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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第二章 地図から消えた通り

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第十四話 消える順番


「今度こそ、途中で終わらせたくないからね」


 ネイはそう言って、青鐘通りの石壁を見つめた。


 空はもう暗くなっている。少し離れた場所では警備隊員が通行人を誘導し、壁の向こうからは食器を片づける音が聞こえていた。


 ガロは妹のエマに忘れられたばかりだった。


 自分の部屋が存在しないことになり、妹には最初から兄がいなかったことになっている。そんな話を聞いたあとで、同じ異変が過去にも起きたと知らされたのだ。


 俺はネイへ目を向けた。


「話を聞かせてくれ。ただ、ガロさんたちに全部聞こえるところは避けたい」


「そうだね」


 ネイは素直に頷いた。


 俺たちは警備隊員に壁の前を任せ、少し離れた路地へ移動した。


 ティセラは持っていた書類を近くの荷車へ広げた。リオルは通りの入口が見える位置に立ち、リゼは俺の隣でネイを待っている。


「前にも、青鐘通りと同じことがあったんだな」


 俺が尋ねると、ネイは頷いた。


「うん。別の町でね」


「どこで?」


「今は、うまく説明できない」


「場所を覚えてないのか」


「町があったことは覚えてるよ。広場も、店も、そこで暮らしていた人たちも。でも、名前や正確な場所が思い出せないんだ」


 ネイは少し考えてから、続けた。


「最初は、普通に行けなくなっただけだった。昨日まであった道が消えて、周りの人たちが町のことを知らないと言い始めた」


 青鐘通りと同じだ。


「そのあと、町の外にあった記録がおかしくなった。住所も、店の取引も、家の契約もね」


 俺の頭に白樫館が浮かんだ。


 二〇三号室。


 ガロが四年暮らした部屋は、建物からも帳簿からも消えている。


「外にいる家族が、中の人たちを忘れ始めたのは?」


 リオルが尋ねる。


「そのあとだったと思う。誰から忘れたのかまでは覚えてないけど、少しずつ増えていった」


「最後はどうなった?」


 ネイはすぐに答えなかった。


 通りの向こうで荷車が軋む音がする。


「その話は、今すぐ全部はできない」


「なぜ?」


「覚えてないところもあるし、まだ確かめてないこともあるから」


 リオルの表情が険しくなる。


「お前の話が本当なら、同じことが今起きてるんだぞ」


「うん。だから僕もここにいる」


 ネイの返事は静かだった。


 リオルも、それ以上すぐには言い返さなかった。


「明日、確かめよう」


 俺が口を開く。


「ニコの学校と、ミレアさんの仕入れ先。どっちも青鐘通りの外にある。まだ向こうの人たちを覚えているか、直接聞いてみたい」


 ティセラが頷いた。


「いいわね。ガロの部屋だけなら個別の異常という可能性も残る。でも、学校や市場でも同じことが起きていたら、影響はもっと広いと考えられる」


「じゃあ、朝になったら手分けしよう」


 俺が言うと、リオルは警備隊の詰所の方を見た。


「ここは夜間の警備を引き継いでもらう。俺たちも一度休もう。明日は長くなりそうだ」


 全員が頷いた。


 ネイだけは、戻る前にもう一度石壁へ目を向けた。


「セイン」


「何?」


「明日、最初に中の人たちへ声をかけてあげて」


「もちろん、そのつもりだよ」


「ならいいんだ」


 そう言って、ようやく笑った。


 なぜそんなことを頼んだのか、俺には分からなかった。


 けれど、今は聞き返さなかった。



     ◇



 翌朝、俺とリオルは王立南第三学校を訪ねた。


 校庭では子供たちが走り回っていた。窓の開いた教室から先生の声が聞こえ、廊下には授業で作ったらしい紙細工が飾られている。


 ニコも、普段ならここにいるはずだった。


「担任はハーシュ先生だったな」


「ああ。本人に聞いたから間違いない」


 職員室へ入ると、若い男性教師が案内された机で待っていた。


 リオルが警備隊の身分札を見せ、簡単に事情を説明する。


「ニコという生徒について、お尋ねしたいんですが」


「ニコ?」


「十歳の男の子です。青鐘通りに住んでいます」


 ハーシュ先生は少し考え、首を振った。


「申し訳ありません。私のクラスに、その名前の生徒はいません」


 俺はリオルを見る。


 予想していた答えだった。


 それでも、実際に聞くと嫌なものだった。


「一昨日まで通っていたと聞いています」


「一昨日ですか?」


 先生は出席簿を取り出した。


 頁をめくり、名前を一つずつ確認していく。その指が途中で止まることはなかった。


「やはり、いませんね」


 俺も出席簿を見せてもらった。


 名前は順番に並んでいる。


 不自然に紙が削れた跡も、書き直したような部分もない。


 最初からニコという生徒はいなかったように見えた。


「レオという男の子はいますか」


 俺が尋ねると、先生は頷いた。


「ええ。同じクラスにいますよ」


「ニコと仲が良かったはずなんです。少し話を聞かせてもらえませんか」


 先生は事情を完全には理解していなかったが、協力してくれた。


 休み時間になると、日焼けした少年が職員室へ呼ばれてきた。


 警備隊の制服を見て、少し緊張している。


 リオルが目線を合わせた。


「何か悪いことをしたわけじゃないよ。友達のことを少し聞きたいんだ」


「はい」


「ニコという子を知ってる?」


 レオは眉を寄せた。


「ニコ?」


「よく一緒に遊んでたって聞いたんだけど」


「……知りません」


 返事は早かった。


「本当に?」


 俺が思わず聞き返すと、少年は困ったような顔をした。


「そんな子、いたかな」


 その表情を見て、それ以上問い詰めるのはやめた。


 嘘をついているわけではない。


 思い出せないのだ。


 話を終えたあと、レオは先生に礼を言って教室へ戻っていった。


 俺はその背中を見送った。


 昨日まで一緒に遊んでいた友達のことを、あの少年は知らない。


 ニコがどれだけ会いたがっているかも知らないのだ。


「セイン」


 リオルが声をかけた。


「ああ」


 俺は頷いた。


「ニコにも、もう起きてるんだな」


 リオルは校庭を見た。


「本人へ伝えるのは、俺たちの役目だ」


「……そうだな」


 俺たちは学校をあとにした。



     ◇



 青鐘通りの石壁へ戻ると、リゼがすぐに気づいた。


「どうでした?」


「本人へ話すよ」


 俺が答えると、彼女は表情を引き締めた。


 リゼとネイは朝から壁の前に残り、住民たちの様子を聞いていたらしい。


 向こうでは青鐘亭が今日も開いている。外から客は来ないが、近所の住民が食事を取りに来ているという。


「ニコ」


 俺は壁へ呼びかけた。


「何?」


 すぐに元気な声が返ってきた。


「学校の先生に会ってきた」


「ハーシュ先生?」


「ああ」


「元気だった?」


「元気そうだったよ」


「じゃあ、宿題のこと何か言ってた?」


 俺は一瞬返事に詰まった。


「宿題?」


「計算のやつ。最後の問題だけ間違えて、先生に直してこいって言われたんだ」


 向こうで紙を探す音がする。


「ほら、ここにある。先生が丸つけてくれたんだ」


 こちらからは見えない。


 けれど、ニコは確かに宿題を持っているらしかった。


「ニコ」


 俺はできるだけ落ち着いて話した。


「先生は、お前のことを覚えていなかった」


 返事が止まった。


「……え?」


「出席簿にも名前がなかった。レオにも聞いてみたけど、思い出せなかったんだ」


「そんなわけないよ」


 ニコの声が強くなる。


「だって、一昨日まで行ってたもん。レオと一緒に帰ったし、先生に宿題だって見てもらった!」


「分かってる」


「分かってないじゃん!」


 言い返せなかった。


 ニコにとっては、学校へ行ったことも友達と遊んだことも、昨日までの日常だった。


 それを知らないと言われている。


 腹を立てない方がおかしい。


「信じてるよ」


 俺は言った。


「ニコが学校へ行ってたことも、宿題をやってたことも」


「でも、先生は」


「ああ。先生は覚えてなかった」


 誤魔化すのはやめた。


「だから、お前の宿題を大事に取っておいてほしい。先生の丸も、そのまま残してくれ」


 少しの間、返事がなかった。


「……分かった」


 小さな声が聞こえた。


 リゼが壁へ近づく。


「ニコ。学校、好きですか?」


「別に」


「じゃあ、どうして戻りたいんです?」


「だって、レオがいるし」


 少年は当たり前のように答えた。


「学校は嫌いでも、レオとは遊びたい」


 リゼは少し黙った。


「そうですよね」


 そして、優しい声で続けた。


「友達に忘れられるのは、嫌ですよね」


「……うん」


「私も嫌です」


 その言葉に、ニコは何も返さなかった。


 リゼも、自分の過去を長々と話すことはしない。


 ただ壁へ手を当てたまま、そこにいた。


 やがてニコが呟いた。


「俺、何か悪いことしたのかな」


「してませんよ」


 リゼの返事は速かった。


「少なくとも、誰かに忘れられていい理由なんてありません」


「本当に?」


「はい」


 向こうで小さく鼻をすする音がした。


 俺は壁を見つめた。


 ニコを学校へ返す方法は、まだ見つかっていない。


 それでも、あの子がそこに通っていた事実を、俺たちまで疑うわけにはいかなかった。



     ◇



 ティセラが中央市場から戻ってきたのは、午後になってからだった。


 手には取引帳の控えがある。


「オルダ商会には行けた?」


「ええ。でも、青鐘亭への納品記録はなかったわ」


「一件も?」


「十年以上取引していたという店の名前を、担当者は知らなかった」


 俺は壁へ目を向けた。


 ミレアは昨日まで、そこから肉や野菜を仕入れていたはずだ。


「ミレアさん」


 呼びかけると、すぐに返事が来た。


「はい」


「中央市場へ行ってきました」


「オルダ商会?」


「そうです。でも、向こうの帳簿には青鐘亭への納品記録がありませんでした」


「そんなはずないわよ」


 ミレアの返事ははっきりしていた。


「昨日だって、羊肉と玉ねぎを届けてもらったんだから」


 しばらくして、紙を広げる音がした。


「ほら、伝票もあるわ」


 ティセラが筆記具を構える。


「品物と数量を読み上げてもらえる?」


 ミレアが一つずつ答えていく。


 羊肉、玉ねぎ、芋、豆。


 いつも使っている材料ばかりだった。


 向こうには取引の証拠が残っている。


 外側の帳簿だけが、それを知らない。


「配達した人の名前は?」


 ティセラが尋ねる。


「オルダ商会の店員さんよ。毎週来てくれる人で……」


 そこで声が止まった。


「……あれ」


「どうしました?」


「名前が出てこないわ」


 俺とティセラは顔を見合わせた。


 今まで忘れていたのは、青鐘通りの外側にいる人間だった。


 けれど今、ミレア自身も何かを思い出せなくなっている。


「顔は分かるんですか」


 俺が尋ねる。


「ええ。いつも同じ人なのよ。でも、名前だけが……」


 ミレアの声に不安が混じった。


「私まで、おかしくなってるのかしら」


「今の段階では、普通の物忘れかどうか区別できません」


 ティセラが落ち着いて答えた。


「ただ、ほかに思い出せなくなったことがあれば教えてください。無理に思い出そうとしなくていいですから」


「……分かったわ」


 その返事を聞いてから、俺はもう一つ確認した。


「昨日話していた、お薬が必要な方はどうなりましたか」


「ああ、そのことね。通りの奥の薬屋さんに相談したら、同じ薬の予備があったの」


 俺は少し安心した。


「薬屋さんが確認してくれたんですね」


「ええ。いつもの薬と飲み方を確かめて、今夜の分から数日分は用意できるって」


「それならよかった」


「でも、ずっとあるわけじゃないから、早く何とかしてね」


「分かっています」


 薬を必要としている住民の問題が、完全に解決したわけではない。


 ただ、今夜すぐに薬がなくなるという最悪の状況は避けられた。


 俺はそのことを手帳へ書き込んだ。


 外から物を届ける方法は、引き続き探さなければならない。



     ◇



「記録を作りましょう」


 ティセラが言った。


 近くの荷車を机代わりに使い、俺たちは新しい紙を広げた。


「古い記録が消えるなら、今聞いたことを残しておく。少なくとも、変化を確かめる材料にはなるはずよ」


 俺も頷いた。


 第七係では、毎日拾得物の記録を作っている。


 誰が拾い、誰のものだったのか。いつなくして、どこへ戻したのか。


 今まで当たり前に書いていたことだった。


 けれど今日は、物ではなく、人が暮らしてきた事実を書き留めようとしている。


 最初はガロだった。


「お名前は?」


 リゼが壁へ呼びかける。


「ガロ・ローデン」


「お仕事は?」


「青鐘亭」


「住んでいる場所は?」


「白樫館の二〇三号室」


 少し間があった。


「……本当は、ちゃんとあるんだぞ」


 ガロが付け加えた。


「分かってます」


 リゼが答える。


「部屋にはベッドと机があって、妹さんにもらった赤いカップがあるんですよね」


「そうだよ」


 それから、よく行く床屋の名前も、妹のエマと最後に会った日のことも聞いた。


 ガロが話すたびに、記録用紙へ新しい行が増えていく。


 続いてニコ。


 学校の名前と担任のハーシュ先生、友達のレオ。放課後によく遊ぶ場所と、宿題の内容。


 好きなものを尋ねると、肉と焼きたてのパンのほかに、木登りも出てきた。


 リゼが食べ物の欄へ書きかけたので、俺が別の場所に直した。


 ミレアからは青鐘亭の開店年、仕入れ先、従業員のことを聞いた。


「毎朝何時に起きて、何をしてるかまで必要なの?」


 ミレアが笑う。


「豆を水に浸けてることも書く?」


「書きます」


 ティセラは真面目に答えた。


「暮らしの中に、今のところ残っている事実があるかもしれません」


 ミレアは少し驚いたようだった。


 けれど、それからは料理の仕込みについても詳しく話してくれた。


 ティセラは一枚書き終えるたびに、同じ内容を別の紙へも写した。


「二枚作るの?」


 俺が尋ねる。


「ええ。片方が失われても、もう片方が残る可能性はあるでしょう」


 そう答える手は、少しも止まらなかった。



     ◇



 異変が起きたのは、日が傾き始めた頃だった。


「セイン」


 ティセラの声が変わった。


「これ、見て」


 荷車へ近づく。


 そこには、さっき書いたばかりの記録が置かれていた。


『ガロ・ローデン』


『住所:白樫館二〇三号室』


『妹:エマ・ローデン』


 そのうち、最後の行だけが薄くなっていた。


「インクの問題じゃないか?」


 俺が尋ねると、ティセラはもう一枚の紙を差し出した。


『エマ・ローデン』


 同じペンで書いた名前だった。


 こちらは濃いままだ。


「つまり、エマさんの名前そのものが消えているわけじゃない」


 リゼが呟く。


「そうね」


 ティセラは薄くなった行を指す。


「失われようとしているのは、ガロとエマが兄妹だという記録の方よ」


 俺は二枚を見比べた。


 ガロもエマも存在している。


 けれど、二人の関係だけが外側から失われ始めている。


 ティセラは新しい紙へ書いた。


『ガロ・ローデンの妹は、エマ・ローデンである。』


 最初は何の変化もない。


 しかし、少し待つと、文字の一部がかすかに薄くなり始めた。


「……新しい記録も駄目なのか」


 俺が呟く。


「少なくとも、同じ情報をただ書き直すだけでは止められないみたい」


 ティセラは時計を見た。


「どのくらいで変化するかは測れるわ。もう一枚の方も確かめましょう」


 リオルがニコの記録を持ってきた。


 学校名が、少しずつ読みにくくなっていた。


 ニコの名前は残っている。


 木登りの話も、好きな食べ物も消えていない。


 ただ、通っていた学校とのつながりが薄れている。


「こっちの方が速い」


 リゼが言った。


 俺にも、違いは分かった。


 書いたばかりの事実が失われる。


 しかも、同じ速さではない。


「ネイ」


 俺は振り返った。


「前の町でも、こうなったのか」


 ネイは荷車の向こうで紙を見ていた。


「うん」


「書き直した記録まで?」


「そうだよ」


「じゃあ、書いても意味がないってことか」


 リオルが尋ねる。


 ネイは首を振った。


「意味がないとは思わない。今みたいに、何が先に消えるか分かるでしょう」


 ティセラも頷く。


「そうね。ただ、この方法だけでは守れない」


 ネイはしばらく紙を見ていた。


「僕も、前にいろいろ書いたよ。名前も、住所も、忘れたくないことも」


「それで?」


「ほとんど残らなかった」


 あっさりとした言い方だった。


 けれど、次の言葉までには少し間があった。


「助けたい人がいたんだ」


 リゼが顔を上げる。


「今も覚えてるんですか」


「助けたかったことだけはね」


 ネイは困ったように笑った。


「名前も顔も、もう思い出せないんだ。変な話だろう?」


 誰もすぐには答えなかった。


 誰かを助けようとした気持ちだけが残っていて、相手が誰だったのかは分からない。


 それがどんな感覚なのか、俺には想像できなかった。


「……でも」


 リゼが口を開いた。


「助けたいと思ったことは、今も覚えてるんですね」


「うん」


「それなら、全部なくなったわけじゃありません」


 ネイが顔を上げた。


 リゼはまっすぐ彼を見ていた。


「忘れたくなかったことがあるって、今も分かるんでしょう?」


 しばらくして、ネイは小さく笑った。


「……そうだね」


 いつものような、相手をからかう笑い方ではなかった。



     ◇



 夕方、ティセラは薄くなっていく文字の位置と時間をまとめ、リオルは外側の住民記録を確かめるよう警備隊へ指示を出した。


 俺は壁の向こうへ声をかけ、今夜の食事と薬が確保できていることを確認した。


 ミレアは、今夜も店を開けると言った。


 ニコは学校へ行きたがっていたが、昼間ほど怒ってはいないらしい。ガロも仕込みを手伝っているという。


 その報告を聞いて少し安心したところで、ネイが隣へ来た。


「セイン」


「何?」


「前の町の話、途中だったね」


「ああ」


 俺は手元の記録を置いた。


「最後は、どうなったんだ」


 ネイは石壁を見た。


 その向こうで、鍋の蓋を動かす音がする。


「外の人たちがみんな忘れたあとも、中の人たちはしばらく普通に暮らしてた」


「しばらく?」


「うん。でも、そのうち外の話をしなくなった。仕事へ行かなきゃいけないとか、遠くに住む家族へ会いたいとか」


「忘れていったのか」


「そう見えた」


 ネイは短く答えた。


「最後には、自分の名前を答えられなくなった人もいたんだ」


 リゼが小さく息を吸った。


 名前を失った彼女には、ほかの誰よりも重く聞こえる言葉だっただろう。


「その人は?」


 俺が尋ねると、ネイは首を振った。


「今は、何が起きたのか全部を思い出せない」


 俺はそれ以上聞かなかった。


 向こうからニコの声が聞こえた。


 明日の学校の話をしているらしい。


 先生が自分を覚えていないと知っても、あの子はまだ学校へ帰りたがっている。


 ミレアも、明日また店を開けようとしている。


 ガロは妹に会いたいと願っている。


 少なくとも、今はまだ。


「急がないとな」


 俺が言うと、リオルが頷いた。


「ああ。でも、何を調べる?」


 俺は手元の紙を見る。


 書き直した記録は消える。


 外へ行けば、家族や友達に忘れられている。


 外側に残ったものを探すだけでは、失われる速さに追いつけない。


「明日は、別のところを調べたい」


「別のところ?」


「地図や書類じゃなくて、青鐘通りと今もつながってるもの」


 ティセラが顔を上げた。


「具体的には?」


「まだ考えてる」


 俺はそう答えた。


 自分でも、今ははっきりしていなかった。


 ただ、ミレアたちは今日も料理をして、食器を洗い、いつもの生活を続けている。


 青鐘通りが本当に何もかも切り離されているなら、それほど普通に暮らせるものなのだろうか。


 俺はその疑問を、忘れないうちに手帳へ書いた。


 明日になったら、何か思いつくかもしれない。


 ネイは壁の方を見ていた。


「外の人が忘れるうちは、まだいいんだ」


 その声は小さかった。


 俺が振り向くと、ネイは続けた。


「本当に怖いのは、中の人まで外を必要としなくなることだよ」


 壁の向こうから、ニコの声が聞こえた。


「明日、学校行けるかな」


 俺は返事をしなかった。


 代わりに、手帳にもう一行だけ書き加えた。


『ニコは、学校へ帰りたがっている。』


 その文字だけは、今夜のうちに消えてほしくなかった。

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