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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第四章 才能の値札

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第八十話 王宮


「……王宮って、何回来ても慣れないな」


 俺が呟くと、隣のリオルが笑った。


「そうか? 俺は結構好きだけどな」


「お前は仕事で来ることも多いだろ」


「まあね。でも、今日はちょっと緊張してる」


「全然そう見えないんだけど」


「顔に出さないのも警護隊員の仕事だから」


 そう言いながら、リオルはあくびを噛み殺した。


「……今、緊張してた?」


「してたしてた」


 俺は呆れたが、少しだけ気持ちが軽くなった。


 昨日、グレゴールの商会を出たあとも、あの男の笑顔が頭から離れなかった。


 ヨルンが亡くなったことを知っていたのかと問い詰めても、グレゴールは困った様子すら見せなかった。


 それどころか、俺たちが怒るのを楽しんでいるように見えた。


 その顔を思い出すたび、腹の奥が熱くなる。


「セイン、また怖い顔になってますよ」


 リゼが俺の隣に並んだ。


「……そんなに分かりやすい?」


「はい。さっきから三回目です」


「数えてたの?」


「数えたくなくても分かります」


 彼女はそう言って、俺の肩へ目を向けた。


「それより、痛みはどうですか?」


「だいぶよくなったよ」


「今度は本当でしょうね?」


「……本当だって」


 リゼはまだ疑わしそうだったが、それ以上は追及しなかった。


 俺たちが向かっているのは、王宮東側にある行政棟だった。


 グレゴールの商会と王国が進めてきた固有術移転事業を取りまとめる、上級執務官カイエン・ローデル。


 昨日、エルセから渡された書簡には、俺たち全員に事情を聞きたいと書かれていた。


 ただし、商会の不正が明らかになった今でも、カイエンは固有術移転技術そのものを止めるつもりはないらしい。


 あんな施設を見たあとで、まだ続けようと思えるものなのか。


 俺には、それが理解できなかった。


     ◇


 案内された部屋には、大きな机と本棚があった。


 豪華な装飾はほとんどない。壁に王国の紋章が掛けられているくらいで、机の上には書類が整然と積まれていた。


 窓際に立っていた男性が、俺たちへ振り向いた。


「お待ちしていました」


 年齢は四十代半ばくらいだろうか。濃い灰色の上着を着て、細い縁の眼鏡をかけている。背筋はまっすぐで、話し方にも無駄がなかった。


 ただ、書類を扱っていたらしく、右手の指先に少しだけインクがついていた。


「カイエン・ローデルです。お忙しいところ、ご足労いただきありがとうございます」


 男性は一人ずつ顔を確かめた。


「セイン・アルケットさん。リゼさん。警護隊のリオルさんと、ダグ・ハーランさんですね」


「はい。本日はよろしくお願いします」


 俺が頭を下げると、カイエンも軽く礼を返した。


「こちらこそ。どうぞお掛けください」


 俺たちが席につくと、彼はすぐには話を始めなかった。


 代わりに、一枚の紙を机の中央へ置いた。


「まず、これをご覧ください」


 紙には王宮の印が押されていた。


『北門旧染物場施設に関する緊急措置』


 その下には、患者の移送停止、関係設備の保全、被害者の治療費の公費負担について書かれている。


「今朝、正式に発効させました」


 カイエンが言った。


「施設にいた方々の治療を最優先します。医師の判断によらない移送は認めません。死亡された方についても、独立した調査を行います」


「……それは、カイエンさんが?」


「私の権限で認められる範囲は、私が決裁しました。そのほかの処分については、担当部門へ正式に要請しています」


 俺は紙を見つめた。


 少なくとも、この人は何もせずにいたわけではないらしい。


「それから、もう一つ」


 カイエンは別の書類を取り出した。


「王国がグレゴール商会へ委託していた研究費について、新たな支払いを一時停止しました。すでに支払われた分も使途を調べています」


 ダグが顔を上げる。


「商会側から、異議は出ていないのですか?」


「当然、出ています。契約どおりの研究が進められなくなるという主張です」


「……それで?」


 カイエンは眼鏡の位置を直した。


「人が亡くなっている以上、契約の都合は後回しです」


 迷いのない返事だった。


 俺は思わず、カイエンの顔を見た。


 グレゴールとは、まるで違う。


 少なくとも今の言葉からは、人の命を軽く考えているようには感じられなかった。


「ただし」


 カイエンは続けた。


「私は、固有術移転の研究そのものを廃止するべきだとは考えていません」


 部屋の空気が、少し変わった。


     ◇


「……どうしてですか?」


 俺は尋ねた。


「北門の施設で、何があったかはご存じなんですよね」


「報告は受けています。あなた方が救出した患者の状態も、施設で亡くなった方々についても」


「それでも、続けるんですか?」


「同じやり方を続けるつもりはありません。あの施設で行われていたことは、研究と呼ぶ以前の問題です」


 カイエンは机に指を置いた。


「しかし、不正な実験が行われたからといって、技術の可能性そのものが消えるわけではありません」


 俺は返事に詰まった。


 カイエンは机の上に一冊の資料を開いた。


「例えば、長年、人々の治療に役立つ固有術を使ってきた人がいるとします。その方が高齢になり、もう現場で働けなくなった時、その力を本人の希望で後継者へ引き継げたとしたら、どうでしょう」


「……それは」


「今はまだ、確実にできる技術ではありません。ですが、将来それが安全に実現すれば、救われる命があるかもしれません」


 カイエンは淡々と続けた。


「固有術は、生まれながらに持つものです。どれほど努力しても、必要な固有術を持たない人はいます。一方で、持っていても使う機会がない人もいる」


「だから、持っている人から別の人へ移したいんですか」


「本人たちが望み、安全が確かめられるのであれば、選択肢として認める価値はあると考えています」


 俺は黙った。


 最初から全部間違っていると言ってくれた方が、まだ簡単だった。


 グレゴールのように、人の苦しみを楽しむ男なら、怒りをぶつけられる。


 けれどカイエンの話には、少し分かるところもあった。


 俺だって、困っている人を助けられる力があるなら、使ってほしいと思う。


 だからこそ、気になった。


「……でも、それを渡す人はどうなるんですか?」


 カイエンが顔を上げる。


「固有術を渡したあと、その人自身が困ることだってありますよね」


「もちろんです。ですから、本人の自由な意思と、移転後の生活を保障する仕組みが必要になります」


「……それって、本当にできるんでしょうか」


「できるようにしなければならない、と考えています」


 俺は膝の上で手を握った。


「俺、前にグレゴールの商会で、自分の固有術を売った女性に会ったんです」


 カイエンは頷いた。


「家族の治療費が必要だったという方ですね。報告にありました」


「はい。その人は、自分で売ると決めたそうです。でも、売ったあとに身体の調子が悪くなって、商会へ相談に来ていました」


 あの女性の顔が浮かんだ。


 受付で困り果てたように立っていた姿を、今でも覚えている。


「契約書に書いてあるから、商会は責任を負わないって言われて……」


「その対応は不適切です。健康被害の有無と契約上の説明責任を調べる必要があります」


「でも、そもそもその人は、家族の治療費がなかったら固有術を売らなかったかもしれません」


 俺はカイエンを見た。


「お金に困って、ほかに方法がなくて、それでも自分で決めたって言ったら……それは、本当に自由な意思なんでしょうか」


 カイエンはすぐには答えなかった。


 机の上で指を組み、しばらく考えている。


「……難しい問題ですね」


 やがて、そう言った。


「生活に困窮している方の選択を、完全に自由なものと呼べるか。確かに議論が必要です」


「だったら……」


「ですが、逆も考えなければなりません」


 カイエンの声が少し強くなった。


「その方がどうしても家族を助けたくて、自分の固有術を対価にすることを望んでいた場合、王国が一律に禁じることは正しいのでしょうか」


「……」


「危険だから認めないという判断にも、本人から選択肢を奪う側面があります」


 俺は返事ができなかった。


 あの女性が何を望んでいるのか、俺はまだ全部聞いていない。


 固有術を返してほしいのか。


 それとも、家族を助けるために売ったこと自体は後悔していないのか。


 その違いは、大きい気がした。


「……じゃあ、どうしたらいいんですか」


 思わず尋ねた。


 カイエンは少しだけ表情を緩めた。


「それを決めるためにも、研究と制度が必要なのです」


     ◇


「一つ、いいですか」


 リオルが口を開いた。


「どうぞ」


「本人の意思が大事だって話なら、俺の件はどうなるんです?」


 カイエンが資料から顔を上げる。


「〈均衡〉の件ですね」


「はい。俺は売らないって、ちゃんと書面で伝えました。それなのに、先に購入予約金が受け取られていたんです」


 リオルは固定された右腕を少し動かした。


「しかも、俺が怪我してることまで商会は知ってました。弱ってる間なら売るかもしれない、って思われてたみたいで」


 カイエンの表情が険しくなった。


「その書面は、こちらで確認しています」


「だったら、どう思います?」


 リオルは笑っていなかった。


「俺がどれだけ便利な術を持っていようと、売るつもりがないなら、そこで終わりじゃないんですか」


「おっしゃるとおりです」


 カイエンの返事は早かった。


 リオルが少し驚いた顔をする。


「本人の意思を確認する前に、移転を前提とした予約を受け付けること自体が問題です。まして、拒否を明示されたあとの取引に正当性はありません」


「……じゃあ、その予約は?」


「王国が保証する取引としては認めません。予約金の扱いについても、商会と購入希望者の間で適正に処理するよう、担当者に確認させます」


 そう言うと、カイエンは机の端に置かれた呼び鈴を鳴らした。


 扉が開き、若い事務官が入ってくる。


「リオルさんの〈均衡〉について、本人の明確な拒否記録と、商会が受領した購入予約金の記録を照合してください。王国の事業として扱われている部分があれば、直ちに保留に。経緯は私にも報告を」


「承知しました」


 事務官は頭を下げ、足早に出ていった。


 俺はその後ろ姿を見送った。


 昨日まで、何度抗議しても商会に言いくるめられていた問題が、少しずつ動き始めている。


「……ありがとうございます」


 リオルが言った。


 カイエンは首を横に振る。


「礼には及びません。本来、最初から起きてはならないことです」


 それから、少しだけ声を落とした。


「それに、この問題を見逃せば、私が先ほど申し上げた『本人の自由な意思』という前提そのものが崩れます」


 俺はカイエンを見た。


 この人は、本気でそう考えているのだ。


 だからこそ、簡単には納得できなかった。


「……カイエンさん」


「はい」


「今みたいに、本人が嫌だって言った時、ちゃんと止められる人がいればいいと思います」


「ええ」


「でも、その人がいなかったら?」


 カイエンの視線が止まった。


「俺たちが競売会に行かなかったら、リオルの〈均衡〉はどうなっていたんでしょう」


 隣でリオルが黙った。


「商会の人たちは、売らないって返事を受け取っても、まだ商売を続けようとしていました」


 俺は言葉を探した。


「みんながカイエンさんみたいに話を聞いてくれるならいいです。でも、聞いてくれない人がいたら、売りたくないって言った人はどうすればいいんですか」


 カイエンは少しの間、何も言わなかった。


 やがて眼鏡を外し、机の上へ置いた。


「……その問いには、私もまだ十分な答えを持っていません」


 思いがけない返事だった。


「制度を作れば、必ず悪用を試みる者が出てくる。今回の件は、私の見通しが甘かったことを示しています」


「……カイエンさんも、知らなかったんですか」


「北門の施設で人が殺されていたことは、知りませんでした」


 彼ははっきりと言った。


「しかし、王国が商会へ研究費を出し、技術開発を後押ししていたのは事実です。監督する立場にあった以上、知らなかったで責任がなくなるとは考えていません」


 その声には、言い訳をするような響きがなかった。


 俺は少しだけ、言葉に詰まった。


     ◇


「私からも、一つ確認したいことがあります」


 今度はリゼが手を上げた。


 カイエンが頷く。


「どうぞ」


「北門の施設で見つかった記録ですが、何か所も不自然に欠けていました」


「〈空白視〉による確認ですね」


「はい。ただ、失われた文字の内容までは分かりません」


 リゼは落ち着いて説明した。


「患者の状態や移送先に関する記録が欠けていたんです。誰が何のために消したのかまでは、まだ分かっていません」


「なるほど」


 カイエンは少し考え、事務官が残していった書類の束を手元へ引き寄せた。


「では、この資料についても確認していただけますか」


 差し出されたのは、王宮が商会から提出を受けていた報告書だった。


「北門の施設に関する定期報告です。先ほど確認したところ、実際の運営状況との食い違いが見つかりました」


 リゼは慎重に紙を受け取った。


 俺も横から覗く。


 建物の使用目的には『検査設備の保守および保管』と書かれている。


「……ここ、患者のことが書かれていませんね」


「ええ。商会からは、あくまで補助施設だと説明されていました」


 カイエンが答える。


「患者を収容し、固有術移転の実験を行っていたという報告は受けていません」


 リゼはしばらく書類を見つめていた。


 やがて、小さく眉を寄せる。


「……ここにも、あります」


「空白ですか?」


「はい。この欄の右側です。ただし、何が欠けているのかは分かりません」


 カイエンは身を乗り出した。


「どのあたりでしょう」


 リゼが指した場所を、カイエンはじっと見つめた。


 俺には普通の紙にしか見えない。


 そこに何があったのかも、今となっては分からない。


「……私には見えませんね」


 カイエンが呟く。


「はい。でも、何もないはずの場所に、何かが欠けたような感覚があるんです」


 リゼは少し悔しそうだった。


 その様子を見て、カイエンは首を横に振った。


「十分です。内容が分からないのであれば、そこから先を推測で決めるべきではありません。ただ、別の原本や写しと照合する理由にはなります」


 リゼが顔を上げる。


「……ありがとうございます」


「こちらこそ。重要な確認をしていただきました」


 カイエンは事務官を呼び、報告書の作成元と提出時の写しを調べるよう指示した。


 俺はその様子を見ながら、少し驚いていた。


 グレゴールはリゼの指摘を聞いても、まともに答えようとしなかった。


 でも、カイエンは違った。


 分からないことは分からないと認め、そのうえで調べようとする。


 同じ固有術移転に関わっている人間でも、こんなに考え方が違うものなのか。


     ◇


「……カイエンさん」


 俺はもう一度、声をかけた。


「はい」


「一つだけ、聞いてもいいですか」


「もちろんです」


「固有術って、本当に値段をつけられるものなんでしょうか」


 カイエンは少し驚いたように俺を見た。


 俺は続けた。


「グレゴールは、ダグさんの〈追跡〉を八十万ルクで買おうとしていました。でも、テオさんが兄を捜すために払った金額は二百四十万ルクです」


 隣のダグが黙って聞いている。


「同じ名前の術でも、売る時と買う時で値段が全然違う。商売だから、そういうことはあるのかもしれません」


「……ええ」


「でも、それって誰が決めるんですか」


 カイエンはすぐには答えなかった。


「ダグさんにとっての〈追跡〉は、仕事を続けるために大事なものだったと思います。テオさんにとっては、お兄さんを見つける最後の希望だった」


 俺は二人の顔を思い浮かべた。


「それを、商会が勝手に値段をつけて、売ったり買ったりしていいんでしょうか」


 カイエンは椅子へ深く座り直した。


「……値段というものは、あくまで取引の条件です。その人にとっての価値を、すべて表せるわけではありません」


「じゃあ、どうして売り買いするんですか」


「対価がなければ、譲りたい人がいても生活を保障できない場合があります。受け取る側にも、相応の責任を負ってもらう必要がある」


 カイエンは静かに答えた。


「ただし、対価があるからといって、何をしてもよいわけではありません。市場の値段と、人間の価値は別です」


 俺はその言葉を聞きながら、父さんの仕事場を思い出した。


 靴を作る時、父さんは必ず客の足を確かめていた。


 足の形も、歩き方も、痛む場所も、人によって違う。


 同じ寸法の靴でも、合う人と合わない人がいる。


 だから、父さんは何度でも直した。


 面倒くさそうにしながら、最後には必ず客を立たせ、少し歩かせてから渡していた。


「……俺、靴職人の息子なんです」


 突然の話に、カイエンが目を瞬かせた。


「そうでしたか」


「父さんは、靴を売る前に必ず履いてもらうんです。見た目がきれいでも、足に合わなかったら直します」


 俺は自分の靴へ目を落とした。


「前に、一度だけ客が痛いって言ってるのに、もう少し履けば慣れますよって勧めたことがあったんです」


「それで?」


「父さんに怒られました」


 リオルが小さく笑った。


「お前、昔から怒られてるな」


「今そこはいいだろ」


 俺は少しだけ顔をしかめ、それからカイエンへ向き直った。


「父さんは、靴を作る人間より、履く人間の足の方が大事だって言いました」


 カイエンは黙って聞いていた。


「たぶん、固有術も同じだと思うんです。使えるかどうか、どれだけ高く売れるかだけじゃなくて、それを持ってる人や、受け取る人がどうなるかを考えないと」


 俺は言葉を探した。


「……そうしないと、またあの施設みたいになってしまう気がします」


 しばらく、誰も話さなかった。


 やがてカイエンが小さく頷いた。


「……なるほど。靴職人の方から学ぶこともありそうですね」


 意外な返事に、俺は顔を上げた。


「ただ、セインさん」


「はい」


「靴は、直せる場合が多いでしょう」


 カイエンの声が少し低くなった。


「固有術の場合、一度移したあとで、元に戻せる保証がありません」


 俺は息を止めた。


「だからこそ、慎重な研究が必要なのです。安全に移す方法だけでなく、失敗した時に何ができるかも調べなければならない」


 カイエンは机の上の資料を指した。


「私が求めているのは、グレゴールのやり方を続けることではありません。彼が踏み越えた一線を、二度と越えさせない仕組みを作ることです」


 俺は黙って頷いた。


 全部に納得できたわけじゃない。


 それでも、少なくともこの人は、人間を商品としてしか見ていないわけではなかった。


     ◇


「……ところで」


 それまで黙っていたダグが、静かに口を開いた。


「カイエンさん。私は一つ、お願いしたいことがあります」


「何でしょう」


「これから固有術移転について新しい制度を作るのでしたら、売る人と買う人の声を、直接聞いていただけませんか」


 カイエンが顔を上げた。


「もちろん、そのつもりです」


「できれば、契約書に書かれた言葉だけでなく、本人が本当はどうしたかったのかも」


 ダグは自分の手を見つめた。


「私は〈追跡〉を売るつもりはありませんでした。ですが、商会の記録では搬出が完了したことになっています」


「……承知しています」


「テオさんは、お兄さんを見つけるために〈追跡〉を買いました。けれど、今は身体に不調が出ていて、思うように使うこともできていません」


 ダグの声は、落ち着いていた。


「私たちは、同じ取引の反対側にいるのかもしれません。でも、どちらか一方だけが悪いわけではないと思うんです」


 俺はダグを見た。


 この人は、固有術を奪われた。


 テオが買った〈追跡〉と同じ術かどうかはまだ分からない。それでも、テオを責めようとはしなかった。


「……だから、お願いしたいんです」


 ダグが続ける。


「数字や契約書だけではなく、その人たちが何を望んでいたのかを、聞いてください」


 カイエンはしばらく黙っていた。


 そして、深く頷いた。


「……分かりました」


 彼は手元の紙へ何かを書き留めた。


「移転を希望した本人、拒否した本人、購入した本人。それぞれの事情を確認します。医療上の安全とともに、制度を考えるうえで必要なことです」


「ありがとうございます」


 ダグが頭を下げる。


 カイエンも礼を返した。


「こちらこそ。大切な指摘をいただきました」


 その時、部屋の扉が小さく叩かれた。


 事務官が入ってくる。


「カイエン様。先ほどの〈均衡〉の購入予約について、確認が取れました」


「どうでしたか」


「本人の拒否記録を受領したあとも、商会側の予約管理には取り消しの処理がされていません」


 リオルの表情が変わった。


「……まだ残ってたのか」


「はい。競売での優先交渉権の出品は取り消されていますが、それ以前に受け付けられた購入予約金は、別の取引として残されています」


 俺は思わず椅子から腰を浮かせた。


「それ、前からずっと問題になってたものです!」


 事務官は驚いて俺を見た。


 カイエンが手を上げる。


「分かりました。本人の拒否が確認できている以上、王国の事業で移転を認めることはできません。該当する手続きは停止し、商会へ正式な説明を求めてください」


「承知しました」


 事務官が退出する。


 リオルは深く息を吐いた。


「……ようやく、一つ進んだな」


「ああ」


 俺も頷いた。


 グレゴールがどう取り繕おうと、リオルは売らないと決めた。


 その意思を、ようやく王宮の上の立場の人間が認めてくれたのだ。


 俺は親友の左手を見た。


 あの手で書いた拒否の言葉が、今もちゃんと残っている。


 それが、少し嬉しかった。


     ◇


 面談が終わりかけた頃、カイエンは最後に一枚の紙を取り出した。


「セインさん。これだけは、お伝えしておきたい」


「……何でしょうか」


「今回の事件を調べた結果、グレゴールの商会が重大な犯罪に関わっていたと証明されれば、私は彼を擁護しません」


 カイエンの目が、まっすぐ俺を見た。


「ですが、固有術移転技術そのものを廃止するべきだという意見には、現時点では賛成できません」


「……はい」


「人を傷つける使い方がある一方で、将来、人を救う使い方もあるかもしれない。私は、その可能性まで捨てるべきではないと考えています」


 俺はしばらく考えた。


 もし、あの商会の技術が本当に誰かを助けられるようになったら。


 きっと、嬉しいと思う。


 でも、そのために今いる誰かが犠牲になるのなら、それを仕方ないとは思いたくない。


「……俺も、誰かを助けられる方法までなくしたいわけじゃありません」


 カイエンが少し目を細めた。


「ただ」


 俺は続けた。


「それを作る途中で、ヨルンさんみたいな人が死んでも仕方ないって言われたら、俺は絶対に嫌です」


 カイエンは頷いた。


「その点は、私も同じです」


「……本当に?」


 思わず聞き返してしまった。


 カイエンは怒らなかった。


 むしろ、少しだけ困ったように笑った。


「疑われるのも無理はありません。私が監督する事業で、実際に人が亡くなったのですから」


 それから、机の上に手を置いた。


「ですから、これからの行動で示すしかないでしょう」


 俺はその言葉を聞いて、ゆっくりと頷いた。


 信用できるかどうかは、まだ分からない。


 でも、少なくともグレゴールのように、俺たちの怒りを面白がる人ではなかった。


     ◇


 行政棟を出ると、昼の鐘が鳴り始めていた。


 王宮の庭では、使用人たちが花壇の手入れをしている。水を撒く音が聞こえ、風に乗って土の匂いが届いた。


「……どうだった?」


 リオルが尋ねた。


「何が?」


「カイエンさんのこと」


 俺は少し考えた。


「……難しい人だなって思った」


「それは分かる」


 リオルが笑う。


「悪い人じゃなさそうなんだけど、簡単に味方だとも言えない感じ」


「うん」


 俺は頷いた。


 あの人の言うことにも、分かる部分はあった。


 でも、納得できないこともあった。


 固有術を売りたい人もいる。


 買いたい人もいる。


 売りたくないのに奪われた人もいる。


 それを、全部同じ決まりで扱っていいのか。


 考えれば考えるほど、分からなくなる。


「セイン」


 リゼが声をかけた。


「……何?」


「さっき、カイエンさんに言っていたことですけど」


「靴の話?」


「はい」


 彼女は少し笑った。


「私は、いい話だと思いました」


「……そう?」


「セインらしかったです」


 その言い方が妙に嬉しくて、俺は思わず視線を逸らした。


 リゼはそんな俺を見て、小さく笑う。


「でも、一つだけ訂正があります」


「……え?」


「セインは、靴の持ち主のことだけ考えているわけじゃありません」


 彼女はまっすぐ俺を見た。


「作る人のことも、直す人のことも、いつも気にしているでしょう?」


 俺は少し驚いた。


「……そんなつもりは」


「自覚がないだけです」


 リゼはそう言って、少しだけ歩く速度を上げた。


 俺はその背中を見つめた。


 さっきまで頭の中をいっぱいにしていた怒りが、少しだけ和らいだ気がした。


「……お前ら、何の話してるんだ?」


 リオルが横から顔を出す。


「別に、何でもないよ」


「怪しいなあ」


「怪しくないって!」


 リオルは楽しそうに笑った。


 少し離れたところでは、ダグが呆れたように首を振っている。


 昨日までなら、こんなふうに笑う気持ちにはなれなかったかもしれない。


 それでも、仲間と一緒に歩いていると、少しずつ前を向ける気がした。


     ◇


 王宮の門を出る直前、背後から呼び止められた。


「セインさん!」


 振り向くと、先ほどの事務官が小走りで近づいてきた。


「カイエン様から、追加でお渡しするようにと」


 差し出されたのは、小さな封筒だった。


「……これは?」


「固有術移転に関する本人の申出書です。内容をご確認いただきたいそうです」


 俺は封筒を受け取った。


 中には、一枚の手紙の写しが入っている。


 そこに書かれていたのは、意外な言葉だった。


『私は、自分の意思で固有術を譲りたいと思っています。どうか、その選択を奪わないでください。』


 俺はしばらく、文字を見つめた。


「……譲りたい?」


 リゼが隣から覗き込む。


「本当に、本人が書いたものなんでしょうか」


「王宮で本人の意思を改めて確認する予定だそうです。カイエン様は、皆様にも話を聞いていただきたいと」


 事務官が答えた。


 俺はもう一度、手紙を見た。


 グレゴールに奪われた人たち。


 身体を壊された人たち。


 そして、固有術を売りたくないと拒否したリオル。


 俺たちは、そんな人たちを守るために動いてきた。


 でも、目の前の紙には、まったく違う願いが書かれている。


 俺は手紙を丁寧に折り直した。


「……会ってみたいです」


 事務官が頷く。


「そのようにお伝えします」


 俺は仲間たちを見た。


 リオルも、リゼも、ダグも頷いていた。


 グレゴールのやり方が間違っていることは、少しも変わらない。


 でも、固有術を移すこと自体が、誰にとっても間違いなのか。


 その答えを出すには、俺はまだ、知らないことが多すぎる。


 だからこそ、会って話を聞いてみたかった。


 誰かに決められた値段じゃなくて、その人が自分の固有術をどう思っているのか。


 俺は封筒を鞄へしまい、もう一度王宮の方を振り返った。

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