第十二話 道は誰のものか
翌朝、青鐘通りから届いた最初の知らせは、ミレアがいつも通り食堂を開けたというものだった。
もっとも、開店したところで外から客が来るわけではない。中にいる住民のために煮込みを温め、パンを焼き、ガロと二人で店先の掃除まで済ませたらしい。
そこまではいい。
問題は、その次だった。
「仕入れができないんだよ」
警備隊から届いた報告には、ガロの言葉がそのまま記されていた。
青鐘通りには井戸があり、各家庭にも食料の蓄えがある。今日明日で飢える心配はないが、食堂や商店へ外から運ばれてくる肉や野菜は、昨日の夕方から一つも届いていない。
通りの中にいる人間が外へ出られないのだから、当然といえば当然だった。
俺は報告書を机へ置いた。
「昨日は夕飯のことばかり考えてた」
向かいに座るリゼが顔を上げる。
「大事なことですよ」
「そうだけど、明日も明後日も食べられるとは限らないだろ」
リゼは少し考えてから、自分の手元にあるパンを見た。
それから、食べかけを紙袋へ戻した。
「別に、リゼの分まで減らさなくていいよ」
「そうですか?」
「お前が食べなかったからって、中の人の食料が増えるわけじゃないし」
「じゃあ食べます」
素直に取り出した。
この切り替えの速さは少し見習いたい。
ただ、昨日までと違うこともある。
青鐘通りがなくなったことになっているだけなら、時間をかけて記録を調べればよかった。
今は、その通りに百人近い人間が閉じ込められている。
食料だけではない。病人が出るかもしれないし、仕事へ行かなければ生活できない人もいるだろう。
調べている間も、向こうでは暮らしが続いているのだ。
「おはよう」
扉の方から声がした。
振り返ると、ネイが立っていた。
昨日と同じ上着を着ているが、襟元はきちんと整っている。片手には焼きたてらしいパンの包みを持っていた。
「また来たのか」
「来るって言っただろう?」
「言ってたけどさ」
「それに、約束したからね」
「誰と?」
「ミレアさん。煮込みを食べに行くって」
ネイはごく自然に答えた。
俺は昨日の壁越しの会話を思い出す。
あの時、ネイはミレアに明日の煮込みを予約していた。
「今、店には入れないぞ」
「知ってるよ。だから早く戻してあげたいんだ」
軽い言い方だった。
けれど、その理由を冗談として片づける気にはなれなかった。
ネイは机に広げられた王都の地図を覗き込む。
「何を調べてるの?」
「青鐘通りが、元々どこにつながっていたか」
「地図にはないでしょう?」
「だから困ってるんだよ」
「それなら、僕に聞けばいいのに」
俺は顔を上げた。
「覚えてるのか」
「昨日まで歩いてたからね」
「最初から言えよ」
「聞かれなかったから」
その返しには少し腹が立ったが、今は言い争っている場合ではなかった。
俺が鉛筆を渡すと、ネイは地図の南三区を眺め、食堂と薬屋の間へ細い線を引いた。
線は奥へ進み、途中でゆるく曲がっている。
「ここに青い屋根の家があった。その手前に小さな横道があって、そっちへ曲がると広場に出るんだ」
「広場?」
「小さいけどね。井戸と古い鐘がある」
リゼが顔を上げた。
「鐘?」
「うん。青い色をした鐘だったよ。何で青いのかは知らないけど」
「だから青鐘通りなんですかね」
「そうかもしれないね」
俺は地図を見た。
ネイが引いた線の先は、別の建物で塞がれている。
地図だけなら、そんな道が存在する余地はない。
「出口は二つ?」
「僕が見たのはそう。でも、通りの奥までは全部歩いてないから、ほかにもあるかもしれない」
知っていることと知らないことを、意外なほどはっきり分けて答える。
その点は助かった。
俺はネイの引いた線へ目を落とした。
少なくとも調査する場所は絞れそうだった。
そこへ、もう一人がやってきた。
「その線、何?」
入口に立っていたのはティセラだった。
濃紺の髪を後ろでまとめ、眼鏡の奥から地図を見ている。片腕には古い規則集を抱え、もう片方の手には書き込みだらけの紙束を持っていた。
「青鐘通りです」
俺が答える。
「地図にはないはずでしょう」
「こいつが覚えてるらしくて」
ネイが笑顔で手を上げた。
「ネイです。よろしく」
ティセラは男を一度見た。
「あなたが標識を拾った人?」
「そう」
「昨日、壁の向こうから秤を取り戻した時もいた?」
「いたよ」
「じゃあ目撃者ね。あとで話を聞かせて」
ネイは少し驚いた顔をした。
「帰れって言わないんだ」
「必要な証言を持ってる人を帰してどうするの」
俺も少し驚いた。
本人は特に気にした様子もなく、机へ本を置く。
「それより、さっそく始めましょう。時間をかけていい事件じゃなさそうだから」
俺は報告書をティセラへ渡した。
彼女は目を通すと、すぐに表情を引き締めた。
◇
「法律上なら、道は王都の管理地よ」
ティセラが広げたのは、王都の道路について記された規則集だった。
道を作る時に誰が費用を負担するか、傷んだ石を誰が直すか、店が勝手に道を塞いだらどうするか。
普段なら一生読まなくても困らなそうな内容が、細かな文字で並んでいる。
「王様のものですか?」
リゼが尋ねた。
「王家の私有地ではないわ。王都の役所が管理していて、そこに暮らす人や通行人が利用する場所なの」
「じゃあ王都に返せばいいんですね」
「法律だけで考えれば、そうなるかもしれない」
ティセラは俺を見た。
「でも、あなたの〈返却〉は法律だけで動いてるわけじゃないんでしょう?」
「ああ。盗まれた物は、盗んだ人のところには戻らない。逆に、本人が正当に売った物なら、昔の持ち主にも戻らない」
「だったら、役所が管理しているというだけで帰る場所を決めるのは危険ね」
説明はそれで終わった。
てっきりもっと難しい話をされると思っていたので、少し拍子抜けした。
「今日は、それを調べるんですか?」
リゼが聞く。
「そう。道そのものへ〈返却〉を使う前に、もっと小さなものを使って確かめる」
「小さなもの?」
「青鐘通りの石よ」
ティセラは地図の一か所を指した。
「敷石を一つ動かしてもらう。まず王都へ返すことを試して、次に元の場所へ戻す。それで反応が違うなら、何を帰る場所として扱っているか、少しは判断できるはず」
俺は考えた。
昨日、リゼが向こうにある秤の位置を教えてくれたおかげで、触れられない物へも〈返却〉を通せた。
同じ方法なら、道に敷かれた石にも届くかもしれない。
「でも、石を外してもらうんですよね」
リゼが言う。
「そうね」
「壁の向こうにいる人が怪我したら?」
「だから動かす場所を選ぶ。通行の邪魔にならず、最初から緩んでいる石があれば、それを使う」
ティセラはきっぱり答えた。
「あと、術を使う前に本人へ確認すること。昨日みたいに、よく分からないまま何度も試すのは駄目」
少し耳が痛かった。
俺が黙っていると、ティセラがこちらを見る。
「返事は?」
「分かりました」
「本当に?」
「昨日の腕、まだ痛いので」
「それは襲われた傷でしょう」
「そうですけど、無茶すると痛いっていう教訓にはなってます」
ティセラは呆れた顔をした。
ネイが横で楽しそうに聞いている。
ただ、リゼだけは真面目な顔だった。
「セイン、今日も私が場所を見ます」
「頼む」
「もし変な感じがしたら止めますからね」
「うん。その時はすぐやめる」
リゼは頷いた。
今まで、俺の〈返却〉は俺だけの仕事だった。
けれど今回のように、見えないものを扱う時には、リゼがいなければ対象の位置さえ分からない。
能力が違うだけでなく、考え方も違う。
俺が返すことばかり考えている時、リゼはその先に何が起こるかを気にしてくれる。
それは、今の俺にとってかなり大きかった。
◇
昼前には、再び青鐘通りの石壁の前にいた。
警備隊が周囲を封鎖しているおかげで、昨日のように通行人へ何度も説明する必要はなかった。
リオルは壁から少し離れた場所で部下と話していたが、俺たちを見るとすぐに近づいてきた。
「来たか。ティセラさんも一緒なんですね」
「実験をするから、周囲を空けてほしいの」
「何の実験ですか」
「道の石を一つ動かす」
リオルが俺を見る。
「また〈返却〉か」
「今回は準備してきた」
「お前、そう言って予想外のことするだろ」
「信用ないな」
「昨日のことを考えろ」
反論はしなかった。
実際、昨日の秤は成功したからよかったものの、何が起きるか分からないまま術を使っていた。
「分かった。通行人は離しておく。俺はここで見てるから、危なくなったらすぐ止めろよ」
リオルは近くの隊員へ声をかけ、封鎖線を少し下げさせた。
その間、ティセラは壁の端を確かめ、俺たちが術を試す場所を決めている。
「ミレアさん」
俺は石壁へ向かって呼びかけた。
ほどなくして、聞き慣れた声が返ってきた。
「セインさん? 今日は早いのね」
「おはようございます。中の様子はどうですか」
「変わらないわよ。ガロもちゃんと手伝ってる」
その直後、男の声が割り込んだ。
「聞こえてるぞ」
「ガロさんもいるんですね」
「いるよ。昨日は悪かったな」
少し意外だった。
昨夜、ガロは自分で外へ出ようとして、気づいたら反対側の入口へ戻ってきた。
かなり怖い思いをしたはずだ。
「もう一回試したりしてませんか」
「するわけないだろ」
返事は早かった。
「一回で十分だ」
「それならよかった」
「それより、何か分かったのか」
「今日は少し実験をしたいんです」
俺は敷石の話を説明した。
道の石を一つだけ動かし、〈返却〉で元の場所へ戻せるか試す。
人が使っていない場所を選ぶことと、無理に外さなくていいことも伝えた。
「そんなことで道が戻るのか?」
ガロが尋ねる。
「道そのものは、まだ分かりません。ただ、どう返せるのかを確かめたいんです」
ガロは少し黙った。
「分かった。石なら俺が探す」
「無理に動かさないでください」
「大丈夫だよ。店の裏に、前からぐらついてるのがある」
ミレアが口を挟んだ。
「あんた、あれ直してって何回も言ったでしょう」
「直そうと思ってたよ」
「いつ?」
「……そのうち」
向こうから、小さく何かを叩く音がした。
俺は少し笑ってしまった。
青鐘通りが見えなくなっていても、ガロはミレアに叱られている。
それだけで、向こうの暮らしが本当に続いているのだと分かる。
「ところで、食べ物は大丈夫ですか」
俺が尋ねると、ミレアは少し間を置いた。
「今のところはね。でも、店の仕入れが止まってるから、長引くと困るわ」
「必要なものを確認して、外から届けられるかも調べます」
「ありがとう。急いでほしいけど、無理はしないでね」
その声に、リオルが顔を上げた。
俺たちより、向こう側の人たちの方が落ち着いているようにも思えた。
ただ、慌てずに話しているからといって、不安がないわけではない。
ミレアが明日も店を開けるためには、今日できることを増やさなければならなかった。
◇
ガロが選んだのは、店の裏口近くにある平たい石だった。
人の通り道から少し外れていて、昔から端が浮いていたらしい。
「これでいいか」
壁の向こうから声がした。
「動かせそうですか」
「もう外した」
少し離れたところで、石が地面へ置かれる音がした。
ティセラが確認する。
「元の場所は分かる?」
「分かるよ。そこだけ穴になってる」
「じゃあ、その石を少し離して持っていて。戻すまでは穴の周りに誰も近づかないでね」
「了解」
俺はリゼを見る。
彼女はすでに壁の前へ立ち、じっと空白の奥を見つめていた。
「あります」
しばらくして、そう言った。
「石?」
「はい。今、ガロさんが持ってるところです」
リゼは両手で大きさを示す。
「形まではよく分からないですけど、さっきの秤より場所を追いやすい気がします」
俺にはただの石壁が見えている。
そこへリゼが手を伸ばし、俺の指先を壁の一点へ導いた。
「ここです」
触れると、いつもの冷たい感触しかなかった。
けれど、リゼが示した場所には確かに何かがある。
昨日の秤で、そのことは証明できていた。
「一回目は、王都を帰る場所として考える」
ティセラが言った。
「法律上は王都が管理している石だからね。ただし、動かなかったからといって、それだけで王都のものではないと決めないこと」
「どうしてですか?」
リゼが尋ねる。
「石は今も王都の中にあるでしょう。最初から正しい場所にあるものなら、〈返却〉が働かない可能性もあるから」
その説明には納得できた。
つまり、今日の実験で確かめられるのは、俺の術がどこを帰る場所として認識するか、その一部分だけだ。
「ガロさん、石は持ってますか」
「持ってる」
「では、少しだけ待ってください」
俺は壁へ手を当てたまま、目を閉じた。
対象は、青鐘通りの敷石。
王都の道を作るために置かれた、公共の石。
役所が管理し、住民が使ってきたもの。
その石を、王都へ返す。
「〈返却〉」
術が動いた。
しかし、手の中を流れた力はほんのわずかだった。
行き先へ引かれる感覚が生まれたと思った途端、そのまま静かに消えてしまう。
俺はもう一度、対象と帰る場所を確かめた。
石は王都の管理地の一部だった。
それは記録上、間違いないはずだ。
それでも、術はそれ以上動かなかった。
「……駄目だ」
俺が言うと、ティセラが顔を上げた。
「どんな反応?」
「少しだけ動いた気がした。でも、返す必要がないような感じで止まった」
「拒まれた?」
「それとは違う。帰る場所が間違っている時の感覚でもなかった」
壁の向こうからガロが声をかける。
「石、まだ俺が持ってるぞ」
「分かりました。ありがとうございます」
ティセラは少し考えた。
「今の結果だけでは、石の持ち主が誰かまでは分からないわね」
「でも、王都へ返そうとしても動かなかった」
「ええ。少なくとも、王都という広い指定では石を動かせなかった。それは確認できた」
俺は壁へ手を置いたまま、考えた。
最初に名前をなくしたリゼを見た時も、帰す相手が分からなかった。
エドランの万年筆は持ち主の名前が分かっているのに、そこへ道がつながらなかった。
今度は、道の石だ。
法律上の管理者が分かっていても、それだけでは動かない。
「もう一回やってみる」
俺が言うと、ティセラがすぐに止めた。
「待って。何を変えるの?」
「石の帰る場所」
「具体的には?」
俺は少し考えた。
石は王都の中にある。
けれど、敷石として使われていた場所からは外されている。
ならば、戻すべき先を王都という大きな場所ではなく、石が元々置かれていた場所へ絞ればいい。
「青鐘通りの、あの石がはまっていた場所へ返す」
ティセラは少しだけ目を細めた。
「それなら、最初の実験とは違う結果が出るかもしれないわね」
「やっていいですか」
「リゼ、位置は分かる?」
リゼが頷く。
「石の場所は分かります。あと、ガロさんが外したところも、何となく」
「無理はしないで。変化があったらすぐ止めること」
俺とリゼは一緒に頷いた。
「ガロさん」
俺は壁へ呼びかける。
「石を落とさないように気をつけてください。もし術が働いたら、手から離れると思います」
「分かった。ちゃんと持ってる」
周囲が静かになった。
リオルは少し離れたところで警戒を続けている。ティセラは手元の紙に何かを書き込み、ネイは壁から数歩下がって俺たちを見ていた。
リゼが俺の指先を、さっきとは少し違う位置へ動かす。
「この辺りです」
「ありがとう」
俺は対象を思い浮かべた。
青鐘通りの食堂の裏に、長い間置かれていた石。
雨の日には水が流れ、荷物を運ぶ人間が踏み、子供が駆け抜ける時にもそこにあった。
誰かが今日になって持ち去ろうとしたわけではない。
実験のために、一時的に元の位置から動かされただけだ。
帰るべき先は、石が今まで置かれていた場所。
青鐘通りの、一枚分のくぼみだ。
「〈返却〉」
今度は、はっきりと力が動いた。
指先から何かが遠くへ伸び、その先で正しい場所を掴んだ感覚があった。
「セイン」
リゼの声が少し高くなる。
「動いてます」
その直後、壁の向こうからガロの驚いた声が響いた。
「おい、石が!」
重い物が地面へ当たる音がした。
続けて、ガロが何かを確かめるように歩く音が聞こえる。
「……戻った」
俺は思わず壁へ顔を近づけた。
「どこに?」
「元の場所だよ。さっき外したところに、ぴったり戻ってる」
リゼが目を輝かせた。
「本当に?」
「本当だ。俺はまだ持ってたんだぞ。それが急に手から消えて、元の場所へ戻ったんだ」
ティセラが小さく息を吐いた。
そして、手元の紙へ実験結果を書き込んだ。
「一回目は動かず、二回目は元の位置へ戻った」
俺は壁から手を離した。
少しだけ疲れたが、腕の痛みも増えていない。
今度は、何を返したのかがはっきり分かった。
「石の帰る場所は、王都という名前じゃなくて、元々置かれていた場所だった」
俺が言うと、ティセラが頷いた。
「少なくとも、今回の石についてはね。法的な管理者と、〈返却〉が選ぶ行き先は、必ずしも同じではないということよ」
リゼが壁を見る。
「じゃあ、青鐘通りも同じですか?」
俺は考えた。
青鐘通りにあった石は、青鐘通りへ戻った。
標識も、あの通りの入口へ戻った。
そこにあった物にとって、青鐘通りは確かに帰る場所だった。
けれど、通りそのものは何を帰る場所としているのだろう。
王都という場所なのか。
そこに暮らす人々なのか。
あるいは、もっと別の何かなのか。
俺には、まだ答えが出せなかった。
◇
「ねえ」
壁の向こうから、子供の声がした。
ニコだった。
いつの間にか近くまで来ていたらしい。
「何ですか?」
リゼが答える。
「道って、誰かのものなの?」
予想していなかった質問だった。
ティセラが顔を上げる。
俺も、すぐには返事ができなかった。
「今、それを調べてるところなんです」
リゼが答えると、ニコは少し不思議そうにした。
「何で?」
「青鐘通りを戻す方法を探してるからですよ」
「でも、道でしょ?」
「そうです」
「道って、みんなが歩くじゃん」
俺は壁へ目を向けた。
「そうだな」
「じゃあ、みんなのものじゃないの?」
ティセラが口を開きかけて、やめた。
法律の話なら説明できる。
王都の管理地で、誰もが利用できる場所。
ただ、ニコが聞きたいのはそういうことではないらしかった。
「ニコ」
俺は壁へ話しかけた。
「もし青鐘通りがなくなったら、誰が困ると思う?」
「俺!」
返事は速かった。
「学校に行けないし、友達とも遊べない!」
「学校は通りの外にあるのか」
「そうだよ。昨日から行けてないんだ」
知らなかった。
俺たちは道がどうなったかばかり調べていたが、ニコにとっては学校へ行けないことも同じくらい大きな問題だった。
「ほかには?」
俺が尋ねる。
「ミレアの店。外からお客さんが来なくなったら困るでしょ」
「そうね」
向こうからミレアが答えた。
ニコは続ける。
「ガロも、仕入れに行けないし。隣のおばあちゃんは毎朝散歩してるし、向かいの家のおじさんは、いつも外の工房へ仕事に行くんだよ」
次々と名前や仕事が出てくる。
俺たちにとっては初めて聞く人ばかりだった。
けれどニコは、その人たちが普段何をしているのかを知っている。
どの家に誰が住み、誰がいつ帰ってきて、どこへ出かけるのか。
そんなことを覚えている。
「みんな困るよ」
ニコが言った。
「道がなくなったら」
俺は何も言えなかった。
王都の地図では、青鐘通りは最初から存在しないことになっている。
でも、そこには人がいる。
その人たちの生活は、通りの中だけでは終わらない。
学校へ行き、働きに出て、買い物をして、別の場所に住む人間へ会いに行く。
青鐘通りは、そうやって王都のほかの場所とつながっていた。
「所有と帰属は、やっぱり別なのね」
ティセラが小さく言った。
リゼが振り返る。
「どういう意味です?」
「王都が管理している道でも、その道が何につながっているかは別の話ってこと」
ティセラは地図を開き、ネイが引いた線を指した。
「例えば青鐘通りがなくなれば、住民は外へ出られないし、外の人間も店へ来られない。学校や仕事場へ向かう道もなくなる」
「はい」
「だから、単に石や標識を元へ戻すだけでは、住民が外へ出られるようにはならない。通りと周囲の場所を結んでいたものを調べる必要があるわ」
俺は頷いた。
その説明なら分かる。
青鐘通りの石を戻せても、青鐘通りそのものが王都と切り離されたままなら、人々は外へ出られない。
俺たちが返すべきものは、通りという土地そのものではないのかもしれない。
元々つながっていた場所との結びつき。
それを失ったのだとしたら、そこへ〈返却〉を使う方法を考えなければならない。
「じゃあ、次に調べるものが決まりましたね」
リゼが言った。
「何を?」
「青鐘通りが、どこへ続いていたのかです」
俺は地図を見る。
ネイが描いた二本の線。
通りの入口と、奥にあるらしい小さな広場。
そこから王都のほかの道へつながる場所があるはずだった。
「古い地図を探そう」
俺が言うと、ティセラが頷いた。
「建物が建て替わる前の記録も必要ね。今の地図にはない道でも、昔の資料なら何か残っているかもしれない」
「リオルには、周囲の土地の記録を調べてもらうか」
「必要なら、警備隊から正式に照会できると思う」
リオルもすぐに答えた。
今まで全員で同じ壁を見つめていたのが、ようやく別々の仕事へ分かれていく。
それぞれができることを持っている。
俺一人では、道を探すことも、向こうにいる人々を守ることもできない。
けれど、役割を分ければ少しずつ進める。
「ニコ」
リゼが壁へ呼びかけた。
「何?」
「教えてくれてありがとう」
「何が?」
「道がなくなると、誰が困るかです」
少し間があった。
「そんなの、見れば分かるじゃん」
ニコの返事は、あっさりしていた。
俺は思わず笑った。
確かにそうだった。
難しく考えすぎていたのかもしれない。
道が誰のものかを調べるより、そこを必要としている人間が誰なのかを知る方が、今は大事だった。
◇
実験が終わったあと、ティセラは記録を整理し、リオルは周辺の警備について部下と相談を始めた。
ミレアには、古い地図を調べる間も外へ出ようとしないことと、必要な物があれば教えてほしいと伝えた。
彼女は少し考えてから答えた。
「じゃあ、薬をお願いできるかしら」
「薬?」
「店の近くに、足の悪いおばあちゃんがいるの。毎日飲んでる薬があって、昨日で残りが少なくなったって」
俺はリオルを見る。
食料のことばかり考えていたが、薬の方が先に必要になる人間もいる。
「種類を確認してもらえますか」
「ええ。あとで聞いておくわ」
「外から渡す方法も探します」
そう答えると、ミレアは少し安心したようだった。
「ありがとう。無理しないでね」
その声を聞きながら、俺はさっきの実験を思い出した。
石は戻せた。
秤も戻せた。
ただ、今すぐ必要な薬を外から送り込めるかどうかは分からない。
〈返却〉は好きな物を好きな場所へ運ぶ術ではないからだ。
誰かの持ち物を勝手に移すことはできないし、まだ帰る場所が決まっていない物を都合よく届けることもできない。
それでも、できることはあるはずだった。
俺がその方法を考えていると、リゼが不意に黙った。
「どうした?」
さっきまでミレアと話していたのに、今は別の方向を見ている。
青鐘通りの壁ではない。
道を挟んだ向かい側だ。
「セイン」
声が少し硬かった。
「何か見つけた?」
リゼは返事をせず、二階の窓が並んだ建物を見つめた。
三階建ての古い建物だった。
一階には小さな店があり、その上には住居らしい窓がいくつも並んでいる。
俺には何もおかしく見えない。
「リゼ?」
もう一度呼ぶと、彼女はゆっくり振り返った。
「……増えました」
「何が?」
「空白です」
俺は反射的に青鐘通りの壁を見る。
昨日から、リゼにはあの周囲で空白の範囲が少しずつ広がっているように見えていた。
今回も同じことだと思った。
「また壁が広がった?」
「違います」
リゼは首を振った。
「壁じゃないです。あっち」
指先が、向かいの建物へ向く。
リオルとティセラも気づき、こちらへ来た。
「何かあった?」
リオルが尋ねる。
「新しい空白です」
リゼは建物の二階を指した。
「昨日、ここへ来た時にはありませんでした。さっきまでも、私は気づかなかった」
「どの辺り?」
「窓の間です」
俺は目を凝らした。
二階には窓が四つ並んでいる。
古い建物だから配置が少し不規則に見えるものの、特別おかしなところはない。
けれど、リゼには何かがなくなった跡として見えているらしい。
「壁の空白とは違う?」
ティセラが尋ねた。
「はい。青鐘通りの方は、向こうへ続く場所が見えなくなってる感じです。でも、これは」
リゼが言葉を探す。
「何かがあったのに、そこだけなくなったような感じです」
俺はもう一度、二階の窓を見る。
石壁。
古い窓枠。
少し剥げた塗装。
どこにでもある集合住宅だった。
リゼが指しているのは、その中央付近。
窓と窓の間にある、少し幅の広い壁だった。
「セイン」
リゼが俺の袖をつかむ。
「これ、青鐘通りとは別のところですよね」
「ああ」
「だったら、どうして」
続きの言葉は出てこなかった。
俺も、すぐに答えられなかった。
青鐘通りは王都から切り離されている。
そこに暮らす人々は外へ出られず、外の人間も通りの存在を覚えていない。
だから俺たちは、道と王都のつながりを調べている。
けれど今、リゼが見つけた空白は、その道の外側にあった。
昨日まで普通に存在していた王都の建物で、何かがなくなったことになっている。
「リゼ」
俺は尋ねた。
「本当に、昨日はなかった?」
彼女は迷わず頷いた。
「はい。昨日はなかったです」
俺は向かいの建物を見上げた。
青鐘通りの中では、今日もミレアが店を開け、ニコが学校へ行きたいと文句を言っている。
その生活を取り戻すために、俺たちは道のつながりを探し始めたばかりだった。
けれど、問題は青鐘通りの中だけで終わらないのかもしれない。
俺たちが調べている間にも、王都の別の場所で何かが失われている。
しかも、それに気づいているのは今のところリゼだけだった。
「リオル」
俺は向かいの建物を指した。
「あそこ、調べよう」
リオルも建物を見上げた。
「何を?」
「まだ分からない。でも、昨日まであったものがなくなってるなら、確かめないわけにはいかないだろ」
リゼが小さく頷いた。
彼女はもう一度、二階の窓の間へ視線を戻す。
俺には何も見えなかった。
それでも、リゼがそこに何かの欠落を感じているなら、その理由を探すことはできる。
ただの壁にしか見えない場所に、一体何があったのか。
俺たちは青鐘通りの石壁から離れ、向かいの建物へ歩き始めた。




