第十七話 二人分の足跡
七・二八六の札を箱の裏側にある溝へ差し込むと、小さな音がした。
最初は、金属が触れ合っただけかと思った。
けれど、札を少し奥へ押し込むと、箱の中で何かが動く。
「……開くかもしれない」
ティセラが呟いた。
俺は手の力を緩め、札をゆっくりと奥へ滑らせた。
最後まで入った瞬間、金具が外れる音がした。
係長が蓋へ手をかける。
今度は簡単に開いた。
「開きましたね」
リゼが身を乗り出す。
俺は箱の中を見た。
入っていたのは、古い革袋と折り畳まれた紙、それから小さな手帳だった。
使い切った蝋燭も二本ある。
「……意外と普通ですね」
リゼが言った。
「宝石でも期待してた?」
俺が尋ねると、彼女は少し考えてから頷いた。
「ちょっと」
ティセラが手帳へ目を向ける。
「今の私たちには、宝石より役に立つかもしれないわよ」
俺たちは箱の中身を一つずつ机へ並べた。
紙は湿気で傷み、手帳の表紙も擦り切れている。二十八年前のものなら、無理に開けば破れてしまうかもしれなかった。
その前に、俺は箱の裏側から七・二八六の札を引き抜いた。
開いたあとなら、簡単に取り外せた。
「これは持っておこう」
泥を拭った札を机へ置く。
箱の蓋には七・二八五が埋め込まれたままだった。
二十八年前に貸し出された二枚の境界調査札が、今こうして同じ机の上にある。
そのうち一枚は保管された箱に残され、もう一枚は青鐘通りの地下に落ちていた。
誰が、なぜそんなふうに分けたのか。
まだ分からないことばかりだった。
◇
手帳には、南三区の調査についての記録が残っていた。
ただ、読める部分は少ない。
文字が滲んでいるところもあれば、頁そのものが破れているところもある。
ティセラは紙を傷めないように開き、読める言葉を書き写していった。
『境界内調査は必ず二名で行うこと』
「二名……」
リオルが呟いた。
二十八年前、南三区へ向かった調査員も二名だった。
俺たちが地下で見つけた足跡も、二人分だった。
ただし、その二つは別の時代のものだ。
「続きがあります」
俺が言うと、ティセラが頁を少しずらした。
『調査札は帰還するまで携帯者から離さないこと』
その下の行はほとんど読めなかった。
さらに数行下に、短い文が残っている。
『一枚を失った場合、もう一名は進入せず――』
そこから先は紙が破れていた。
「肝心なところがないですね」
リゼが残念そうに言った。
「でも、札を使って境界へ入っていたことは分かる」
俺は机の上の七・二八六を見た。
「しかも、二人で行動する決まりがあった」
「そうね。ただ、それが安全のためなのか、術式上の条件なのかは判断できないわ」
ティセラは慎重だった。
俺もそこは区別しておきたかった。
二人で調査したという記録があっても、二人いなければ入れないとは限らない。
何かの理由で、一人で進むことが危険だった可能性もある。
「こっちも見て」
ティセラが手帳の後ろの頁を開いた。
そこには、札の簡単な絵が描かれていた。
細い金属板。
上端の穴。
そして、片側にある小さな切り込み。
俺は自分の札を持ち上げた。
「これか」
今まで泥の詰まっていた縁に、細い溝が残っている。
ティセラが布で拭うと、溝の脇から短い線が現れた。
「……印があったんだ」
リゼが呟く。
手帳の絵にも、同じ印が描かれている。
その横には文字が残っていた。
『境界面に表を向け、切り込みを――』
そこから先が読めなかった。
「切り込みを、何かに合わせるのかしら」
ティセラが言った。
「でも、何に合わせるかが書いてない」
俺は札を裏返した。
昨日地下で拾った時は、泥を落として文字を読めるようにしただけだった。
縁の小さな溝までは確かめていない。
使い方が分からなかったのだから、仕方がない。
ただ、今になって初めて見えるものがある。
「壁をもう一度調べたい」
俺が言うと、リオルも頷いた。
「俺も同じことを考えてた。足跡もまだ全部調べられてないしな」
ティセラが手帳を閉じた。
「図面もあるわよ」
箱から取り出した折り畳みの紙を広げる。
古い地下水路の図面だった。
水道局で見せてもらったものより簡素だが、南三七号管に当たる線は描かれている。
俺は前に歩いた道を指で辿った。
水道局の地下入口。
長い通路。
白樫館の下を抜け、その先で青鐘通りへ向かう水道管。
そして、石壁に塞がれていた場所。
「ここだ」
俺が指すと、リオルが隣へ来た。
「前に見つけた壁だな」
「ああ」
ただ、図面には壁が描かれていない。
その先にも通路が続いている。
しかも、石壁の手前で道が二つに分かれていた。
「一つはまっすぐ、もう一つは右側か」
リオルが呟いた。
「右側って、水道管の裏じゃないか?」
俺が尋ねると、彼は少し考えた。
「そうかもしれない。前は壁ばかり見ていて、管の裏までは調べてないからな」
「足跡が二人分あったんですよね」
リゼが言った。
「ああ」
「二人とも、同じところへ行ったんでしょうか」
その疑問に、俺はすぐには答えられなかった。
地下で見つけた足跡は二人分。
どちらも壁の方へ向かっていたように見えた。
ただ、途中からどうなっていたのかは、暗くて十分に確かめられなかった。
「戻って調べよう」
俺が言うと、リオルは頷いた。
その時、係長が口を開いた。
「俺も行く」
少し驚いた。
「来るんですか」
「ああ。二十八年前に一人戻らなかった場所だ。何があるのか分からん」
係長は机の上の札を見た。
「お前らだけで進ませるわけにはいかない」
俺は少し嬉しくなった。
いつも眠そうで、できることなら仕事を増やしたくなさそうな上司だ。
けれど、こういう時は決して知らん顔をしない。
「分かりました」
俺が答えると、係長はいつもの顔に戻った。
「その代わり、余計な物は持っていくな。狭い通路で荷物が邪魔になる」
「はい」
「それから、帰ってきたら泥を落とせ」
「……それも分かりました」
リゼが横で笑っていた。
◇
水道局から地下へ降りる頃には、夜も深まっていた。
古い通路へ入るための許可は改めて取り、夜勤の職員には帰るまで入口を管理してもらうことになった。
俺たちは灯りを持ち、階段を下りた。
先頭はリオル。
その後ろに俺とリゼ、ティセラが続く。
係長とネイは最後尾だった。
「前より歩きやすいですね」
リゼが言った。
「道を覚えたからかな」
俺が答えると、彼女は足元を見た。
「ここ、前に滑ったところです」
「よく覚えてるな」
「二度と転びたくないので」
リオルも振り返った。
「その調子で頼む。今夜は人数も多いから、急がず進もう」
俺たちは頷いた。
石床は相変わらず濡れていて、ところどころ水が流れている。
昨日と同じ道なのに、どこか違って感じた。
今は、この先に何があるか少しだけ分かっている。
石壁。
二人分の足跡。
そして、二十八年前の調査員が使った札。
どれも恐ろしい手がかりだったが、何も知らずに歩くよりはよかった。
「セイン」
少し後ろからティセラが声をかけた。
「何?」
「今度、壁の前で札を使うなら、いきなり術を使わないでね」
「分かってる」
「それと、手帳にあった通りなら、札を向ける方向も関係するかもしれない」
「表を壁へ向ける、だったな」
「ええ。でも、何に切り込みを合わせるかは分からない。現場で確かめる必要があるわ」
俺はポケットの中の札へ触れた。
前の調査で拾い上げた時は、ただの古い金属片だと思っていた。
今は、二十八年前の調査員が使っていた道具だと分かっている。
それでも、使い方までは知らない。
焦って動かないようにしなければならなかった。
◇
石壁の前へ着くと、リオルが全員を止めた。
「ここから先は、足跡を踏まないように」
灯りを下げ、泥の少ない場所を選んで進む。
以前見つけた二人分の足跡は、まだ残っていた。
一方は大きく、踵が深く沈んでいる。
もう一方は少し細く、歩幅も短い。
「戻った跡は?」
俺が尋ねると、リオルは首を振った。
「少なくとも、ここから引き返したようには見えない」
前の調査では、二人とも壁の前まで来たように見えた。
けれど古い図面には、ここから二つの道が続いている。
「もう一度、向きを確かめよう」
俺は灯りを持ち、リオルの指す場所を照らした。
大きな足跡は石壁へ向かっている。
しかし途中で、右足だけ靴底の模様がなくなっていた。
「……これ、裸足?」
リゼが尋ねる。
「ああ。片足だけだ」
リオルが答えた。
泥の上に、足の指の形が残っている。
その少し横で、ネイが何かに気づいた。
「こっち、靴があるよ」
水道管の陰に、古い革靴が片方だけ落ちていた。
泥に濡れ、踵の部分には擦れた跡がある。
「前は見落としてたな」
俺が言うと、リオルは頷いた。
周囲を確認してから靴を持ち上げる。
「誰かが、ここで靴を失ったんだな」
俺は足跡を見た。
片足だけ裸足になっても、その人物は歩き続けている。
靴を拾う余裕がなかったのか、拾わず先へ行く理由があったのかは分からない。
「この靴、〈返却〉してみたい」
俺が言うと、リオルが顔を上げた。
「持ち主は分かるのか」
「名前は分からない。でも、今も本人の持ち物なら、帰る先を探せるかもしれない」
「危険は?」
「持っている物を返すだけなら、普段の術と同じだ。ただ、どこへ帰るかは分からない」
リオルは少し考えた。
「俺が周囲を見る。変な反応があったら止めろ」
「ああ」
俺は靴を受け取り、壁から少し離れた場所へ立った。
靴底はかなり擦り減っていた。
毎日のように履かれていたのだろう。
持ち主が誰なのかは分からない。
それでも、その人が今もこの靴を必要としているなら、帰る場所はあるはずだった。
「〈返却〉」
力が動いた。
靴が手の中で軽くなり、ゆっくり浮き上がる。
俺は手を離した。
靴は石壁へ向かって進む。
「セイン!」
リゼが声を上げた。
俺も思わず身構えた。
このままぶつかるかと思ったが、靴は止まらなかった。
石の表面に触れた瞬間、小さな波紋が広がる。
そして、靴が壁の中へ沈むように消えていった。
誰もすぐには動かなかった。
「……通った」
俺が呟く。
リゼが石壁へ近づいた。
「今の靴、向こうへ行ったんですか」
「少なくとも、持ち主へつながる先へ帰った」
「青鐘通りの中?」
「可能性はある。でも、行き先を直接見たわけじゃないから断定はできない」
俺は空になった手を見た。
術が行き止まりになった感覚はなかった。
靴には帰る先があり、〈返却〉はそこを見つけている。
ただ、それだけで持ち主が無事だと決まったわけでもない。
「まず、二人の行き先を分けて考えよう」
リオルが言った。
俺たちは頷いた。
靴を失った人物は、壁へ向かっている。
もう一人はどうだろう。
リオルが細い足跡を辿り直す。
水道管の裏側へ灯りを向けると、その先にも薄い跡が続いていた。
「……横へ曲がってる」
俺が言うと、リオルは頷いた。
「こっちは壁へ向かったんじゃないな」
太い水道管の裏には、人一人がやっと通れそうな隙間があった。
暗く、狭い。
以前は管の陰になっていて、気づかなかった場所だった。
「古い図面の、もう一つの通路かもしれないわね」
ティセラが言った。
俺は頷いた。
二人分の足跡は、同じところで終わっていなかった。
一人は石壁の方へ。
もう一人は水道管の裏へ。
その先がどうなっているのかは分からないが、少なくとも別々の道を選んでいたらしい。
「どっちを調べる?」
リオルが尋ねた。
俺は石壁を見る。
靴は向こうへ消えた。
しかし、人間が通る方法はまだ分からない。
一方、水道管の裏には、実際に歩いて進めそうな隙間がある。
「まず、こっちを確かめたい」
俺は管の裏を指した。
「誰かがまだいるかもしれないから」
リオルが頷いた。
「俺が先に行く。危険ならすぐ戻るぞ」
「頼む」
その時だった。
「待て」
最後尾にいた係長が声をかけた。
リオルが動きを止める。
「どうしました?」
係長は石壁を見ていた。
正確には、さっき靴が消えた場所の少し上だった。
「今、あそこが光らなかったか」
俺たちは壁を見る。
何も変わらないように見えた。
ただ、リゼが急に顔を上げた。
「……セイン」
「どうした?」
「さっき靴が通ったところ、空白の端が揺れてます」
リゼは壁の一点を指した。
俺には何も見えない。
けれどリオルが灯りを動かすと、石の継ぎ目に小さな印があることに気づいた。
ただの傷だと思っていた。
しかし、よく見ると、細い線が二本交わる形になっている。
「これ……」
ティセラが近づいた。
俺はポケットから七・二八六の札を取り出した。
端には、箱を開けたあとで見つけた小さな切り込みがある。
手帳の図には、札を境界面へ向けるよう書かれていた。
「合わせるって、これのことかな」
俺が尋ねると、ティセラは少し考えた。
「可能性はある。でも、まだ分からない。無理に押し込んだりはしないで」
「分かった」
俺は札の表を壁へ向けた。
リゼが指した場所へ近づける。
最初は何も起きない。
そこで、札の切り込みを石の印へ重ねるように角度を変えた。
小さな金属音が響いた。
札が震えたのだ。
「……今の」
リゼが息を吸う。
俺が少し離すと、震えは止まった。
もう一度、同じ角度で近づける。
すると石壁の表面に、細い線が浮かび始めた。
縦に一本。
少し離れて、もう一本。
その上端をつなぐように、横の線がゆっくりと現れていく。
誰かが石へ刻んでいるわけではない。
ひびが入っているわけでもなかった。
さっきまで何もなかった壁に、人が通れそうな大きさの長方形が浮かび上がっている。
「……扉?」
リゼが呟いた。
俺は札を下げた。
線が薄くなる。
もう一度、同じ場所へ合わせると、輪郭が戻った。
「札の向きと位置が合った時だけ反応するのね」
ティセラが言った。
俺も頷いた。
前に地下へ来た時、この札を拾って壁の近くで確かめている。
けれど、切り込みの存在も、合わせる場所も知らなかった。
今は手帳の記述があり、靴が通った場所も分かった。
昨日は何も起きなかった理由が、ようやく少し理解できた。
「開けられるのか」
リオルが尋ねた。
「分からない。今のところ、形が見えただけだ」
俺は札を動かさずに答えた。
リゼが壁へ近づき、扉の輪郭を見つめている。
「セイン。ここだけ、空白の感じが違います」
「どう違う?」
「壁の向こうに続いてる場所が、少しだけ近くなったような……」
リゼは考えたあと、首を振った。
「ごめんなさい。まだ、うまく説明できません」
「大丈夫。無理に分かったことにしなくていいよ」
俺が答えると、彼女は頷いた。
ティセラは手帳へ、扉の形と札の位置を書き込んでいた。
リオルは周囲を確かめ、壁の前へ誰も立たないよう注意している。
係長は、浮かび上がった輪郭をじっと見つめていた。
ネイだけは、少し離れたところにいた。
俺が振り返ると、彼は静かに笑った。
「見つかったね」
「まだ入口かどうかも分からないけどな」
「うん。それでも、前より近づいた」
その言葉には、いつもの気軽さがあった。
ただ、俺はネイがさっきまで何を見ていたのか、少し気になった。
男は扉そのものではなく、壁の手前に残る二人分の足跡を見つめていたのだ。
◇
「今日はここで止めよう」
俺が言うと、リオルがすぐに頷いた。
「俺もそう思う」
リゼは少しだけ残念そうだった。
「せっかく見つかったのに?」
「だからこそだよ」
俺は扉の輪郭を見た。
札を合わせれば、そこに道が現れる。
しかし、そこから人間が通れるのか、通ったあと戻れるのかは分からない。
二十八年前、同じ場所へ入った二人の調査員のうち、一人は戻らなかった。
そのことを知った今、見つけたからすぐ入ろうとは思えなかった。
「まず、水道管の裏へ続く足跡を調べよう。向こうへ通じる道が別にもあるなら、先に確かめたい」
リオルが頷く。
「俺が入口の状態を見る。通れるかどうかだけ確認して、危なそうなら引き返す」
「頼む」
ティセラが手帳を閉じた。
「札の反応も、今のうちに記録しておくわ。次に来た時、同じ条件で現れるか確かめられるように」
俺は札を壁から離した。
長方形の線が、少しずつ薄くなっていく。
最後には、普通の石壁へ戻った。
さっきまでそこに扉の形があったことなど、何も知らない人間には分からないだろう。
俺は札を布で包み、ポケットへ戻した。
その小さな金属片が、二十八年前の第七係の調査員に何を見せたのかは分からない。
ただ、今の俺たちには初めて、そこに入口らしいものがあると分かった。
そして、もう一つ。
最近この地下へ来た二人の人間は、同じ道を進んではいなかった。
片方は壁へ。
もう片方は、水道管の裏へ。
それぞれがどこへ行ったのか。
何のためにここへ来たのか。
まだ答えはない。
けれど、次に調べるべき場所はもう見えていた。
リオルが灯りを持ち直し、水道管の裏へ体を向ける。
俺もその後ろへ続いた。
今度は、見落とさないように。
二十八年前に誰かが戻れなかった場所で、同じことを繰り返さないために。




