第八十二話 忘れた筆跡
「……これ、私の字だわ」
ティセラがそう言った時、俺は机の上に置かれた紙を覗き込んでいた。
古びた図面の切れ端だった。
端は焦げ、ところどころに茶色い染みが広がっている。何かの設備を描いたものらしく、細い線が入り組んでいたが、俺には何を表しているのかさっぱり分からない。
ただ、その余白に書かれた名前だけは読めた。
『ティセラ』
「……本当なの?」
俺が尋ねると、ティセラは頷いた。
「この字の癖、見覚えがあるの。特に最後の『ラ』の払い方。昔からこう書くのよ」
彼女は紙を持ち上げ、もう一度確かめた。
「でも、おかしいわね」
「何が?」
「この日付、私が覚えていない六年間のものなの」
ティセラの指先が止まった。
俺も紙の日付を見た。
確かに、彼女が失った記憶に含まれる時期だった。
本人が覚えていないということは、誰かが書いたものかもしれない。
けれど、どうしてこんな古い図面にティセラの名前があるのだろう。
「……だから、持ってきたんだよ」
向かいの椅子から声がした。
そこに座っているのは、小柄な老婦人だった。
白髪をきちんと結い上げ、厚手の上着を羽織っている。手元には木製の杖があり、足元には革鞄が置かれていた。
年齢は七十を過ぎているだろうか。顔には深い皺が刻まれているが、目つきは驚くほど鋭い。
「久しぶりに孫の顔を見に来たっていうのに、歓迎の言葉もなしとはねえ」
「ばあちゃん、今それどころじゃないでしょ」
ティセラが言い返す。
「それどころじゃないから来たんじゃないか。少しは頭を使いな」
「……相変わらず口が悪いわね」
「あんたに言われたくないよ」
俺は二人を交互に見た。
ティセラの祖母、オルネラ。
昔、移住に関する研究に携わっていた人物だと聞いている。
実際に会うのは初めてだったが、たった数分で分かったことがある。
この二人、よく似ている。
「……セイン、今何か失礼なこと考えた?」
「えっ?」
「顔に書いてあるわよ」
ティセラに睨まれた。
「……おばあさんと似てるなって」
「ほらね」
オルネラが笑った。
「見る目があるじゃないか」
「ちっとも嬉しくないわ」
ティセラはため息をついた。
そのやり取りに少し笑いそうになったが、すぐにオルネラの表情が変わった。
「さて、冗談はここまでだよ」
老婦人は杖を机へ立てかけた。
「今朝、うちの書庫が荒らされた」
◇
「……泥棒ですか?」
俺が尋ねると、オルネラは首を振った。
「金目の物には手もつけてない。昔の資料を入れていた箱だけ、鍵を壊されていたんだ」
「何か盗まれたの?」
ティセラが聞いた。
「ああ。四十年以上前の搬出設備の図面が一組。それと、当時の試験記録だよ」
「……搬出設備?」
俺が聞き返すと、オルネラは図面の一部を指した。
「昔、王都へ移ってきた人たちの荷物を運ぶために造られた設備さ。大きな荷車じゃ通れない場所もあってね。綱と滑車、それに重りを使って、荷を運ぶための路線をいくつか造ったんだよ」
「それが、どうして今さら盗まれるんですか?」
「それを知りたくて、ここへ来たんじゃないか」
オルネラは俺を見た。
「最近、古い設備がまた使われ始めているって聞いたんだよ。しかも、昔とは違う目的でね」
俺は顔を上げた。
「……人を運んでいるんですか?」
老婦人は頷いた。
「まだ確かめたわけじゃない。でも、北門の施設で見つかった運搬設備の話を聞いて、嫌な予感がしたんだ」
俺はティセラを見た。
彼女も険しい顔をしている。
あの染物場には、寝台を乗せたレールがあった。患者を移すための荷車も、船着き場もあった。
あの設備が、もっと古い仕組みを利用していたのだとしたら。
「……ばあちゃん。昔の設備って、そんなに危ないものなの?」
「荷物を運ぶだけなら、ちゃんと使えば問題なかったよ」
オルネラは少し言葉を切った。
「でも、人間を乗せるために造ったものじゃない。重さのかかり方も、止め方も違う。まして今の設備が、当時のまま残っているとは限らないからね」
「……なるほど」
ティセラは図面へ目を落とした。
「つまり、昔の仕組みをそのまま使っているなら、事故が起きるかもしれないってことね」
「そういうことさ」
オルネラは頷いた。
「それも、ただ荷台が落ちるだけじゃ済まない場合がある」
俺は思わず身を乗り出した。
「どういうことですか?」
「古い搬出路には、複数の荷台を連動させる仕組みがあったんだ。片方が下がる力を使って、別の荷台を上げるようなね」
「……釣り合いで動かすんですね」
リオルが口を開いた。
右腕を固定したまま、さっきから図面を見ていた。
「そうさ。あんた、分かるのかい?」
「少しだけ。俺の〈均衡〉も、力の釣り合いを扱うので」
「へえ。そりゃ面白い」
オルネラはリオルを眺めた。
「なら分かるだろう。一つの重りを勝手に外したら、どうなると思う?」
「……ほかの部分に、急に力がかかります」
「その通り」
老婦人は図面を指で叩いた。
「古い設備は、全部が繋がっている。どこか一か所だけ新しい仕組みに取り替えると、別の場所へ無理な力がかかることがあるんだ」
俺は図面を見つめた。
細い線が何本も交差している。
今の俺には、ただの線にしか見えない。
けれど、その一つ一つが人を運ぶ設備に繋がっているのなら、話は別だ。
「……それで、盗まれた図面にティセラの名前が?」
俺が尋ねると、オルネラの顔から笑みが消えた。
「そうだよ」
彼女は小さく息を吐いた。
「元の図面は四十年以上前に描かれたものだ。でも、途中から新しい書き込みが増えていてね」
ティセラが顔を上げた。
「……いつ?」
「六年前からの数年間さ」
部屋が静かになった。
ティセラは紙を見つめたまま、動かなかった。
「……私が覚えていない時期ね」
「ああ」
「ばあちゃんは、私が何をしていたか知ってるの?」
オルネラはすぐには答えなかった。
杖の持ち手を指でなぞり、それから静かに首を振った。
「全部は知らない。あんたがどこで何をしていたのか、私にも分からないことが多いんだ」
「……そう」
「ただ、この図面を調べていたことだけは確かだよ」
ティセラは唇を噛んだ。
俺は何も言えなかった。
彼女にとって、六年間は空っぽの時間だ。
昨日の出来事を思い出そうとしても思い出せないのとは違う。
何年も生きたはずなのに、その間の自分が何をしていたのか分からない。
それがどれほど不安なことなのか、俺には想像しきれなかった。
「……ねえ、ばあちゃん」
ティセラが顔を上げた。
「どうして今まで、この話をしてくれなかったの?」
オルネラの目が揺れた。
「……あんたが記憶を失ったと知った時、無理に思い出させようとは思わなかったんだよ」
「でも、私は知りたかった」
「分かってる」
「……本当に?」
ティセラの声が少し強くなった。
オルネラは何も言い返さなかった。
その沈黙が、かえって苦しそうに見えた。
「……悪かったね」
やがて、老婦人が言った。
「私も怖かったんだ。あんたが何に関わっていたのか、調べればまた危ない目に遭わせるんじゃないかって」
ティセラはしばらく祖母を見つめていた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……ばあちゃんらしくないわね」
「そうかい?」
「昔は、危ないことがあれば真っ先に調べに行く人だったじゃない」
「歳を取るとね、怖いものが増えるんだよ」
オルネラは小さく笑った。
「特に、孫を失うのは御免だからね」
ティセラは何か言いかけ、口を閉じた。
俺は二人から少し視線を外した。
机の上には、まだ焦げた図面が広げられている。
そこに書かれたティセラの名前だけが、やけにはっきり見えた。
◇
「……それで、盗まれなかった資料はほかにあるの?」
しばらくして、ティセラが尋ねた。
「あるよ。古い原図の一部は、西の配給倉庫に預けてある」
「そこは無事なの?」
「分からない。だから、できれば今日中に確認したいんだ」
ティセラは立ち上がった。
「なら、行きましょう」
「ちょっと待って」
俺は思わず声をかけた。
「今朝、書庫が荒らされたばかりなんでしょ? 危ない人たちがまだ近くにいるかもしれないよ」
「分かってるわ」
「じゃあ……」
「だから、王宮の警護も頼むのよ」
ティセラは俺を見た。
「何でもかんでも一人で突っ込む誰かさんとは違うの」
「……それ、俺のこと?」
「ほかにいる?」
リオルが横で吹き出した。
「いるいる。昨日も工房の外で飛び出しかけた人が」
「お前まで!」
俺が言い返すと、ティセラは少しだけ笑った。
その顔を見て安心した。
さっきまで彼女の指は、図面の上でずっと震えていたからだ。
ダグはテオの件で保護対象者たちの安全確認を続けている。俺たちは彼にも事情を伝え、リオルを通じて警護隊へ連絡した。
ムラサメにも報告が届くよう手配され、西の倉庫を管理する担当者には、資料を動かさず保全するよう指示が出された。
オルネラを一人で帰すわけにはいかない。
そうして俺たちは、兵士二人に同行してもらい、古い配給倉庫へ向かうことになった。
出発する直前、ティセラが自分の机へ戻った。
引き出しを開け、何かを確かめている。
「……どうしたの?」
俺が尋ねると、彼女は首を振った。
「何でもない」
けれど、引き出しの中に、一通の封筒が見えた。
宛名は、オルネラ。
以前、ティセラが祖母へ書いたまま、まだ渡していないと言っていた手紙だった。
彼女はしばらく封筒を見つめ、それから静かに引き出しを閉じた。
「……行きましょう」
俺は頷いた。
あの手紙を、いつか自分の手で渡せる日が来るといい。
そう思ったが、今は何も言わなかった。
◇
西の配給倉庫は、王都の古い水路に沿って建っていた。
石造りの大きな建物で、外壁には昔の荷揚げ用の金具が残っている。窓の一部は板で塞がれ、入口の上には色褪せた看板が掛けられていた。
「……随分古い建物だね」
俺が呟くと、オルネラが笑った。
「私が若い頃には、まだ新しかったんだけどねえ」
「それって何年前?」
リオルが尋ねる。
「女性に歳を聞くもんじゃないよ」
「いや、建物の話なんだけど!」
「同じことさ」
リオルが困った顔をした。
ティセラが小さく笑う。
「ばあちゃん、相変わらずね」
「あんただって変わってないよ」
そのやり取りを聞きながら、俺は入口を見上げた。
古びた倉庫なのに、扉の錠だけが新しい。
警護隊から先行していた兵士が、管理人と話しているところだった。
「……何か問題でも?」
俺が尋ねると、兵士が振り向いた。
「いえ。ただ、今朝から倉庫の鍵が一つ見当たらないそうです」
「鍵が?」
管理人らしい男性が困った顔で頷いた。
「予備の鍵なんです。昨日の夕方まではあったんですが、今朝確認したらなくなっていて……」
俺はティセラと顔を見合わせた。
偶然だろうか。
オルネラの書庫が荒らされたのと同じ朝に、こちらでも鍵がなくなっている。
「……中は確認しましたか?」
リオルが尋ねる。
「まだです。今から開けようとしていたところで」
「分かりました。俺たちが先に安全を確かめます」
リオルは兵士たちへ合図した。
俺とティセラ、オルネラは少し離れて待つことになった。
古い扉がゆっくりと開く。
その瞬間だった。
中から、何かが倒れる大きな音がした。
続いて、人の足音が響く。
「……誰かいる!」
兵士が叫んだ。
◇
扉の奥では、男が二人、木箱を引きずっていた。
どちらも顔を布で覆っている。
一人は大きな包みを抱え、もう一人は棚から書類を引き抜こうとしていた。
「動くな!」
兵士が剣を抜いた。
男たちが振り向く。
次の瞬間、包みを持った男が奥へ走り出した。
「逃がすな!」
兵士の一人が追いかける。
もう一人の男は、近くの木箱を蹴り倒した。
積まれていた古い金具が床へ散らばり、耳障りな音が響く。
俺は思わず後ずさった。
その隙に、男は壁際にあったランプを掴んだ。
「……おい!」
リオルが叫ぶ。
男はランプを床へ投げつけた。
ガラスが割れ、中の油が木箱へ飛び散る。
火が上がった。
「火事だ!」
管理人が悲鳴を上げる。
古い木材が燃え始め、乾いた紙の束へ火が移った。
「外へ出ろ! 早く!」
リオルが声を張る。
兵士たちが管理人とオルネラを出口へ誘導し始めた。
俺もティセラの腕を掴もうとした。
だが、彼女は動かなかった。
「……待って」
「ティセラ!」
「あそこ!」
彼女が指した先には、火のついた棚があった。
燃えかけた図面が、棚の端からはみ出している。
「……あれ、さっきの図面と同じよ!」
俺は目を凝らした。
確かに、複雑な線の形が似ている。
だが、火はもう紙の端を舐めていた。
「危ない! 今は出よう!」
「でも、あれが燃えたら……!」
ティセラは一歩踏み出した。
その瞬間、棚の上から小さな木箱が落ちてきた。
「ティセラ!」
俺は反射的に彼女を引き寄せた。
箱が床へ落ち、勢いよく砕ける。
肩に鋭い痛みが走った。
思わず顔をしかめた俺を、ティセラが睨んだ。
「……あんた、まだ肩が治ってないんでしょう!」
「今はそれどころじゃないだろ!」
「だからって!」
言い合いかけたところで、リオルの声が響いた。
「二人とも! 出口を塞がれる前に動いて!」
俺は息を呑んだ。
煙がもう天井に溜まり始めている。
奥では兵士が男を追っていたが、棚から落ちた木材が通路を狭くしていた。
このままでは、逃げ遅れるかもしれない。
「……ティセラ、行こう!」
俺が言うと、彼女は悔しそうに図面を見た。
そして突然、鞄から紙と筆記具を取り出した。
「……何してるの!」
「十秒だけ!」
ティセラは燃えかけた図面をじっと見つめた。
紙の端から火が広がる。
その上に書かれた文字を、彼女の目が追っていた。
「ティセラ!」
「……見えた!」
彼女は視線を落とし、手元の紙へ指を添えた。
〈転写〉。
見た文字を、そのまま別の紙へ写し取る力だ。
筆記具の先が紙の上を走り、驚くほど速く文字が並んでいく。
俺には、何が書かれているのかまだ分からなかった。
けれど、ティセラが何をしようとしているのかは分かった。
あの図面が燃えてしまっても、今見えている文字だけは残せる。
「……終わった!」
彼女が顔を上げた瞬間、棚が大きく軋んだ。
「危ない!」
俺はティセラの手を掴んで駆け出した。
背後で棚が倒れ、紙の束が火の中へ崩れ落ちる。
熱い空気が背中を押した。
息を吸おうとすると、喉が焼けるようだった。
「こっち!」
リオルが入口で手を振っていた。
俺たちは煙の中を走り抜け、どうにか外へ飛び出した。
石畳へ出たところで、膝に手をつく。
冷たい空気が喉へ入り、激しく咳き込んだ。
「……何とか、出られた」
隣ではティセラも肩で息をしていた。
彼女は紙を胸に抱えている。
俺は思わず顔を上げた。
「……写せたの?」
「ええ」
ティセラは頷いた。
「全部じゃないけど、見えた文字は残せたわ」
その声には、いつもの強さが戻っていた。
◇
火は駆けつけた消防の人たちによって消し止められた。
倉庫の一部は焼けたが、建物全体が燃え落ちることはなかった。逃げた男のうち一人は兵士に取り押さえられ、もう一人は裏の水路側へ逃走したらしい。
俺たちは倉庫から離れた場所で、煙の臭いが染みついた服を払いながら報告を待っていた。
「……あんたたち!」
オルネラが近づいてきた。
その顔を見た瞬間、ティセラが少し身構えた。
「ばあちゃん、私たちは大丈夫だから……」
「大丈夫なわけがあるかい!」
老婦人の声が響いた。
杖を石畳へ強く突く。
「あんな火の中へ、何をしに行ったんだい!」
「……資料を」
「資料より命が大事だろう!」
ティセラが黙った。
俺も思わず背筋を伸ばした。
オルネラの目は怒っていた。
けれど、その奥には別のものがあった。
怖かったのだ。
孫が炎の中へ消えていくところを見て。
もう二度と出てこないかもしれないと思って。
「……ごめん」
ティセラが小さく言った。
オルネラはしばらく孫を見つめていた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……本当に、昔から変わらない子だね」
「……そう?」
「ああ。危ないと思ったら、止める前に動く。何か見つけたら、確かめずにはいられない」
老婦人はティセラの頬へ手を伸ばした。
「……無事でよかったよ」
ティセラの表情が揺れた。
そして、珍しく何も言い返さなかった。
俺は二人を見ながら、少し離れた場所へ目を向けた。
倉庫からは、まだ細い煙が上がっている。
あの男たちは、何のために図面を盗もうとしたんだろう。
そして、どうして燃やす必要があったのだろう。
◇
「……見せておくれ」
しばらくして、オルネラが言った。
ティセラは頷き、写し取った紙を広げた。
そこには細かな文字が何行も並んでいた。
俺は横から覗き込む。
『第三搬出路』
『連動式重錘装置』
『旧式制動機使用不可』
聞き慣れない言葉ばかりだった。
「……これ、何のこと?」
俺が尋ねると、オルネラは紙を持つ手に力を込めた。
「……やっぱり、第三搬出路か」
「知ってるの?」
ティセラが尋ねる。
「昔、事故が起きかけた場所だよ」
俺は顔を上げた。
「……事故?」
「ああ。荷台を動かすための重りが、片方だけ外れかけたことがあってね。止めようとしたら、別の荷台まで引っ張られたんだ」
オルネラはゆっくりと話した。
「幸い、人が乗っていなかったから大事にはならなかった。でも、あの時のままでは危険だと分かって、使わなくなったんだよ」
「……それを、また使っている?」
「そう考えるのが自然だね」
オルネラは顔を上げた。
「しかも、この書き込みを見る限り、誰かが昔の制動機を使わずに動かそうとしている」
リオルが眉を寄せた。
「……古い止め方を使えないのに、どうやって止めるんですか?」
「さあね」
老婦人の声が低くなった。
「新しい仕組みを作ったのかもしれない。でも、連動する設備の一部だけ変えたなら、ほかの部分まで安全だとは限らない」
俺は背筋が冷たくなるのを感じた。
あの北門の施設で、患者を乗せた寝台が水へ落とされかけた時のことが頭に浮かぶ。
あの程度の設備でも、たった一つ留め具が外れただけで、人が死にかけた。
もっと大きな仕組みだったら、どうなるのだろう。
「……ばあちゃん」
ティセラが声をかけた。
「まだ続きがあるの」
彼女は紙の下の方を指した。
そこには、別の文字があった。
『再調整記録』
その下には、日付と担当者名が記されている。
俺は目を凝らした。
見覚えのある名前だった。
『ティセラ』
オルネラが息を呑んだ。
ティセラは自分の名前をじっと見つめている。
「……また、私の名前」
声が小さかった。
「ばあちゃん。これも、私が書いたの?」
オルネラはすぐには答えなかった。
「……分からないよ」
「でも、字は似てる」
「ああ。似ている」
ティセラは黙った。
彼女の〈転写〉なら、見た文字をそっくり写すことができる。
だから、筆跡が同じだからといって、本人が考えて書いたものとは限らない。
それでも、記憶のない時期の日付と名前が重なっていることは、偶然とは思えなかった。
「……何で、こんなところにいるのよ」
ティセラが呟いた。
俺は隣へ立った。
「ティセラ……」
「私、覚えてないの」
彼女は紙から目を離さなかった。
「こんな設備を調べたことも、書き込みをしたことも。何も覚えてない」
指先が、少しだけ震えていた。
「なのに、名前だけが残ってる」
俺は何と言えばいいのか分からなかった。
慰める言葉を探したが、簡単な言葉で済ませてはいけない気がした。
その時、オルネラが孫の肩へ手を置いた。
「……ティセラ」
彼女が顔を上げる。
「覚えていないなら、調べればいい」
「……ばあちゃん」
「自分が何をしたのか、誰に何を書かされたのか。分からないなら、分かるところから調べるんだよ」
老婦人はまっすぐ孫を見た。
「私も手伝う。もう一人で抱え込むのはやめたからね」
ティセラはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……本当に、相変わらずね」
「誰に似たと思ってるんだい」
俺は思わず笑った。
リオルも隣で頷いている。
「……やっぱり似てるよな」
「聞こえてるわよ!」
ティセラが睨んだ。
その声には、ようやくいつもの調子が戻っていた。
◇
取り押さえられた男の所持品を調べていた兵士が、俺たちのところへ来たのは、それから少し後だった。
「皆さん。少し確認していただきたいものがあります」
兵士は小さな紙片を差し出した。
「男の上着の内側から見つかりました。何かの作業指示のようです」
俺は紙を見た。
そこには、短い文章が書かれていた。
『第三搬出路 試動準備』
その下に、日時が記されている。
「……これ」
リゼが声を上げた。
「明日の朝ですね」
俺は頷いた。
さらに下を見る。
『安全装置の取り外しを完了後、試動を開始すること』
何度も読み直した。
安全装置の取り外し。
さっきオルネラが、古い制動機を使わずに動かそうとしていると言っていた。
その話と繋がってしまう。
「……これ、危なくないですか?」
俺が尋ねると、オルネラの顔色が変わった。
「……馬鹿な」
「どうしたの?」
ティセラが聞く。
「安全装置を外すなんて、何を考えてるんだい。新しい制動機が十分に試されていなかったら、荷台を止められなくなるよ」
老婦人は紙を握りしめた。
「どこで試すつもりなんだ」
兵士が首を振った。
「場所は書かれていません。ただ、男はこの紙を燃やそうとしていたようです」
リオルが俺を見た。
「……セイン」
「うん」
「これ、明日まで待ってたらまずいかもしれないな」
俺も同じことを考えていた。
あの倉庫の図面を盗もうとした男たち。
燃やされかけた記録。
そして、明日の朝に動かされるという第三搬出路。
全部が繋がっているのだとしたら、今のうちに場所を突き止めなければならない。
「……ばあちゃん」
ティセラが口を開いた。
「第三搬出路がどこにあるか、分かる?」
オルネラは少し考えた。
「昔の場所なら知ってるよ。でも、今も同じ入口を使っているかは分からないね」
「それでもいいわ」
ティセラの声が強くなった。
「確認しに行きましょう」
「……ティセラ」
俺が声をかけると、彼女は振り向いた。
「何?」
「今度は、勝手に先へ行かないでね」
ティセラが目を瞬かせた。
そして、にやりと笑った。
「それ、あんたが言う?」
「……ごもっともです」
リオルが吹き出した。
俺も苦笑したが、すぐに表情を引き締めた。
今度の相手は、ただの商会の書類じゃない。
実際に人が乗るかもしれない設備が、明日の朝に動かされようとしている。
止められなければ、また誰かが傷つくかもしれない。
俺は兵士へ向き直った。
「ムラサメさんにも、この紙を見てもらえますか」
「もちろんです。すぐに報告します」
兵士が走っていく。
俺たちは、もう一度オルネラが持ってきた図面を広げた。
焦げた紙の上には、細い線がいくつも交差している。
その中の一本だけが、赤いインクで強くなぞられていた。
第三搬出路。
ティセラはその線を指で追い、途中で手を止めた。
「……待って」
「どうしたの?」
「ここ、よく見て」
彼女が示した先には、小さな印があった。
輪の中に、三本の線が引かれている。
図面の端にも、同じ印が描かれていた。
その横に、短い言葉が添えられている。
『両側同時解除』
オルネラが目を細めた。
「……これも、昔の図面にはなかった書き込みだね」
リオルが眉を寄せる。
「両側同時って、何を解除するんですか?」
「……分からない」
オルネラは静かに答えた。
「でも、もし連動する荷台の止め具を指しているなら、片方だけ操作するのは危険だよ」
俺は紙を見つめた。
何が起きるのか、まだ分からない。
けれど、さっき火の中で見た図面の文字が、思っていた以上に重要なものだったらしい。
「……ティセラ」
俺が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「写しておいて、よかったね」
「……ええ」
彼女は静かに頷いた。
それから、自分の名前が書かれた部分を見た。
「でも、まだ分からないわ」
「何が?」
「この書き込みをした人が、何を知っていたのか」
ティセラは紙を持つ手に力を込めた。
「それに、もし本当に私が書いたものなら……」
言葉が途切れた。
俺は続きを待った。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……私は、何を止めようとしていたのかしら」
冷たい風が吹いた。
焼けた倉庫の向こうで、古い水路の水が静かに流れている。
俺はティセラの隣に立ち、赤い線の先を見つめた。
六年間の記憶がなくても、彼女は今、自分の足でここに立っている。
その過去に何があったのかは、まだ分からない。
でも、明日の朝に何か危険なことが起きようとしているなら、放っておくわけにはいかなかった。
俺は図面を折りたたむティセラを見ながら、次に向かう場所を考えていた。
その時、遠くの水路の方から、低い金属音が響いた。
ゴン……。
誰かが大きな鐘を、遠くで一度だけ鳴らしたような音だった。
オルネラが顔を上げた。
「……まさか」
もう一度、音がした。
ゴン……。
老婦人の顔から血の気が引いた。
「……あの音を、まだ覚えてる」
「何の音なの?」
ティセラが尋ねる。
オルネラは図面の赤い線を見つめたまま、掠れた声で答えた。
「第三搬出路の重りが動く時の音だよ」
俺は息を呑んだ。
「……でも、試運転は明日の朝なんじゃ……」
「ああ」
オルネラは杖を握り直した。
「だから、おかしいんだ」
遠くで三度目の金属音が響いた。
今度は、さっきよりも大きかった。
「……誰かがもう、動かしてるんだよ」




