第十六話 消えた調査記録
第七係へ戻った時には、外はすっかり暗くなっていた。
地下水路を歩いたせいで靴も上着も泥だらけだったが、着替えに帰る気にはなれなかった。ポケットに入れた金属札が、歩くたびに太腿へ当たっていたからだ。
札には青鐘通りの名前と、王立遺失物管理局・第七係の文字が刻まれている。
あの場所で何が起きているのか、俺たちはまだほとんど分かっていない。それなのに、二十八年前のものと思われる古い札だけが、誰かに見つけられるのを待っていたように地下へ落ちていた。
「そこで止まれ」
第七係の扉を開けた途端、係長に言われた。
「何ですか?」
「床を見るんだ」
俺は足元を見た。濡れた靴から泥水が落ち、入口の石床に小さな足跡ができている。
「……すみません」
「謝る前に靴を脱げ。掃除するのは俺じゃない」
リゼが素直に靴を脱ぎ始めた。ティセラも上着の裾を確かめ、少し困った顔になる。
ネイだけは不思議なほど汚れていなかった。
「お前、同じ道を歩いてたよな」
俺が聞くと、ネイは自分の靴を見下ろした。
「泥の少ないところを選んだから」
「最初に教えてほしかった」
「歩きながら見つけたんだよ」
そう言って笑う。
本人が気づいていないだけかもしれないが、こういう時のネイは、人が今さらどうしようもないことを実に楽しそうに話す。
ただ、俺が布包みを机へ置くと、その笑顔も少し静かになった。
「係長。これを見てください」
泥を拭った金属札を差し出す。
「青鐘通りの地下で拾いました。二人分の足跡が、石壁へ向かって続いていた場所です」
係長が札を手に取った。
いつもなら何か一言くらい言うところだが、今日はすぐには口を開かなかった。
表を見て、裏返す。
さらに、端に残った小さな刻印を確かめている。
「……どこにあった?」
さっき説明したはずだった。
「水道局の地下です。青鐘通りがあるはずの場所を、壁が塞いでいました。その手前に落ちてたんです」
「誰が拾った?」
「見つけたのはネイで、拾ったのは俺です。リオルが位置も確認してます」
係長は頷き、もう一度札を裏返した。
俺はその手元を見ていた。
「知ってるんですね」
「見覚えはある」
「何の札ですか」
「昔の調査で使っていたものだ」
係長は小さな刻印を指した。
七・二八六。
「この番号なら調べられる」
「どこで?」
「うちの備品帳だ。昔の物を、いつ誰に貸したか記録してある」
リゼが顔を上げる。
「じゃあ、誰が青鐘通りへ行ったかも分かるかもしれない?」
「その札が本当に調査で使われたならな」
係長は立ち上がり、奥の保管室へ向かった。
俺たちも続こうとしたが、入口でネイだけ呼び止められた。
「お前はここで待て」
「僕だけ?」
「内部の記録だからな」
「道を拾ってきた功労者なのに」
「功労者でも部外者は部外者だ」
ネイは少しだけ残念そうにした。
しかし、係長の態度が変わらないと分かると、すぐに窓際の椅子へ腰を下ろした。
「分かった。勝手に引き出しを開けたりはしないよ」
「そういうことは、言われる前から守ってくれ」
係長は振り返らずに答えた。
◇
保管室の奥には、現役の職員でもめったに使わない書類が並んでいた。
古い帳簿は厚い革表紙で綴じられ、棚には年代ごとの札が付いている。長い間開かれなかったらしい本を抜き取ると、紙の乾いた匂いがした。
「二十八年前の備品帳は、こっちだ」
係長が迷わず棚へ手を伸ばす。
「二十八年前って、まだ決まったわけじゃありませんよね」
俺が尋ねると、係長は一冊の帳簿を机へ置いた。
「この形の札が使われていた頃だ。番号を見れば分かる」
頁をめくると、古い備品の名前が並んでいた。
灯具。
測量縄。
調査用の金属札。
どれも現在は別の備品に置き換わっているものばかりだ。
やがて係長の指が止まった。
「これだな」
七・二八五。
七・二八六。
連続した二つの番号が記されていた。
品名は同じだった。
『境界調査札』
「境界?」
リゼが俺を見る。
「何の境目でしょう」
「そこまでは分からないな」
ティセラが帳簿を覗き込んだ。
「貸出数は二枚。返却されたのは一枚だけね」
「ああ」
係長が下の欄を指す。
「もう一枚は未回収になってる」
俺は持ってきた札を机の上へ置いた。
七・二八六。
二十八年前に返されなかった札が、今になって地下で見つかった。
「使用目的も残っていますか」
俺が尋ねると、係長は隣の欄へ指を移した。
『南三区境界異常調査』
全員が黙った。
南三区。
青鐘通りがあった場所だ。
「日付は?」
「二十八年前の秋だな」
ティセラが顔を上げた。
「つまり、同じ場所では少なくとも二十八年前にも、何かの異常が調べられていたということね」
「そうなる。ただし、その時も青鐘通りが消えていたかは分からない」
係長は慎重に答えた。
俺もそこは区別しておきたかった。
南三区のどこかで異常が起きたことと、今の青鐘通りの事件が同じものだということは、まだ証明されていない。
けれど、現場から持ち帰った札の番号まで一致している。
これを偶然で片づけるのも難しかった。
「調査した人の名前は?」
リオルが尋ねる。
「貸出先には部署しか書いてない。第七係だな」
「なら、調査報告書があるはずですね」
俺が言うと、係長は頷いた。
「普通ならな」
そう答えて、別の棚へ向かった。
◇
二十八年前の調査報告は、年度ごとに厚い一冊へまとめられていた。
索引には事件の内容と受付番号が並び、後ろに綴じられた報告書へすぐ辿り着けるようになっている。
古い帳簿にしては、よく整理されていた。
「南三区……境界異常……」
係長が小さく呟きながら頁をめくる。
俺はその横で、番号を追っていた。
四一。
四二。
四三。
その次が、四五だった。
「待ってください」
係長の手を止める。
「四四がありません」
番号が飛んでいるだけではなかった。
四三と四五の間には、ちょうど一件分の空白がある。
紙を削った跡はない。
インクを消したようにも見えない。
最初から何も書かれていなかったような白い行だった。
「リゼ」
彼女は俺に呼ばれる前から、そこを見つめていた。
「……あります」
「何が?」
「ここにも、何かがあった跡があります」
リゼは指を近づけたが、紙へは触れなかった。
「前に見つけた古い帳簿の空白と似ています。でも、これは調査の記録が一つ抜けたような感じです」
俺は棚の上へ目を向けた。
五年前の一七七三も、確かに空白として残っている。
ただし、今回見つかったのは二十八年前の、別の帳簿だ。番号も年代も違う以上、同じ事件だと決めつけるわけにはいかなかった。
「四四番の報告書は?」
ティセラが尋ねる。
係長は後ろの頁をめくった。
四三番の次には、四五番が綴じられている。
棚に置かれた別冊や未整理の書類箱も調べたが、四四番に当たるものは見つからなかった。
「報告書ごと消えてる」
リオルが言った。
係長は閉じた帳簿へ手を置いたまま、考え込んでいた。
「何が書かれていたか、分かりませんか」
リゼが尋ねる。
「これだけではな」
係長が答える。
「でも、何か別の記録はあるはずです」
俺はもう一度、最初の備品帳へ目を落とした。
二人へ調査札を貸し出した。
南三区へ向かわせた。
そのうち一枚は返ってきた。
役所が人を調査へ出すなら、報告書以外にも残るものがある。
俺は今月の勤務表と、机に積まれた経費の伝票を思い出した。
「係長。昔の調査にも、手当は出ていましたよね」
「出るぞ」
「現場へ出た分のお金です」
「何だ、急に」
「調査報告が消えても、払った金額は別の帳簿に残ってるかもしれません」
係長が俺を見る。
少し考えてから、口元を緩めた。
「なるほどな。お前、こういう時だけ役所の仕組みに詳しいな」
「毎月、給料明細はちゃんと見てますから」
「仕事の報告書もそれくらい熱心に見てくれ」
「見てますよ」
ティセラが小さく笑ったが、すぐに口を開いた。
「良い着眼点ね。何を調べたかは消えていても、何人が何日働いたかは残っているかもしれない」
係長は経費帳の棚へ向かった。
俺たちも手分けして二十八年前の書類を取り出した。
◇
調査手当の記録は、意外なほど早く見つかった。
南三区。
三日間。
支給人数、二名。
備品帳の日付とも一致している。
俺はその行へ顔を近づけた。
「名前があります」
一人目。
『ローディス・フェン』
係長が頷く。
「昔の第七係の職員だ。俺がここへ来る前に退職している」
「今、会えますか」
「十年以上前に亡くなったはずだ」
少し残念だった。
ただ、もう一人いる。
その名前を確かめようとして、俺は手を止めた。
二人目の欄は空白だった。
支給額がある。
日数もある。
きちんと二人分の手当が支払われているのに、その一人が誰だったのかだけ分からなくなっていた。
「リゼ、ここは?」
彼女が頷く。
「抜けています。名前があった場所です」
リオルが身を乗り出した。
「帳簿の書き忘れじゃないのか」
「金額まで書いて、名前だけ忘れたのなら、それも変だな」
俺が答えると、係長が小さく頷いた。
俺はさらに下の備考欄を読んだ。
『南三区、三日間』
『現地境界内へ進入』
そして、最後に短い一行があった。
『帰還確認 一名』
俺は何度も読み直した。
二人が調査へ行った。
二人とも境界の内側へ入った。
けれど、帰ってきたと確認されたのは一人だけだった。
「……一人、戻ってない」
リゼが呟く。
部屋の空気が変わった。
さっきまで紙を繰っていた音も止んでいる。
「ローディスさんが帰ってきたんでしょうか」
彼女が尋ねた。
「その可能性はある。でも、帰還者の名前までは書いてないな」
俺は答えた。
ローディスが退職した時期を考えれば、無事に戻った方が彼だった可能性は高い。
ただ、帰還確認という一行だけでは断定できなかった。
「二人で入ったのに、一人だけ帰ってきた」
リオルは昨日の地下を思い出しているようだった。
「それで、調査札は一枚しか戻らなかったわけか」
俺は机の上の七・二八六を見た。
二十八年前に未回収となった札が、石壁の手前へ落ちていた。
そのすぐ近くには、まだ新しい二人分の足跡があった。
ただし、二十八年前の調査員が昨日の泥を踏んだはずはない。
古い札と新しい足跡が同じ場所にあった理由は、別に考えなければならなかった。
「誰かが最近、同じ場所へ行ってるんだ」
俺が言うと、ティセラが顔を上げた。
「足跡のこと?」
「ああ。昔の札がどうしてそこに残っていたのかも気になるけど、今そこを歩いた二人が誰なのかも調べたい」
「それもそうね」
ティセラは備品帳へ目を戻した。
「古い事件を調べている間に、現在の手がかりを見失うわけにはいかない」
俺は頷いた。
過去を知りたいのは、昔の調査員について詳しくなるためではない。
今、青鐘通りに閉じ込められている人々を助けるためだ。
◇
「係長」
俺は、さっきから黙っていた上司へ声をかけた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「この札を見た時、驚いてましたよね」
「珍しい物だったからな」
「それだけですか?」
係長が俺を見る。
眠そうな顔だった。
でも、今はそれだけで済ませていい気がしなかった。
「二十八年前に第七係の職員が一人戻らなかったなら、昔話としてでも知っていたんじゃないですか」
しばらく沈黙があった。
リオルも口を挟まない。
ティセラは帳簿を閉じ、静かにこちらを見ている。
「……ああ」
係長が頷いた。
「俺がここへ来た頃、一人だけ戻らなかった職員がいると聞いたことはあった」
「どんな事件だったんです?」
「詳しい話は知らん。南三区で何かを調べて、そのまま帰ってこなかったという程度だ」
「名前は?」
「知らない」
係長は空白になった経費帳を見た。
「聞いたことはあるはずなんだ。だが、今思い出そうとしても出てこない」
リゼが顔を上げた。
「名前だけ、ですか」
「そうだ。いなくなった人間がいた、という話は覚えてる。なのに、誰だったかが分からない」
俺はエドランの万年筆を思い出した。
持ち主の名前が分かっていても、返却先へ届かなかった。
今度は、調査へ出た人間がいたことだけ残っていて、名前がなくなっている。
似ているようで、何かが違う。
ただ、一つだけ共通していた。
人間がいたという事実が、完全には失われていない。
それだけは、まだ辿れる。
「当時の調査員が何かを残していた可能性は?」
俺が尋ねる。
「ローディス・フェンさんが生きている間に、誰かへ話していたとか」
係長は少し考えた。
「ほとんど話さなかったそうだ。正式な報告書も、今見た通りだな」
「じゃあ、手がかりはもうないんですか」
リゼが残念そうに言った。
係長はすぐに答えなかった。
古い経費帳を閉じ、机の端へ寄せてから、ようやく口を開く。
「いや、一つだけある」
俺は顔を上げた。
「何です?」
「ローディスが退職する時、第七係へ置いていった物がある」
「どんな?」
「木箱だ」
予想外の答えだった。
「中身は?」
「分からん」
「開けなかったんですか」
「開かなかったんだ。鍵穴もない。無理に壊すわけにもいかんから、そのまま保管してある」
俺は立ち上がった。
「今、見せてもらえますか」
係長が壁の時計を見た。
「もう遅い。明日にしたらどうだ」
少しだけ迷った。
今日一日、俺たちは地下を歩き、古い帳簿を調べ続けている。リゼも疲れているだろうし、ティセラだって休ませるべきなのかもしれない。
でも、青鐘通りの中には、まだ帰れない人々がいる。
ニコは学校から忘れられた。
ガロの妹は、兄を覚えていない。
自分たちが書いた新しい記録まで、目の前で消え始めていた。
何が次に失われるか分からないのに、手がかりを目の前にして一晩待つ気にはなれなかった。
「今、お願いします」
俺は言った。
「箱を確かめるだけなら、今日できます」
係長はしばらく俺を見ていた。
それから、疲れたように小さく息を吐いた。
「……分かった。そこまで言うなら来い」
奥の棚へ向かって歩き出す。
リゼが俺の横へ来た。
「今日は押しますね、セイン」
「そうかな」
「いつもなら、係長に明日って言われたら帰りそうなのに」
「普通の書類ならそうするよ」
「今は?」
「明日まで待ってくれない人がいる」
そう答えると、リゼは少しだけ笑った。
「そうですね」
それ以上、何も言わなかった。
◇
箱は保管室の一番奥にあった。
係長が下段の棚から引き出してきたのは、両手で抱えるほどの古い木箱だった。
角は金属で補強され、蓋には細い金具が通っている。持ち上げると中で何かが動く音はしたが、鍵穴らしいものは見当たらない。
「これがローディスさんの?」
「ああ。退職した時に置いていった物だ」
ティセラが箱を覗き込む。
「封印されているようには見えないわね。古い仕掛け箱かもしれない」
「壊さずに開けられますか」
俺が尋ねると、彼女はすぐには答えなかった。
蓋の縁へ手を伸ばし、金具の形を確かめる。
「……待って」
その声に、俺も箱へ目を向けた。
蓋の中央に、小さな金属板が埋め込まれている。
黒ずんだ表面。
端に開いた細い穴。
そして、見覚えのある文字。
『境界調査札』
俺はポケットから、地下で拾った札を取り出した。
七・二八六。
蓋の札には、その一つ前の番号が刻まれていた。
七・二八五。
「……二枚そろった」
俺が呟くと、ティセラも頷いた。
二十八年前に二枚貸し出され、一枚だけ返ってきた境界調査札。
その一枚は、ローディスが残した箱の蓋に組み込まれていた。
もう一枚は、青鐘通りの地下から今、俺たちの手元へ戻ってきている。
俺は二枚の札を見比べた。
誰かがこの箱を開けるためには、なくなった札を見つけなければならなかったのかもしれない。
そうだとしたら、二十八年前に戻らなかった一枚が、今になって見つかった理由も確かめる必要がある。
俺が蓋へ手を伸ばすと、係長が静かに言った。
「慎重にやれよ。二十八年、開かなかった箱だからな」
俺は頷いた。
箱を壊す必要はない。
おそらく、開けるためのものはもう手の中にある。
七・二八六の札を、蓋へ近づけた。




