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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第四章 才能の値札

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第七十八話 二度叩く音


 人が亡くなった部屋には、独特の静けさがあった。


 兵士たちが行き交い、医者が声を掛け合っているのに、白い布のかかった寝台の周りだけ、誰も大きな音を立てようとしない。


 あの検品人は、この人を『不適合』と呼んだ。


 俺たちが来る前に亡くなっていたのだから、助けられなかったのは仕方ないのかもしれない。それでも、今朝まで生きていた人が、もう二度と家に帰れないという事実を、そんな簡単に納得できるはずがなかった。


「セインさん」


 振り向くと、ダグが立っていた。


「少し、確認していただきたいことがあります」


 彼の手には、さっき机から見つかった帳面があった。王宮の兵士が立ち会い、記録の確認を進めているところらしい。


「何か分かりましたか?」


「……まだ、確かめなければならないことがあります」


 その言い方が気になった。


 ダグは帳面を開き、ある一行を指した。


『ヨルン・ベルク』


 その下には、こう記されていた。


『北門地区・運搬業』


 俺は顔を上げた。


「これって……」


「青年が捜している兄さんの名前です」


 救護室で待っている青年の顔が浮かんだ。


 名前はテオ・ベルク。ダグが兄を捜すために何度も話を聞き、二人で北門周辺を歩いていたという。


「でも、同じ名前の人かもしれませんよね」


「ええ。だから確認します」


 ダグはそう答えたが、帳面を押さえる指に力が入っていた。


 記録には、名前と職業のほかに、搬入日と管理番号が書かれている。


 その横にあったのは、『提供者』という文字だった。


「……提供者?」


「固有術の持ち主を指している可能性があります。ただ、本人が提供に同意したという記載はありません」


 俺は帳面をもう一度見た。


 ヨルンは荷物を届ける仕事をしていたはずだ。固有術を売りに来たなんて、テオからは聞いていない。


 その時、隣でリゼが小さく声を上げた。


「ダグさん。この次の頁(ページ)、見てもいいですか?」


「どうぞ」


 リゼは頁をめくり、しばらくじっと見つめた。


「……途中が抜けています」


「何か消されていますか?」


「それもあります。でも、こちらは普通に見ても分かります。頁そのものが何枚か切り取られているんです」


 確かに綴(と)じ目の近くに、細い紙の端が残っていた。


「〈空白視〉では、この残った部分に不自然な欠損も見えます。ただ、切り取られた紙に何が書いてあったかまでは分かりません」


 リゼは悔しそうに眉を寄せた。


 俺も、切り取られた頁を探したくなった。


 けれど、その前に確かめるべきことがある。


「ダグさん。ヨルンさんは、ここで何をされたんでしょう」


「……それを知りたいんです」


 ダグは静かに帳面を閉じた。


     ◇


 答えの一つは、思いがけない人物から聞くことになった。


 あの部屋から助け出した、若い男性だった。


 医者の手当てを受けて少し意識が戻ったと聞き、俺たちは正門側に設けられた臨時救護所へ向かった。


 古い倉庫に寝台が並べられ、保護された人々が休んでいる。コレットはそこで医者の手伝いをしていた。


「あ、セイン!」


 俺たちに気づいたコレットが、駆け寄ってくる。


「奥の部屋から助けた人、少しだけ話せるようになったよ。でも、まだ身体がつらそうだから、無理はさせないでね」


「うん。ありがとう」


「それと、セインも肩を使いすぎないこと!」


「……みんな同じこと言うなあ」


「みんなが言うってことは、それだけ心配されてるんだよ」


 コレットは得意そうに言ったあと、俺の背後へ目を向けた。


「リオルも、右腕は大丈夫?」


「そっちは平気。セインと違って、ちゃんと気をつけてるから」


「今のは聞き捨てならないな」


 俺が言い返すと、コレットはくすくす笑った。


 ほんの少しだけ、張り詰めた空気が和らいだ。


 だが、救護所の奥へ入ると、また胸が重くなった。


 若い男性は寝台に横たわっていた。痩せた頬と青白い顔には、まだ苦しさが残っている。


 ダグは椅子を引き寄せ、男性の目の高さに合わせて腰を下ろした。


「警護隊のダグと申します。少しだけ、お話を伺ってもよろしいでしょうか」


「……はい」


「無理なら、すぐにやめます」


 男性は小さく頷いた。


 ダグは帳面を開き、ヨルン・ベルクという名前を示した。


「この人をご存じですか?」


 男性の表情が変わった。


「……ヨルンさん」


 その声を聞いた瞬間、心臓が強く鳴った。


「知っているんですか?」


「はい。俺より先に……ここへ来ていました」


 男性は喉を鳴らし、差し出された水を少し飲んだ。


「荷物を届けに来ただけだって、何度も言ってました。帰してくれって。でも、誰も聞かなかった」


「それで、どうなったんですか?」


 俺が尋ねると、男性は目を伏せた。


「……奥の部屋に連れていかれました」


「検品人がいた部屋ですか?」


「はい。あそこで、何度も何かをされて……」


 男性の呼吸が乱れた。


 リゼがそっと前へ出る。


「もう大丈夫です。無理に思い出さなくてもいいですから」


「……でも、言わないと」


 男性は首を振った。


「あの人、俺にも優しくしてくれたんです。先にここへいたのに、俺が怖がってたら、大丈夫だって」


 声が震えた。


「自分だって怖かったはずなのに」


 俺は何も言えなかった。


「ヨルンさんは、いつも寝台の端を二回叩いてました」


「……二回?」


「トン、トンって。夜になると、必ず」


 男性は弱々しく指を動かした。


「何をしてるんですかって聞いたら、家に帰る時の癖だって笑ってました。弟に、帰ったぞって知らせるんだって」


 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。


 テオが話してくれたことと同じだった。


 兄が帰ってくる時は、玄関の扉を二回叩く。


 どんなに遅く帰ってきても、必ず。


「……それで、ヨルンさんは」


 ダグの声が少し掠れた。


 男性はしばらく黙っていた。


「最後に見た時は、もう立てなくなっていました」


 俺は息を止めた。


「身体の調子が悪いから、やめてくれって何度も言ってました。でも、あの灰色の服の男が……」


「検品人ですね」


「はい。まだ確認することがあるからって」


 男性の手が毛布を握りしめた。


「それから、ヨルンさんの声が聞こえなくなりました」


 救護所の向こうで、誰かが咳をした。


 そんな小さな音だけが、妙にはっきり聞こえた。


「……亡くなったところを、見たんですか?」


 ダグが確認する。


 男性は首を横に振った。


「いいえ。だから、分からないんです。ただ……あれから一度も見ていません」


 ダグは静かに頷いた。


「ありがとうございます。十分です」


 男性の肩から力が抜けた。


 俺は寝台のそばを離れながら、何度も深呼吸した。


 まだ、死んだと決まったわけじゃない。


 そう考えたかった。


 けれど、あの建物にいた人たちが何をされていたのかを知ってしまった今、簡単に大丈夫だとは思えなかった。


     ◇


 施設の確認は、夜になっても続いていた。


 ムラサメが兵士たちの安全を確保しながら建物を調べ、ほかの担当者たちは押収した記録を一つずつ照合している。


 俺たちが再び奥へ戻ると、ダグは迷わず検品人の机へ向かった。


「さっきの帳面に、管理番号がありました。どこかに同じ番号が残っているはずです」


 術のない今のダグは、人を見つけるために、見つかるかどうかも分からない痕跡を一つずつ拾っていた。


 リオルも兵士たちと一緒に棚を調べる。


「ダグ、お前は右を頼む。俺は左を見る」


「お前、片腕で無理するなよ」


「探すのに両腕はいらないだろ」


「そういうところが心配なんだよ」


 短いやり取りのあと、二人はそれぞれ動き始めた。


 俺もできることを探し、机の下を覗いた。


 そこには小さな木箱がいくつも積まれていた。道具を保管しているらしく、一つずつ番号が書かれている。


 その中に、帳面で見た番号があった。


「……ダグさん!」


 呼びかけると、ダグがすぐに来てくれた。


 兵士の立ち会いのもと、箱を開ける。


 中にあったのは、鍵束と、使い込まれた革の小袋だった。


 小袋には、古びた金具が縫いつけられている。


 鍵束の一つは、持ち手が妙に曲がっていた。何度も無理な力がかかったようで、端に細い傷がついている。


「……持ち物でしょうか」


「おそらく」


 ダグは小袋の内側を確かめた。


 そこには、薄く擦れた名前が書かれていた。


『ヨルン・ベルク』


 俺は目を閉じた。


 同じ名前。


 同じ職業。


 同じ場所に運び込まれた人間の持ち物。


 もう、偶然だとは思えなかった。


「……ダグさん」


「はい」


「ヨルンさんは、まだ生きていると思いますか」


 聞くべきじゃなかったかもしれない。


 ダグはしばらく答えなかった。


「……分かりません」


 やがて、そう言った。


「だから、最後まで確かめます」


 俺は頷いた。


 それが今、一番聞きたかった言葉だった。


     ◇


 確認が進むにつれ、建物のさらに奥に、古い地下保管室があることが分かった。


 染物場だった頃、染料や傷みやすい材料を保管するために使っていたらしい。今も厚い石壁に囲まれ、氷を運び込んで冷やしているという。


 その扉の前で、ムラサメが待っていた。


「セイン、ダグ」


 声をかけられた時、その表情を見て、嫌な予感がした。


「……何か、見つかったんですか」


「ああ」


 ムラサメは短く答えた。


「遺体が複数ある。医師が確認中だ」


 頭の中が真っ白になった。


 何と言えばいいのか分からず、俺は冷たい石の壁を見つめた。


 ダグが一歩前へ出た。


「ヨルン・ベルクという人を、確認できますか」


「今、照合している」


 ムラサメは俺たちを見回した。


「無理に中を見る必要はない。身元の確認は医師と担当者が進める」


 俺は頷いた。


 正直に言えば、怖かった。


 あの白い布の下にいた人のことを思い出すだけで、胸が苦しくなる。ここでさらに誰かの死を見たら、平静でいられる自信がなかった。


 それでも、ダグは動かなかった。


「……私は、確認させてください」


 その声は静かだった。


 ムラサメは少しだけ彼を見つめ、それから頷いた。


「分かった。ただし、医師の指示に従え」


「はい」


 俺も一緒に行こうとしたが、ダグが振り向いた。


「セインさんは、ここで待っていてください」


「でも……」


「大丈夫です」


 ダグはわずかに笑った。


「私の仕事ですから」


 その言葉に、俺は足を止めた。


 術がなくなっても、人を捜す仕事はやめない。


 救護室でそう言っていたダグが、今、自分の足で最後の確認へ向かっている。


 俺は何も言わず、彼の背中を見送った。


     ◇


 待っている時間は、ひどく長く感じられた。


 リゼが隣に立ってくれていたが、何を話せばいいのか分からない。リオルも珍しく黙ったまま、扉の方を見ていた。


 やがて、地下保管室の扉が開いた。


 ダグが出てくる。


 その顔を見た瞬間、俺は何も聞けなくなった。


「……セインさん」


 ダグは一度だけ息を整えた。


「ヨルンさんと思われる方が、見つかりました」


 胸が今まで感じたことが無いぐらいに脈を打った。


「医師が死亡を確認しています。施設に残っていた死亡記録と管理番号、それに所持品も一致しました」


「……間違いないんですか」


「最終的な身元確認は、ご家族にもお願いすることになります。ただ……」


 ダグはそこで言葉を切った。


 その沈黙が、十分すぎるほど重かった。


 俺は壁に手をついた。


 冷たい石の感触が、指先に伝わってくる。


 あの青年は、兄を捜すために二百四十万ルクも払った。


 身体に合わない固有術を買って、手が震えるようになっても、諦めなかった。


 なのに、俺たちがようやく見つけたのは。


「……どうして」


 声が漏れた。


 何に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 どうして、兄がこんな場所にいるのか。


 どうして、荷物を届けに来ただけの人が、帰れなくなったのか。


 どうして、あの商会は平気な顔で商売を続けていられるのか。


 ダグは手にした紙を見つめていた。


「……もう一つ、分かったことがあります」


「何ですか?」


「亡くなった日付です」


 俺は顔を上げた。


「施設の記録では、ヨルンさんが亡くなったのは、テオさんが〈追跡〉を購入するより前でした」


 その言葉を理解するまで、数秒かかった。


「……え?」


「死亡したことは、商会の管理部門へ報告されています。ここに、報告を受領した印もあります」


 ダグは紙を指した。


「テオさんが術を買う前に、商会は兄さんが亡くなったと把握できる状態だったんです」


 俺は紙を見つめた。


 日付が並んでいる。


 死亡の確認。


 商会への報告。


 そして、テオが〈追跡〉を購入した日。


 順番は、はっきりしていた。


「……知ってたんですか」


 声が震えた。


「兄さんがもう帰ってこないって、商会の人は知ってたのに……」


 誰も答えなかった。


「それなのに、弟に〈追跡〉を売ったんですか?」


 思わず声が大きくなった。


 あの青年が何のために金を払ったか、商会は知っていたはずだ。


 兄を見つけたい。


 ただ、それだけだったのに。


 グレゴールの笑顔が頭に浮かんだ。


 立派な服を着て、穏やかな声で契約を語っていた男。


 あの男の商会は、兄が死んだと分かる記録を受け取ったあとで、弟から二百四十万ルクを取った。


「……ふざけるなよ」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


 リゼが俺を見た。


「セイン……」


「兄さんを捜したかっただけじゃないか」


 俺は唇を噛んだ。


「それを知ってて……どうして、そんなことができるんだ」


 ダグは何も言わなかった。


 ただ、紙を握る手が震えていた。


 彼だって、奪われたものがある。


 それでもテオの願いを責めず、一緒に兄を捜してきた。


 そのダグに、こんなものを見つけさせるなんて。


「……セインさん」


 ダグが顔を上げた。


「テオさんには、私から話します」


「……はい」


「私が捜すと約束しましたから」


 その声が、ひどく苦しそうだった。


     ◇


 翌朝、テオは王宮の医療施設にいた。


 購入した固有術の不調が続いているため、医師の監督のもとで休んでいる。前の晩に眠れたのかどうかは分からないが、顔色はあまりよくなかった。


 俺たちが部屋へ入ると、青年はすぐに顔を上げた。


「ダグさん!」


 その声には、期待があった。


 胸が締めつけられた。


「兄のこと、何か分かりましたか?」


 ダグは椅子を引いた。


「……はい」


 それだけで、青年の顔から笑みが消えた。


 ダグはゆっくりと腰を下ろし、俺とリゼも少し離れたところへ座った。


「北門の施設で、ヨルンさんの記録が見つかりました」


「……兄の?」


「はい。ご本人の持ち物も見つかっています」


 テオはしばらく黙っていた。


 それから、かすれた声で尋ねた。


「……生きて、ますか」


 誰も、すぐには答えられなかった。


 ダグが静かに言った。


「……亡くなられています」


 テオの目が、大きく見開かれた。


「……え?」


「医師が確認しました。施設の記録と所持品も一致しています。最終的な身元確認は、あなたにもお願いすることになります」


 青年は何度か瞬きをした。


 言葉が届いていないように見えた。


「……違いますよ」


 やがて、小さく笑った。


「きっと、別の人です」


 ダグは黙っていた。


「兄は、そんな簡単に死ぬような人じゃないんです。昔から怪我ばっかりして、それでも次の日には平気な顔で仕事に行って……」


 青年は笑おうとした。


 でも、うまく笑えなかった。


「……違いますよね」


 ダグの表情が歪んだ。


「……申し訳ありません」


 テオは俯いた。


 しばらく、誰も声をかけられなかった。


 やがてダグが、小さな革袋を取り出した。


「これが、ヨルンさんの持ち物として保管されていました」


 テオの手が止まった。


「……それ」


 革袋を見つめる。


 縫いつけられた古い金具と、擦り切れた端。


「俺が……直したやつです」


 声が震えた。


「兄貴の袋、破れたから……俺が縫ったんです。下手くそだって笑われて……」


 青年は袋を受け取った。


 指で金具をなぞる。


 そして、声を上げて泣き始めた。


 ダグは何も言わず、隣に座っていた。


 俺も動けなかった。


 どんな言葉をかけても、今この人が失ったものは戻らない。


 俺には〈返却〉という固有術がある。


 落とし物を、持ち主のもとへ返す力だ。


 けれど、帰ってこなくなった人間を、願うだけで生き返らせることなんてできない。


 それが、どうしようもなく悔しかった。


「……俺」


 テオが泣きながら言った。


「兄貴を見つけたくて……術を買ったんです」


 誰も口を挟まなかった。


「金なんか、どうでもよかった。使えるかどうかも分からなかったけど……それでも、兄貴に会えるならって」


 震える手が、革袋を強く握りしめる。


「でも、もう……死んでたんですか」


 ダグが静かに頷いた。


「……購入されるより前に、亡くなっていたと記録されています」


 テオの顔が上がった。


「……前に?」


「はい」


「じゃあ、あの商会は……」


 最後まで言えなかった。


 青年の顔が、ゆっくりと歪んだ。


「……何でだよ」


 小さな声だった。


「何で、教えてくれなかったんだよ……」


 もう一度、革袋を抱きしめる。


「金なんか、いくらでも払ったのに……兄貴が死んだって、教えてくれるだけでよかったのに……!」


 俺は俯いた。


 胸が苦しかった。


 テオは、何度も兄の名前を呼んだ。


 そのたびに、ダグが隣で頷いていた。


 泣き止ませようとはしなかった。


 今は、泣くことしかできないのかもしれない。


     ◇


 しばらくして、テオが顔を上げた。


「……ダグさん」


「はい」


「兄貴のこと、ちゃんと調べてもらえますか」


 ダグは頷いた。


「もちろんです」


「どうして死んだのか。誰があんな場所に連れていったのか……全部、知りたいです」


「はい」


「それと……」


 テオは革袋を握りしめた。


「兄貴を、家に帰してやりたいです」


 その言葉に、俺は顔を上げた。


「……できますか」


 ダグは、今度はすぐに頷かなかった。


 亡くなった人の身元確認や、王宮の調査が終わるまでに、必要な手続きがあるのだろう。


 それでも、しばらくして口を開いた。


「調査が終わり、正式にお返しできるようになったら、必ずお知らせします」


 テオは小さく頷いた。


「……ありがとうございます」


 ダグは立ち上がり、深く頭を下げた。


「……もっと早く見つけられず、申し訳ありませんでした」


 その言葉に、テオが慌てて首を振った。


「違います。ダグさんは、ずっと一緒に捜してくれたじゃないですか」


「ですが……」


「術がなくても、諦めないって言ってくれた」


 テオは涙を拭った。


「俺、それが嬉しかったんです」


 ダグは顔を上げられなかった。


「だから……ありがとうございました」


 少しの間、何も聞こえなかった。


 やがて、ダグが深く息を吐いた。


「……こちらこそ」


 その声は、かすれていた。


     ◇


 部屋を出たあと、ダグは廊下の窓際で立ち止まった。


 朝の光が差し込んでいる。


 昨日の夜、あの染物場にいたことが、遠い出来事のように思えた。


「……私、少し勘違いしていました」


 ダグが呟いた。


「何をですか?」


「術があれば、人を見つけられると思っていたんです」


 俺は黙って聞いた。


「もちろん、〈追跡〉は便利でした。誰かがどこへ向かったか、手がかりを見つけるのに何度も助けられました。でも……」


 ダグは自分の手を見つめた。


「見つけたあと、どうするかまでは、術が決めてくれるわけじゃなかったんですね」


 リオルが隣へ来た。


「……お前、ちゃんと見つけたじゃん」


「……ああ」


「つらい結果だったけどさ。あの人がどこにいたのか、分かった。テオさんも、ずっと分からないまま待たずに済む」


 ダグはしばらく黙っていた。


「……そうだな」


 リオルはそれ以上何も言わず、親友の背中を軽く叩いた。


 俺は二人を見ながら、少しだけ救われた気がした。


 なくした固有術は、まだ戻っていない。


 それでもダグは、自分の足で人を捜し、最後まで向き合った。


 その姿を見て、俺は改めて思った。


 この人の〈追跡〉を奪った人間を、必ず見つけたい。


 そして、同じように誰かの人生を奪っている連中を、これ以上放っておきたくない。


「……グレゴールさんに、聞きたいことがあります」


 俺が言うと、リゼが顔を上げた。


「私もです」


 その声には、強い意志があった。


「どうしてヨルンさんがあんな場所にいたのか。何をされたのか。誰が命じたのか」


 リゼは拳を握った。


「……全部、確かめたいです」


 リオルも頷いた。


「ああ。でも、今度は相手の言い訳だけで終わらせない。ちゃんと証拠を揃えよう」


 俺は頷いた。


 怒りだけで飛び込んでも、あの男には届かない。


 だからこそ、昨日見つけた記録や、生きて帰れた人たちの証言が必要になる。


 ヨルンが亡くなった理由も、商会がその死を知っていながら弟へ〈追跡〉を売った理由も、まだ分かっていない。


 ただ、答えを聞く相手だけは、はっきりしていた。


     ◇


 その日の昼前。


 王宮の医療施設を出ようとしたところで、テオに呼び止められた。


「……セインさん」


「どうしました?」


 青年は革袋を両手で持っていた。


「俺、昨日までずっと、家に帰りたくなかったんです」


「……どうしてですか?」


「兄貴が帰ってくるかもしれないからです。俺が家にいない間に帰ってきたら、すれ違うかもしれないって」


 テオは小さく笑った。


「だから、できるだけ外で捜して……夜も、なかなか帰れなくて」


 その声は、まだ震えていた。


「でも、今日は帰ります」


 俺は頷いた。


「……はい」


「兄貴の部屋、片づけないと。まだ、仕事に使ってた道具もそのままだし」


 そこまで言って、青年は言葉を詰まらせた。


 俺は何も言わず、待った。


「……あの扉、もう二回鳴らないんですね」


 涙が落ちた。


「兄貴が帰ってきた時の音、もう聞けないんですね」


 俺の胸も痛んだ。


 返せるものがあるなら、何でも返してあげたかった。


 けれど、今の俺にはできない。


 だから、せめて。


「……テオさん」


「はい」


「何か困ったことがあったら、第七係に来てください」


 青年が顔を上げた。


「俺たちにできることなら、一緒に考えます」


 テオはしばらく俺を見つめていた。


 やがて、涙を拭って、小さく頷いた。


「……ありがとうございます」


 青年は革袋を胸に抱き、ゆっくりと歩き出した。


 その後ろ姿を、俺たちは黙って見送った。


 もう、兄が帰ってくることはない。


 けれど、テオのこれからまで、あの商会に奪わせてはいけない。


 俺はそう思いながら、手を強く握りしめた。

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