめてください。今は、何が起きるか分かりません」
さっきより強い声だったが、怒鳴ってはいなかった。
ガロはしばらく黙っていた。
やがて、小さな返事が聞こえた。
「分かったよ」
その声には、もうさっきまでの勢いはなかった。
「悪かった。俺が勝手にやった」
「責めているわけじゃありません。状況を知るためには、誰かが通れるかどうか確認する必要もあった」
リオルはそう言ってから、少し声を柔らかくした。
「ただ、今度は無理をしないでください。あなたがどうなったか分からなくなったら、俺たちには探しに行く方法がないんです」
壁の向こうで、何かが動く音がした。
ガロが座り込んだのかもしれない。
「……そうだな」
短い返事だった。
少し間を置いて、ミレアが口を開いた。
「ガロ、店に戻りましょう」
「俺、何もできなかったな」
「できたでしょう」
「何が」
「外へ出られないって分かったじゃない」
ミレアの声は落ち着いていた。
「それに、あんたがいなかったら明日の仕込みは誰がするの」
ガロは何も言わなかった。
「明日も店を開けるつもりなんですか」
俺が思わず尋ねると、ミレアは少し笑った。
「開けるわよ。中にはまだお客さんがいるんだもの」
その返事が、胸へ残った。
青鐘通りが王都から切り離されていても、そこにいる人間の腹は減る。
食堂を開ける理由は、まだ残っている。
「……分かったよ」
ガロの声がした。
「じゃあ、仕込みを手伝う」
「そうしなさい」
ミレアの返事は、いつもの調子に戻っていた。
俺は壁へ手を当てたまま、しばらく動けなかった。
何も解決していない。
それでも、向こう側ではもう明日の仕事について話し始めている。
彼らがそうやって暮らしを続けるために、俺たちは何をすべきなのだろう。
◇
「一度、戻ろう」
不意にネイが言った。
リオルが振り返る。
「この状況で?」
「ここにいた方がいい人は残ればいい。でも、全員で朝まで壁を見てても、できることは増えないと思うよ」
さっきまでの軽い調子とは少し違っていた。
俺も、ネイの言うことには一理あると思った。
警備隊が周囲を守り、ミレアたちと連絡を取り続ける人間がいれば、俺たちは別の方法を探しに行ける。
ただし、何を調べればいいのかが分からない。
「青鐘通りについて調べるって言っても、地図にはないんだぞ」
リオルが言った。
「だったら、地図以外を見ればいい」
ネイは簡単に答えた。
「何を?」
「昔の記録とか、通りができた時のこととか」
俺は少し驚いた。
この男から、そんなにまともな提案が出てくるとは思っていなかった。
「意外と普通のこと言うんだな」
「ひどいなあ。僕だって考えるよ」
「そうは見えなかった」
「それ、よく言われる」
ネイは笑ってから、壁へ手を置いた。
「ねえ、セイン。君の〈返却〉って、何でも好きな場所へ送れるわけじゃないんでしょう?」
「ああ」
「標識は、青鐘通りの入口へ帰った」
「そうだな」
「秤は、薬屋へ帰った」
「ああ」
「じゃあ、青鐘通りは?」
俺はすぐに答えられなかった。
ネイが続ける。
「道が王都から切り離されているなら、その道には元々つながっていた場所があるはずだろう?」
その言葉に、リゼが顔を上げた。
「さっきの紐と同じですね」
「紐?」
ネイが聞き返す。
「はい。途中で見えなくなってるけど、続きはあるって話です」
「ああ、なるほど。君にはそう見えるんだ」
ネイは嬉しそうに笑った。
リゼはそのまま俺を見る。
「セイン。秤を返した時、壁の向こうにある物へ届きましたよね」
「お前が場所を教えてくれたからな」
「だったら、青鐘通りにも帰る場所があるなら、〈返却〉で見つけられるかもしれません」
俺は壁を見た。
通りそのものを返す。
そんなことは今まで考えたことがなかった。
道は財布や鍵とは違う。
誰かが持ち歩くものでもないし、なくしたからといって拾ってくることもできない。
そもそも道というものに、本当の持ち主がいるのかどうかも分からなかった。
それでも、標識と秤のことを考えれば、完全に無理だと決めつける理由はない。
「でも、青鐘通りって誰のものなんだ?」
俺が尋ねると、リオルが答えた。
「法律上なら王都の管理地だろうな」
「それが〈返却〉でも同じとは限らない」
「そうなのか?」
「例えば、誰かが正当に買ったものは、その人へ返る。でも盗品なら、何年持っていても盗んだ人間のものにはならない。俺の術は、今誰が持ってるかだけでは決まらないんだ」
説明しながら、自分でも少し整理できてきた。
青鐘通りは王都にあった。
王都の人々が使い、そこに家や店を建てて暮らしている。
では、何が失われたのか。
土地そのものなのか。
道の名前なのか。
王都とつながっていたという事実なのか。
その違いによって、返すべきものも変わってくる。
「まず、何が切り離されたのかを調べないと駄目だな」
俺が言うと、ネイが頷いた。
「うん。そこからだと思うよ」
「お前、何か知ってるんじゃないのか」
リオルが尋ねる。
「何で?」
「さっきから妙に話が早い」
ネイは少し考えた。
「落とし物を探す時って、どこへ戻したいか考えるものじゃない?」
俺は頷いた。
「そうだな」
「だから、それだけだよ」
リオルは納得していなかった。
けれど、ここで問い詰めたところで答えが出ないのは俺にも分かる。
ネイは知らないことを知らないと言う。
ただ、何を知っているかについては、聞かれても簡単には答えない。
そういう人間らしかった。
「じゃあ、明日は青鐘通りのことを調べるんですね」
リゼが言った。
「ああ。古い地図や記録から、元々どこにあったのかを確かめる」
「場所はもう分かってますよね。壁の向こうです」
「そうだけど、道が何とつながってたのかを調べるんだよ」
リゼは少し考えた。
「なるほど。帰る場所を探すんじゃなくて、帰るための道を探すんですね」
その言い方は、俺が考えていたことに近かった。
「多分、そういうこと」
リゼは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ私も手伝います」
「もちろん」
「ティセラさんにも来てもらいましょう」
「係長が呼ぶと思う」
「リオルは?」
「俺は警備隊として、ここを守る」
リオルが答えた。
「調査にも協力するけど、今夜はまず中の人たちが無事に過ごせるようにしないとな」
リゼは頷いた。
「ネイは?」
「僕?」
「明日も来ます?」
「行っていいなら」
ネイは俺を見る。
なぜ俺に判断を求めるのか分からないが、ここまで関わった相手を追い返すのも変な話だった。
「来るのはいいけど、リオルの指示には従えよ」
「もちろん」
リオルが眉を寄せる。
「お前の『もちろん』は信用できないんだよ」
「ひどいなあ」
「理由があるんだよ」
ネイは笑っていた。
その笑顔を見ていると、明日も何か面倒なことを起こすのではないかという気がした。
ただ、少なくとも今夜、この男が青鐘通りのことを気にかけているのは本当だと思った。
理由は分からない。
でも、道を拾ったと言って管理局まで来たのも、明日の煮込みを食べに行くと約束したのも、全部がただの冗談だとは思えなかった。
◇
帰る前に、俺はもう一度ミレアへ声をかけた。
「ミレアさん」
「はい?」
「俺たち、明日から古い記録を調べます。少し時間がかかるかもしれませんが、必ず連絡します」
「分かったわ」
「今夜は警備隊の人がここに残ります。何かあったら声をかけてください」
「ありがとう。助かるわ」
少しだけ間があった。
それから、ミレアが尋ねた。
「セインさん」
「はい」
「ガロが外へ出られなかったのって、私たちがどこかに閉じ込められたからなのよね」
俺は返事に迷った。
そう考えるのが自然だった。
ただ、閉じ込めた相手も、閉じ込めた方法もまだ分からない。
「今は、そう見えています」
「そう」
ミレアは静かに言った。
「でも、私たちの家はまだここにあるのよ」
「はい」
「店も、道も、みんなの暮らしも」
「そうですね」
「だったら、何もなくなってないのに、帰れないなんておかしいわよね」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ笑った。
「本当に、そう思います」
壁の向こうでミレアが息を吐いた。
「じゃあ、ちゃんと戻してね」
軽い言い方だった。
でも、その奥にある不安が分からないほど、俺も鈍くはないつもりだった。
「できることを全部調べます」
「ええ。お願いね」
そのあと、ニコの声が聞こえた。
「ミレア、明日の肉は?」
「今はその話じゃないでしょう」
「だって約束したじゃん!」
「豆も食べるならね!」
向こうで誰かが笑った。
ガロの声もした。
「ニコ、お前明日も豆残すだろ」
「残さないよ!」
「今日三粒残したくせに」
「数えてたのかよ!」
俺は壁へ手を当てた。
中には人がいる。
食堂があり、家があり、明日の夕飯について話す人間がいる。
その人たちを荷物のように運び出すことはできない。
人には持ち主がいないからだ。
けれど、道ならどうだろう。
王都から切り離された青鐘通りを、元の場所へつなぎ直せるのなら。
そこに暮らす人々は、誰かに運んでもらわなくても、自分の足で帰れるはずだった。
「リゼ」
俺は隣にいた彼女へ声をかけた。
「何です?」
「明日、古い地図を見よう」
「はい」
「青鐘通りがどこへ帰ればいいのか、そこから考えたい」
リゼは少しだけ首を傾げた。
「でも、道って最初からそこにあるものですよね」
「そうだな」
「だったら、帰る場所をなくしたんじゃなくて、帰る場所とのつながりをなくしたんじゃないですか」
俺は壁を見た。
何もないはずの石壁の向こうで、まだ誰かが笑っている。
リゼの言う通りなのかもしれない。
道そのものを運ぶ必要はなく、王都とのつながりを取り戻せばいい。
ただ、そのためにはまず、青鐘通りが何とどうつながっていたのかを知らなければならない。
「……そうかもしれないな」
俺が答えると、リゼは少し得意そうに笑った。
「じゃあ、明日はそれを調べましょう」
リオルが警備隊員へ最後の指示を出している。
ネイは少し離れたところで、青鐘通りがあるはずの壁を見つめていた。
その顔には、いつもの笑みが浮かんでいる。
けれど、誰も見ていない時だけ、少し寂しそうにも見えた。
俺はそれ以上、何も聞かなかった。
今は、この場所をどう戻すかを考える方が先だったからだ。
青鐘通りに暮らす百人近い人々は、まだ向こう側にいる。
外へ出ようとしても、同じ通りへ戻されてしまう。
それでも、明日も店を開こうとしている人がいる。
明日の肉を楽しみにしている子供がいる。
そして、誰も覚えていない道を、覚えている男がいる。
青鐘通りが元々どこにあり、何とつながっていたのか。
そこから調べれば、何かが見つかるかもしれない。
俺はもう一度だけ石壁へ触れ、そこにいるはずの人々の声を確かめてから手を離した。
人は返せない。
だからこそ、その人たちが自分の足で帰れる道を取り戻したいと思った。




