第十三話 窓がひとつ足りない
「昨日は、ここに何かがあったんです」
リゼが指しているのは、青鐘通りの向かいに建つ三階建ての集合住宅だった。
二階には四つの窓が並んでいる。どれも同じような古い木枠で、ガラスの端には小さなひびが入り、外壁の塗装もところどころ剥がれていた。
ただ、真ん中の二つの窓の間だけ、不自然に壁が広い。
窓を一つ増やしても、まだ少し余裕がありそうだった。
「建てた時からこういう造りだった可能性は?」
リオルが尋ねる。
「あると思う」
俺が答えると、リゼは首を振った。
「でも、昨日はここに空白がなかったんです」
リゼが感じ取る空白は、単に物が置かれていない場所とは違うらしい。
そこに何かが存在していたという事実を失った場所が、彼女には分かるらしい。
普通の壁なら、何も感じない。
今彼女が見つめている場所には、その違和感がある。
「窓が一つなくなったのかな」
ネイが言った。
「窓だけなら、こんなに大きな空白にはならないと思います」
リゼが答える。
「じゃあ、部屋ごと?」
「……それを確かめたいんです」
ティセラは建物の正面から少し離れ、窓の配置を見比べていた。
いつものように何かを説明し始めるかと思ったが、今日は違った。
「中を見ましょう。外から考えていても、間取りまでは分からないわ」
俺も賛成だった。
何より、昨日まで普通だった建物で異変が起きているなら、青鐘通りの調査だけを続けるわけにはいかない。
「リオル、入れる?」
「管理人に事情を話してみる」
リオルは建物の入口へ向かった。
俺とリゼ、ティセラが続き、ネイも当然のようについてくる。
「ネイは外で待っててもいいんだぞ」
俺が言うと、彼は少し不思議そうにした。
「どうして?」
「別に管理局の職員でも警備隊でもないから」
「それを言ったら、僕が見つけなかったら青鐘通りも調べてなかったでしょう?」
「それはそうだけど」
「じゃあ、まだ用事があるよ」
楽しそうに答える。
言い返す言葉を探しているうちに、リオルが建物の扉を開けた。
「入るぞ。余計なことはするなよ」
「うん」
ネイの返事は素直だった。
リオルの顔を見る限り、信用はされていない。
◇
建物の名前は、白樫館といった。
一階には小さな雑貨屋があり、その奥が管理人室になっている。
管理人室には帳簿を広げた机と、住民から預かったらしい荷物がいくつか置かれていた。壁には部屋番号ごとの鍵を掛ける板があり、出入口の近くには掃除用具がきちんと並べられている。
その部屋の主人らしい女性は、俺たちが入った瞬間、眉を寄せた。
「何ですか、こんな大勢で」
六十代くらいだろうか。
灰色の髪をきっちりまとめ、袖をまくった姿には隙がない。こちらの身分札よりも先に、五人分の靴についた泥を見ていた。
「王都警備隊のリオルです。こちらの建物について、少し確認したいことがあります」
リオルが身分札を示す。
女性はすぐに表情を改めたが、警戒を解いたわけではなさそうだった。
「何か問題でも?」
「今のところ、事件かどうかも分かっていません。まず、お名前を伺えますか」
「マルタです。ここを二十年以上管理しています」
「ではマルタさん。二階には、部屋がいくつありますか」
「四部屋ですよ」
答えは速かった。
リオルが手帳を開く。
「部屋番号を教えてください」
「二〇一、二〇二、二〇四、二〇五です」
俺たちは顔を見合わせた。
マルタはその反応を見逃さなかったらしい。
「何か?」
「二〇三号室は?」
リオルが尋ねる。
「ありませんよ」
「昔からですか」
「ええ。私がここを預かってから、ずっとその番号です」
そう言い切ってから、マルタは少し考えた。
「でも、確かに変な番号ですね」
「今まで気になりませんでした?」
「言われてみればそうですけど、古い建物にはこういうこともありますから」
マルタは帳簿を引き寄せた。
紙をめくる指先は慣れたもので、探している頁へすぐ辿り着く。
「ほら、二〇一、二〇二、二〇四、二〇五。全部埋まっています。退去した部屋もありません」
リオルが帳簿を確認する。
俺も横から覗いた。
番号は確かに四つしかない。
しかも、その前後の頁を見ても、二〇三号室があった痕跡は見つからなかった。
「二階を見せていただけますか」
「何を調べるんです?」
「窓の配置に、少し気になることがありまして」
マルタは窓を見た。
俺たちが気にしている場所へ視線を移してから、しばらく考えた。
「建物が古いことは分かっています。でも、危険なところはちゃんと修理していますよ」
「建物の管理に問題があると言っているわけではありません」
リオルが柔らかく答える。
「それを確かめさせてください」
マルタは少し不満そうだったが、結局立ち上がった。
「分かりました。ただし、住民のお部屋を勝手に開けるのは困ります」
「もちろんです」
「それから、階段の右側は踏まないでください。板が一枚緩んでいます」
「修理は?」
ネイが尋ねる。
「明日、大工が来ます」
「よかった。僕、壊しそうだったから」
「それならなおさら左側を歩いてください」
マルタは即座に言い返した。
ネイが楽しそうに笑う。
俺はこの二人を一緒にしてはいけない気がした。
◇
二階の廊下は、昼間でも少し暗かった。
外に面した窓から光は入るものの、両側に古い木の扉が並んでいるせいで、奥の方には影が溜まっている。
マルタの持つ鍵束が、歩くたびに小さく鳴った。
「二〇一です。隣が二〇二」
順番に扉を指す。
二〇一号室。
二〇二号室。
その先に、少し長い壁があった。
壁には古い漆喰が塗られ、ところどころ小さな傷がついている。
誰かが家具を運ぶ時にぶつけたのだろう。
その壁の先が、二〇四号室だった。
「……ここです」
リゼが足を止めた。
俺も隣へ立つ。
廊下の長さに対して、扉が一つ足りない。
そう言われてから見れば、確かに不自然だった。
「ここに部屋があった?」
俺が尋ねると、リゼはゆっくり頷いた。
「扉だけじゃないです。向こうの窓まで、空白が続いてます」
ティセラが壁の幅を確かめた。
足を使って大まかな距離を測り、反対側の部屋の位置とも比べている。
「部屋一つ分はあるわね」
「壁の裏に空間があるんですか?」
リオルが尋ねる。
「それなら壁を叩けば分かるかもしれない。でも、今は勝手に壊さない方がいい」
ティセラは壁へ耳を近づけ、指の関節で軽く叩いた。
乾いた音が返ってくる。
見た目も、手触りも、普通の壁だった。
「何を探しているんですか」
マルタが尋ねた。
「昨日はこの場所に、扉が一つあった可能性があります」
リオルが答える。
マルタは眉を寄せた。
「何を言ってるんです?」
「信じられないと思います。ただ、そう考える理由があるんです」
「昨日も私はここを掃除しましたけど、何もありませんでしたよ」
マルタは壁を見た。
「この辺りは物を置きやすいから、住民に何度も注意してるんです。通路は空けておかないと危ないでしょう」
管理人としては当然の話だった。
リゼは何か言いかけたが、そこで口を閉じた。
目の前の女性に、あなたの記憶は間違っていると伝えたところで、納得してもらえるとは思えない。
しかも本人は本当に、この壁を二十年以上見てきたつもりでいる。
何かを忘れさせられているのだとしたら、マルタ自身も被害者だった。
「マルタさん」
俺は尋ねた。
「二階の住民について、家賃の記録を確認してもらえますか」
「さっき帳簿を見せたでしょう」
「はい。でも、別の帳簿があれば」
マルタは少し考えた。
「領収書の控えならあります」
「見せてください」
「どうしてそこまで?」
声に苛立ちが混じる。
俺はリオルを見る。
代わりに説明してもらおうと思ったわけではない。
ただ、警備隊としてどう話すべきかを確かめたかった。
リオルは小さく頷いた。
「近くで、住民の記録に関わる異常が起きています。白樫館にも影響がないか、確認したいんです」
「異常?」
「まだ詳しいことは分かっていません。ですが、記録を残しておく必要があります」
マルタは少し黙った。
それから、面倒そうに息を吐く。
「だったら最初からそう言ってくださいよ。私は帳簿を付けるのが仕事なんですから」
そう言って、先に階段へ向かった。
自分の管理している建物の記録が信用できないと言われることに、腹を立てているのだと思う。
けれど、それ以上に。
何かが本当におかしいのなら、確かめずにはいられない人にも見えた。
◇
管理人室へ戻ったマルタは、家賃の控えを並べ始めた。
その仕事ぶりは見事だった。
誰が何日に支払い、いくら残っていて、修理費を誰が負担したのかまで、ほとんど迷わず答えられる。
ティセラが感心したように言った。
「よく整理されていますね」
「当然です。住民のお金を預かっているんですから」
マルタの返事には誇りがあった。
俺はその言葉を聞きながら、机の上の帳簿を見る。
二〇三号室だけがない。
前後の番号は揃っているのに、その部屋が最初から存在しなかったようになっている。
それでも、別の記録なら何か残っているかもしれない。
「これも、ないわね」
マルタが領収書の控えをめくった。
「二〇三という番号は、一度も使っていません」
リオルが内容を確かめる。
確かに二〇二の次は二〇四だった。
「ありがとうございます」
「これで終わりですか?」
マルタが尋ねた。
その時、机の端に置かれた小さな木箱が目に入った。
『拾得物』
蓋にはそう書かれている。
俺は何となく親近感を覚えた。
「この箱は?」
「建物の中で拾った物ですよ。住民が落とした鍵や手袋を入れておくんです」
マルタが蓋を開けた。
中には古い手袋が片方と、壊れた留め具、それから小さな鍵が一つ入っている。
「この鍵は?」
「ああ、それね」
マルタが取り出す。
「今朝、階段の下で拾ったんです。誰のものか分からなくて」
鍵には木製の札がついていた。
紐は途中で切れている。
俺はその札を見た。
『203』
数字が三つ、はっきり残っていた。
「……二〇三」
リゼが呟く。
マルタも札を覗き込んだ。
「あら、本当ね」
「見つけた時は気づかなかったんですか」
リオルが聞く。
「木札が裏返っていたから、よく見ていませんでした。どうせ住民の誰かが落としたんだろうと思って」
マルタは鍵を持ち直した。
「でも、うちにそんな部屋はありませんね」
その言い方には、さすがに少し困惑が混じっていた。
鍵が残っている。
部屋番号も残っている。
それなのに、対応する部屋は建物にも帳簿にもない。
リゼが俺を見る。
「セイン」
「ああ」
俺も同じことを考えていた。
この鍵が誰のものか分かれば、何か確かめられるかもしれない。
「少しお借りできますか」
マルタは迷ったあと、鍵を俺へ渡した。
「なくさないでくださいね」
「それは仕事柄、気をつけます」
「遺失物管理局の方なんでしょう? 頼みますよ」
言われなくても分かっている。
ただ、昨日まで自分の部屋があったかもしれない場所を見たあとでは、その当たり前の注意が少し重く聞こえた。
◇
青鐘通りの石壁へ戻ると、リオルの部下が俺たちを待っていた。
「ミレアさんから、何度か呼びかけがありました」
「何かあった?」
リオルが尋ねる。
「薬の件だそうです。通りの中の方が必要としているもので、今夜の分はあるけれど、その先が心配だと」
俺は頷いた。
昨夜から気になっていた問題だ。
食料はまだしばらく持つとしても、毎日薬を飲んでいる人には、もっと早く困る時が来る。
「薬の名前は確認できた?」
「はい。こちらに」
隊員が紙を差し出す。
リオルは目を通し、すぐに別の隊員へ渡した。
「薬屋へ行って、同じものが手に入るか調べてくれ。通りの中へ届ける方法は、こちらで考える」
指示を受けた隊員が走り出す。
俺は少し安心した。
原因を調べることも大事だが、向こうの人たちには今日必要なものがある。
リオルはそのことを忘れていない。
「セインさん?」
壁の向こうからミレアの声がした。
「います」
「ガロが話したいことがあるって」
「ガロさんが?」
すぐに聞き慣れた男の声がした。
「おい、セイン。ちょっといいか」
「どうしました?」
「何か、変な感じがするんだよ」
声にいつもの勢いがなかった。
昨日は外へ出ようとして、気づけば反対側の入口へ戻ってきた。
そのせいで今も不安が残っているのかもしれない。
「体調が悪いんですか」
「そうじゃない」
ガロは少し考えた。
「部屋のことなんだ」
俺は手に持っていた鍵を見る。
リゼも顔を上げた。
「どこの部屋ですか」
「俺が住んでる部屋だよ。何となく、そこが変な気がして」
リオルが俺へ視線を向けた。
俺は壁へ一歩近づく。
「ガロさん。住んでいる建物の名前を教えてください」
「白樫館」
間違いない。
ティセラが少し身を乗り出した。
「何階?」
「二階」
「部屋番号は?」
「二〇三」
全員が黙った。
ガロが不思議そうに聞き返す。
「何だよ。俺の部屋がどうかしたのか」
俺はすぐには答えられなかった。
白樫館の二階には、二〇三号室がない。
管理人のマルタは、その番号の部屋が最初からなかったと言った。
それなのに、ガロはそこへ住んでいると言う。
「どのくらい住んでいますか」
リオルが尋ねた。
「四年くらいだな。青鐘亭へ働きに来るようになってから、しばらくして引っ越したんだ」
「管理人さんの名前は?」
「マルタさん。家賃が一日遅れただけで朝から扉を叩いてくる」
マルタの顔が頭に浮かんだ。
あの女性なら、確かにやりそうだった。
「部屋の中には何があります?」
今度はリゼが聞いた。
「何で取り調べみたいになってんだよ」
「大事なんです」
その声がいつもより真剣だったので、ガロも文句を言うのをやめた。
「ベッドと机。仕事着を掛ける棚もある。あと、小さな食器棚」
「ほかには?」
「赤いカップ」
「赤い?」
「妹にもらったんだよ。去年の誕生日に」
少しだけ照れた声だった。
「似合わないって笑うなよ」
「まだ笑ってません」
リゼが答える。
「まだ?」
「ちょっとかわいいなと思っただけです」
「ほら笑ってるだろ!」
声が少し大きくなる。
俺は思わず笑いそうになったが、今はそれを抑えた。
ガロは自分の部屋を細かく覚えている。
管理人の名前も、置いてある家具も、妹からもらったカップのことも。
けれど、その部屋は王都の記録から消えていた。
「ガロさん」
俺は静かに呼びかけた。
「今から話すことは、少し信じにくいと思います」
「何だよ」
「白樫館の二階を確認しました。でも、二〇三号室がありませんでした」
壁の向こうが静かになった。
「……は?」
「二〇二の次が、二〇四になってるんです。管理人さんの帳簿にも、二〇三は記録されていません」
「何言ってんだよ」
ガロの声が低くなる。
「俺、昨日までそこにいたぞ」
「分かってます」
「服もあるし、家賃だって払ってる。あの部屋で四年暮らしてるんだ」
「話は聞いてます」
「聞いてるだけじゃ分からねえだろ!」
ガロが壁を叩いた。
こちら側では、鈍い音だけが響く。
「部屋がないって何だよ。俺がそこに住んでたことまで、なくなったって言うのか」
答えに迷った。
その可能性は、ある。
でも、そこまで決めつけていいのか分からない。
「ガロさん」
リゼが一歩前へ出た。
「私たちは、あなたがそこに住んでたって聞きました」
「……だから何だよ」
「だから、今はちゃんと覚えてます」
ガロは何も言わなかった。
リゼが続ける。
「部屋に机があることも、赤いカップがあることも、管理人さんが家賃に厳しいことも」
「最後のは忘れていい」
少しだけ、向こうから笑う声がした。
リゼも笑った。
「でも、本人が覚えてるのに、周りが知らないって言うのは怖いですよね」
その言葉に、ガロは返事をしなかった。
リゼは首元の赤い封蝋へ触れず、ただ壁を見つめていた。
「私もそうだったので、少し分かります」
今までなら、名前をなくしたことを冗談にすることもあった。
でも今は違った。
自分のことを説明するためではなく、目の前の相手に話している。
「怖くても、今すぐ全部なくなるわけじゃないと思います。だから、一緒に確かめましょう」
ガロは長い間黙っていた。
やがて、小さな返事が聞こえた。
「……分かった」
俺は手の中の鍵を見た。
「ガロさん。もう一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「部屋の鍵は、今持っていますか」
向こうで衣服を探る音がした。
しばらくして、ガロが答える。
「……ないな」
「いつもどこに?」
「上着の内側。木の札を付けてる」
「何て書いてあります?」
「二〇三」
俺は鍵を持ち上げた。
「この鍵かもしれません」
「何でそっちにあるんだよ」
「白樫館の階段で、今朝拾われたそうです」
「今朝?」
「紐が切れていました。いつなくしたか覚えていますか」
ガロは少し考えた。
「昨日、仕事へ行く時は持ってたと思う。でも、いつ落としたかまでは覚えてない」
俺はリオルへ視線を向けた。
「返してみる」
「〈返却〉で?」
「ああ。持ち主がガロさんなら、向こうへ届くはずだ」
リオルはすぐに頷かなかった。
「部屋が消えてるんだぞ」
「部屋じゃなくて、鍵を本人へ返すだけだよ」
それなら、〈返却〉の範囲に収まる。
鍵が今どこの部屋を開けるかは分からない。
それでも、持ち主がガロなら戻せるはずだ。
「ガロさん」
俺は壁へ向かって言った。
「今から鍵を返します。急に現れるかもしれないので、驚かないでください」
「もう十分驚いてるよ」
「それもそうですね」
少しだけ笑ってから、鍵を握り直した。
真鍮の小さな鍵。
木の札には二〇三と書かれている。
持ち主は、青鐘通りの中にいるガロ・ローデン。
誰かが拾って管理人室へ預けただけなら、所有者は変わっていない。
「〈返却〉」
力が動いた。
今度は迷わなかった。
鍵は俺の手から消え、壁の向こうへ吸い込まれるように帰っていく。
「うわっ!」
ガロの声がした。
「来ました?」
リゼが尋ねる。
「来た! 何だよこれ、本当に俺の鍵だ!」
その声には、驚きと一緒に明らかな安心が混じっていた。
「木の札もある。紐も切れてる。間違いない」
「よかった」
リゼが笑った。
俺も少しだけ安心した。
鍵は、ちゃんと持ち主を見つけられた。
白樫館の二〇三号室が今どうなっているのかまでは分からない。
けれど少なくとも、ガロ・ローデンという人間は、〈返却〉にとって今も存在している。
俺はそのことを伝えた。
「ガロさん。部屋そのものを戻せたわけじゃありません。でも、あなたの鍵は本人のところへ帰りました」
「……ああ」
「だから、まだ確かめられることはあります」
少し間があった。
「頼むよ」
ガロが言った。
さっきまでの怒鳴り声とは違った。
誰かへ頼ることを、ようやく受け入れた人間の声だった。
◇
リオルが動いたのは、その直後だった。
「セイン。ガロの家族について聞いてくれ」
「家族?」
「部屋だけ消えたなら、まだ建物の問題かもしれない。でも、ほかまで影響が出てるなら話が変わる」
俺も頷いた。
何かが失われ始めているのなら、早く確認する必要がある。
「ガロさん。ご家族は王都にいますか」
「ああ。妹が北一区にいる」
「お名前は?」
「エマ。エマ・ローデン」
ガロの声が少し明るくなった。
「花屋で働いてる。俺よりしっかりしてるから、会えばすぐ分かるよ」
「場所は?」
「北一区の古い鐘楼の近く。緑の屋根の花屋だ」
リオルが手帳へ書き込む。
「俺が確認してくる」
「一人で?」
俺が尋ねると、リオルは頷いた。
「部下はこっちの警備に必要だ。お前は壁の前に残って、ガロやミレアから話を聞いていてくれ」
「分かった」
「それと、薬の件も俺の部下へ確認しておく。手に入っても、まだ渡せると決まったわけじゃないからな」
最後の言葉には、少し悔しさが混じっていた。
薬が用意できたとしても、青鐘通りの中へ自由に届けることはできない。
そこは、まだ何も解決していなかった。
リオルは俺の肩を軽く叩いた。
「ガロのこと、頼む」
「ああ」
そのまま走り出す。
警備隊の仕事として必要な確認ではあるが、誰かの家族へ「あなたに兄はいますか」と聞きに行くのは、決して気楽な仕事ではない。
リオルもそれは分かっているはずだった。
◇
リオルが戻るまで、俺たちは壁の前に残った。
ティセラは白樫館で確認した部屋の配置を紙へ描き、リゼは新しい空白の広がり方を確かめている。
ネイは少し離れた場所で、壁と向かいの建物を交互に見ていた。
最初に青鐘通りの標識を持ってきた時から、何かが起きるたびに楽しそうにしていた男だ。
けれど今は、あまり笑わない。
「ネイ」
俺が呼ぶと、すぐに振り返った。
「何?」
「ガロの部屋がなくなったこと、どう思う?」
「嫌なことだと思うよ」
「そういう感想じゃなくて」
「分かってる」
ネイは小さく笑った。
「でも、まだ分からないことを知ってるふりはしたくないから」
意外な答えだった。
今までのネイなら、思わせぶりな言葉を一つ残して、こちらを困らせていた気がする。
「何か心当たりは?」
俺が聞くと、ネイは答える前に少しだけ考えた。
「……似た話を聞いたことはある」
「どこで?」
「ずっと前に」
「どのくらい前?」
そこまでは答えなかった。
俺も追及しかけたが、その時、壁の向こうからガロに呼ばれた。
「セイン」
「何です?」
「妹に会いに行ったんだろ」
「リオルが向かってます」
「そうか」
少し間が空く。
「俺、あいつに嫌われてるんだよ」
思っていなかった言葉だった。
「そうなんですか」
「最近、何かあるたびに説教してくるんだ。ちゃんとした仕事しろとか、家を片づけろとか、いつまで独りでいるんだとか」
俺はリゼを見る。
彼女は少し笑いかけたが、何も言わなかった。
「仲は悪いんですか」
「いや」
返事は早かった。
「悪くはない。むしろ昔から仲いい方だと思う。でも、あいつは何でもきちんとしてるから、俺みたいなのが気になるんだろうな」
ガロが小さく笑った。
「赤いカップも、あいつがくれたんだよ」
「去年の誕生日に?」
「そう。俺がいつまで経っても茶を安い金属杯で飲んでるから、少しはまともなものを使えって」
リゼが声を上げた。
「いい妹さんじゃないですか」
「まあな」
その返事には、さっきまでの照れ隠しがなかった。
「俺、あいつのことは忘れたくないんだよ」
リゼの笑顔が消えた。
「……はい」
「だから、もし部屋のことがおかしくなってても、妹だけはちゃんと覚えててほしい」
俺は何と答えるべきか分からなかった。
ガロはまだ、自分の妹がどうなっているのか知らない。
リオルも今、それを確かめに行っている。
ただ、ここで「きっと覚えている」と言うことはできなかった。
「ガロさん」
リゼが静かに言った。
「私、赤いカップのことを覚えておきます」
「何だよ、急に」
「妹さんからもらった、大事なものなんでしょう?」
「……まあな」
「だから、覚えておきます」
向こうが少し静かになった。
「別に、そんなことしなくても」
「私がそうしたいんです」
リゼの声は変わらなかった。
最初に管理局へ来た時、彼女は誰にも覚えられていないことを怖がっていた。
今は、別の誰かが同じように怖がっている。
だから、せめて自分が覚えていようとしているのだと思った。
「……ありがとな」
ガロが言った。
「でも、カップの話をほかの奴にはするなよ」
「努力します」
「それは絶対する気ないだろ」
リゼが笑った。
俺も少しだけ笑った。
壁の向こうから、いつものガロの声が聞こえる。
まだ話せる。
まだ覚えている。
そのことが、今は何より大事に思えた。
◇
リオルが戻ってきたのは、それから一時間ほどあとだった。
遠くから歩いてくる姿が見えた時、俺はすぐに結果を聞こうとした。
でも、リオルの顔を見て言葉を止めた。
いつもなら、どれだけ疲れていても軽口くらいは返してくる。
今は違った。
「……リオル」
俺が呼ぶと、彼は一度だけ頷いた。
「花屋はあった」
「エマさんは?」
「いたよ」
リゼが小さく息を吐いた。
俺も少し安心しかけた。
「ただ」
リオルはそこで言葉を切った。
壁の向こうにガロがいることを確かめてから、もう一度俺を見る。
「話を聞いた方がいい」
「本人に?」
「ああ」
俺は壁へ向かった。
「ガロさん」
「おう。どうだった?」
声が明るい。
「エマに会えたか?」
リオルが前へ出た。
「会えた」
「そうか。元気だったか?」
「元気そうだったよ」
ガロが笑った。
「だろうな。あいつ、丈夫だから」
リオルはその言葉を聞き、少しだけ目を伏せた。
「ガロ」
「何だ」
「エマさんは、自分に兄がいることを覚えていなかった」
向こうが静かになった。
「……何?」
「一人っ子だと言っていた。お前の名前を出しても、知らないって」
「何言ってんだよ」
ガロの声が震えた。
「俺の妹だぞ」
「分かってる」
「子供の頃から一緒に暮らしてきたんだ。あいつが小さい頃、熱を出した時だって俺が」
そこで言葉が途切れた。
息を吸い直す音がする。
「……嘘だろ」
リオルは何も言わなかった。
俺も、すぐには声をかけられなかった。
妹が自分を忘れた。
言葉にすればそれだけだ。
でもガロにとっては、二十年以上続いてきた関係が、自分だけの記憶になってしまったということだった。
「赤いカップは?」
ガロが尋ねた。
リオルが顔を上げる。
「何?」
「エマがくれたカップだよ。あいつ、覚えてないのか」
リオルは少し迷った。
「……カップのことまでは聞いてない」
「じゃあ、まだ分からないだろ」
「ああ」
「だったら、今度はそれを聞いてくれよ。赤いカップを買ったこととか、俺に渡したこととか、覚えてるかもしれないだろ」
ガロは必死だった。
俺たちにも、それが分かった。
「ガロ」
リオルが静かに言った。
「明日、もう一度確かめることはできる。でも、今のエマさんには、お前という兄がいた記憶がない。それは確かなんだ」
向こうで何かが倒れる音がした。
「ガロ!」
ミレアの声が響く。
俺たちは反射的に壁へ近づいた。
「大丈夫ですか!」
返事がない。
しばらくして、ミレアが答えた。
「大丈夫。座り込んだだけよ」
俺は少し安心した。
でも、ガロの声は戻ってこなかった。
リゼが石壁へ手を当てた。
「ガロさん」
返事はない。
「私たちは覚えてますよ」
その言葉にも、すぐには反応がなかった。
リゼは少し考えてから、続けた。
「あなたが青鐘亭で働いてることも、白樫館に住んでたことも、妹さんが赤いカップをくれたことも」
俺はその横顔を見る。
「私たちは、あなたのことをまだ何も知りません。でも、今聞いたことは覚えています」
向こうで、小さく息を吸う音がした。
「……それだけじゃ足りないだろ」
ガロが言った。
「俺は妹に覚えててほしいんだよ」
リゼはすぐに答えなかった。
そして、小さく頷いた。
「……そうですよね」
無理に励まそうとはしなかった。
俺はそれが正しいと思った。
俺たちが覚えていることと、妹が覚えていることは同じではない。
誰かが失われた記憶の代わりになれるわけではない。
それでも、今ここにガロがいると確かめることはできる。
リゼは壁へ手を当てたまま、もう一度言った。
「でも、私たちはあなたを忘れないようにします」
ガロはしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ声が戻った。
「……頼むよ」
その返事を聞いて、俺は自分の手元にある記録用紙を見た。
白樫館。
二〇三号室。
ガロ・ローデン。
妹、エマ。
赤いカップ。
今、俺たちが知っていることを全部書いておく必要があると思った。
それが何を防げるのかは分からない。
ただ、覚えていると言うだけでなく、確かめられる形に残しておきたかった。
◇
「部屋だけじゃなかったわね」
ティセラが言った。
ガロとミレアが食堂へ戻ったあと、俺たちは白樫館の方を見ていた。
二〇三号室がない。
管理人はガロを覚えていない。
そして、離れた場所にいる妹まで、兄がいたことを忘れている。
もしこれらが同じ異変によるものなら、青鐘通りの中にいる人間と、外の世界とのつながりが失われ始めていることになる。
「昨日、ガロさんが外へ出ようとしたからでしょうか」
リゼが尋ねた。
「可能性は否定できないけど、それだけでは分からないわ」
ティセラは答えた。
「ほかの住民にも同じことが起きているかもしれないし、時間が経つにつれて広がっているのかもしれない。まずそこを調べる必要がある」
俺も同じことを考えていた。
ガロだけが特別なのか。
それとも、青鐘通りの中にいる全員に起き始めているのか。
後者だとしたら、確かめる相手は百人近くいる。
俺はまだ空白に見える白樫館の壁を見た。
「リゼ。二〇三号室の空白は、さっきより変わってる?」
彼女はしばらく目を凝らした。
それから、少しだけ表情を曇らせた。
「広がってます」
「どのくらい?」
「少しです。でも、昨日最初に見た時より、外側まで伸びてます」
俺には変化が分からなかった。
窓は四つあるし、壁も変わらない。
ただ、リゼには新しい欠落が見えている。
「なら、急いだ方がいい」
リオルが言った。
「外に家族がいる住民のことを、一人ずつ確認しよう。まだ覚えている人がいるうちに」
ティセラも頷いた。
「私は記録を作る準備をする。名前だけじゃなく、住所、家族、仕事、普段通っている場所まで聞いておきたい」
「全部ですか」
リゼが尋ねる。
「できるだけ。何が失われるか分からない以上、今残っているものは多い方がいい」
俺は係長に報告する内容を頭の中で整理した。
道が消えた。
通りの外にある部屋が消えた。
家族が、そこに暮らす人間を忘れた。
次に何が起きるのか。
それを考えようとした時、少し離れたところにいたネイが口を開いた。
「……順番まで同じなんだね」
俺は振り返った。
ネイは白樫館を見ていた。
いつもの笑顔はない。
「何の順番だ?」
俺が尋ねると、彼は少しだけ目を伏せた。
何かを思い出しているようだった。
その顔を見たのは、初めてだった。
「ネイ」
もう一度呼ぶ。
ようやく彼は俺を見た。
「前にも、同じことがあったのか?」
少し間があった。
ネイはいつものように笑おうとしたが、うまくできなかったらしい。
「……あるよ」
それだけ答えた。
俺はもう一度、青鐘通りの石壁へ目を向けた。
その向こうでは、ミレアが夕飯の支度をしているはずだった。
ニコが豆を嫌がり、ガロが今日も店の仕事を手伝っている。
少なくとも中では、まだ普通の暮らしが続いている。
けれど外側では、彼らが住んでいた部屋も、家族との思い出も、少しずつ失われている。
白樫館の二〇三号室は、もう誰の目にも見えない。
エマは兄のことを覚えていない。
そしてネイは、同じことが以前にも起きたと知っている。
「その話、聞かせてくれ」
俺が言うと、ネイは壁の向こうへ視線を戻した。
答えが返ってくるまで、少し時間がかかった。
「……うん」
いつもの軽い調子ではなかった。
「今度こそ、途中で終わらせたくないからね」
その言葉を聞いて、俺は初めて、ネイがこの場所へ残り続けている理由を少しだけ理解した気がした。
彼はただ、消えた道を面白がっているわけではない。
たぶん、以前どこかで失ったものを、まだ覚えているのだ。
俺はリオルとティセラへ目を向けた。
二人とも黙って頷いた。
俺たちは青鐘通りの壁の前へ集まり、ネイの話を聞くことにした。
ここで何が起きているのかを知るために。
そして、向こうにいる人々がまだ自分の名前を覚えているうちに、何をすべきかを見つけるために。




