第八十一話 二本目の綱
「固有術を譲りたい人、か……」
王宮から預かった手紙を読み返しながら、俺は呟いた。
そこには、たった数行の言葉が書かれている。
『私は、自分の意思で固有術を譲りたいと思っています。どうか、その選択を奪わないでください。』
昨日、カイエンから渡されたものだ。
誰かに固有術を奪われた人たちなら、これまでに何人も見てきた。ダグもそうだし、リオルだって売らないと断ったのに、勝手に予約を受け付けられていた。
だから、固有術の移転なんてやめてしまえばいいと思っていた。
でも、自分から譲りたいという人がいるのなら、その人には何と言えばいいんだろう。
「セイン、また難しい顔してる」
隣を歩くリオルが、ひょいと手紙を覗き込んだ。
「そんなに?」
「うん。今朝からずっと眉間に皺が寄ってる」
「考え事をしてるんだよ」
「知ってる。だから言ってるんだけど」
リオルは笑いながら、自分の眉間を指で押した。
「そのうち戻らなくなるぞ」
「余計なお世話だな」
俺が言い返すと、前を歩いていたリゼが振り向いた。
「リオル、あまりからかわないでください。セインは真剣なんですから」
「お、リゼが味方してくれた」
「ただ、少し考えすぎだとは思います」
「……結局そっちも?」
リゼが小さく笑った。
俺はため息をついたが、さっきよりは気持ちが軽くなっていた。
今日は手紙を書いた本人に会うことになっている。
カイエンが面会を取り次いでくれたのだが、本人が希望した場所は王宮ではなかった。
南河岸にある、小さな索具工房。
船で使う綱や帆布を扱う職人の仕事場だという。
「それにしても、どうして工房なんでしょうね」
俺が尋ねると、ダグが答えた。
「ご本人が、実際に仕事をしているところを見てほしいと希望されたそうです」
「仕事を?」
「はい。固有術を譲りたい理由も、そこへ来れば分かると」
俺は手紙を鞄にしまった。
固有術を売る人は、何かに困っているのだと勝手に思い込んでいたのかもしれない。
けれど、この手紙の人は違うのだろうか。
答えは、もう少し先にありそうだった。
◇
南河岸へ着くと、朝から荷揚げの仕事が始まっていた。
水路には大小の船が並び、岸では大勢の作業員が荷車を押している。濡れた木材と川の水、それから積み荷の香辛料が混ざった匂いがした。
俺たちが訪ねた工房は、その船着き場の一角にあった。
入口には太さの違う綱が何本も吊るされ、奥では若い男が縄を編んでいる。
「すみません。ベルナ・ルードさんはいらっしゃいますか?」
声をかけると、男が顔を上げた。
「ベルナさん? 奥だけど……あんたら、王宮の?」
「はい。お話を伺う約束をしていまして」
「ああ、例の」
男は少しだけ顔を曇らせた。
「ちょっと待ってて」
奥へ声をかけると、すぐに大きな返事が聞こえてきた。
「聞こえてるよ! そんなに叫ばなくたって耳は遠くない!」
「だったら返事してくれよ!」
「今しただろ!」
リオルが吹き出した。
「……元気な人だな」
しばらくして、奥から一人の女性が出てきた。
年齢は六十を過ぎているだろうか。灰色の髪を後ろで束ね、袖を肘までまくっている。手のひらには古い傷がいくつもあり、長年綱を扱ってきたことが分かった。
「おや、若いのが四人も来たのかい」
女性は俺たちを見回し、にやりと笑った。
「王宮ってのは暇なんだねえ」
「いえ、そんなことは……」
「冗談だよ。そんなに真面目に受け取らないでおくれ」
俺が返事に困っていると、女性は豪快に笑った。
「ベルナ・ルードだよ。手紙を書いたのは私さ」
ベルナは俺たちを工房の中へ案内した。
作業台には、太い綱や麻糸、金具が所狭しと並んでいる。壁には古い船の絵が掛かっていて、その横には何十年も使われていそうな道具が吊るされていた。
「立ち話じゃ何だから、座りな。お茶くらい出すよ」
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、ベルナは奥の若い男を呼んだ。
「フィン! 客だよ! 茶を頼む!」
「俺は弟子であって、茶汲み係じゃないんだけど!」
「じゃあ弟子らしく、師匠の頼みを聞きな!」
「都合のいい時だけ師匠になるなよ!」
またリオルが笑った。
どうやら、ずいぶん賑やかな工房らしい。
◇
「私の固有術は〈綻び〉っていうんだ」
お茶が運ばれてくると、ベルナは作業台から二本の綱を取った。
どちらも同じくらいの太さで、俺には違いが分からなかった。
「触った縄や布の、弱くなってるところが分かる。切れそうな繊維や、内側で傷んだ部分なんかね」
「……見ただけじゃ分からないところも?」
「ああ。だから、この仕事には随分助けられたよ」
ベルナは片方の綱を俺へ渡した。
「どっちが丈夫だと思う?」
「え?」
「当ててごらん」
俺は二本を見比べた。
片方は少し色が濃いが、どちらもきれいに編まれている。引っ張ってみても、大した違いは感じられなかった。
「……こっちでしょうか」
俺が選ぶと、ベルナは笑った。
「残念。そっちは芯が傷んでる」
「えっ?」
「ほら、ここ」
彼女が綱の一部分を指した。
外側は何ともなさそうだが、編み目を少し広げると、中の繊維が切れかかっている。
「本当だ……」
「船を繋ぐ綱が切れたら、下手をすれば人が死ぬ。だから、見えない傷も分かるこの力は便利だったんだよ」
ベルナは綱を丁寧に巻き直した。
「もう四十年以上、この仕事をしてる。最初は父親の手伝いだったけど、いつの間にか私が一番古株になっちまった」
「四十年以上……すごいですね」
「長くやってるだけさ。若い頃は失敗ばっかりだったしね」
そう言って笑ったあと、ベルナは自分の右手を見つめた。
「でも、最近は指が思うように動かなくなってね」
俺も彼女の手を見た。
少し曲がった指先が、綱の上に置かれている。
「朝なんか、握るのも一苦労さ。術で弱いところが分かっても、昔みたいにすぐ直せるわけじゃない」
「……それで、固有術を譲ろうと?」
「ああ」
ベルナはあっさり頷いた。
「私が仕事を辞めたら、この力も一緒に使われなくなる。それが惜しいんだよ」
俺は少し考えた。
「でも、ベルナさんが使わなくなっても、ほかの人が普通に綱を調べることはできますよね」
「もちろんだよ。実際、今でもみんなそうしてる」
ベルナは奥で仕事をしているフィンへ目を向けた。
「ただ、分かることが一つ増えれば、防げる事故も増える。渡せるものなら、次の人に渡したいのさ」
その言葉には、迷いがなかった。
俺は手元の綱を見つめた。
あの北門の施設で見た寝台や、革帯のことを思い出す。
あそこで人を苦しめた技術を、この人は自分から望んでいる。
「……怖くはないんですか」
思わず尋ねた。
ベルナは俺を見た。
「何がだい?」
「固有術を移した人が、体調を崩したり、亡くなったりしています。まだ安全な方法も確立されていないんですよね」
「ああ。聞いたよ」
ベルナの表情が少し変わった。
「北門の施設の話もね。ひどいことをした連中がいるらしいじゃないか」
「はい」
「だからって、私が譲りたいと思うことまで間違いだとは思わないよ」
ベルナは静かに言った。
「もちろん、明日にでも試してくれなんて言わない。危ないなら待つさ。私だって、死ぬためにこの手紙を書いたんじゃない」
俺は顔を上げた。
「……じゃあ」
「いつか安全に譲れる日が来た時、私がそうしたいと言えるようにしておいてほしいんだよ」
ベルナは俺たちを見回した。
「それだけのことさ」
不思議だった。
こんなに簡単な言葉なのに、俺は今まで考えたことがなかった。
売るか、売らないか。
奪われるか、守るか。
その二つだけではないのかもしれない。
◇
「……ちょっと待ってくれよ」
奥から声がした。
振り向くと、フィンが腕を組んで立っていた。
さっきお茶を運んでくれた若い男だ。
「師匠。俺、まだ納得してないからな」
「何だい。まだその話をしてるのかい」
「するよ! 俺にとっては大事な話だ!」
ベルナは面倒くさそうに肩をすくめた。
「この子はフィン。うちの弟子でね。腕はいいんだけど、口が悪くて困るんだ」
「誰に似たと思ってるんだよ!」
リオルがとうとう声を出して笑った。
フィンは俺たちを見て、少し気まずそうに咳払いした。
「……すみません。客の前で」
「いえ。大丈夫です」
俺が答えると、フィンはベルナへ向き直った。
「本当に、誰かに固有術を譲るつもりなのか?」
「ああ。安全にできるようになったらね」
「だったら、仕事を辞めてゆっくりすればいいだろ。何でそんなことまでしなきゃいけないんだよ」
「したいからだよ」
「それじゃ分からないって!」
フィンの声が大きくなった。
「師匠は、もう十分働いたじゃないか。俺たちだって、ここまで教えてもらったんだ。術がなくたって、ちゃんとやれるようになるよ」
ベルナは少し黙った。
「……あんたは、私が誰かに術を譲るのが嫌なのかい?」
「嫌だよ」
フィンは即答した。
ベルナの眉が上がる。
「何でだい」
「危ないからだ!」
フィンは拳を握った。
「まだ人が死んでるような技術なんだろ。なのに、師匠が自分から譲るって言い出したら、あの商会みたいな連中が喜ぶだけじゃないか!」
工房が静かになった。
ベルナはフィンを見つめていた。
俺も、何と言えばいいのか分からなかった。
フィンの言うことは、よく分かる。
あの施設で起きたことを知っていれば、誰だって怖くなる。
「……フィンさん」
リゼが声をかけた。
「あなたは、ベルナさんのことが心配なんですね」
「当たり前です」
フィンは視線を落とした。
「……俺、親父が死んでから、ここに置いてもらったんです。何もできなかった俺に、師匠は仕事を教えてくれた」
ベルナが目を細めた。
「昔の話だね」
「俺にとっては、昔話じゃないんだよ」
フィンは顔を上げた。
「俺が一人前になったら、師匠にはのんびりしてもらいたいんだ。なのに、最後の最後まで誰かのために危ないことをするなんて……」
そこで言葉が詰まった。
ベルナはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと息を吐いた。
「……そうかい」
少しだけ、嬉しそうな声だった。
でも、すぐにいつもの調子へ戻った。
「心配してくれるのはありがたいよ。でもね、フィン」
「……何だよ」
「私の残りの人生を、あんたが全部決めるのかい?」
フィンが目を見開いた。
「……そんなつもりじゃ」
「分かってるよ。だから私も、あんたの人生を勝手には決めない」
ベルナは綱を手に取った。
「私は譲りたい。でも、受け取る人が嫌だと言うなら、無理に押しつけるつもりはないさ。あんたにだって、受け取れなんて言わない」
フィンは黙っていた。
ベルナは笑った。
「安心しな。私もまだまだ長生きするつもりだよ」
「……だったら、無茶するなよ」
「それはこっちの台詞だね。昨日、私が止めた綱を勝手に使おうとしたのは誰だい?」
「だから、あれは間違えて……!」
また二人の言い合いが始まった。
俺は思わず笑ってしまった。
けれど、笑いながら考えていた。
ベルナは本気で譲りたい。
フィンは本気で止めたい。
どちらも、相手のことを大切に思っている。
だからこそ、簡単には決められないのだろう。
◇
話が一段落した頃、工房の外から怒鳴り声が聞こえた。
「おい! 誰か来てくれ! 綱がまずい!」
フィンが顔を上げた。
「……船着き場だ!」
次の瞬間、彼は工房を飛び出していた。
ベルナも椅子から立ち上がる。
「まったく、今度は何だい!」
俺たちは顔を見合わせ、急いで後を追った。
船着き場では、大きな荷船が岸に寄せられているところだった。
船首を繋いでいた太い綱が、嫌な音を立てている。
そのすぐ近くで、作業員が慌てて手を振っていた。
「綱が裂けてる! 誰か、替えを持ってこい!」
「船を止めろ! これ以上寄せるな!」
だが、川の流れに押されて、船はじわじわと岸から離れ始めていた。
船着き場には荷を降ろすための渡し板がかけられていて、その上に作業員が一人取り残されている。
「……危ない!」
俺は思わず駆け出しかけた。
リオルが左手で俺を止める。
「セイン、待て!」
「でも、あの人が!」
「分かってる。まず板から降りてもらう!」
リオルは作業員へ向かって叫んだ。
「荷物を置いて、岸へ戻って!」
作業員が振り向く。
その瞬間、綱が一本、ぶつりと切れた。
船首が大きく揺れ、渡し板の端が跳ね上がった。
「うわっ!」
作業員が尻もちをつく。
船と岸の間に隙間ができ、板が斜めに傾き始めた。
俺の足が止まった。
あの人が落ちたら、船と岸の間に挟まれるかもしれない。
今すぐ助けに行きたい。
でも、俺が板へ飛び乗ったら、重さで余計に危なくなるんじゃないか。
何をすればいい。
考える間にも、船は動いている。
「下がって!」
フィンの声が響いた。
彼は工房から持ち出した予備の綱を抱えて走ってきた。
「船の人! こっちの綱を取ってくれ!」
フィンが綱の端を投げる。
船の上にいた男が受け取り、すぐに船首の金具へ掛けた。
「ダグ、そっちの係留柱を空けて!」
「分かった!」
ダグが近くの作業員を誘導し、邪魔になっていた荷車を退かす。
リオルは渡し板の近くにいる人々へ声をかけ、危険な場所から離れさせていた。
「セイン! 倒れてる人に声をかけて! 板の上には行くな!」
「分かった!」
俺は岸の端から叫んだ。
「聞こえますか! 立たなくていいです! 身体を低くして、岸の方へ!」
作業員がこちらを見る。
顔が真っ青だった。
「板が動いて……!」
「分かってます! 今、船を止めますから!」
そう答えながら、俺自身の声も震えていた。
板が少しずつ岸から離れていく。
早く。
何とかしてくれ。
祈るような気持ちでフィンを見ると、彼は予備の綱を係留柱へ回していた。
「船の人! 少しずつ張って! 一気に引くな!」
船の上から返事が飛ぶ。
フィンは綱の張り具合を見ながら、結び目の位置を調整した。
だが、すぐに顔をしかめた。
「……まずい。こっちも古い!」
「フィン、見せな!」
ベルナが近づいてきた。
「師匠、危ないから下がってろ!」
「うるさいね! 綱くらい見られるよ!」
ベルナは予備の綱の端へ手を伸ばした。
指先で表面をなぞり、少しだけ目を閉じる。
「……こっちは駄目だ。芯が弱ってる」
「やっぱりか!」
「赤い印の方を持ってきな! 昨日、私が確かめたやつだ!」
フィンが工房を振り向く。
入口には、別の綱の束が置かれていた。
「……あっちか!」
フィンが走り出す。
俺も追いかけようとしたが、ダグが横から声をかけてくれた。
「セインさん、私が運びます。肩を傷めているでしょう」
「でも……!」
「無理をすれば、余計に遅くなります」
俺は一瞬迷い、頷いた。
「……お願いします!」
ダグはすぐに工房へ向かった。
俺は板の上に取り残された作業員へ、もう一度声をかける。
「もう少しです! そのまま動かないで!」
作業員が小さく頷いた。
板の端が、またきしんだ。
汗が背中を伝った。
やがて、ダグとフィンが太い綱を抱えて戻ってきた。
「これだ!」
フィンが叫んだ。
ベルナは綱に触れ、すぐに頷いた。
「大丈夫。こいつなら持つ!」
新しい綱が船へ渡される。
フィンは作業員たちと力を合わせ、係留柱へしっかりと結びつけた。
船が少しずつ岸へ引き戻される。
渡し板の傾きが緩やかになった。
「……今だ! ゆっくり戻って!」
リオルが声をかける。
板の上の作業員が四つん這いになり、少しずつ岸へ近づいてきた。
あと少し。
俺は思わず手を伸ばしたが、届く距離ではなかった。
代わりに、近くの作業員が岸から身体を支え、男を引き上げた。
全員が無事に戻ったところで、船着き場から大きな息が漏れた。
俺も膝に手をついた。
「……よかった」
喉がからからだった。
あの人が落ちるのではないかと思った瞬間、足の裏が冷たくなった。
今はようやく、ちゃんと息ができる気がした。
◇
「……まったく!」
騒ぎが収まると、ベルナがフィンの頭を軽く小突いた。
「だから昨日言っただろ! 傷んだ綱は使うなって!」
「分かってるよ! 俺が出したんじゃない!」
「だったら、誰が出したか確かめるんだよ!」
「分かったって!」
フィンは頭を押さえながら答えた。
その様子を見て、作業員たちが小さく笑う。
さっきまで青ざめていた人たちにも、ようやく声が戻ってきた。
「……でも、フィン」
ベルナが言った。
「よく動いたね」
フィンが顔を上げた。
「……え?」
「船を止めるのも、人を助けるのも、あんたが先に考えて動いた。私が口を出す前からね」
「……そりゃ、弟子なんだから」
「そうだね」
ベルナは笑った。
「いい職人になったよ」
フィンは少し照れたように視線を逸らした。
「……今さら何だよ」
その顔を見て、俺も少し笑ってしまった。
ベルナの〈綻び〉がなければ、予備の綱の危険に気づくのは遅れたかもしれない。
でも、それだけで人を助けられたわけじゃない。
フィンが動き、ダグが綱を運び、リオルが人を誘導した。
船の上の人たちも力を合わせていた。
誰か一人の固有術だけで、全部が解決したわけじゃなかった。
「……セイン」
リゼが隣に来た。
「大丈夫ですか?」
「うん。俺は何もしてないから」
「何もしていないことはありませんよ」
リゼは少し首を傾げた。
「板の上にいた方へ、ずっと声をかけていたでしょう」
「……それくらいしかできなかったけど」
「それくらい、じゃありません」
彼女ははっきりと言った。
「あの方、セインの声を聞いて、ずっとこちらを見ていました。あの人が動き出さずに済んだのは、セインが声をかけ続けていたからだと思います」
俺はもう一度、助けられた作業員を見た。
仲間に肩を借りながら、何度も礼を言っている。
大きなことはできなかった。
でも、少しは役に立てたのだろうか。
「……ありがとう、リゼ」
「どういたしまして」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、なぜだかさっきとは違う意味で落ち着かなくなった。
◇
工房へ戻ると、ベルナは俺たちへもう一度お茶を出してくれた。
「いやあ、悪かったね。せっかく話を聞きに来てもらったのに、騒ぎに巻き込んじまって」
「いえ。皆さんが無事でよかったです」
俺が答えると、ベルナは頷いた。
「そうだね。それが一番だ」
しばらくして、フィンが工房へ戻ってきた。
船着き場の片づけを終えたらしく、額に汗が浮かんでいる。
ベルナは彼を呼び止めた。
「フィン。ちょっと座りな」
「まだ仕事が残ってるんだけど」
「五分くらい、座ったって罰は当たらないよ」
フィンは渋々、椅子へ腰を下ろした。
ベルナは向かいに座り、少しだけ真面目な顔をした。
「さっきの話だけどね」
「……術を譲るって話か?」
「ああ」
フィンは黙った。
「私があんたに綱の扱い方を教えたのは、私の代わりに〈綻び〉を使わせたかったからじゃない」
ベルナはゆっくりと言った。
「自分の目で見て、手で確かめて、危ないと思ったら止められる職人になってほしかったからさ」
「……うん」
「今日、あんたはちゃんとそれができた」
フィンは俯いた。
「……でも、師匠がいなかったら、あの綱が傷んでるって分からなかった」
「そうだね」
「だから、やっぱりその術は必要なんだよ」
ベルナは頷いた。
「便利な力だよ。だから私は、できるなら誰かに渡したい」
そこで、少しだけ笑った。
「でもね、フィン。あんたがその力を受け取らなきゃいけないわけじゃない」
フィンが顔を上げた。
「私は譲りたい。あんたは今は受け取りたくない。それなら、どっちの気持ちも大事にすればいいじゃないか」
「……そんな簡単に」
「簡単じゃないよ。だから話してるんだろ」
ベルナはそう言って、フィンの手を取った。
俺は二人の手を見つめた。
ベルナの手には長年の傷があり、フィンの手にも新しい傷がいくつもあった。
同じ仕事をしてきた手だった。
「私はね、フィン」
ベルナが続けた。
「私が引退する時、あんたが困らないようにしたいんだよ。術を渡せるなら、それも一つの方法だと思った」
「……うん」
「でも、今のあんたを見てたら、少し安心した」
フィンの目が揺れた。
「術がなくたって、ちゃんと考えて動けるじゃないか」
ベルナは笑った。
「それなら、渡せる日が来るまで、私はゆっくり待てばいい」
「……師匠」
「それに、相手はあんたじゃなくたっていいんだよ。欲しい人がいて、その人も安全に使えるなら、私はそれでいい」
フィンはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐いた。
「……分かった」
そして、顔を上げた。
「でも、危ないことは絶対にするなよ」
「分かってるよ」
「勝手に商会へ行ったりするなよ」
「行かないって」
「約束だからな」
「……あんた、心配性になったねえ」
ベルナが呆れたように笑うと、フィンもようやく笑った。
俺はその光景を見ながら、ゆっくりと息を吐いた。
譲りたいという願いも、譲ってほしくないという願いも、どちらか一方だけを正しいと決めつける必要はないのかもしれない。
◇
「……ベルナさん」
帰る前に、俺はもう一度声をかけた。
「何だい?」
「今日のお話、カイエンさんにも伝えます」
「ああ。頼むよ」
「ただ、まだ安全な移転方法が見つかったわけではありません。だから、すぐに譲れるようになるかは……」
「分かってるよ」
ベルナは俺の言葉を遮らず、最後まで聞いたあとで頷いた。
「急がなくていい。でも、最初から無理だって決めつけないでおくれ」
「……はい」
「それと、もう一つ」
ベルナは少し真剣な顔になった。
「私が譲りたいと言ったからって、勝手にどこかの商会が買ったことにするのは御免だよ」
俺は目を見開いた。
リオルも顔を上げる。
「術を譲るのと、売るのは違う。相手を選ぶのも、いつ譲るか決めるのも、私自身だ」
ベルナははっきりと言った。
「それを忘れないでほしいんだよ」
俺は深く頷いた。
「……分かりました」
そうだ。
この人は、自分の固有術を誰かに渡したいと願っている。
でも、誰にでも渡したいわけじゃない。
今すぐ危険な実験を受けたいわけでもない。
自分の人生を、自分で決めたいのだ。
「……ベルナさん」
「うん?」
「俺、最初は固有術を移すこと自体が間違ってるんじゃないかと思ってました」
ベルナは黙って聞いていた。
「でも、今日お話を聞いて、少し考えが変わりました」
「そうかい」
「だからって、今の商会のやり方を認めるつもりはありません。でも……」
俺は言葉を探した。
「ベルナさんが譲りたいと思うことまで、俺が間違いだって言うのは違う気がします」
ベルナは少しだけ目を細めた。
「……あんた、いい子だねえ」
「えっ?」
「でも、まだ若いね」
「……それは、まあ」
「全部の答えを、今すぐ出そうとしなくていいんだよ」
彼女は笑った。
「分からないことがあったら、また聞きに来な。お茶くらいなら、いつでも出してやるから」
「……ありがとうございます」
俺も笑った。
その時、奥からフィンの声がした。
「師匠! さっきの綱、どこにしまえばいい?」
「赤い印の棚だよ!」
「どっちの赤い印だよ!」
「二つあるだろ! 右だよ、右!」
「最初からそう言ってくれ!」
ベルナは大きなため息をついた。
「……まったく。あの子はまだまだだね」
俺たちは顔を見合わせ、声を上げて笑った。
◇
帰り道、川沿いの通りを歩きながら、俺はベルナの言葉を思い返していた。
自分の人生を、自分で決めたい。
それは、きっと誰にとっても当たり前の願いだ。
リオルは売らないと決めた。
ダグも売らないと断った。
ベルナは、いつか譲りたいと願っている。
その全部を、同じように大切にできる仕組みが必要なのだろう。
「……セイン」
リゼが声をかけてきた。
「何?」
「今日、ベルナさんに会えてよかったですね」
「うん」
俺は頷いた。
「正直、最初はどう話したらいいか分からなかった」
「私もです」
リゼは少し笑った。
「でも、あの方は自分の考えを、ちゃんと言葉にしてくれましたね」
「うん。すごい人だったな」
俺は少し考えてから、リゼへ尋ねた。
「……リゼはさ」
「はい」
「もし、誰かに自分の固有術を譲れるようになったら、どうする?」
彼女は驚いたように目を瞬かせた。
すぐには答えなかった。
川の上を風が吹き抜け、銀白の髪が頬へかかる。
「……今は、譲りたいとは思いません」
やがて、リゼはそう答えた。
「〈空白視〉は、私にとって大切な力ですから」
「……そっか」
「でも、もし本当に誰かを助けるために必要で、私自身がそうしたいと思えたら、その時は考えるかもしれません」
彼女は俺を見た。
「セインは?」
「俺?」
「はい。自分の〈返却〉を譲れるようになったら、どうしますか?」
俺は少し考えた。
〈返却〉。
今まで、この力のおかげで何人もの人と出会えた。
落とし物を返すたびに、誰かが笑ってくれる。
でも、この力がなくなったら。
俺は、どうなるんだろう。
「……分かんないな」
正直に答えた。
「誰かを助けられるなら、譲りたいと思うかもしれない。でも……」
「でも?」
「俺、この力で仕事するの、結構好きなんだ」
リゼは微笑んだ。
「知っています」
「だから、なくなったら寂しいだろうなって」
「……そうですね」
彼女は少しだけ歩く速度を落とした。
「だったら、無理に決めなくていいと思います」
俺は顔を上げた。
「ベルナさんだって、今すぐ譲るわけじゃありません。セインも、自分の気持ちを大事にしてください」
「……うん」
リゼの言葉が、思っていた以上に嬉しかった。
誰かのために何かをしたい。
そう思うことは、悪いことじゃない。
でも、自分自身がどうしたいのかも、忘れちゃいけないのかもしれない。
そんなことを考えていると、前を歩いていたリオルが振り向いた。
「なあ、セイン」
「何?」
「お前、もし〈返却〉を譲ったら、普通に靴職人になるのか?」
「……どうだろうな」
「父さんの店、継ぐとか?」
「それも悪くないかも」
俺がそう答えると、リオルはにやりと笑った。
「じゃあ、俺の靴も安く直してくれよ」
「お前のは高くする」
「何でだよ!」
「すぐ無茶して傷めるから」
「それはお前も同じだろ!」
後ろからダグが呆れた声を出した。
「……お前ら、どっちも怪我をしてるんだから、大人しく歩け」
「ダグまで!」
リオルが声を上げる。
俺は笑いながら、少しだけ足を速めた。
川の向こうでは、さっきの荷船がゆっくりと動き始めていた。
新しい綱で繋ぎ直された船は、作業員たちの掛け声に合わせて、岸を離れていく。
一本の綱が切れても、別の綱で支えることができる。
でも、その綱を選び、結びつけるのは、結局そこにいる人間なんだ。
俺は船の姿を目で追いながら、ベルナとフィンの顔を思い浮かべた。
固有術を譲ることが、いつか本当に人を助ける方法になるかもしれない。
ただ、そのために誰かが犠牲になっていいわけじゃない。
譲る人も、受け取る人も、自分で選べること。
そして、選ばなかった人の意思も、きちんと守られること。
俺はそのことを忘れずに、カイエンへ今日の話を伝えようと思った。
あの人なら、少なくとも話は聞いてくれるはずだ。
グレゴールの商会がしたことは、絶対に許せない。
でも、あの商会を止めることと、ベルナの願いまで否定することは、きっと別の話なのだろう。
俺はそんなことを考えながら、仲間たちと並んで王都の通りを歩いていった。




