第十五話 壁の下には道がある
朝、第七係へ着くと、係長がいつものように茶を飲んでいた。
その湯飲みを見て、ようやく考えがまとまった。
「……水か」
「何だ、急に」
係長が顔を上げる。
「青鐘通りです。あそこには今も水があるんですよね」
「井戸があるとは聞いたな」
「でも、井戸だけで百人近くが暮らしてるとは限らないでしょう。食堂もあるし、家もたくさんある。王都の水道を使ってるなら、地下では何かがつながってるかもしれません」
昨日から気になっていたことだった。
青鐘通りの外側では、家も学校も取引記録も消え始めている。
それなのに、向こうではミレアが食事を作り、ニコは手を洗い、ガロが店の仕込みをしている。
そこに住む人々の暮らしが続いている以上、まだ失われていないものもあるはずだ。
「水道局か」
係長は少し考えた。
「行ってみる価値はあるな」
「調査協力の依頼書を出してもらえますか」
「分かった。ただし、水道管を勝手にいじるなよ」
「しませんよ」
「お前は何かを返すつもりで、思いがけないものまで動かしかねん」
「俺の術、そんなに信用ないですか」
「昨日の報告書を読んだあとではな」
返す言葉がなかった。
リゼと協力して壁の向こうの秤を戻した時も、何が起きるかは術を使うまで分からなかったのだ。
「今回はまず、記録を調べます」
「それならいい」
係長は依頼書へ署名した。
ちょうどその時、リゼが扉を開けて入ってきた。
「おはようございます。今日はどこへ行くんですか?」
「水道局」
「水道局?」
俺が説明すると、リゼはすぐに頷いた。
「なるほど。地上の道が消えても、水道管は残ってるかもしれないんですね」
「そういうこと」
「でも、青鐘通りへ流れてるかどうかは、まだ分からないですよね」
「ああ。だから確かめる」
リゼは少し考えた。
「昨日の薬のことも、早く何とかしないといけませんしね」
「通りの中で数日分は確保できたそうだけど、それで全部解決したわけじゃないからな」
青鐘通りには薬屋もある。
ただ、そこにある薬も食料も、いつかは足りなくなる。外から補充できない状況を変えなければ、危険を先延ばしにしているだけだ。
「よし」
リゼが上着を羽織った。
「行きましょう。今日こそ何か見つけたいです」
「俺もそのつもり」
俺たちは依頼書を受け取り、第七係を出た。
◇
王都水道局は中央区の外れにあった。
石造りの建物が三棟並び、その裏には大きな貯水塔がそびえている。入口では作業服の男たちが工具を運び、荷車には古い配管が積まれていた。
正門ではリオルが待っていた。
「係長から連絡が来た。今日は地下の水道を調べるんだって?」
「ああ」
「警備隊からも、必要なら協力するよう話を通してある」
「助かる」
リオルは頷き、それから俺の左腕を見た。
「傷は?」
「だいぶ良くなった」
「痛むなら無理するなよ」
「分かってる」
俺が答えたところで、後ろから声がした。
「おはよう」
振り返ると、ネイが立っていた。
いつもの上着に、歩きやすそうな靴を履いている。手には小さな紙袋を持っていた。
「また来たのか」
「リゼに聞いたから」
俺はリゼを見る。
「昨日、帰りに聞かれたんです」
彼女は悪びれずに答えた。
「それに、青鐘通りを実際に見た人はネイだけでしょう?」
確かにそうだった。
今の俺たちは地図にも記録にもない場所を調べようとしている。
ネイが覚えていることは、手がかりになるかもしれない。
「分かった。ただし、役所の人が駄目だと言った場所には入るなよ」
「もちろん」
リオルが少しだけ眉を寄せた。
「それと、勝手に先へ行くな」
「君の言うことを聞くよ」
いつも通りの返事だった。
ただ、今日のネイはそれ以上ふざけなかった。
紙袋をリゼへ差し出し、焼き菓子を一つ分けてから、俺たちと一緒に水道局へ入った。
◇
窓口の職員は、調査依頼書を読んで首を傾げた。
「青鐘通りですか。南三区に、そんな通りはありませんよ」
「地図にはありません」
俺が答える。
「ですが、そこに住んでいる人たちがいることは確認しています」
「どういうことです?」
当然の質問だった。
俺が説明しようとしたところで、リオルが身分札を示した。
「王都警備隊で調査中の案件です。詳しい事情は報告書にあります。今は給水記録を確認させてください」
職員は依頼書を読み直し、奥へ引っ込んだ。
しばらくすると、年配の技師を連れて戻ってきた。
「南三区の記録ですね」
案内された資料室には分厚い帳簿が並び、壁には王都の水道管を描いた大きな図面が掛けられていた。
道や建物よりも、地下を走る管の方が細かく描かれている。
いつも見ている王都の地図とは、まるで違う景色だった。
「住所が分かれば、給水契約を調べられます」
技師が言った。
「南三区四十二番です。青鐘亭という食堂の住所になります」
俺が答えると、技師は帳簿を開いた。
四十番。
四十一番。
その次は、四十三番だった。
「……四十二番はありませんね」
俺も頁を覗いた。
確かに番号が一つ抜けている。
家の持ち主も給水契約も、そこだけ最初から存在しなかったようになっていた。
「別の年も確認できますか」
俺が尋ねると、技師は頷いた。
少し古い帳簿を取り出したが、結果は変わらなかった。
四十二番は、どこにもない。
「やはり、住所からは追えませんね」
リゼが言った。
「でも、水の使用量ならどうだろう」
俺は壁の図面を見た。
家の契約が消えても、水そのものが流れているなら、どこかに記録が残っているはずだ。
「技師さん。住所が分からなくても、管ごとに使われている水の量は調べられますか」
「できますよ」
技師が別の帳簿を取り出そうとしたところで、資料室の扉が開いた。
「間に合った?」
ティセラだった。
肩へ小さな鞄を掛け、手には筆記具を持っている。
「係長から連絡をもらったの。古い配管図があるかもしれないと思って」
「ちょうど、使われている水の量を調べるところです」
「それはいいわね」
彼女は俺の隣へ来て、図面を覗き込んだ。
◇
「南三七号管ですね」
技師は図面の一か所を指した。
薬屋の裏を通り、白樫館の前を抜け、さらに南へ伸びている水道管だった。
「この区画の使用量が、登録されている建物の数と合わないんです」
「どのくらい違うんですか」
ティセラが尋ねる。
技師は昨日の記録と、今朝までに計測された数字を比べた。
「水漏れの可能性もあります。ただ、これだけ使われているなら、登録されている家以外にも、かなりの人数が水を使っている計算になります」
「百人くらいでも、おかしくない?」
俺が尋ねると、技師は少し考えた。
「使い方にもよりますが、不自然な数字ではありませんね」
百人。
ミレアが教えてくれた、青鐘通りの住民の数と近かった。
「今朝も、その量の水が流れてるんですね」
リゼが尋ねる。
「ええ。昨日から大きな変化はありません」
俺は図面を見た。
青鐘通りの住所は消えている。
けれど、誰かが使っているらしい水の量は残っている。
しかも、昨日だけではない。
今朝も水が流れている。
ただ、それだけで青鐘通りへ供給されていると決めつけることはできなかった。
「水漏れなら、地上へ影響は出ないんですか」
俺が尋ねると、技師は頷いた。
「地下へ流れ出ていれば、すぐには分からないこともあります。だから、現場を調べる必要があるんです」
ティセラが口を開いた。
「古い配管図を見せてもらえますか」
技師が別の棚から大きな紙を取り出した。
俺たちはそれを広げ、南三七号管を指で辿った。
薬屋。
白樫館。
そして、その先。
「ここ」
リゼが指した。
地上の地図では、食堂と薬屋の間に石壁がある場所だった。
しかし水道局の図面には、そこを横切る管が描かれている。
さらに、その先にも線が続き、いくつかの建物へ分かれていた。
「こんなところに管が……」
技師が呟いた。
「今の地図だと、この先には給水する建物がないはずなんですが」
ティセラが地上の地図を重ねた。
道は途切れている。
その下を、水道管だけが通っている。
「青鐘通りがあった位置と重なるわね」
彼女が言った。
「少なくとも、地下の設備には、その先へ続く形が残っている」
俺は頷いた。
地上では道が消えた。
けれど地下の水道管まで、完全に消えたわけではないらしい。
「技師さん。この場所へ行けますか」
俺が尋ねると、技師は少し考えた。
「保守用の通路はあります。ただ、長く使っていない区間もあって、状態はあまりよくありません」
「危険なんですか」
リゼが聞く。
「床が濡れていたり、天井が低かったりします。先が崩れている可能性もありますね」
俺は図面を見る。
青鐘通りへ続いているはずの管。
その横に描かれた細い通路。
今まで俺たちは地上の石壁ばかり見ていた。
けれど、地下にはまだ別の道が残っているかもしれない。
「調べさせてもらえませんか」
俺が言うと、技師は困った顔をした。
「すぐには許可できません。水道局の設備ですから」
「正式な申請が必要なら、警備隊から出します」
リオルが答えた。
「人命に関わる案件です。設備には触れず、危険なら引き返すことを約束します」
技師は依頼書と図面を見比べ、少し考え込んだ。
「……上へ確認してきます」
そう言って資料室を出た。
俺は一度息を吐いた。
地図に線があるからといって、必ず通れるとは限らない。
でも、何かを確かめられる場所が見つかった。
それだけでも大きかった。
◇
地下への立ち入り許可が下りたのは、午後になってからだった。
水道局の裏手にある厚い鉄の扉が開き、その向こうには石造りの階段が続いている。
技師から灯りと縄、それから古い配管図を受け取った。
先頭はリオル。
その後ろに俺とリゼ、ティセラが続く。ネイは最後尾だった。
地下は思っていた以上に暗かった。
壁に沿って太い水道管が伸び、足元には浅い水が溜まっている。天井から落ちる雫が石床へ当たり、時折小さな音を立てていた。
「足元、気をつけて」
前からリオルの声がした。
水道管の脇は歩ける幅が狭く、石床の継ぎ目には水が溜まっている。
俺たちは歩く速度を落とした。
それでも曲がり角で、リゼの足が滑った。
「わっ!」
俺が手を伸ばすより早く、リオルが肩を支えた。
自分の重心を素早く変え、倒れかけたリゼを引き戻す。固有術〈均衡〉で姿勢を安定させたのだと分かった。
「大丈夫か」
「はい。すみません」
「謝らなくていい。次からは俺の足跡を見て歩け」
リゼは少し恥ずかしそうに頷いた。
ネイが横から、濡れていない石の列を指した。
「こっちの方が滑りにくそうだよ」
リオルが確かめる。
「本当だな。しばらくここを通ろう」
それからしばらくは、誰も無駄口を叩かなかった。
歩く音と水の流れる音だけが、狭い通路へ響いている。
俺は配管図を何度も確かめた。
南三七号管は、薬屋の裏を通り、白樫館の下を抜け、その先で青鐘通りがあったはずの場所へ伸びている。
ただ、図面の先に今も道があるとは限らなかった。
そのことは、地上の石壁で嫌というほど思い知らされている。
「セイン」
後ろからリゼが声をかけた。
「何?」
「怖いですか?」
少し考えた。
「……怖いよ」
「そうですよね」
リゼも小さく頷いた。
「私も、ちょっと怖いです」
「帰りたくなったら言っていいぞ」
「帰りたくはないです」
「どうして?」
「青鐘通りの人たち、待ってるでしょう」
リゼは前を向いたまま続けた。
「私、名前をなくした時、自分がどこにいるのかも分からなくて怖かったんです。でも今は、セインたちがいて、行く場所もあります」
少しだけ笑う。
「だから、あの人たちにも戻ってほしいんです。自分が帰りたい場所へ」
俺は頷いた。
「……そうだな」
先頭のリオルが振り返った。
「無理はするなよ。探すことと、命を危険にさらすことは別だからな」
「ああ」
俺たちはもう一度、足元を確かめながら歩き始めた。
◇
十分ほど進んだところで、リオルが足を止めた。
「……ここか」
前方に石壁があった。
地下通路はそこで完全に塞がれている。
水道管だけが壁の中へ入り、そのまま向こう側へ伸びていた。
「図面だと、まだ続いてるはずなんだけどな」
俺が言うと、ティセラが横から図面を覗いた。
「位置は合ってる。地上の青鐘通りと、ほとんど同じ場所よ」
リゼが壁へ近づいた。
触れる前に足を止め、じっと目を凝らしている。
「……あります」
「空白?」
「はい。地上の壁と同じです」
リゼは壁の右端へ視線を移した。
「道が終わってるんじゃなくて、向こうへ続いてるはずの場所が見えなくなっています」
俺は石壁を見た。
扉はない。
人が通れそうな穴もない。
けれど水道管だけは、確かに向こうへ伸びている。
「水の音がする」
ネイが言った。
彼は水道管へ耳を近づけていた。
俺も隣にしゃがむ。
確かに、金属の奥から低い音が聞こえてくる。
水が流れている。
その音は壁の手前で止まらず、ずっと向こうへ続いていた。
「少なくとも、この管には水が流れてるんだね」
ネイが言った。
「ああ。でも青鐘通りまで届いてるかは、まだ分からない」
俺が答えると、彼は頷いた。
その時、リオルが足元へ灯りを向けた。
「……待て」
声が低くなる。
「そこ、踏むな」
俺たちは動きを止めた。
石壁の前に薄い泥が溜まっている。
その上に、靴の跡が残っていた。
「これ、俺たちのじゃないな」
俺が言うと、リオルは頷いた。
「俺たちは今、ここへ来たばかりだからな」
跡は壁の方へ向かっている。
しかも、よく見ると二種類あった。
一つは大きく、踵が深く沈んでいる。
もう一つは少し細く、歩幅も短い。
「二人分か」
リオルが呟いた。
俺は灯りを動かした。
泥の表面には、まだ靴底の形が残っている。
地下なので乾きにくいとはいえ、ずっと昔のものには見えなかった。
「最近、誰かがここへ来たんですね」
リゼが言った。
「そう考えるのが自然だな」
リオルはしゃがみ、足跡の周囲を確かめた。
「戻った跡は?」
俺が尋ねる。
「ここから引き返したようには見えない。ただ、奥の方は泥が薄くて分かりにくいな」
俺は壁の左右を見た。
水道管の陰は暗く、灯りを動かしても奥まではよく見えない。
ここから先へ人が進めたのかどうか、今は判断できなかった。
「調べたいけど、勝手に踏んだら跡が消えるな」
俺が言うと、リオルが頷いた。
「位置を記録しておく。明かりをこっちへ頼む」
リオルは手帳へ足跡の向きと大きさを描き、通ってきた道に小さな目印を置いた。
二人がどこから来たのかは、まだ分からない。
ただ、少なくとも俺たちより先に、この地下へ入った者がいる。
「セイン」
少し離れたところでネイが呼んだ。
「これ、何だろう」
彼が指していたのは、壁際の泥だった。
小さな金属片が半分ほど埋まっている。
最初は工具の破片かと思った。
けれど、よく見ると札のようだった。
「拾っていいかな」
ネイが尋ねる。
「少し待って」
リオルが位置を記録し、札の周囲に目印を置く。
「いい。ほかは動かすなよ」
俺は頷き、泥の中から札を拾い上げた。
古い金属製だった。
表面は黒ずみ、端が少し欠けている。
布で泥を拭うと、細い文字が現れた。
『青鐘通り』
俺は息を止めた。
さらに下の行へ目を移す。
『王立遺失物管理局』
その下には、もう一つ。
『第七係』
しばらく誰も喋らなかった。
リゼが俺の手元を覗き込む。
「……セインたちの?」
「ああ」
札を灯りへ近づけた。
形は今の身分札とは違う。
金属の厚みも、文字の刻み方も古かった。
少なくとも、俺が第七係で働き始めてから使われているものではない。
「こんな札、見たことあります?」
リゼがティセラへ尋ねる。
「初めて見る。でも、古い調査札には似ているわ」
リオルが立ち上がった。
「第七係が、以前にもここを調べてたってことか」
「その可能性はある」
俺は札を裏返した。
裏側には古い傷があり、端には小さな刻印らしいものが残っている。
溝にはまだ泥が詰まっていて、細かな形までは分からなかった。
「一度、持ち帰って調べよう」
俺が言うと、リオルは頷いた。
「係長なら、昔の備品について何か知ってるかもしれない」
リゼが石壁を見上げた。
「でも、ここはどうします?」
「今日はここまでにする」
俺が答えると、彼女は少し驚いた。
「いいんですか?」
「気にはなる。でも、二人がどこへ行ったか分からないまま進むのは危ない」
リオルも頷いた。
「足跡は記録した。水道局にも、ここをしばらく触らないよう頼んでおく」
俺は石壁を見た。
水道管の向こうには、青鐘通りがあるはずだった。
けれど、目の前の二人分の足跡が、そこへ続いているとはまだ限らない。
最近ここへ来た人物と、古い第七係の札にも、どんな関係があるのか分からなかった。
「次は、第七係の記録ですね」
リゼが言った。
「ああ」
俺は札を布で包んだ。
「まず、誰がこれを使っていたのか調べたい」
ネイは石壁を見ていた。
「何か気づいた?」
俺が尋ねると、彼は少し考えてから答えた。
「古いものが残ってたんだな、と思って」
「そうだな」
「誰かが忘れても、全部なくなるとは限らないんだね」
俺は包んだ札を見た。
第七係。
毎日働いている場所の名前だった。
その文字が、青鐘通りの地下で見つかった。
水道管は今も流れ、最近誰かが歩いた跡も残っている。
何もかも失われたように見える場所で、まだ手がかりを拾える。
俺たちは来た道を戻り始めた。
確かめるべきことは、これまでより少し具体的になっていた。




