第七十八話 二度叩く音
人が亡くなった部屋には、独特の静けさがあった。
兵士たちが行き交い、医者が声を掛け合っているのに、白い布のかかった寝台の周りだけ、誰も大きな音を立てようとしない。
あの検品人は、この人を『不適合』と呼んだ。
俺たちが来る前に亡くなっていたのだから、助けられなかったのは仕方ないのかもしれない。それでも、今朝まで生きていた人が、もう二度と家に帰れないという事実を、そんな簡単に納得できるはずがなかった。
「セインさん」
振り向くと、ダグが立っていた。
「少し、確認していただきたいことがあります」
彼の手には、さっき机から見つかった帳面があった。王宮の兵士が立ち会い、記録の確認を進めているところらしい。
「何か分かりましたか?」
「……まだ、確かめなければならないことがあります」
その言い方が気になった。
ダグは帳面を開き、ある一行を指した。
『ヨルン・ベルク』
その下には、こう記されていた。
『北門地区・運搬業』
俺は顔を上げた。
「これって……」
「青年が捜している兄さんの名前です」
救護室で待っている青年の顔が浮かんだ。
名前はテオ・ベルク。ダグが兄を捜すために何度も話を聞き、二人で北門周辺を歩いていたという。
「でも、同じ名前の人かもしれませんよね」
「ええ。だから確認します」
ダグはそう答えたが、帳面を押さえる指に力が入っていた。
記録には、名前と職業のほかに、搬入日と管理番号が書かれている。
その横にあったのは、『提供者』という文字だった。
「……提供者?」
「固有術の持ち主を指している可能性があります。ただ、本人が提供に同意したという記載はありません」
俺は帳面をもう一度見た。
ヨルンは荷物を届ける仕事をしていたはずだ。固有術を売りに来たなんて、テオからは聞いていない。
その時、隣でリゼが小さく声を上げた。
「ダグさん。この次の頁、見てもいいですか?」
「どうぞ」
リゼは頁をめくり、しばらくじっと見つめた。
「……途中が抜けています」
「何か消されていますか?」
「それもあります。でも、こちらは普通に見ても分かります。頁そのものが何枚か切り取られているんです」
確かに綴じ目の近くに、細い紙の端が残っていた。
「〈空白視〉では、この残った部分に不自然な欠損も見えます。ただ、切り取られた紙に何が書いてあったかまでは分かりません」
リゼは悔しそうに眉を寄せた。
俺も、切り取られた頁を探したくなった。
けれど、その前に確かめるべきことがある。
「ダグさん。ヨルンさんは、ここで何をされたんでしょう」
「……それを知りたいんです」
ダグは静かに帳面を閉じた。
◇
答えの一つは、思いがけない人物から聞くことになった。
あの部屋から助け出した、若い男性だった。
医者の手当てを受けて少し意識が戻ったと聞き、俺たちは正門側に設けられた臨時救護所へ向かった。
古い倉庫に寝台が並べられ、保護された人々が休んでいる。コレットはそこで医者の手伝いをしていた。
「あ、セイン!」
俺たちに気づいたコレットが、駆け寄ってくる。
「奥の部屋から助けた人、少しだけ話せるようになったよ。でも、まだ身体がつらそうだから、無理はさせないでね」
「うん。ありがとう」
「それと、セインも肩を使いすぎないこと!」
「……みんな同じこと言うなあ」
「みんなが言うってことは、それだけ心配されてるんだよ」
コレットは得意そうに言ったあと、俺の背後へ目を向けた。
「リオルも、右腕は大丈夫?」
「そっちは平気。セインと違って、ちゃんと気をつけてるから」
「今のは聞き捨てならないな」
俺が言い返すと、コレットはくすくす笑った。
ほんの少しだけ、張り詰めた空気が和らいだ。
だが、救護所の奥へ入ると、また胸が重くなった。
若い男性は寝台に横たわっていた。痩せた頬と青白い顔には、まだ苦しさが残っている。
ダグは椅子を引き寄せ、男性の目の高さに合わせて腰を下ろした。
「警護隊のダグと申します。少しだけ、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「……はい」
「無理なら、すぐにやめます」
男性は小さく頷いた。
ダグは帳面を開き、ヨルン・ベルクという名前を示した。
「この人をご存じですか?」
男性の表情が変わった。
「……ヨルンさん」
その声を聞いた瞬間、心臓が強く鳴った。
「知っているんですか?」
「はい。俺より先に……ここへ来ていました」
男性は喉を鳴らし、差し出された水を少し飲んだ。
「荷物を届けに来ただけだって、何度も言ってました。帰してくれって。でも、誰も聞かなかった」
「それで、どうなったんですか?」
俺が尋ねると、男性は目を伏せた。
「……奥の部屋に連れていかれました」
「検品人がいた部屋ですか?」
「はい。あそこで、何度も何かをされて……」
男性の呼吸が乱れた。
リゼがそっと前へ出る。
「もう大丈夫です。無理に思い出さなくてもいいですから」
「……でも、言わないと」
男性は首を振った。
「あの人、俺にも優しくしてくれたんです。先にここへいたのに、俺が怖がってたら、大丈夫だって」
声が震えた。
「自分だって怖かったはずなのに」
俺は何も言えなかった。
「ヨルンさんは、いつも寝台の端を二回叩いてました」
「……二回?」
「トン、トンって。夜になると、必ず」
男性は弱々しく指を動かした。
「何をしてるんですかって聞いたら、家に帰る時の癖だって笑ってました。弟に、帰ったぞって知らせるんだって」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
テオが話してくれたことと同じだった。
兄が帰ってくる時は、玄関の扉を二回叩く。
どんなに遅く帰ってきても、必ず。
「……それで、ヨルンさんは」
ダグの声が少し掠れた。
男性はしばらく黙っていた。
「最後に見た時は、もう立てなくなっていました」
俺は息を止めた。
「身体の調子が悪いから、やめてくれって何度も言ってました。でも、あの灰色の服の男が……」
「検品人ですね」
「はい。まだ確認することがあるからって」
男性の手が毛布を握りしめた。
「それから、ヨルンさんの声が聞こえなくなりました」
救護所の向こうで、誰かが咳をした。
そんな小さな音だけが、妙にはっきり聞こえた。
「……亡くなったところを、見たんですか?」
ダグが確認する。
男性は首を横に振った。
「いいえ。だから、分からないんです。ただ……あれから一度も見ていません」
ダグは静かに頷いた。
「ありがとうございます。十分です」
男性の肩から力が抜けた。
俺は寝台のそばを離れながら、何度も深呼吸した。
まだ、死んだと決まったわけじゃない。
そう考えたかった。
けれど、あの建物にいた人たちが何をされていたのかを知ってしまった今、簡単に大丈夫だとは思えなかった。
◇
施設の確認は、夜になっても続いていた。
ムラサメが兵士たちの安全を確保しながら建物を調べ、ほかの担当者たちは押収した記録を一つずつ照合している。
俺たちが再び奥へ戻ると、ダグは迷わず検品人の机へ向かった。
「さっきの帳面に、管理番号がありました。どこかに同じ番号が残っているはずです」
術のない今のダグは、人を見つけるために、見つかるかどうかも分からない痕跡を一つずつ拾っていた。
リオルも兵士たちと一緒に棚を調べる。
「ダグ、お前は右を頼む。俺は左を見る」
「お前、片腕で無理するなよ」
「探すのに両腕はいらないだろ」
「そういうところが心配なんだよ」
短いやり取りのあと、二人はそれぞれ動き始めた。
俺もできることを探し、机の下を覗いた。
そこには小さな木箱がいくつも積まれていた。道具を保管しているらしく、一つずつ番号が書かれている。
その中に、帳面で見た番号があった。
「……ダグさん!」
呼びかけると、ダグがすぐに来てくれた。
兵士の立ち会いのもと、箱を開ける。
中にあったのは、鍵束と、使い込まれた革の小袋だった。
小袋には、古びた金具が縫いつけられている。
鍵束の一つは、持ち手が妙に曲がっていた。何度も無理な力がかかったようで、端に細い傷がついている。
「……持ち物でしょうか」
「おそらく」
ダグは小袋の内側を確かめた。
そこには、薄く擦れた名前が書かれていた。
『ヨルン・ベルク』
俺は目を閉じた。
同じ名前。
同じ職業。
同じ場所に運び込まれた人間の持ち物。
もう、偶然だとは思えなかった。
「……ダグさん」
「はい」
「ヨルンさんは、まだ生きていると思いますか」
聞くべきじゃなかったかもしれない。
ダグはしばらく答えなかった。
「……分かりません」
やがて、そう言った。
「だから、最後まで確かめます」
俺は頷いた。
それが今、一番聞きたかった言葉だった。
◇
確認が進むにつれ、建物のさらに奥に、古い地下保管室があることが分かった。
染物場だった頃、染料や傷みやすい材料を保管するために使っていたらしい。今も厚い石壁に囲まれ、氷を運び込んで冷やしているという。
その扉の前で、ムラサメが待っていた。
「セイン、ダグ」
声をかけられた時、その表情を見て、嫌な予感がした。
「……何か、見つかったんですか」
「ああ」
ムラサメは短く答えた。
「遺体が複数ある。医師が確認中だ」
頭の中が真っ白になった。
何と言えばいいのか分からず、俺は冷たい石の壁を見つめた。
ダグが一歩前へ出た。
「ヨルン・ベルクという人を、確認できますか」
「今、照合している」
ムラサメは俺たちを見回した。
「無理に中を見る必要はない。身元の確認は医師と担当者が進める」
俺は頷いた。
正直に言えば、怖かった。
あの白い布の下にいた人のことを思い出すだけで、胸が苦しくなる。ここでさらに誰かの死を見たら、平静でいられる自信がなかった。
それでも、ダグは動かなかった。
「……私は、確認させてください」
その声は静かだった。
ムラサメは少しだけ彼を見つめ、それから頷いた。
「分かった。ただし、医師の指示に従え」
「はい」
俺も一緒に行こうとしたが、ダグが振り向いた。
「セインさんは、ここで待っていてください」
「でも……」
「大丈夫です」
ダグはわずかに笑った。
「私の仕事ですから」
その言葉に、俺は足を止めた。
術がなくなっても、人を捜す仕事はやめない。
救護室でそう言っていたダグが、今、自分の足で最後の確認へ向かっている。
俺は何も言わず、彼の背中を見送った。
◇
待っている時間は、ひどく長く感じられた。
リゼが隣に立ってくれていたが、何を話せばいいのか分からない。リオルも珍しく黙ったまま、扉の方を見ていた。
やがて、地下保管室の扉が開いた。
ダグが出てくる。
その顔を見た瞬間、俺は何も聞けなくなった。
「……セインさん」
ダグは一度だけ息を整えた。
「ヨルンさんと思われる方が、見つかりました」
胸が今まで感じたことが無いぐらいに脈を打った。
「医師が死亡を確認しています。施設に残っていた死亡記録と管理番号、それに所持品も一致しました」
「……間違いないんですか」
「最終的な身元確認は、ご家族にもお願いすることになります。ただ……」
ダグはそこで言葉を切った。
その沈黙が、十分すぎるほど重かった。
俺は壁に手をついた。
冷たい石の感触が、指先に伝わってくる。
あの青年は、兄を捜すために二百四十万ルクも払った。
身体に合わない固有術を買って、手が震えるようになっても、諦めなかった。
なのに、俺たちがようやく見つけたのは。
「……どうして」
声が漏れた。
何に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
どうして、兄がこんな場所にいるのか。
どうして、荷物を届けに来ただけの人が、帰れなくなったのか。
どうして、あの商会は平気な顔で商売を続けていられるのか。
ダグは手にした紙を見つめていた。
「……もう一つ、分かったことがあります」
「何ですか?」
「亡くなった日付です」
俺は顔を上げた。
「施設の記録では、ヨルンさんが亡くなったのは、テオさんが〈追跡〉を購入するより前でした」
その言葉を理解するまで、数秒かかった。
「……え?」
「死亡したことは、商会の管理部門へ報告されています。ここに、報告を受領した印もあります」
ダグは紙を指した。
「テオさんが術を買う前に、商会は兄さんが亡くなったと把握できる状態だったんです」
俺は紙を見つめた。
日付が並んでいる。
死亡の確認。
商会への報告。
そして、テオが〈追跡〉を購入した日。
順番は、はっきりしていた。
「……知ってたんですか」
声が震えた。
「兄さんがもう帰ってこないって、商会の人は知ってたのに……」
誰も答えなかった。
「それなのに、弟に〈追跡〉を売ったんですか?」
思わず声が大きくなった。
あの青年が何のために金を払ったか、商会は知っていたはずだ。
兄を見つけたい。
ただ、それだけだったのに。
グレゴールの笑顔が頭に浮かんだ。
立派な服を着て、穏やかな声で契約を語っていた男。
あの男の商会は、兄が死んだと分かる記録を受け取ったあとで、弟から二百四十万ルクを取った。
「……ふざけるなよ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
リゼが俺を見た。
「セイン……」
「兄さんを捜したかっただけじゃないか」
俺は唇を噛んだ。
「それを知ってて……どうして、そんなことができるんだ」
ダグは何も言わなかった。
ただ、紙を握る手が震えていた。
彼だって、奪われたものがある。
それでもテオの願いを責めず、一緒に兄を捜してきた。
そのダグに、こんなものを見つけさせるなんて。
「……セインさん」
ダグが顔を上げた。
「テオさんには、私から話します」
「……はい」
「私が捜すと約束しましたから」
その声が、ひどく苦しそうだった。
◇
翌朝、テオは王宮の医療施設にいた。
購入した固有術の不調が続いているため、医師の監督のもとで休んでいる。前の晩に眠れたのかどうかは分からないが、顔色はあまりよくなかった。
俺たちが部屋へ入ると、青年はすぐに顔を上げた。
「ダグさん!」
その声には、期待があった。
胸が締めつけられた。
「兄のこと、何か分かりましたか?」
ダグは椅子を引いた。
「……はい」
それだけで、青年の顔から笑みが消えた。
ダグはゆっくりと腰を下ろし、俺とリゼも少し離れたところへ座った。
「北門の施設で、ヨルンさんの記録が見つかりました」
「……兄の?」
「はい。ご本人の持ち物も見つかっています」
テオはしばらく黙っていた。
それから、かすれた声で尋ねた。
「……生きて、ますか」
誰も、すぐには答えられなかった。
ダグが静かに言った。
「……亡くなられています」
テオの目が、大きく見開かれた。
「……え?」
「医師が確認しました。施設の記録と所持品も一致しています。最終的な身元確認は、あなたにもお願いすることになります」
青年は何度か瞬きをした。
言葉が届いていないように見えた。
「……違いますよ」
やがて、小さく笑った。
「きっと、別の人です」
ダグは黙っていた。
「兄は、そんな簡単に死ぬような人じゃないんです。昔から怪我ばっかりして、それでも次の日には平気な顔で仕事に行って……」
青年は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「……違いますよね」
ダグの表情が歪んだ。
「……申し訳ありません」
テオは俯いた。
しばらく、誰も声をかけられなかった。
やがてダグが、小さな革袋を取り出した。
「これが、ヨルンさんの持ち物として保管されていました」
テオの手が止まった。
「……それ」
革袋を見つめる。
縫いつけられた古い金具と、擦り切れた端。
「俺が……直したやつです」
声が震えた。
「兄貴の袋、破れたから……俺が縫ったんです。下手くそだって笑われて……」
青年は袋を受け取った。
指で金具をなぞる。
そして、声を上げて泣き始めた。
ダグは何も言わず、隣に座っていた。
俺も動けなかった。
どんな言葉をかけても、今この人が失ったものは戻らない。
俺には〈返却〉という固有術がある。
落とし物を、持ち主のもとへ返す力だ。
けれど、帰ってこなくなった人間を、願うだけで生き返らせることなんてできない。
それが、どうしようもなく悔しかった。
「……俺」
テオが泣きながら言った。
「兄貴を見つけたくて……術を買ったんです」
誰も口を挟まなかった。
「金なんか、どうでもよかった。使えるかどうかも分からなかったけど……それでも、兄貴に会えるならって」
震える手が、革袋を強く握りしめる。
「でも、もう……死んでたんですか」
ダグが静かに頷いた。
「……購入されるより前に、亡くなっていたと記録されています」
テオの顔が上がった。
「……前に?」
「はい」
「じゃあ、あの商会は……」
最後まで言えなかった。
青年の顔が、ゆっくりと歪んだ。
「……何でだよ」
小さな声だった。
「何で、教えてくれなかったんだよ……」
もう一度、革袋を抱きしめる。
「金なんか、いくらでも払ったのに……兄貴が死んだって、教えてくれるだけでよかったのに……!」
俺は俯いた。
胸が苦しかった。
テオは、何度も兄の名前を呼んだ。
そのたびに、ダグが隣で頷いていた。
泣き止ませようとはしなかった。
今は、泣くことしかできないのかもしれない。
◇
しばらくして、テオが顔を上げた。
「……ダグさん」
「はい」
「兄貴のこと、ちゃんと調べてもらえますか」
ダグは頷いた。
「もちろんです」
「どうして死んだのか。誰があんな場所に連れていったのか……全部、知りたいです」
「はい」
「それと……」
テオは革袋を握りしめた。
「兄貴を、家に帰してやりたいです」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「……できますか」
ダグは、今度はすぐに頷かなかった。
亡くなった人の身元確認や、王宮の調査が終わるまでに、必要な手続きがあるのだろう。
それでも、しばらくして口を開いた。
「調査が終わり、正式にお返しできるようになったら、必ずお知らせします」
テオは小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
ダグは立ち上がり、深く頭を下げた。
「……もっと早く見つけられず、申し訳ありませんでした」
その言葉に、テオが慌てて首を振った。
「違います。ダグさんは、ずっと一緒に捜してくれたじゃないですか」
「ですが……」
「術がなくても、諦めないって言ってくれた」
テオは涙を拭った。
「俺、それが嬉しかったんです」
ダグは顔を上げられなかった。
「だから……ありがとうございました」
少しの間、何も聞こえなかった。
やがて、ダグが深く息を吐いた。
「……こちらこそ」
その声は、かすれていた。
◇
部屋を出たあと、ダグは廊下の窓際で立ち止まった。
朝の光が差し込んでいる。
昨日の夜、あの染物場にいたことが、遠い出来事のように思えた。
「……私、少し勘違いしていました」
ダグが呟いた。
「何をですか?」
「術があれば、人を見つけられると思っていたんです」
俺は黙って聞いた。
「もちろん、〈追跡〉は便利でした。誰かがどこへ向かったか、手がかりを見つけるのに何度も助けられました。でも……」
ダグは自分の手を見つめた。
「見つけたあと、どうするかまでは、術が決めてくれるわけじゃなかったんですね」
リオルが隣へ来た。
「……お前、ちゃんと見つけたじゃん」
「……ああ」
「つらい結果だったけどさ。あの人がどこにいたのか、分かった。テオさんも、ずっと分からないまま待たずに済む」
ダグはしばらく黙っていた。
「……そうだな」
リオルはそれ以上何も言わず、親友の背中を軽く叩いた。
俺は二人を見ながら、少しだけ救われた気がした。
なくした固有術は、まだ戻っていない。
それでもダグは、自分の足で人を捜し、最後まで向き合った。
その姿を見て、俺は改めて思った。
この人の〈追跡〉を奪った人間を、必ず見つけたい。
そして、同じように誰かの人生を奪っている連中を、これ以上放っておきたくない。
「……グレゴールさんに、聞きたいことがあります」
俺が言うと、リゼが顔を上げた。
「私もです」
その声には、強い意志があった。
「どうしてヨルンさんがあんな場所にいたのか。何をされたのか。誰が命じたのか」
リゼは拳を握った。
「……全部、確かめたいです」
リオルも頷いた。
「ああ。でも、今度は相手の言い訳だけで終わらせない。ちゃんと証拠を揃えよう」
俺は頷いた。
怒りだけで飛び込んでも、あの男には届かない。
だからこそ、昨日見つけた記録や、生きて帰れた人たちの証言が必要になる。
ヨルンが亡くなった理由も、商会がその死を知っていながら弟へ〈追跡〉を売った理由も、まだ分かっていない。
ただ、答えを聞く相手だけは、はっきりしていた。
◇
その日の昼前。
王宮の医療施設を出ようとしたところで、テオに呼び止められた。
「……セインさん」
「どうしました?」
青年は革袋を両手で持っていた。
「俺、昨日までずっと、家に帰りたくなかったんです」
「……どうしてですか?」
「兄貴が帰ってくるかもしれないからです。俺が家にいない間に帰ってきたら、すれ違うかもしれないって」
テオは小さく笑った。
「だから、できるだけ外で捜して……夜も、なかなか帰れなくて」
その声は、まだ震えていた。
「でも、今日は帰ります」
俺は頷いた。
「……はい」
「兄貴の部屋、片づけないと。まだ、仕事に使ってた道具もそのままだし」
そこまで言って、青年は言葉を詰まらせた。
俺は何も言わず、待った。
「……あの扉、もう二回鳴らないんですね」
涙が落ちた。
「兄貴が帰ってきた時の音、もう聞けないんですね」
俺の胸も痛んだ。
返せるものがあるなら、何でも返してあげたかった。
けれど、今の俺にはできない。
だから、せめて。
「……テオさん」
「はい」
「何か困ったことがあったら、第七係に来てください」
青年が顔を上げた。
「俺たちにできることなら、一緒に考えます」
テオはしばらく俺を見つめていた。
やがて、涙を拭って、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
青年は革袋を胸に抱き、ゆっくりと歩き出した。
その後ろ姿を、俺たちは黙って見送った。
もう、兄が帰ってくることはない。
けれど、テオのこれからまで、あの商会に奪わせてはいけない。
俺はそう思いながら、手を強く握りしめた。




