第七十七話 検品人
鉄扉の向こうで、また金属が鳴った。
俺たちは息を潜めたまま、扉を見つめていた。先ほど聞こえた呻き声は途切れている。代わりに、誰かがゆっくり歩く足音が近づいてきた。
「王宮の兵士だ! 中にいる者は、扉から離れろ!」
兵士の一人が呼びかけた。
「聞こえていますよ」
返ってきた声は、妙に穏やかだった。
「そんなに大声を出さなくても結構です。こちらには具合の悪い方がいらっしゃるんですから」
俺はリオルと顔を見合わせた。
さっきまで人が苦しんでいたはずなのに、男の声には少しも焦りがない。
「中の人間を確認させろ。扉を開けるんだ」
「構いませんよ。ただし、武器をお持ちの方は、少し離れていただけますか」
男がそう言った直後、重い錠の外れる音がした。
扉がゆっくりと開く。
奥から漂ってきたのは、薬品と湿った鉄が混ざったような臭いだった。
室内には古い染物場の設備が残っていた。床には荷を運ぶための鉄のレールが敷かれ、奥には深い洗浄槽がある。その手前に、用途の分からない金属製の器具や寝台が並べられていた。
そして、部屋の中央に男が立っていた。
年の頃は四十前後だろうか。痩せた身体に灰色の上着を着て、両手には薄い手袋をはめている。髪はきれいに撫でつけられ、こんな場所にいるのが不思議なほど身なりが整っていた。
その男の前には、一人の女性がいた。
寝台の上に横たわり、手首を革帯で固定されている。顔色は悪く、俺たちを見ると何か言おうとして唇を動かした。
「……たす、けて」
小さな声だった。
俺が踏み出しかけると、男は手に持っていた細い刃物を女性の喉元へ近づけた。
「おっと。そこまでにしましょう」
足が止まった。
男は俺たちを順番に眺め、最後にリオルの固定された右腕へ目を留めた。
「これはこれは。ずいぶんお怪我をされた方までいらっしゃる。ここは病人だらけですね」
「その人から離れろ」
リオルが低い声で言った。
「離れたいのは山々ですが、皆様が急にいらっしゃったのでね。こちらも仕事の途中なんです」
「人を縛るのが仕事なのか?」
俺が尋ねると、男は少し驚いたように眉を上げた。
「もちろん、それだけではありませんよ」
男は胸元から小さな銀色の筆記具を取り出し、隣の台に置かれた紙へ何かを書いた。
「私は検品を担当しております」
「……検品?」
「ええ。買い手に渡すものが、注文どおりの状態かどうか確かめるんです。発動の具合、身体への定着、持続時間。そのあたりを細かく」
男は楽しそうに続けた。
「ところが、今回は不良が多くて困っているんですよ」
女性の目が大きく見開かれた。
俺は男の言葉を理解するまで、少し時間がかかった。
「……人間のことを言ってるのか?」
「ほかに何が?」
男は本当に不思議そうな顔をした。
◇
部屋の奥には、もう一つ寝台があった。
若い男が横たわっている。こちらも手首を固定されていたが、胸が上下しているので生きていると分かった。
さらに、その向こうにも寝台があった。
白い布が、頭の先まですっぽりとかけられている。
嫌な予感がした。
「……あそこにいる人は?」
俺の視線を追った検品人が、何でもないことのように答えた。
「あちらは今朝、検査が終わりました」
「検査って……」
「残念ながら不適合でした。最後まで安定しませんでしたので」
言いながら、男は紙に何かを書き足した。
白い布の端から、片方の手が出ている。
その手は、まったく動かなかった。
「医者はどこだ!」
俺の声が思った以上に大きく響いた。
男が顔を上げる。
「ここにおりますよ。正確には、治療よりも検査が専門ですが」
「そういうことじゃない! あの人は、生きてるのか!」
男は白い布の方を一瞥した。
「いいえ」
それだけだった。
俺は息が詰まった。
「……いつ、亡くなったんですか」
ダグが尋ねた。
「今朝ですよ。最後まで粘っておられましたね。ああいう方は興味深い。身体が限界を迎えても、帰りたいとおっしゃるんです」
男は微笑んだ。
「帰ったところで、以前と同じ生活ができるとは限らないのに」
「黙れ」
リオルの声だった。
男が振り向く。
「何か?」
「それ以上、その人を馬鹿にするな」
親友の顔から、いつもの陽気さが完全に消えていた。
俺はリオルがこんな顔をするところを、ほとんど見たことがない。
男はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「おやおや。これは失礼しました」
謝っているはずなのに、少しも悪いと思っていないのが分かった。
俺は拳を握った。
今すぐ殴りかかりたかった。
けれど、男の刃物はまだ女性の喉元にある。動けば、あの人が傷つけられる。
そのことだけが、俺をその場に留めていた。
「……あなたは、ここにいる人たちをどうするつもりなんですか」
リゼが尋ねた。
声が震えていた。
男は彼女を見て、穏やかに答える。
「使える方は次の工程へ。そうでない方は、ここで終わりです」
「終わりって……」
「商品にならないものを、いつまでも置いておけませんから」
その瞬間、リゼが一歩前へ出た。
「その人たちは商品じゃありません!」
鋭い声が室内に響いた。
俺まで驚いて、彼女を見た。
リゼは男から目を逸らさなかった。怒りで頬が赤くなっている。
「みんな、帰りたいって言っているんでしょう? だったら帰してあげればいいじゃありませんか!」
「困りましたね。帰せる状態なら、最初からそうしておりますよ」
「帰せる状態じゃなくしたのは、誰なんですか!」
男の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
俺はリゼの腕に触れた。
「リゼ」
「……分かっています」
彼女は唇を噛み、ゆっくりと下がった。
でも、その目に浮かんだ怒りは消えていなかった。
◇
「さて、どうしましょうか」
検品人は刃物を持ったまま、部屋の奥へ目を向けた。
「こちらも片づけを済ませなければなりません。皆様には、できればお引き取りいただきたいのですが」
「患者を置いたまま帰るわけにはいかない」
兵士が答えた。
「それは困りました」
男は大げさにため息をついた。
その時、俺は部屋の床に気づいた。
女性の寝台には小さな車輪がついていて、古いレールの上に載せられている。レールは部屋の奥まで続き、洗浄槽の手前で途切れていた。
槽の中には黒ずんだ水が溜まっている。
もし寝台があそこまで動いたら。
そう考えたところで、男が背後の取っ手へ手を伸ばした。
「リオル!」
俺が叫ぶより早く、親友が動いていた。
「全員、寝台から離れるな!」
男が取っ手を引く。
重い金属音が響き、寝台の車輪を押さえていた留め具が外れた。
寝台が動き出した。
「きゃあっ!」
女性が悲鳴を上げる。
緩やかに傾いたレールを、寝台が洗浄槽へ向かって滑っていく。
「何してるんだ!」
俺は飛び出した。
男の横を抜けようとした瞬間、リオルが別の方向から駆け込んだ。
「セイン、右側だ!」
寝台はもう速度を増していた。
俺は右側の手すりを掴んだが、痛めた肩に衝撃が走り、息が詰まった。片手だけでは、とても止められない。
左側ではリオルが荷台へ手を添えていた。
寝台の重みが片側へ偏り、車輪がレールから浮きかける。
リオルは〈均衡〉でその傾きを抑え、倒れそうになる寝台をまっすぐ保った。
だが、進む勢いまでは消えない。
「ダグ! 車輪を!」
「分かってる!」
ダグが壁際に置かれていた木製の輪止めを掴んだ。
そのまま寝台の横を走り、車輪の前へ滑り込ませる。
ガンッ!
激しい音とともに車輪が跳ねた。
止まらない。
輪止めが押し出され、寝台の先端が洗浄槽の縁へ迫った。
「もう一つ!」
ダグが叫んだ。
俺は足元に転がっていた短い角材を拾った。染物場の古い道具らしい。
寝台を追いながら、車輪とレールの隙間へ押し込む。
木材が嫌な音を立てた。
次の瞬間、寝台が大きく揺れた。
「セイン、手を離すな!」
リオルが叫ぶ。
俺は必死で手すりを掴み直した。
肩が焼けるように痛む。
それでも、寝台に横たわる女性の顔が見えていた。
目を閉じ、何度も小さく首を振っている。
怖い。
俺だって怖かった。
すぐ向こうには深い水があり、あと少しでこの人を寝台ごと落としてしまう。
こんなところで、死なせたくない。
「止まれ……!」
車輪が角材を押しつぶしかけたところで、ようやく動きが鈍った。
ダグが反対側から輪止めを押し直す。
リオルは寝台の傾きを抑えたまま、左足でレール脇の支柱を踏みしめていた。
そして、寝台が止まった。
洗浄槽の縁から、ほんの少し手前だった。
俺は荒い息をついた。
女性が泣いていた。
「……助けて、くれたの?」
「はい」
喉が痛くて、まともな声が出なかった。
「もう、大丈夫です」
自分に言い聞かせるように答えた。
◇
「男はどこだ!」
兵士の怒鳴り声が聞こえた。
振り向くと、検品人が部屋の奥へ走っていた。
さっきまでゆっくりと話していた男とは思えない速さだった。
「逃がすな!」
兵士の一人が追いかける。
男は壁際の棚を押しのけ、その裏に隠れていた小さな扉を開けた。
「あそこ……!」
リゼが叫んだ。
「さっき、外の通路で三番の札がなかった場所です!」
俺は息を呑んだ。
隠された部屋には、もう一つ出口があったのだ。
検品人がこちらを振り向いた。
その顔には、まだ笑みが浮かんでいた。
「いやあ、驚きました。あれを止めるとは」
「人が乗ってると分かってて、あんなことをしたのか!」
俺が叫ぶと、男は不思議そうに首を傾げた。
「だからこそ、でしょう?」
言葉が出なかった。
「皆様なら必ず助けようとすると思いましたよ。実際、そのとおりになった」
男は楽しそうだった。
俺たちが必死で寝台を止めたことも、女性が死にかけたことも、全部、面白い見世物だったとでもいうように。
「お前……!」
踏み出しかけた俺の前に、ダグが立った。
「セインさん。あの人をお願いします」
「でも、あいつが!」
「私も追いたいです」
ダグの声は静かだった。
「ただ、今は人を助ける方が先です」
その言葉に、俺は足を止めた。
振り返れば、寝台の女性はまだ震えている。革帯も外せていなかった。
俺があの男を追いかけても、追いつけるかどうか分からない。
それより、今ここでできることがある。
「……分かりました」
俺は寝台へ戻った。
兵士が男の後を追ったが、隠し扉の向こうで重い錠が落ちる音がした。
「くそっ、閉められた!」
剣の柄で叩く音が続く。
ダグも駆け寄って扉を調べたが、すぐには開きそうになかった。
「奥の通路へ逃げたんだと思う。足音が遠ざかってる」
リオルが答える。
ダグは悔しそうに奥歯を噛んだ。
〈追跡〉があれば、男の行方を追えたかもしれない。
きっと本人も、そう考えたはずだ。
けれどダグは一度深く息を吐くと、こちらへ戻ってきた。
「まず、全員を外へ出しましょう」
その声は、もう落ち着いていた。
◇
寝台の女性を兵士に託したあと、俺たちは奥に残された若い男の革帯を外した。
男は意識が朦朧としていたが、声をかけると薄く目を開けた。
「……外、ですか」
「これから外へ出ますよ」
俺が答えると、男は何度も頷いた。
「よかった……」
その一言が、胸に刺さった。
この人は、いつから外へ出られなかったのだろう。
何度も帰りたいと言って、それでも誰にも聞いてもらえなかったのかもしれない。
兵士が男を運び出す準備をしている間、俺は部屋の奥を見た。
白い布のかかった寝台が、まだ残っている。
近づくのが怖かった。
けれど、置いていくこともできなかった。
「……リゼ」
「はい」
「一緒に来てくれる?」
彼女は黙って頷いた。
俺たちは寝台へ近づいた。
布の下から出た手には、何か小さなものが握られていた。
木で作った鳥だった。
手のひらに収まるほど小さく、片方の翼が少し欠けている。
俺はそれを見つめた。
こんなものを、どうしてずっと握っていたんだろう。
自分で作ったものかもしれない。誰かにもらったのかもしれない。
あの検品人は、この人が何を大切にしていたのか知っていたのだろうか。
いや、きっと知ろうともしなかった。
「……セイン」
リゼの声が小さく聞こえた。
俺は頷き、そっと布を直した。
彼の顔を見る勇気は、まだ出なかった。
その時、入口から医者が駆け込んできた。
ムラサメが手配した救護班らしい。
俺たちは道を空け、寝台を譲った。
医者は身体の状態を確かめたあと、静かに首を振った。
「……すでに亡くなっています」
分かっていたはずなのに、胸の奥が冷たくなった。
さっきまで俺たちは、検品人を追いかけることも、この人を助けることもできなかった。
そして、もう二度と助けられない人が、目の前にいる。
「……あいつが殺したんだ」
気づけば、そう呟いていた。
リゼは何も言わなかった。
ただ、俺の隣に立っていた。
その手が、そっと俺の指に触れた。
握り返すと、彼女も少しだけ力を込めてくれた。
俺は顔を上げた。
悔しかった。
助けられた人がいることは嬉しい。
でも、目の前の一人を助けられなかったことも、どうしても消えてくれなかった。
◇
やがて、ムラサメが兵士たちを連れて到着した。
俺たちが事情を話すと、彼は白い布のかかった寝台を見つめ、しばらく何も言わなかった。
「……検品人と名乗ったのか」
「はい」
ダグが答える。
「人の身体が固有術に適合するかを調べていたようです。逃げた男は隠し通路を使いました。すぐに追跡の手配をお願いできますか」
「ああ。水路側も封鎖させる」
ムラサメは短く答えた。
「ただ、まずはここに残る人間を全員外へ出す。まだ別の部屋にいる可能性もある」
「分かりました」
リオルが頷く。
俺はその横で、部屋を見回した。
金属の器具、革帯のついた寝台、壁際に積まれた薬瓶。
どれも、それ自体は物にすぎない。
でも、ここでは人間がそれらと同じように並べられ、使えるかどうかを確かめられていた。
思わず吐き気がした。
「セイン、大丈夫か」
リオルが声をかけてきた。
「……あんまり」
「そうか」
親友はそれ以上、無理に励まそうとはしなかった。
代わりに、俺の肩へ左手を軽く置いた。
「でも、あの二人は助けられた」
「うん」
「だから、次に助けられる人がいないか、ちゃんと調べよう」
俺は頷いた。
そうだ。
まだ終わっていない。
あの検品人は逃げたし、建物の中にはほかにも部屋がある。
ここで立ち止まっている場合じゃなかった。
「……行こう」
リオルが笑った。
「おう」
俺たちは兵士たちと一緒に、室内の確認を始めた。
◇
最後に見つかったのは、検品人が使っていた机の引き出しだった。
兵士が開けると、中には小さな金属札がいくつも入っていた。
札には番号と、短い文字が刻まれている。
『適合』
『保留』
『不適合』
俺は一枚を手に取った。
裏側には、かすかな傷が残っていた。
「……これを、人につけていたんですか」
「おそらくな」
ダグが答えた。
彼は机の上に残された帳面を開いている。
「セインさん、少し見てもらえますか」
近づくと、帳面には人の名前と搬入日が並んでいた。
その横に、今見つけた札と同じ言葉が書かれている。
適合。
保留。
不適合。
最後の欄には、別の記載があった。
『処理済』
俺は息を呑んだ。
ダグは慎重に頁をめくっていく。
名前が並んでいた。
一人、二人ではない。
十人を超える人々の名前が、日付とともに書き込まれていた。
「……これ、全員ここに来た人なんでしょうか」
「そう考えるのが自然だと思います」
ダグの声が低くなる。
「ただ、全員がどうなったかは、これだけでは分かりません」
さらに頁をめくる。
途中から、記録の書き方が変わっていた。
名前の横に、搬入前の職業や、家族についての短い記載がある。
その一つに、俺は目を留めた。
『北門地区・運搬業』
胸が跳ねた。
青年の兄も、荷を運ぶ仕事でこの建物へ来ていた。
「ダグさん、これ……」
「……ええ」
ダグも同じところを見ていた。
けれど、そこに書かれた名前は、俺たちがまだ確認していないものだった。
青年の兄なのか、それとも別の人なのか。
今は分からない。
ダグは帳面を閉じず、兵士へ声をかけた。
「この記録は、王宮で必ず保全してください。ここにいる人たちの身元と、亡くなった方の確認が必要です」
「承知しました」
兵士が慎重に帳面を受け取る。
その時、俺はまた、白い布のかかった寝台を思い出した。
あの人にも、名前があった。
家族がいたかもしれない。
帰りを待っている誰かがいたかもしれない。
なのに検品人は、あの人を『不適合』と呼んだ。
それだけで終わらせるつもりだったのだ。
許せなかった。
俺は奥歯を噛みしめた。
逃げた男を捕まえたい。
そして、こんな場所を作った人間が、何を知っていて、何を命じたのかを確かめたい。
ダグは最後にもう一度、帳面の表紙を見た。
「……これで、兄さんの行方に近づけるかもしれません」
俺は黙って頷いた。
救護室で待っている青年の顔が浮かぶ。
兄が帰ってくる時は、玄関を二回叩くのだと言っていた。
あいつは今も、その音を待っている。
俺はまだ、青年に何を伝えられるのか分からなかった。
ただ、一つだけ確かだった。
ここに書かれた名前を、あの検品人の言葉だけで終わらせてはいけない。
俺たちは、人を捜しに来たのだから。




